侯爵令嬢からの提案
少女がその場から立ち去るのを見送ると、アレンは一つ息を吐き出した。
それはあからさまな厄介事を一先ず回避できたことに対する安堵である。
「いや、助かったよ――ミレーヌ」
言って隣に視線を向けると、褐色の少女はこくりと頷いた。
アレン一人では、ここまでスムーズに事態を回避する事は出来なかっただろう。
まあ、根本的解決にはなっていないし、まだ完全に回避出来たわけではなさそうだが……一先ず時間を稼げただけでも十分である。
「それにしても、どうしてここに?」
彼女が近くにいることにアレンが気付いたのは、ちょうどこれは一旦連行でもされるしかないかと、そんな覚悟を固めかけた時であった。
半ば癖のようになっている周囲の気配の探索を何気なく行い、そこで見知った気配があることに気付いたのだ。
そこに至った理由は分からずとも、ミレーヌが何を意図しているのかはすぐに理解出来た。
ミレーヌの能力はよく知っているし、図らずもそれが最もこの場を穏便にやり過ごす手段だったのである。
それで解決とはならないが、何にせよこのままでは問題になってしまう可能性が高いのだ。
ならばそれに乗らない理由はあるまい。
そうこうしているうちにミレーヌが姿を見せ、アレンはあの少女に気付かれない程度に小さく頷いてみせた。
それでミレーヌも理解したらしく、そのままアレンのすぐ傍にまでやってきて……あとは、一瞬の隙を突いて、というわけだ。
「……アレンのことだから、どうせ何か厄介事に巻き込まれてるに違いないって、ノエルとリーズが」
「それで僕の後を追ってきた、と?」
こくりと頷く姿に、苦笑を浮かべる。
その妙な信頼のされかたをされてしまっている自分と、事実その通りなことになってしまっている現状を思ってだ。
「まあ実際に助かったわけだし、二人には後でお礼を言っておくべきかな?」
もっとも、今はそれよりも先にやらねばならないことがありそうだが。
先ほど、アレンはあの少女の注意を一瞬だけ逸らすことに成功したが、実のところアレは半ば偶然なのだ。
というか、驚いたことそのものは事実であり――
「――なんていうか、オメエは本当に相変わらずですね。よくもそこまで面倒事に巻き込まれる事が出来るもんです」
呆れが混ざったような声は、前方から聞こえてきた。
それはアレン達がずっと視線を向けていた方向であり、直後にその姿が通路の角からひょっこりと現れる。
見知ったその姿は、間違いなく先ほど立ち去ったばかりのアンリエットその人であった。
「そんなことを言われても、僕としては好きで巻き込まれてるんじゃないんだけどね。というか、立ち去ったんじゃなかったの?」
「そのつもりだったですが、オメエが妙なことに巻き込まれかけてるから戻ってきてやったんじゃねえですか。まあ、その必要はなかったもしれねえですが」
「いや、そんなことはないよ。結果的にとはいえ、君の姿に素で驚いたからこそ、あの人の注意を一瞬とはいえ逸らす事が出来たんだろうしね」
そう、あの時アレンが驚いたのは、通路の先にアンリエットの姿を見かけたからなのである。
まさか戻ってくるとは思っていなかったため、本気で驚き、それが結果的にあの少女の隙を突くことに繋がった、というわけだ。
「だからまあ、君にもお礼を言っておくよ」
「結局は何もしてないも同然なんですから、別に礼を言われる理由はねえんですが……つーか、それならオメエの隣のやつに警戒を解くよう言ってくれた方が助かるんですが? 睨まれて喜ぶ趣味はねえですし」
「そうしたいのは山々なんだけど……それは仕方のないことでもあるんじゃないかな?」
その言葉にアンリエットが肩をすくめたのは、分かってはいる、ということだろう。
アンリエットが言った通り、確かにミレーヌはアンリエットが姿を見せてからずっとアンリエットのことを睨みつけるようにして眺め続けている。
そこにあるのは緊張であり、また警戒だ。
先ほど会ったことを覚えていないわけでもあるまいし、普通に考えればそれは過剰ではある。
だが同時に、それは当然のことでもあった。
何故ならば、ミレーヌはこの場に現れてからというもの、ずっとその姿を消し続けているからだ。
あの少女にミレーヌが気付かれなかったのもそのせいであり、アレンが簡単に逃げる事が出来たのも、ミレーヌにアレンも姿を消してもらったからである。
だから実のところ、アレン達はその場から一歩も動いていなかったのであり……それは、今も変わっていない。
そう、アレン達は未だに姿を消したままのはずなのだ。
だというのにアンリエットは何の問題なくアレン達の姿を捉え、その声が聞こえている、というわけであり――
「とはいえ、まあ、ミレーヌ、警戒する必要がないってのは事実だよ。彼女は敵じゃないし……この状態のことを認識することなら僕も出来るでしょ? それと似たようなことをしてるってだけだしね」
「…………わかった」
「納得してくれた?」
