喜びと安堵と嫉妬と感謝
目の前の少年が笑みを浮かべている姿を眺めながら、アンリエットは気付かれないように小さく息を吐き出した。
そこに含まれているのは、喜びであり、安堵であり――そして、嫉妬だ。
それは前世でアレンを最期まで見続け、今世でも同じように見続けていたがゆえに抱いた感情である。
何故ならば、アンリエットがこの少年に抱いていた印象とは、笑わない、というものであったからだ。
いや……より正確には、笑わなくなってしまった、と言うべきか。
アンリエットとアレンの付き合いは、それなりに長い。
アレンは結局あの世界で十年ほど英雄をやっていたが、アンリエットはその最初から最期にまで関わっているのだ。
アレンへと英雄の役目を、力を与え、見守り、神の言葉を伝え、時に助言をし……そうして最期に、殺すまで。
アンリエットの生きてきた時間からすれば、それは瞬きする間に過ぎ去ってしまう程度でしかないものの、濃さで言うならば随一だろう。
きっとそれを除いたその他の一生と比べたところで、見劣りすることはないに違いない。
ともあれ、その時間の大半をアンリエットは見ているだけでしかなかったが……ずっと、見続けてはいたのだ。
アレンが誰かの頼みを聞き届け、英雄としての務めを果たすのを。
誰にも頼まれずとも、人を救うのを。
その力を恐れた人達に疎まれ、排斥され、幾度も殺されかけ……それでも、罪もない人々を助けていく姿を。
アンリエットはただ、見続けたのだ。
そんな中でアレンの笑顔が失われたのは、確か五年が過ぎた頃であったか。
むしろよくそこまで保ったと言うべきであり……だがそれでも、アレンの行動は何一つとして変わることはなかったのだ。
変わらず人を助け続け……変わったことは、ただ一つのみ。
その顔に浮かぶ笑みが、作られたものになったということだけだ。
そのことにきっと、アレン自身は気付いていなかったに違いない。
気付いていたら、とうにその足は止まっていただろうからだ。
アレンは確かに英雄であった。
その役目を、力を与えたのは他でもないアンリエットであるし、純粋な力だけで言えば間違いなくあの世界で最強の存在だっただろう。
だがその力を振るっていたのは、本当は英雄でも何でもない、ただの少年だったのだ。
そのことをアンリエットは知っていた。
いや……気付いた、と言うべきか。
最初はアンリエットも誤解していたのだ。
アレンは英雄の力と役目を与えられるに相応しい、そんな強く折れない心を持った人物なのだと。
しかしそうではなかった。
そもそもの話、根本的に勘違いをしていたのだ。
アレンは別に役目だからだとか、そういうことで人々を救っていたわけではなかったのである。
ただ、困っている人々がそこにて、それをどうにか出来るだけの力があったから、助けていただけだったのだ。
つまりそれは、当たり前のことをしているだけでしかなかったのである。
当たり前のことを、当たり前にしているにすぎなかった。
そしてだからこそ、彼は誰よりも英雄に相応しかったのだ。
多くの人が、それと分かりながらも出来ない当たり前のことを、当たり前に出来る普通の少年でしかない彼だったからこそ。
だがゆえに、助けた人達からの心無い言葉は彼の心を深く傷つけたのである。
最強の少年の身体を傷つけられるものをなどあの世界には存在していなかったが、人々からの恐怖の目と排斥の言葉は、彼から笑顔を奪うには十分すぎたのだ。
それでも、彼は普通の少年だったから、偽りの仮面を被ってまで人々を助け続けた。
そうしなければ、彼は耐えられなかったから。
彼は人々を救っていたのではない。
彼は自分が後悔したくないから、自分のために人々へと手を伸ばし続け……そうして最終的に、世界まで救ってみせたのだ。
そんなどこにでもいるような、普通の、間違いなく英雄以外の何者でもない存在。
それが、アレンという少年であった。
そしてその全てを知っていながら、使徒であるがゆえにアンリエットは何も出来なかったのだ。
