26 追加講義 「辰巳祐司」
春霞の柔らかな空には、まだ少し早い。
青く抜けた空を見上げる。
「あの授業を受けたとき、思い出したんです。父が心配して、人に調べさせたときの資料に美幸さんの情報が載っていました。学生時代の卒論テーマも……」
お父さんからもらった資料に、卒論テーマ「漱石の作品研究」とあった。授業でセンセイが話してくれた読みと、もしかして、関係した内容ではないか、とピンときた。そこで出身大学に保管されている卒論を調べた。
卒論の内容には、センセイのしてくれた授業の考察が含まれていた。
「学生時代に、古典的な名作を読んで話し合った……そのときに、センセイはきっと美幸さんと、こころについてもいろいろ考察したんですよね?一緒に話し合って、きっと、到達した考察があれだった。それに基づいて美幸さんは卒論を書き……センセイは、思い出を元に授業を組み立てた……」
センセイは黙って、私をじっと見ている。
肯定……なのですね。
「センセイと美幸さんは、裏切りと罪の物語に見える『こころ』を、そうじゃないと、希望の物語として読み解きました。罪深い大人が、若者へ希望を託す物語だと。美幸さん自身が、やろうとしたことも、これだったんじゃないか……そう思ったんです」
そして、たぶんセンセイは美幸さんの思いに気付いていた。
だから美幸さんをぎりぎりまで邪魔しなかった。
「美幸さんが私に手紙を送ってきたのは、センセイを責めたり、罪に閉じ込めるためじゃなくて、その真逆だったとしたら?……私にセンセイの罪を教えた上で、それでも私が受け止められるか……私の覚悟を確かめたのだとしたら?敵として振る舞って、私がセンセイを美幸さんから引き離すように導いたのだとしたら……そう考えたら、美幸さんの行動が全て繋がっていきました」
センセイは、切なそうな目をして、ため息をつく。
「……狙いがあってのことだとは思ってた。美幸のやり方があまりに強引だったから。ただ、罪そのものは……事実なんだ。だから、彼女の意図がどうあれ、俺の歩むべき道は変わらない、と思った」
「……私がここに来たのは、センセイに歩み方を変えてもらうためです。罪を忘れてとは言いません。でも、自分を否定するのはもうやめて、前へ歩んでください。それが、私に託そうとした美幸さんや……恵里さんの願いでもあるんです」
「……恵里の、願い……?」
◇
美幸さんと三回目に会ったのは、彼女の自宅だった。
一人暮らしの彼女の部屋は、荷物がずいぶんと少なく閑散としていた。箱に入ったまま、床の隅に置かれた荷物もある。
「よくここがわかったわねぇ……祐司には秘密にしといてね」
美幸さんの現在の住所は、お父さんの例の資料にあった。恵里さんの実家から、さらに北へ向かった街。
「こんなに遠かったんですね……ここから私たちの学校までいらしてた……」
「新幹線や高速道路があるし……そのつもりになったら、あっという間よ。まだ引っ越して半年……以前の仕事仲間から誘われてね」
荷物が入ったままの段ボールがいくつも開封されずに積まれているのはそういう事情か、と納得した。
「……仕事を変えたのも、これまでの生活をリセットするため、ですか?」
「……ここまで来たあなたに、嘘をいってもね……祐司は私にとって、特別だったの……お母さんを亡くしたときから、姉になったような気持ちで一緒にいたら、いつの間にか欠かせない存在になっちゃった……最初からそれを認めて素直になっていたら、佐竹も、恵里も傷付けずに済んだのにね」
遠い目をする。
ずっとずっと前にあった、分岐点。
もう戻ることはできなくても、あそこからだったんだ、とその場所は見通せてしまう。思いだけ馳せてしまえるから、辛いんだ。
「……ここで新しい生活をして、ちゃんと前に歩めるようになって……ずっと未来ならまた祐司に会っても……それなら、恵里も許してくれるかなって……都合いいかな?」
首を軽く横に振った。
……そんなことない、と思います。
私の方も、核心に切り込む。
「……美幸さん、どうして、そこまで特別なセンセイとの関係を……わざと壊そうとしたんですか?悪役にあえてなろうとしたのは、何故だったんですか」
美幸さんは、ちょっと動きを止めた。
「……そこも……気付かれてたの」
ため息を一つ。仕方ない、という顔。
「……本当に酷いことをしたのは、私だったから。祐司がずっと私と繋がれているのが申し訳なくて、辛くて、このままじゃいけないって、9年間ずっと思ってた」
「……」
「……私はあの日、祐司が恵里とした約束を知っていた。泣きはらした目も、旅行に行く直前に祐司のところに行ったのも、全部計算だった。恵里と祐司の関係に決定的にヒビを入れたくて……私はあの日悪意で、祐司を奪った。自分が祐司にとってどんな存在か、よくわかってたから……自分がああすれば、彼は拒めないってわかってたから……容易かった」
美幸さんは下を向いたまま、ぽつぽつと語る。
ぽたり、ぽたり、と身体の前にしずくが落ちていく。
「一度気持ちに素直になってしまったら、もう止まらなかった。どうしても……祐司が欲しくなった」
……声を殺したまま、美幸さんは泣いていた。
「……毎年お墓で祐司と会って、どうにかして祐司だけでもと思っても、祐司は優しいから、一人で忘れるなんて、してくれない……だから、一番特別な祐司と、私から縁を切るって決めた……でも、なかなか実行する覚悟が付かなかった」
美幸さんは学年のゼミ仲間として、恵里さんのご遺族の元に顔を出していた。昨年の夏、遺品の整理中に見つかった遺書の一枚が美幸さん宛てになっていたと、ご遺族から連絡がきた。
「恵里の遺書を読んで、やっと実行する決心がついた。あなたにも会えた……祐司はもう孤独じゃない……」
恵里さんが亡くなる直前……波にのまれる直前に書いたメッセージは、とても短かかった。
大切な友人、美幸へ
大学生活、本当に楽しかった。
あの人のこと、お願いね。
ここにいるのが私だけで――本当によかった。
◇
泥だらけになって、くしゃくしゃに折ぐせのついた、走り書きの遺書。きっと、流されてしまわないように、恵里は小さく折って荷物に隠した。
……恵里から、美幸、そして咲耶……やっと俺の手までたどり着いた紙片。背中を押してくれようとしたそれぞれの思い。ここまで、九年かけてこれを届けてくれた。
自然と膝をついていた。
涙が止まらない。
小さな手紙を握ったまま、手を顔に当てた。
――恵里。
両手で顔を覆ったまま、嗚咽していた。
心で恵里に何度も呼びかけた。
しばらくして、顔を覆っていた手を下げると、円城が涙に濡れた顔のまま、俺をのぞき込んでいた。彼女は右手で、そっと頬に触れてきた。
――私が、ここにいます。
瞳は涙をたたえて優しく揺れながら、そう告げていた。
そのまま円城……咲耶は白い手をまわして抱き留めてくれる。
「さっき、恵里さんのお墓に、ここから先を私に託してください……そうお願いしました。私がセンセイのそばにいます。だから、一緒に……前に歩いてください……」
耳元に、彼女の声が届く。
首にかかる吐息に、生々しい命を感じる。
――一緒に……。
両腕で咲耶を思い切り抱きしめた。
ピンク色の唇はまるで、咲き誇るはなびらのようだ。
――君を、愛している。