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【書籍化】辰巳センセイの文学教室【ネトコン受賞】  作者: 瀬川雅峰
一章 舞姫の時間_2018年6月編
11/118

11 須藤奈々の事情と先生の不在

午後4時50分。

 

第二校舎の西階段を上り、美術室のドアを開ける。

美術部で活動していた生徒が、一斉にこちらを向いた。


「こんにちは。失礼するよ」


「辰巳先生、どうしたんですか。こっちに円城センパイはいませんよ」

……そうだった。橘は美術部(こっち)創作部(あっち)を兼部してたんだっけ。


 美術部員の間に、ざわっ、と形容しがたい空気が流れる。

 円城咲耶の、美貌とキャラは、学校中に知られているのだ。炎上姫という別名まである。


 なぜ、炎上姫なのかは問うまでもない。

 やりたいことをし、言いたいことを言う。外見中身ともにオーバースペックな彼女は、どうしたって目立つ。堂々とした立ち居振る舞いで、保護者は地元の名士だとも聞いた。以前、彼女を一層校内で有名にした、ちょっとした事件があって、どうのこうの言う輩が後を絶たない。

 特に、一部女子からは嫉妬まみれ呪詛まじりの視線で見られている。


「いや、そっちじゃなくて……1年の須藤さん、いるかな」

「はい……?」


 イーゼルの林の向こうから、須藤奈々の顔が覗いた。さっき職員室にきた生徒だ。

「なんでしょうか」

「……活動中にちょっと申し訳ないんだけどさ、少し、話できるかな」

「ここでですか?」

「職員室や相談室は一階で遠い。隣の準備室を使おう」

「山川先生、いるんじゃないですか?」

「いや、空いてるよ。ちょっと来て」


 準備室へのドアを開けながら、手招きした。

「あと、部員のみなさん、今日は5時で片付けて上がり、延長なしでお願いします。神田先生もいらっしゃらないしね」


 職員室にいた山川に、事務職員さんが、科の教材購入の書類を書かせているのを見てから、ここまで上がってきたのだ。

 なんでも神田先生に任せていた山川は、そうした書類関連の実務も苦手だ。神田先生がいないということは、すなわち美術科の細かい仕事が滞ることを意味する。


「山川先生、まだ書いてなかったんですか、それ」

「……いろいろ忙しくてやる暇がなくてね」

「いやいや、それも私たちの本業の一部ですから。事務室の人たち、待たせすぎると後が怖いですよ」

――――事務方に少しだけ援護射撃もしてきた。


 ◇


 須藤奈々と二人、準備室の椅子にそれぞれ腰を下ろす。真正面から向き合うより、少し横。警戒心をほぐすには、そのほうがいい。


「ちょっと立ち入ったことを聞くけど、きみは神田先生がお休みしてる、って聞いたとき、ずいぶん怒っていた。なんか、気になることでもあるの?」

「……私のこと、神田先生から何か聞いてて、私を呼んだんですか?」

 いきなり質問で返ってきた。

 強い瞳。若さと無鉄砲さ、それに少々甘えっ子の印象だ。


「別に、特には聞いてないよ。ただ、神田先生は今日もお休みされている。それだけでも気になるさ」

 あえて、結城琴美には触れない。

「ただ、そんな言い方をするってことは、何か事情があるね?」


 須藤の瞳がすうっと締まる。

 いらだちと警戒の色が浮かんだ。


「……先生は、口は堅いですか」

「内容によるかな。報告義務のあるような内容を聞かされて、ヒミツで、と言われると困る。普通に個人的な内容なら秘密は守るよ」

「報告義務のある内容って?」

「そうだな。たとえば――――犯罪の告白とか、自殺の計画とか」


 須藤は、あきれた、と言いたそうな目をする。

「……へんな先生ですね……でも、犯罪でも自殺でもないから言っちゃいます」

 ちょっと笑みが漏れた。


「神田先生、私の婚約者なんです」


 須藤はにこにこと微笑んで、こちらの反応を伺っている。


「……驚いたな」


 本音だ。神田先生はまだ25歳と若いが、須藤は今年誕生日が来てやっと16歳。十歳年下の婚約者とは恐れ入る。


「あまり、人に言いふらすことではないのは知ってますけど、私がこの高校に入学したのも、神田先生がいるってわかってたからですし」


 話はずいぶんと前に遡るらしい。


 そもそも奈々の祖父は西洋画の世界では名の知られた大家で、現在も創作活動を続けているそうだ。また芸術家としての地位にとどまらず、私立の著名な美術大学の理事も務めている。父親も祖父の血を継いだのか、美術教師をしながら、自身も創作に打ち込んでいる。その教員生活の中で、学生時代の神田先生に出会った。


「父は、神田先生、当時は父の教え子でしたから、神田くん、と呼んでましたけど、とにかく嬉しそうにいつも話してました。〔 彼の才能は特別だ 〕って」


 美術大学に進み、専門的な教育を受けるには、費用がかかる。


 最初の経済的関門は、大学受験に必要な実技能力を高めるために、塾や予備校へ通うところから始まる。才能に加えて、積んだ練習の量が直接ものをいうのが美大の入試だ。


 しかし、当時神田先生の家庭は経済的に余裕がなく、専門的な美大対策をさせる費用の負担は難しかった。

「最初は、父もどうしたら神田先生が費用を工面できるか、と考えていたそうです。でも、どうしてもそれは厳しい、となって」


 須藤家の取った手はほとんど裏技、いや、反則といってもよかった。


 須藤の祖父が雇ったお手伝い、という名目で、神田先生は須藤家に通うことになった。実際にお手伝いじみたことも、一応はしたそうだ。

 しかし、本当の狙いは、神田先生に惚れ込んだ父――その頃には祖父も、だったそうだ――が、神田くんに徹底した教育を施すことだった。


 それは、美術界の大家と呼ばれた祖父と、男子に恵まれなかったその息子にとって、優秀な後継者作り、という打算もあったのではないかと思う。アルバイトの名目で神田先生を呼び寄せ、徹底した教育をし、お金さえ渡して生活や学費も間接的に面倒を見てしまった。


 優秀な才能を目にして、ただ放っておくことは、根っからの教師体質の人間には難しい、というのはわかる。

 だが……少々の打算的な考えも混じり、結果として須藤の実家は、家ぐるみで神田先生の才能に投資をした――のではないか。


 そこまでされた恩を、律儀な神田先生が感じていないはずはない。須藤家との出会いがなければ、きっと神田先生は芸術の道に進もうにも、大変な寄り道と苦労をさせられたはずだ。


 そして、大学の次、就職を考える時期になった神田先生は、まずは自活できるように、と教員採用試験を受けた。


 だが、大学を卒業する頃、祖父と父から内々に婿入りの話が出て、神田先生も異を唱える様子はなかったそうだ。祖父が務める美大の籍に空きができ次第、そちらで受け入れることまで考えているのだという。


「最初に会った頃は、小学生だった私の、話し相手になってもらいました。十歳年上でしたけど、神田のおにいちゃんが家に来る日は、いつも楽しみで……ずっとドキドキしてました。」


――ドキドキしておにいちゃんを待った小学生は、こうしてそれなりに女性らしくなって、婚約者として職場に現れた。


――肩が凝るなこれは。


  ◇


 廊下に人の気配がした。

 ガラリと扉が開き、準備室に山川が帰ってきた。


「お疲れ様です。生徒相談に準備室、使わせてもらってました」

 山川は冷ややかな顔でこっちを見ている。事務仕事で足止めした本意を悟られたか。

「では、失礼します」

――ここは場を改めよう。

 職員室へ戻ることにした。


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