2 創作部は本日も絶賛活動中です
そもそも、なんで俺が、職員会議の真っ最中にあんなところを歩いていたのか?
話は、1時間半ほど前に遡る。
6月11日(月) 午後3時20分 第二特別教室
――「先生、先生」
雨音をバックに、どこかで声がしている。
ゆさ。ゆさ。ゆさ。身体も揺れている。
でも、起きたくない。身体の芯が重い。自分の姿勢がのめっているのは自覚しているが、その体勢を変更したくない。
「先生! 先生ってば!」
ああ、うるさいな。今の俺には梅雨の『しとしと』が気持ちいいってのに。
疲れた頭と身体にはどうして若い女の声って重いんだろう。
いや、違うな。若い女の声が重いんじゃない。
この若い女の声が重いんだ。
「先生ぇ……寝てる先生が……悪いんですからね?私、悪くないですからね?」
……静寂。
うおぃ。なにしてる?
がばっ、と思い切り起き上がる。
机の上で組んだ腕。そのうえに横だおしにあずけていた顔。
上半身をまとめて持ち上げると、「きゃ」と小さい声がした。
机の上30センチに滞空中の自分の顔。
目の焦点が合って視界が徐々にクリアになる。
前方下方向20センチに見慣れた顔。
前髪が顔にかかって邪魔にならないよう、右手の指先で軽くかき上げている。
ふわりとしたほほ笑み。
「もう、せっかくおでこにキスしてあげようとしたのに……先生、突然起きないでください。ぶつかるところだったじゃないですか」
いけないことをした子供にする「めっ」の表情。
「……おい」
「今からでも寝たフリしてもいいですよ!……ちゃんと、してあげますから」
そういってほほ笑む上気した顔は、掛け値なしに美人だ。
ゆるく巻いた豊かな髪と、クリっとした瞳。涼し気に切れた目尻のライン。
口元の笑みはいたずらをする猫のように愛らしい――2年生の、円城咲耶である。
正面から見つめる黒くて深い瞳から視線が離せなくな……ったら立場上シャレにならないので、あせって少し目をそらす。その間のほんの数瞬の沈黙に、左後ろ方向から別の声がかぶる。
「くっくっくっく。せんせーまで高校生に迫られて耳真っ赤とか!こんなとこで寝てると、そのうち本当に円城センパイに純潔奪われますよ?さっきからセンパイ。先生のまわりでいろいろ不審な行動してましたよ?……まあ、おでこは相当妥協した結果みたいですけど」
一年の橘麻衣が神速でデッサンの手を動かしながら、けらけらと笑っている。
円城まで何やら真っ赤になってるが……。
「センパイ、最初は唇狙いから、ほっぺ、おでこって攻撃目標を変更してたんすよ……あとちょっとまで迫っては真っ赤になって作戦変更とか……超ラブリーっす……」
「……なんでばらすのよ……もー」
円城が、ぷしゅーっと空気が抜けたように小さくなっている。
麻衣は全部員に聞こえる声の大きさで、まったくもって教員や先輩の沽券、立場に気遣いというものがない。ショートカットで小顔。円城とは対照的なスレンダーで、少年のような風貌が、ほどよく日焼けしている……基本、口が悪い。
ちなみに、なぜ後ろにいるのにデッサン中とわかるのか?
シャシャシャシャシャとキレのいい鉛筆の音が止まっていないからだ。
「……二人とも。大人の世界はいろいろ疲れるんだ。ちょっとは静かに休ませてくれ……」
……これは本当だ。
世の中で「公立高校の先生」というと「大変そう」と言われたり、「公務員で楽そう」と言われたり、まあいろいろ言われるが、実際のところは「仕事を頑張るほど、際限なく忙しくなる」というのが正しい。
一般の事務職などと違って、教育公務員にはやっただけ付く残業代がない。ほんのわずかの手当が上乗せされているが、多くの教員がこなしている残業の時間数から考えるとお話にならない。この、労働時間と給料のアンバランスが西暦2018年現在、日本国における、厳然たる事実だ。
だからとにかくやる気のない教師は授業だけやろうとする。ひどいケースになると、校則違反も見ないフリしてスルー、なんて輩もいたりする。
ただ、そもそも給与で報いていないのだから、残業せずにさっさと帰る人を責めるのもおかしい話だ。放課後の補習も、週末の部活も、ほぼボランティアである。
待遇のルールがこうなっている以上、熱心な先生ほど、仕事と給料のバランスはブラック化する。
真剣に取り組もうとすると、わかりやすい授業作りに補習、生活指導に進路指導に行事運営に部活指導、会議や根回しと、時間などいくらあっても足りなくなって、なぜか終電に乗ってたり週末がなくなったりするのだ。
……で、昨日の日曜日も、部活指導と教材準備で丸一日を学校で過ごした熱心な辰巳センセイ――俺のことだ、は部活監督中に机で撃沈。
円城に唇?ほっぺ?……おでこの純潔を奪われそうになったのだった。