10 辰巳先生、美術室を訪ねる
6月13日(水) 正午過ぎ
神田先生は今日もお休みだった。
3階の教室で4時間目の授業を終え、昼休みのチャイムを聞きながら廊下に出た。
職員室へ戻る途中、第二校舎の西側階段を通りかかる。
階段を4階まで上がると、美術室がある。山川が一人でいるだろうか。顔はあまり見たくないが、少し寄ってみようか、という気になった。
休んでいる神田先生のことが気になる。それに、美術室から一番近い階段は、今自分がいる西側階段――結城が倒れていた階段――だ。
美術室まで来ると、生徒の集団が中から出てきた。片付けを終えて、ホームルームへ戻るのだろう。集団が大体外に出たタイミングで中に入る。
「失礼します」
「これはどうも、辰巳先生」
山川だ。やっぱり、というか、いて当然ではある。今授業が終わったとこなのだろう。
「神田先生がお休みしてますし、結城琴美といえば美術部、と思って、ちょっと寄ってみました……病院までつきそいましたし、やはり気になります」
「で、わざわざ4階に?特に何もないと思うけどねぇ……」
山川はこんなときも面倒そうだ。
「……神田先生も困ったもんだよ。事務からは月曜から休暇って聞いたけど、昨日の朝、美術室に来たら、部屋のカギ開けっ放しでね。最近の若い人って抜けてるのかな……失礼。辰巳先生も若かったね」
「いえ」
よく言うもんだ。授業の教材の仕込みから何から神田先生の世話になりっぱなしのくせに。若手に自分の仕事を押しつけて、恥じないベテランこそどうかと。
「じゃ、辰巳先生、この部屋出るとき、そこのカギで戸締まり頼むね。ちょっと急ぎで職員室に戻りたいから」
山川はそう言うと、そそくさと出て行った。こちらとしては、それで構わない。
美術室の中は整然と片付いている。前後の壁には生徒の優秀作品、教卓の脇には3年生の選択授業で取り組んでいる油絵が乾燥台にしまわれている。窓際の水場の周囲には新聞紙が敷き詰められ、水彩道具が並べられている。
一応、念のため、と思って床や机の中を一通り見る。結城のスマホがこんなところにあるとは思えなかったが、念のため、だ。
次は教壇に向かって左横の壁にある準備室のドア。
カードキーでロックを解除し、中に入った。
◇
予想通り、準備室の中も、綺麗に片付いていた。几帳面な神田先生の管理だろう。
実習系科目は、教室はもちろんのこと、準備室が特に散らかりやすい。座学中心の教科と違って、とにかく物が多いためだ。気を許すと、あっというまに教材やら作品の出来損ないやら、居残りで制作させた生徒の課題やら――でゴミゴミと溢れかえる。
しかし、この学校の美術準備室に関しては、かなりマメに片付けている様子だ。ロッカーや棚に収まっていない物品がそもそも極めて少ない。ホコリもそれほどかぶっていない。
外に出ている物品が少ないので、軽く見渡したあとはロッカーに向かう。準備室には金属でできた収納用の大型ロッカーが並んでいる。2台のロッカーの上の方に、小さなラベルが貼ってあり、山川と神田先生が1台ずつシェアしているのがわかる。
開けるのは、神田先生の方だ。
鍵はかかっていない。
鉄製の大きな扉を開けると、教材のスペア、これからの単元で使うらしい資料……いろいろぎっしり入っていたが、左側奥に、積み重なっているスケッチブックが目に付いた。
最近、ここに積まれたものに見える。上に少し隙間を残しているところを見ると、まだこの上に重ねていけそうだ。
ざっと十冊以上ある……真ん中あたりから一冊を抜き取り、中身を確認しようとした。スケッチブックの間には、異なった紙質の描画用紙が追加で何枚も挟まっていた。全て合わせると、相当な枚数になりそうだ。
スケッチブックを開き、さらに間に挟まった紙を広げて、驚いた。一枚も無駄にされることなく、びっしりと絵が描き込まれている。
全て、同じ作者によるものだった。
◇
午後4時30分。職員室。
「辰巳先生、聞いてますか。結城さんなんですが、例のスマホの件、勘違いだったって。もう大丈夫って言ってるそうですよ」
「そうですか」
職員室で山脇先生が話しかけてくる。以前は社会科準備室があったが、今はない。
なので社会科の先生も職員室で、いつも隣に座っているようになった。
「……てことは、どっかにあった、ってことですか」
「いや、それが、病院で、あれは勘違いでした、と言いだしたそうです。お母さんも、自宅にもなかったのですが……と困惑してるそうで。電話口で対応した飛田先生に、お母さんが言うには『ありかを思い出した、というより、探すのを突然やめたように見えた』と」
「妙なことも…あるもんですね」
やはり、何かある。
◇
結城のことを考えながら、授業の日程を詰めるためにスケジュール表を画面に出した。そろそろ、授業も佳境。7月頭の期末テストまでの残り時間を計算し、締めくくらなくてはならない――クラスごとの進度、残り時間数を考えながら、簡単な予定表を組んでいく。
15分で、おおむね形になった――忘れずに、セーブ。
と、職員室の入り口からひどくせわしないノックの音がする。
「失礼します」
すぐ近くのドアが開いた。
「1年4組の須藤奈々です。神田先生、いらっしゃいますか?」
また、神田先生か。
「神田先生はまだお休みされているよ。キミは、美術部かな。」
「はい。今日は登校されてるのではと思ったんですが……失礼しました。」
須藤はぺこりと頭を下げて、廊下に出ていったが、ドアを閉める動作もずいぶん苛立っている。
ぴしゃり、と大きな音がした。
――お休み中の神田先生に、腹を立ててる?
その日、学校にいる先生が、直接生徒から嫌われることはよくある……というより、なくてはおかしい。授業態度に生活態度、なんらかの問題行動があれば、注意するのは教師の大切な仕事だ。
しかし、目の前にいない先生、がこんな風にあからさまに腹を立てられることはそうない。あるとすれば、前々からの約束を破ったか……個人的に、腹を立ててる事情があるか。
夕方5時前あたり。生徒が部活を終えて帰る少し前が良さそうだ。
須藤奈々と話しに、今日はもう一度、美術室へ上がってみよう。