25 「こころ」の授業 結
1月24日(金)
『私』、『先生』、『お嬢さん』……三人の年齢を推理する宿題にチェックを済ませて返却した。といっても、やるやらないは自由に決めていい、とした課題だ。提出はクラスの六割ほどだった。
『私』が27歳位、『先生』がだいたい10歳上、そして、『お嬢さん』は『私』とほぼ同い年……こちらの想定した解答に、三人とも論理的に到達していた答案は、提出されたうち一割もなかった。創作部の面々はしっかり推理してきたが……円城か、尾上あたりが主導したかな。
「本文を読んだだけでは、この年齢バランスになかなか気づけないよね。先生とお嬢さんの結婚生活も十年弱くらいだから、結婚して五年目くらいで『私』と出会っている計算だ。宿題の解答で、先生が50歳でお嬢さんが45歳、私が23歳……というのがあった。学生の私と、昔話をする人生の先輩、と見てしまうと、どうしても錯覚しやすい」
そして、この年齢のバランスが「書かれていない核心」への入り口だ。
「あと、最後まで読み通して『こころ』について感想や疑問を書いてもらったが、特に多かった君たちからの疑問は、この二つだった」
①なぜ、『私』は、『中 両親と私』の最後で危篤の父を置いて、もう死んでいるはずの先生のいる東京へ向かったのか。
②なぜ『お嬢さん』を一人ぼっちにはできない、と命を引きずって何年も生きてきた『先生』が、明治の精神、なんてぼんやりした動機で自殺できたのか。
「……もっともな疑問だ。この二つもあとで触れよう。まずは、授業の最初に言った、作品の外に張られた伏線の話から入りたい。君たちは、宿題で『こころ』のラストシーン、遺書が送られた年が、明治四十五年……1912年だったことは、調べたと思う」
うん、と宿題に取り組んだ生徒の大半が頷いている。
「では、次に考えて欲しいのが『こころ』がいつ公開された作品か……わかるかな?」
頷いた生徒の一人に視線を合わせて、訊いてみる。
「大正3年の四月です」
「よく覚えてた。正解です。大正3年といえば、1914年だ。気付かないか?」
何人かの生徒が、はっとした顔をした。
「遺書が書かれて……たった二年……?」
「……そう。『こころ』が新聞に載ったのは、作品中で遺書が書かれ、先生が死んだ時点から、たった二年後……遺書にあった乃木大将の殉死は明治天皇の二ヶ月後、9月なので、厳密には一年半しか経っていない。『上 先生と私』で、私がどう語っていたかを振り返ってみよう」
――先生の亡くなった今日になって
――先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。(中略)先生はそれを奥さんに隠して死んだ。
「問題は、この語りが誰に向けてなのか?……先生は亡くなっているし、奥さん……お嬢さんへでもないのは文面でわかる。すると、これは『私』が、読むであろう『読者』を想定して書いたことになる。あの壮絶な遺書を受け取って、たった一年半で、先生とのやりとりをメディアに掲載した、という事実。これは、作品外……『現実世界』と結ばれた伏線だ。さらに言えば、我々がリアルタイムではなく、百年経ってから読んでいるからこそ、気付けなくなってる」
「じゃあ、掲載された二年後にはもう、お嬢さんも亡くなってた……ってことですか?」
察しの良い生徒は、そう考える。
『下 先生と遺書』の最後にこう書いてあるからだ。
――妻がおのれの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。
「この文をそのまま受け取ると、お嬢さんがもう亡くなったから、『私』は今手記にして公開できている、と解釈したくなる。でも、先生が自殺して、そのすぐ後に彼女も自殺なり病気なりで死んでしまったとして……『私』はこんなに無神経に公開するだろうか?先生夫婦にあれだけの敬意と親しみをもっていた『私』として、それは酷く不自然だ」
前列の男子が、冗談めかして言った。
「金に目がくらんでエリートの過去を暴露とか……」
「……その読みも面白いね。『私』がいきなり超腹黒になってしまった」
笑いが起きた。
「でも、ここはもっと自然な可能性を考えてみよう。そもそも、どれだけ注意深く読んでも、お嬢さんが死んだことをほのめかす文はない。先生の死が、事実として繰り返し書かれていることを考えると、どっちも死んでいるのに先生だけ何度も書く、というのはおかしい。だから、お嬢さんはきっと生きている。
