11 「こころ」の授業 三
11月19日(火)
「実家に危篤の父親を残し、私が飛び乗った汽車。その車内で、私は先生からの分厚い遺書を読み始める。ついに『こころ』のクライマックス『下 先生と遺書』の始まりだ」
『下』に語り手として登場する『私』は『上 先生と私』『中 両親と私』とは異なり、先生その人自身である。過去についての告白編になっている。
――私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。
「誰も信じられないまま日々を送ってきた先生の、最後に語る相手として私は選ばれた。過去を語ることへの覚悟。先生は、死の前に最後のメッセージとしてこの『下』を書いた」
遺書で語られる先生の過去は、新潟の実家で、病気で両親を亡くすところから始まる。
先生は当時まだ二十歳前だった。東京で高校、大学への進学を希望していた先生は、叔父に実家の管理をまかせて上京した。
叔父は実業家で、後に県議員にもなった活動的な人だった。彼が両親のいなくなった実家に関わる一切を取り仕切ってくれたおかげで、先生は東京で勉強に打ち込むことができた。
しかし叔父の行動に不審な点が見え始め、先生は事情を聞き出す。先生が東京にいた間、叔父は遺産をごまかし、大量に使い込んでいたのだった。
――事は私が東京へ出ている三年の間に容易く行われたのです。すべてを叔父任せにして平気でいた私は、世間的にいえば本当の馬鹿でした。
信頼していた親類から裏切られた先生は、残った家や土地などを全て現金化し、故郷に二度と帰らない覚悟で東京へ戻った。人間不信になりかけた先生は、ちょうど大学へ合格したそのタイミングで、騒がしい下宿を出て、静かに生活できる環境を探す。
――それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。
こうして先生は、自身の運命を大きく変える小石川の家にたどり着く。
この家にいたのは、主人を日清戦争で亡くして、広すぎる市ヶ谷の屋敷から引っ越してきた軍人の遺族だった。残されて未亡人になった軍人の奥さんと、女学校に通っている娘の二人だけの家庭。お嬢さんは、まだまだ幼いが、琴を弾いて聴かせたり、部屋に花を生けてくれたりと、ほのかに好意を感じさせてくる。先生も「拙い琴だ」と口では批評しつつも、琴の音を心地よく聴いている。
奥さんとお嬢さんと先生。三人の生活は次第に親密に、家族のような関係へと深まっていく。先生はお嬢さんに、プラトニックだが、強い恋心を抱くようになる。
――私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。
「先生側だけじゃない。奥さんにも、娘のお嬢さんと先生の気持ちを近づけよう、と考えている節が見える。先生はすっかり母子を信頼するようになり、人間不信になった原因……叔父との件も打ち明けた」
――二度と国へは帰らない。帰っても何にもない、あるのはただ父と母の墓ばかりだと告げた時、奥さんは大変感動したらしい様子を見せました。お嬢さんは泣きました。
大学の同級生に、三人での買い物を目撃されて「いつ妻を迎えたのか」とからかわれたり、先生の部屋へちょくちょくお嬢さんがおしゃべりに訪れたり……温かい空気の中で、恋が育っていく。
「ただ、この部分で面白いのは、先生は自分が深く恋している、と自覚しているのに、お嬢さんの気持ちについては、ほとんど汲み取っていない点だ。買い物で先生用に買った反物を、お嬢さんがわざわざ自分と同じタンスにしまって眺めている……嫌いな男の物に、そんな扱いするわけない。なのに、先生は事実を淡々と書くばかりで、お嬢さんの気持ちに触れようとしない……人を信じられなくなった過去が影響しているかのようだ」
相手の思いを汲み取らないまま、どこか自信がもてないまま先生の恋は募る。これが後に無用な嫉妬や焦りにかられる遠因になっていく。
「次回、恋のライバルの存在に先生が追い詰められていく。いよいよ「こころ」も大詰めだ……今日はここまでにしよう」