「……アレンの周りは出鱈目ばかりっていうことが」
「さすがにそいつほどじゃねえですよ。つーか、そいつと同等の出鱈目が他にもいたら怖すぎるです」
「……それは確かに?」
「変なところで意気投合しないでもらえるかな? まあ、ともあれ……それで、わざわざ姿を見せたってことは、まだ用事があるってことでいいんだよね?」
先ほどの少女から助けるだけであれば、こうして姿を見せる必要はない。
アンリエットは敢えてそんなことを告げてこちらに恩を着せるような性格ではないため、何か他にも用件があると考えるのが自然だ。
「そうですね、一応あるっちゃああるですが……その前に聞いとくですが、オメエはこれからどうするつもりです?」
「ん? そうだね、本当はギリギリまで残ろうかと思ってたんだけど……こうなったらさすがに王国に戻るしかないかな、って思ってるかな? 何となくだけど、さっきの人はただの巡回兵だとかそういうのには見えなかったし。ここは一旦引くのが最善かな、と」
「あれだけのことでそこまで判断出来るのは相変わらずさすがなんですが……それでもまだ認識はちと甘いですね。まあ仕方ねえとは思うですが」
「というと?」
「おそらくですが、オメエらが撤退しようとする頃には王国側の道は封鎖されてると思うですよ?」
「え……そんなこと出来るの?」
他国へと繋がる道を封鎖するなど、その国に喧嘩を売ってるも同然だ。
戦争になったところで文句は言えず、たとえこの地を治めている侯爵だろうとそう簡単には行うことは出来ないものだろう。
何かよっぽどのことがなければ独断で行うなどまず不可能で、やるにしても国の許可を取らなければならないはずだ。
そんな迅速に行うことなど出来るわけがない。
「それが出来ちまうんですよ。アレらは権力とは完全に独立してるですからね。独自の判断で大抵のことは出来ますし、帝国側からすればいざという時は切り捨てるだけですから」
「切り捨てたところで、他の国から関係ないって言われたらそれまでな気がするけど?」
「それはそれで帝国側からすれば望むところですしね。帝国が何を最終的な目的としているのかはオメエも知ってると思うですが?」
「なるほど……戦争になるっていうんなら、これ幸いと乗るだけ、か。まったく、相変わらず物騒な国だなぁ」
「否定のしようはねえですね」
「にしても、たとえ出来たところでする利点ってあるの? 要するに、僕が怪しいってだけのことだよね?」
「今は状況が状況ですからね。それだけのことでも放ってはおけねえんでしょう。特に王国側には絶対漏らしちゃいけねえこともあるですしね」
何となくそんな気はしていたが、やはり色々と事情があるようだ。
アレン達からすればいい迷惑でしかないのだが……言ってどうなるものでもあるまい。
「で、ということは、君がそれをどうにかしてくれるってこと?」
「アイツらを何とかするのは無理ですよ? 言ったように権力からは独立してるですからね。ただ、このままだとオメエらはこの街にいることは不可能になるですから……まあ、しばらくの間ならばウチで匿うことは出来るっていう提案をしに来ただけです」
「んー……なるほど」
それはありがたいと言えばありがたい話だ。
しかし必須かと言えば、そうでもない。
道が使えないのならばミレーヌの透明化で抜けるのは厳しいだろうが、アレンが転移を使うなど方法は他にもあるからだ。
とはいえそうなれば、帝国にまで来た目的が果たせなくなってしまう。
しかも当然と言えば当然なのだろうが、その口ぶりからすればアンリエットは帝国で今何が起こっているのかを知っているようだ。
それはアレンにとっては別にどうでもいい話ではあるのだが、リーズにとってはそうではなく――
「……ちなみに一つ聞きたいんだけど、君はさっさと帰れって言ってなかったっけ?」
「それはオメエが巻き込まれる前までの話です。巻き込まれそうになってる以上は仕方ねえですからね」
それは理由のようで理由になってはいなかったが、アレンは再度なるほどと頷く。
巻き込まれないのが最善だが、巻き込まれてしまったらその時はその時であり、といったところか。
アンリエットはアンリエットで思惑を持っている、ということなのだろう。
それがどういうものなのかはさすがにまだ分からないが……それを拒む理由はあまり思いつかなかった。
こちらにも利点はありそうだし、何よりもアレンはアンリエットに返しきれないほどの恩があるのだ。
本人はそれを役目だからやっただけだと否定するだろうが、その恩を返せるというのならばそれもありだろう。
「まあ、リーズ達と相談しないとまだ何とも言えないけど……そういうことなら、多分お世話になる可能性が高い、かな?」
「……そうですか。まあ、アンリエットはどっちでもいいんで、好きにするがいいです」
「そうするよ」
好きにしろと言いながらそっぽを向く姿に苦笑を浮かべつつ、さて彼女達にどう説明したものかと、アレンは考え込むのであった。