その上で『私』がたった一年半で、公開してもいい、と思えるようになる状態を想定してみよう――『下 先生と遺書』で書かれた先生の罪について、お嬢さんも前から察していたとしたら、どうだろうか。先生の死後、『私』が交流の記憶を書き記すことを了承……いや、理解してくれるくらい、二人が親しくなっていたとしたら?」
「それって……えええ?」
言葉が生徒の頭で理解されるに従い、何人かの生徒の顔が、びっくり、になっていく。
「疑問①でお父さんを放置して、とっくに死んでるはずの先生のために東京へ向かった……この疑問の持ち方が間違えだったとしたら?『私』が父親を放置してまで東京に急いだのは、残されたお嬢さんのため――彼女の気持ちを落ち着かせて、後追いをさせないための行動だったとしたら?」
既に死んでいる先生のために、危篤の父親を放置した、という行動だけを見ては、どうしたって説明がつかない。
「疑問②の先生が自殺できた理由についても、結婚したばかりの九年前と、先生の自殺直前では、前提として変化したことはないか?それが、自殺を決断できた真の動機じゃないのか、と考えると……」
円城と目があった。
答えを視線で促す。
「違いは……『私』の存在、です」
彼女はあやまたず、核心をついた。
「……そう。先生自身が、今なら、お嬢さんだけを残すことにはならない――『私』に託せる、と考えたから、自殺を決断できたのだとしたら……ぼんやりした動機でごまかした理由も納得できる。本当の理由は……残された二人の幸せを考えれば、遺書に書くわけにはいかなかった」
『上 先生と私』には、こんなのもあった。
――「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。私は「そうですな」と答えた。しかし私の心には何の同情も起らなかった。子供を持った事のないその時の私は、子供をただうるさいもののように考えていた。
「明治時代の、二十代の妻が、夫の前で、独身の『私』に言っているセリフとして見ると、かなり際どい。強い共感……恋愛とは呼べないにしても、そうした気持ちがなかったら、こんな言葉出てこない。
そしてもっと重要なのが『子供を持った事のないその時の私は、子供をただうるさいもののように考えていた』……ここだ。これは『今、子どもを持った私はただうるさいなんて思っていない』という意味を裏に含んでいる……じゃあ、その心境の変化の原因は?……この一年半で愛する人、愛する子どもができた、としたら、誰が相手だろう?」
――「子供はいつまで経ったってできっこないよ」と先生がいった。
奥さんは黙っていた。「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った。
「ここで『黙っていた』のは、先生の罪を、本当はある程度察していたから、と考えればしっくりくる……というより、察していなかったら、黙っている方がおかしいと思わないか?」
生徒の何人かが『こころ』の書籍をぱらぱらとやり始めている。それぞれの伏線部分を再確認してみたくなったのだろう。
「……下宿したばかりのころから母子は先生に好意を寄せていた。母親は先生の恋心もわかってた。そんな先生がさらに不器用なKと、一つ屋根の下でもめた。自殺まで起きた……母子が何も気付いていない、と考える方がそもそも不自然だ」
時計をちらりと見る。
チャイムが鳴るまで、三分を切っている。
……そろそろ締めくくらなくてはいけない。
「俺は『こころ』という作品は、行間を読む、ということが求められる作品として、見事に完成していると思う。
教科書に『下 先生と遺書』しか掲載されていないこともあって、エゴ、裏切り、自殺……罪の物語と読まれてしまうことの多い作品だが、そんな単純で、暗い物語だったら、ここまで長く読まれなかったんじゃないか。
先生も、Kも、お嬢さんを幸せにできなかった。しかし、思いは、二人の死で断たれることなく『私』に託された――数々の『書かれていないこと』が逆説的に伏線となっていることに気付いたとき、初めてはっきり見えてくる『希望の物語』――それこそ、最も核心に迫った『こころ』の読みだと俺は思う。
もちろん名作ゆえに、様々な研究や読みがある。この解釈も、その一つだ。でも、全編を通じて丁寧に読み解いたとき、最も説得力のある読み解き方はこれだと俺は思うが、どうだったろうか。この授業の後、本編をまた読み返してほしい。読み方についてあらためて検証して……発見があったら、今度は君たちが俺に教えてくれ」
チャイムが鳴った。
「……これで三年間の、君たちとの授業は本当におしまいです。君たちの未来にも、希望がありますように……号令お願いします」
次回、解決編クライマックス
「追加講義 辰巳祐司」
全ての糸が収束する、最後の心解きです。