18 小さな歪み
夜8時40分
静かな住宅地。
呼び鈴のボタンを押すと、小さくピンポーン、と聞こえた。家の中で鳴っている。
一度では反応がなかった。しばらくあけて、二度目をならす。のぞき窓からこちらの姿がよく見えるよう、ドアの正面に立つ。
ドアの向こうに、かすかに気配がした。
「神田先生、辰巳です。結城のスマートフォン、預かりにきました」
察しの悪い人ではない。これだけで、意図は伝わるはずだ。
アパートのドアが静かに開いた。すかさず、声をかける。
「大体の事情はわかってるつもりです」
「……すみません」
神田先生が、そっと、押し頂くようにスマートフォンを差し出す。
画面がヒビ割れている。
「……すみません。結城の怪我に、スマホに……ものすごくご迷惑おかけしてるのはわかってます。でも、もうどうしたらいいのかわからなくなって……」
そっと受け取って、静かに話しかける。
「少し、話しませんか」
◇
神田先生の部屋は、殺風景だった。
寝起きと炊事に必要な家具と、絵を描くための道具と、描きかけ、書き損じの作品たち。あとは、小さなCDコンポが隅にある程度。
「神田先生、最初は結城にデータを消してくれるよう、頼んだんですよね」
「あの日、美術室で奈々……1年の須藤といるとき、結城が写真を撮っていることに気づきました。だから、結城に頼みました。写真を消してくれ、と」
「写真の内容は……須藤…さん、とのスキンシップだった」
「……はい。もう話は……聞かれてますよね。美術室で……須藤に抱きつかれて、キスをせがまれました。まさか、結城が見ているとは思わなくて……つい……」
出会って10年。今は正真正銘の婚約関係――家族同然に思っているのだろう。じゃれつきたくなる須藤の気持ちは理解できる。
「でも、彼女は写真を消してくれなかった。きっと先生に、説明を求めた」
「はい。須藤と婚約してることを話しました。そのうえでまたお願いしたけど、消してもらえなかった」
「先生は彼女のデータを消させるために、手を掴んで、取り上げようとした。」
――よほど強く握ったのだろう。それが右手首の内出血になった。
「はい。でも彼女は左手にスマホをもったまま、私の手を振りほどいて、飛び降りるように階段を降りました。私はそれを追って……」
神田先生は写真を消させることに必死で、結城の気持ちを慮る余裕がなかった。きっと、結城が聞きたかったのは、須藤との婚約の話などではない。
「神田先生に追われて三階から二階へ降りる途中、結城は階段を踏み外した」
「……はい」
「彼女は、左手のスマホをかばうように転び、気を失った――神田先生、あなたはそこで彼女のスマホを盗んでしまった」
――スマホをかばって床に打ち付けた左手首。
ガラス片は、そのときに割れた画面の保護ガラスだ。
「倒れた結城を見て、介抱こそ、まずやるべきだとは、わかっていました。だけど、スマホを盗った私が通報するのは……
そこに別の生徒がやってきて怖くなり、隠れました。辰巳先生が結城を介抱してくださったこと……本当に、感謝してます……ありがとうございました」
確かめてみれば、単純な話だった。
「神田先生、あなたは生徒思いの、熱心な先生でした。そのあなたが、結城の介抱より、写真のデータを優先して、スマホを盗んだのは……」
神田先生は、本当に苦しそうな表情をしている。
自分を恥じているのだ。
「自分の問題だけなら、迷わず結城を助けたと思います。でも、キスの写真、あれが表に出たら……婚約も、美大の話も……須藤家のみなさんや、奈々の顔にも泥をぬることになる……それを考えたらもう、怖くなって……」
――きっと二人の間には、認識の違いがあったんです――
「神田先生……あのセクハラ処分の通知を、気にしたんですね」
教育委員会からの、セクハラ処分の基準改定の通知。キスだけで「懲戒免職」になるとあった。
「……半月前くらいに通知を見て、本当に冷や汗が出ました。奈々からは今までもときどきスキンシップをねだられることがありました。でも、学校でそれをして、表沙汰になったら……全部を失いかねない……」
脅しは、神田先生に効き過ぎなほど、効いてしまった。
俺は正直、くだらない通知と思った。バカバカしい脅しと。
でも、一度役所が出した通知は、公務員にはそれなりの力をもつ。
――一人の若手教師の判断を、ほんのちょっと、歪めるくらいには。
神田先生はがっくりと肩を落とし、部屋の隅を見つめたままだ。
生徒とのキスに、スマホの窃盗……処分を受けるつもりで、覚悟をしてるのか。表沙汰になれば、規定どおりの 『お裁き』 が好きな教育委員会によって、本当に「懲戒免職」にされるかもしれない。
――アホらしい。
誰も幸せにならないルールなんて、糞食らえだ。
こんな話、どこにもっていこうとも思わない……ここから先は、本人たち次第でいい。
しかし、彼に言っておくべきことがある。
「神田先生、あなたは一つ、見落としてます」
「見落とし、ですか?」
「結城琴美の気持ちです」
神田先生が、少し意外そうな表情をした。
「彼女は、本当にあなたを困らせたくて――キスの写真であなたを破滅させたくて、消すことを拒んだと思いますか?」
美術準備室で、神田先生が管理していた大型ロッカーを調べたとき、大量の習作が見つかった。スケッチブックに、各種の描画用紙、練習用のカンバス。全て結城のものだった。
その多くに、丁寧な添削をした跡が残っていた。結城の腕前は枚数を経るほどに上達していた。
「独学で、あんな上達が不可能なことは、俺でもわかります。あなたが結城に徹底して指導をしてあげたから、彼女はあそこまでになった。
結城の家庭は母子家庭で、経済的に恵まれてない。でも、あの子のポテンシャルを神田先生は引き出して、美術の道を進めるようにしてあげたかったのではないですか。
あなたが学生時代に、須藤家の人たちから助けられたように――」
神田先生の顔がしわくちゃに歪んだ。
「彼女が腕をあげた理由は、才能だけじゃない。毎日居残って努力して、あなたはそれに立ち会い続けた。だから、彼女の大量の習作が、あなたのところにあった。
そこまで濃密な時間を過ごした師弟の感情が、いつしか恋の形になった……これは、悪意や罪の問題ではなくて……ありふれた恋の話です」