濁った瞳
「……何だと? 貴様、もう一度言ってみろ……!」
部屋に、怒声が響いた。
それを向けられた男は反射的に身を震わせると、そのまま身を縮こまらせる。
男はあくまで報告をしただけであって自身に非はないのだが、そう言って聞くような相手ではない。
それが分かっているからこそ、男は余計なことは言わず黙っているのだ
それに、下手に反論してしまえば、殺されかねない。
冗談ではなく本気でそう思ってしまうほどの怒気が発せられていたからこそ、男は俯いたまま先ほどの言葉を繰り返した。
「……はっ。錬金術師殿は、失敗した、とおっしゃっていました」
「貴様……!」
これは本当に、このまま殺されるかもしれない。
自身に向けられた明確な殺意に、男はこの場から逃げ出すか否かを頭の中で真剣に検討し始め……だが、直後にその必要はなくなった。
その場にいたもう一人の人物が、口を開いたからである。
「――ブレット」
「……っ、ですが父上……!」
「お前の苛立ちはよく分かるが、その者に罪はあるまい。使用人の数を無駄に減らすつもりか?」
「……っ、申し訳ありません。……ちっ、報告は分かった。それだけか?」
「はっ、以上です」
「分かった、下がっていいぞ……!」
そう言われたものの、男は顔を上げるとちらりと当主の方へと視線を向けた。
そもそも今回男が報告に来たのは当主の方へとであって、子息の方にではないのである。
そっちに下がって良いと言われたところで、実際に下がることは出来ない。
とはいえ、ここで言葉に出してしまえば、子息の不興を買ってしまうのは間違いないだろう。
今の様子から考えれば、本当に殺されかねない。
だが当主もさすがにそれを分かっているのか、目配せで下がるよう告げてくる。
それに安堵しそっと息を吐き出すと頭を下げ、そのまま男は部屋を後にした。
扉をそっと閉め、廊下を歩き出し……しばらく歩いたところで、ようやくとばかりに大きな溜息を吐き出す。
「やれやれ……この調子では、この家はもう長くないのかもしれませんね」
そうして呟かれた言葉は、誰かに聞かれればただでは済まないだろうし、子息どころか当主に聞かれても命はないかもしれない。
しかしついそんなぼやきを口にしたくなるぐらいには、今この屋敷の中の雰囲気は最悪だったのだ。
昔はよかった、と言うと年寄りのようではあるが、実際にその通りなのだから仕方がない。
少なくとも十年ほど前は今よりも遥かにマシであったし、むしろ一月――否、一日前と比べてすらそう言えるだろう。
では何故そんなことになっているのかと言えば、理由など一つしかあるまい。
この家の嫡男……いや、嫡男であったアレンがいなくなってしまったからだ。
まあ、この家の主人達がどう考えているのかは知らないが、少なくとも使用人にとってみれば、今の屋敷の雰囲気は最悪であった。
特に今や唯一の子息となってしまったブレットなどは増長しているにも程がある。
アレンがいた頃は、ブレットはまだあそこまでではなかったのだ。
ブレットはアレンのことを出来損ないなどと呼んではいたものの、おそらく本当は怯えていたのではないかと思う。
いつも泰然としているアレンに、いつか自分の居場所を奪われるのではないか、と。
そして実際にアレンがこの家に残っていたまま、次代に当主の座が受け継がれるとなった場合……きっと大半の使用人はアレンの方に付いたことだろう。
どちらが当主に相応しいのか、などということは一介の使用人でしかない男には分からない。
だがどちらに当主となって欲しいかで言えば、間違いなくアレンであった。
端的に結論を言ってしまえば、屋敷の者達は、アレンのことを出来損ないなどと思ってはいなかったのだ。
そもそもアレンが出来損ないと呼ばれているのはレベルが1から上がらなかったからだが、そんなことを言い出したら屋敷の人間のほとんどは出来損ない未満だし、市民の多くも同様だろう。
この世界の人間の多くは、レベルが0のまま上がることはないからである。
この辺は多分アレンも理解していないことなのだが、レベルを上げるような事をするのは、貴族か豪商、あるいは兵士や冒険者ぐらいなのだ。
多くの市民にとっては、レベルを上げるような暇などはないからである。
