16 ある日の「舞姫」授業 四
舞姫も大詰めが近い。
「貧しいながらも豊太郎とエリスは家庭的な生活を一年以上続けた。
そして、クライマックスとなる明治21年の冬。エリスの体調不良が続き、悪阻、つまり妊娠のせいでは、と母親が言い出す」
――嗚呼、さらぬだに覚束なきは我身の行末なるに、若し真なりせばいかにせまし。
「自分の将来も危ういのに、もし本当に妊娠なら、どうしたらいいんだ――自分で作っておいて、これも大概だよな。こういうところ、豊太郎はホント覚悟がない。
そこに、新聞社の仕事を世話してくれた友人、相沢からの手紙が届く」
物語は、ここが大きなターニングポイントになる。ここからは相沢が、豊太郎を立ち直らせようと直接介入してくるからだ。
――昨夜ここに着せられし天方大臣に附きてわれも来たり。
「手紙の文面は 『急で事前に連絡できなかったが、天方大臣についてドイツまで来た。大臣が君に会いたがっているから、ホテルまで急いで来い』 という内容だ」
二人の稼ぎでギリギリの生活。見えない将来。妊娠したかもしれないエリス――彼女は踊り子なのだから、妊娠が本当なら収入もなくなる――そこに舞い込んだ、一国の大臣に会えるチャンス。
「この後の場面は、舞姫の中でも先生が一番好きな場面だ。
エリスは体調がすぐれないまま、一番白いシャツを選び、しまっておいた正装を豊太郎に着せ、ネクタイを結んでくれる。少しでも立派な姿に、と愛情を込めて。
そして、着替えの終わった豊太郎を見たエリスの振る舞い……現代語で見てみよう。
①「これで、見苦しいなんて誰も言えないでしょう。
どうして、そんなにつまらなそうなお顔をするの?私も一緒にいきたいのに」
――最初は、明らかにエリスもはしゃいでいる。楽しそうだ。ところが……
↓
②少し、表情を変えて
「こんなに着るものが変わると、なんとなく、私の豊太郎さんじゃないみたい」
↓
③また少し、考えて
「もし富貴になる日がきても、私を見捨てないで。病気が母のいう通りでなくても」
エリスは立派な格好になった豊太郎を見て、嬉しくてはしゃいだ。しかし、豊太郎という人間は、そもそも超のつくエリートだ。ここしばらく、貧しい生活をしているが、正装に戻ると、それが似合ってしまうんだ。
だから、立派な豊太郎を見るうちに、遠い、エリートの世界に彼が帰ってしまう不安がエリスの中に広がってくる。最後はその不安に負けてエリスは 『見捨てないで』 と言ってしまう。 『病気が母のいう通りでなくても』 は 『悪阻(=妊娠)じゃなくても』 という意味だ。
――お金もちで偉くなっても、見捨てないでね。お腹に赤ちゃんが、たとえいなくても……こんなセリフ、どんな笑顔なら言えるんだろうな……言わずにいられなかったエリスの心が、哀しいと思わないか」
エリスの母親も一流ホテルに乗り付けるために豪華な馬車を呼んでいて、大きなチャンスを予感してる。何も感じてないのは、豊太郎だけ、という場面である。
「豊太郎は、不安そうなエリスに言う――何が金持ちさ。大臣なんて会いたくもない。長年会えてない友に会うだけさ……おまえはぁ!ってドツキたくなるくらいニブい」
男子生徒が「ダメだこいつ」と豊太郎にツッコミを入れているが、本当に豊太郎は肝心なところで鈍感で、優柔不断なのだ。
この後、豊太郎はカイゼルホオフ――大理石張りの豪華ホテル――で大臣に会い、書類の翻訳を依頼される。そして、相沢と二人でランチを摂る。
クビになった豊太郎を責めない相沢だが、食事の最後に踏み込んでくる。
――学識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかかづらひて、目的なき生活をなすべき。
「相沢は、本当に豊太郎を大切な友人、と考えているし、豊太郎の実力を高く評価している。しかし、その考え方は 『豊太郎のような優秀な人間は、栄光ある人生を歩み、世の中の役に立つべきである』 という信念と結びついている。彼は、貧民街の少女など、豊太郎が本気で相手にすべき存在、なんてかけらも思ってない。
彼は豊太郎に 『友人だからと大臣にスキャンダルをかばっても、お互い損しかないから、かばい立てしない』 ときっぱり言い放つ。その代わり 『仕事で大臣に実力を見せろ。力を認めさせるのが最良だ』 とアドバイスをくれる。豊太郎の能力を信頼していなければ、こんなことは言えない。
さらにエリスについても 『惰性から生まれた関係でしかない。断て』 と明確に指示する。相沢はこんな貧しく、世の中から評価されない豊太郎の現状を、不当だと思って全力で引き上げようとする。どこまでも、ブレない男だ」
豊太郎は、相沢の押しの強さに負けて、彼の指示を「一応」承諾してしまう。この承諾が、後にどんな意味をもつかも知らないまま。相沢と別れたあと、豊太郎は――余は心の中に一種の寒さを覚えき――と、エリスを裏切った 『罪』 を感じる。
「こうして、物語は悲劇に向けて走り出す……号令、お願いします」