やろうと思えばアレンを排斥した者達をどうにかすることも出来たかもしれない。
しかしそれはやらなかったし、やれなかった。
アレンがそれを望まなかったからだ。
望んでくれさえれすれば、死んだ方がマシだと思う程度の目に遭わせることも出来たというのに……そう言ったところで、アレンはただ、仕方なさそうな顔をするだけであった。
アンリエットに出来たことは、最期の最期で、アレンが願ってしまったことを叶えることぐらいだったのだ。
結局、最後までその顔に笑みを戻してやることすら出来ず……そんなアレンが、こうして笑ってくれているのである。
それが嬉しくないわけがない。
この世界に転生させてよかったと、安堵しないわけがない。
だが、だからこそ嫉妬するのだ。
それはアンリエットでは出来なかったことだから。
彼を救ってくれた彼女達に感謝すると共に、どうしようもない悔しさを覚えるのだ。
「――アンリエット? 聞いてる?」
「ん? ああ、すまねえです。ちと考え事してたです」
「考え事って……何か気になるようなことでもあるの?」
そう言ってアレンは、真っ直ぐな目を向けてきた。
おそらくここで頷けば、アレンは何一つ躊躇することなく自分を助けてくれるのだろう。
あの頃のように、あの頃と何一つ変わることなく。
だが残念なことに、アンリエットが考えていたことはそういうことではないのだ。
苦笑を浮かべ――
「――ですがまあ、さすがはワタシの英雄です」
「え? 何だって?」
「そういうことじゃねえです、って言ったんですよ。オメエが懐かしいことばっか言うですから、つい昔のことを考えちまったってだけですしね」
「あー……なるほど? でも、仕方ないんじゃないかな? 君と話をするとなれば、どうしたって昔のことになっちゃうわけだしね」
そんなこと言いながらアレンは肩をすくめるが……きっとこの世界に転生してきた直後であれば、アレンは別の話をしようとしたはずであった。
前世の出来事は、確かに二人に共通している分かりやすいものではあるが、決して話しやすいものではない。
それはアレンにしてみれば、苦い記憶を呼び起こすものでもあるはずだからだ。
しかし今のアレンにそんな様子はなく、つまりそれを克服しているということである。
本人がそれを自覚しているのかはまた別の話となるが……きっとアレンが昔の話をこうして穏やかに話すことが出来るのも、彼女達のおかげなのだろう。
それはやはり感謝すべきことであり……とてつもなく悔しいことであった。
「やれやれ……そんなんだからオメエは駄目なんですよ。少しは女を喜ばせるような話題の一つでもしてみせろってんです」
「そんなこと言われてもなぁ……そもそも僕、この世界の女の人がどんな話をされたら喜ぶか、なんてこと自体を知らないわけだけど?」
「何で知らねえんですか……それでも元公爵家の嫡男なんですか?」
「いやそれって関係ない気がするんだけど……?」
「まあ実際関係ねえですが。むしろ公爵家の嫡男なんて、本来は放っておいても向こうから寄ってくるでしょうし。ですが、それはそれです。男なんですから、それぐらい頑張れってもんです」
「なんて理不尽なんだ……」
そういって嘆きつつも、その口元には笑みが浮かんでいる。
それはアンリエットも同じであり、ただの他愛のない冗談であった。
だが、あの頃はこんなことをすることすら出来なかったのだ。
それを思えば……まあ、最終的には感謝の気持ちの方が強い、ということになるだろうか。
それでも嫉妬の気持ちは消せないが、彼女達にしか出来なかったことがあるのならば、自分にしか出来ないこともあるはずだ。
今思いつくのは、こうして前世の昔話に花を咲かせる、とかぐらいしかないが……あの頃とは違って、今の自分は人なのである。
使徒であった頃の力のせいで、未だ制限はあるものの……いつかは。
この元英雄のために、自分も本当の意味で何かが出来たらいいと、そんなことを思いながら。
今日のところはと、再び昔話に花を咲かせるのであった。