働かなければ生きてはいけないし、レベルというのは働いているだけで上がるようなものでもない。
兵士や冒険者のレベルが上がるのは、あくまでも魔物と戦うという市民にとってみれば自殺と大差ないことを続けているからだ。
一般市民に真似できることではない。
これは子供に関しても同様だ。
子供というのは立派な労働力の一つであり、遊ばせておく余裕など大半の家にはないのである。
それに貴族か豪商ならば可能なのは、その暇があるというのもあるが、金によって特別な修練を積む事が可能だからでもあった。
結局のところ、多くの市民にとっては不可能でしかないのである。
レベルやステータスが絶対視されているのは市民の中でも変わらないが、それは主に自分の才能の方向性を知るためでしかなく、貴族や兵士達が使っている意味とは大分異なっているのだ。
そのせいもあって、市民達が特別に思っているのは、どちらかと言えばギフトの方だろう。
とはいえそれは自分の将来に関わってくるから、というだけに過ぎず、アレンがギフトを授からなかったからといっても蔑むようなことではない。
正直だから、そのせいでアレンを追放したと言われた時には、多くの使用人が頭の上に沢山の疑問符を浮かべていたものである。
それにアレンは、使用人によくしてくれていた。
貴族だというのに驕らず威張らず、むしろこちらによく気を使ってくれたものだ。
あまりに気を使いすぎて自分で出来ることは自分でやってしまうという、使用人泣かせなところもあったものの……それも愛嬌で済む範囲だろう。
少なくとも、機嫌が悪いあまり使用人を殺そうとする人物とは比べる方が失礼なほどである。
もっとも、それも言っても詮無きことだ。
既にアレンは追放されてしまったのである。
そうして今までの鬱憤を晴らすがごとくブレットが暴れ始め……それが数日程度で済むのならばまだいいが、何となくそうはならないという予感があった。
だが使用人は別にこの屋敷に縛られているわけではない。
こんな状態が続くのであれば、きっと少なくない人間が辞めるだろう。
それでもいなくなった分は補充すればいいだけなので、屋敷の維持程度ならば可能かもしれないが……さて、古参の人間がろくな引継ぎもせずに次々と辞めてしまったら、それも果たして可能だろうか。
長くないとは、そういう意味であった。
「ですが、ご子息様はともかく、ご当主様がそのことを理解していないとは思えませんが……」
しかし現状、クレイグは稀にそれとなくいさめはするものの、基本的にはブレットの行動を黙認しているように見える。
ということは、大半の使用人が辞めてしまっても問題ないと思っているのか――
「あるいは、それでも構わないと思っているか、ですか……?」
だがそこまでを考え、男は首を横に振った。
クレイグが何を考えているのかなど、どうせ男には分からないことだ。
分かっていることは、一つ。
「さて……私はいつお暇させていただきましょうかね……」
これから先の身の振り方を考えながら、男は廊下を歩いていくのであった。
「くそっ、あいつ僕のこと馬鹿にした目で見てやがった……! 後で覚えてろよ……!? っ……い、いや、今はそれどころじゃないか……ち、父上、それでどうするのですが……? まさかの失敗とのことですが……」
まるで怯えたような目で自分のことを見てくるブレットへと、クレイグはなるべく穏やかに見えそうな顔を向けた。
発した言葉も意図して柔らかくしており――
「……いや、気にする必要はない。失敗したところで、何の問題もないからな」
「っ……そ、そうなのですか? ですが、これで『アレ』は……」
「なに、これが最も手っ取り早い手段だっただけで、他の手段はきちんと考えてある。お前は何も心配する必要はない」
「そ、そうですか……」
そう言ってほっと安堵の息を吐き出すブレットのことを、クレイグは変わらず穏やかな目で見つめる。
そうしなければ、自らの怒りを隠せそうになかったからだ。
ブレットへと言ったことは嘘ではない。
失敗したところで次善の策は考えてあるし、これからの展開でいくらでも修正は効くだろう。
だがアレが成功する事が最良であったこともまた確かなのだ。
計画通りに進んでいれば今頃は次の段階に進めていたものを……まったく忌々しい。
思わず舌打ちしそうになる程度にはクレイグの機嫌は悪く、それを表に出そうとしないのは、単に公爵家当主としての矜持と息子の前で威厳を保とうとしているためでしかなかった。
「それで父上、次はどうするのですか?」
「そうだな……いや、すぐに動く必要はない」
「……よろしいのですか? 確か事前に聞いていた話ですと、今回のことが上手くいっていればすぐ次に動く予定だったはずですが……」
「それはあくまでも『アレ』を始末出来ていればの話だ。その場合は即座に動く必要があったが、出来なかった以上は逆に次は慎重に動く必要があるからな」
「っ……申し訳ありません」
別にブレットのことを責める意図があったわけではないのだが、敢えて訂正することはしなかった。
俯き震える姿に暗い愉悦を覚えながら、それを穏やかさという仮面で覆い隠す。
それに気付かないブレットは、悔しさに震えながらも、そういえば、と口を開く。
「ところで、あの錬金術師はどういたしますか? やはり処分でしょうか?」
そうすれば自分の失態がなかったことになる、とでも言いたげなブレットの様子に、クレイグは小さく息を吐き出した。
あの出来損ないをようやく追放出来た解放感からか、ブレットは事あるごとに何でもかんでも処分しようとするものの、さすがに執事長や錬金術師を処分されては困る。
執事長に関してはいなくなったところで問題はないが、処分したとなれば最低限屋敷を維持していくことすら困難になってしまうだろう。
いずれ捨てる屋敷とはいえ、せめてその時まではもってくれなくては困るのだ。
だがクレイグは、敢えてそう注意することをしなかった。
とはいえ、本当に処分されても困るので言い含めてはおく。
「まあ待て。やつにはまだ使い道がある。それに、実験という意味ならばそれなりに役立っただろう?」
「それは……確かに。おかげで僕もこの力への理解が深まりましたし……」
「ああ。ある意味今回最も重要だったのはそれだ。ならば今回のことはある意味では成功と言ってもいいだろう」
「そ、そうでしょうか……?」
「そうだ。そして今回のことはあくまで演習のようなものであり、お前が真にやらなければならないことはこの後にこそある。そうだろう?」
「は、はい……そうか、そうですよね……ああ、そうだ。僕は、あの出来損ないとは違うんだ……その時にこそ……!」
「ああ、期待しているぞ?」
そう言いながらも、クレイグが向けていたのは冷たい目であった。
だがそれを誤魔化すように、虚空を眺める。
そうして、何故今回の事は失敗したのか、ということに思考を向けた。
絶対に失敗しないはずであった。
次善策を考えていたのはあくまでも念のためであり、失敗しないように入念な準備を重ねていたのだ。
戦力的にも万が一などは有り得ないはずであり、確実に『アレ』を処分出来るはずであった。
もちろん自分で直接手を下したわけではないため、あの錬金術師がヘマをした可能性はあったものの、それに関しても十分考慮には入れていたのだ。
だからそれでも成功するはずであり、だが現実には失敗した。
ということは、明らかに計算外の何かが起こった……何者かに邪魔をされた可能性が高く――
「ふんっ……何者かは知らんが、俺の邪魔をしておいてただで済むと思うなよ……」
「……父上?」
「……いや、何でもない。ただの独り言だ、気にするな」
思わず漏れてしまった言葉を誤魔化しつつ、一つ咳払いをする。
そうしてブレットに戻した顔には、再び仮面が被せられていた。
「ともかく、『アレ』の対処に動くのはしばらく後だ。そもそも、今は『もう一つ』の方が大詰めだったであろう? それを考えれば、失敗したのはよかったのかもしれん」
「……確かに、あっちもあっちで大事になるでしょうからね」
「ああ。『将軍』が既にいない以上、その時にはおそらく我が家が動くことになるだろう。茶番ではあるが、手を抜くわけにもいかんからな」
「はい、分かっています」
「そしてそれにさえ成功してしまえば、正直後はどうとでもなる。――あの忌々しい勇者さえどうにか出来れば、な」
心底忌々しげに呟きながら、クレイグは視線を彼方へと向ける。
その先にいる誰かを睨みつけるかのごとく、暗く濁った瞳を細めるのであった。