不可解な少年
リゼット・ベールヴァルドは、眼前の少年の姿を眺めると僅かに身を硬くし、いつでも動くことが出来るよう身構えた。
何となくではあるが、少年が何かを決め、決意したように感じられたからだ。
リゼットは仕事柄、様々な人物と接することがある。
声をかけた直後に問答無用で襲われることもあれば、そのまま殺されそうになったこともあった。
自分よりも遥かに年下の、どう見ても子供でしかない相手に殺されかけて以後、仕事中に警戒を緩めたことは一度もない。
それでも、普段にも増してリゼットが少年のことを警戒しているのは、言ってしまえばただの勘であった。
そう、根拠などは一つもないし、本気で悪魔だと疑っているわけでもない。
いや……別に本気で悪魔だと疑ってはいない、と言った方が正確か。
本当に悪魔であるならば、とうに何らかの行動を取っているだろうからだ。
だが根拠などはなくとも、これまでに積んできた数多の経験が、告げていたのである。
この少年はきっと、自分が今まで接してきたどの人物よりも強大な力を持っている、と。
レベルやギフトがどうこうという話ではない。
言ってしまえばそれは本能的なものであり、おそらく根底にあったのは原始気的な恐怖だ。
自分よりも遥かに強大な存在を目の前にした時の心境、というものである。
正直なところ、少年の目を見た瞬間反射的に飛び掛りそうになってしまったほどだ。
それを抑える事が出来たのは、理性が働いたというよりは、何をどうしても勝てる想像が出来なかったからでしかない。
本当は今この時でさえ、この場から逃げ出したいのである。
そうしないのは、この仕事に自負を持っているのと、それは悪手だとも感じるからだ。
そもそも、逃げたところで逃げ切れる気もまたしないのである。
ならば開き直るしかあるまい。
ともあれ、リゼットが必要以上に少年のことを警戒しているのは、そういった理由からだ。
それに少年がギフト以外の何らかの力を行使可能であることも、間違いないことである。
油断しないのは、むしろ当然のことだと、リゼットは自分に言い聞かせるように思い――
「――あ」
と、少年がリディアの背後を眺めながら、不意に声を上げた。
それは何かに驚いた、といった様子であり……しかし、そこでリゼットが目を細めたのは、その反応をブラフだと見抜いたからだ。
何故ならば、リゼットの背後にはそんな反応をするような何かはないはずだからである。
リゼットのレベルは8であり、特に周囲の気配を感じ取ることに関しては徹底的な訓練を行っているのだ。
たとえ百メートル後方の人ごみの中から視線を向けられていたところで、それを感じ取るどころかその相手を特定可能な自信がある。
そしてそんなリゼットの感覚の網には、何も引っかかってはいないのだ。
まず間違いなく後方には何もない、と言う事が出来……だが、視線を向けてしまったのは、万が一のためであった。
自分の感覚には自信を持っているが、その感覚が目の前の人物を規格外だと告げており、さらにはその人物が何か驚きを見せたのである。
あるいは、と考えてしまったのは当然のことだろう。
それでも、リゼットが後方へと視線を向けたのは、ほんの一瞬のことだ。
必要最小限の動きで振り返り、そこに何もないことを確認し、視線を戻す。
その全てを一瞬のうちに終わらせており――その一瞬の間に、少年の姿は跡形もなく消えていた。
「――なっ!?」
驚きよりも、恐怖からリゼットは声を上げた。
あれだけ警戒していたのに、というよりも、それだけ警戒しなければならなかったような人物が、目の前から消えてしまったのだ。
直後の自分の死を想像し、最大級の警戒と共に周囲を見回しながら構え……だが、どれだけ時間が経とうとも、何も起こることはなかった。
「……逃げた、んスか?」
事実はそれを告げているのだが、リゼットがいまいちそのことを信じられなかったのは、その必要があるとはとても思えなかったからである。
自分は既に死んでいて、その間際に都合の良い夢を見ているのだと言われた方がまだ信じられるぐらいだ。
しかしどれだけ信じられずとも、事実は事実である。
そしてならば、これからリゼットが取るべき行動は一つであった。
少年を悪魔だと思ってはいなかったが、怪しかったのは事実なのだ。
少年は抵抗らしい抵抗をしてはいないが、素直に従っていたというわけでもない。
何かしらのやましいことがあったと見て間違いないだろう。
可能性として高いのは、他国の間者だということである。
特に、アドアステラ王国からはいい加減探りの一つでも入れてきておかしくない頃だ。
あの少年は何となく間者という雰囲気ではなかったが……あるいは、さらに重要な任務を任されていた可能性だってある。
まさか、あの件が外に漏れているとは考えにくいが――
「……ここは最悪を想定しておくべきっスかね。それと……こっちも放っておくわけにはいかないっスか」
そう呟きながらリゼットが視線を向けたのは、地面に倒れたままの男だ。
おそらくはあの少年によって昏倒させられたのだろう男であり、外傷らしい外傷は見当たらない。
「ふーむ……本当に剣で斬った跡などはまるで見られないっスね。一体どうやったのか……いえ、あの剣がそもそも特別なものであった可能性もあるっスか」
世の中には聖剣を始めとして、魔導具よりも力のある武器や防具などが存在している。
というよりも、魔導具はそれを参考として、少しでも似たようなものを作り出せないかと研究されたのが生み出される切っ掛けとなったものなのだ。
そしてその研究は、未だに指先すらも届いていないと言われている。
まあ、聖剣などは神から与えられたものであるのだから当然だとは言えるのだろうが――
「っと、それよりも、問題はこの男をどうするのか、っスかね。いえ、一先ず連行するのは決まっているんスが……」
元々リゼットは、この男を追ってここまでやってきたのである。
この男は街中で突然魔導具と思しき短剣を振り回すと、発生させた雷で以て市民に混乱を与えたのだ。
幸いにもそれは誰にも当たらなかったのだが、男は直後に近くにいた女性のことを斬り付け、そのまま逃走している。
それを見逃すことなど出来るわけがなかった。
本来ならば、男を追いかけるのはリゼットの仕事ではない。
だが偶然にも目の前でそんなことが起こったというのに、放っておくわけにはいかないだろう。
そうして男のことを追い……想像以上に男の足は速く、中々追いつくことは出来なかったが、ようやく追いつけたと思ったらあの少年に倒されていた、というわけである。
「どうにも陽動の可能性が高いっスが……その辺は他の皆に任せるしかないっスか。問題なのは、あの少年がそれに関わっているのか、ということっスが……」
そこまでを考え、リゼットは首を横に振る。
ここで考えたところで、分かるわけがないからだ。
とりあえずリゼットに出来ることは、この男を運ぶことだけである。
念のために周囲を探っておくと、男が使っていたものと思われる短剣を発見したので、回収しておく。
手に持っただけで力を感じるので魔導具に間違いなく、しかもおそらくはかなり強力なものだ。
リゼットが相対することになっていたら、一筋縄ではいかなかったかもしれない。
「その手間を省いてくれたということを考えたら、あの少年には感謝すべきなのかもしれないっスが……」
今のところはまだ何とも言えない、といったところか。
出来れば間者であって欲しくはないのだが、それも含めて何とも言えない、といったところだ。
ただ何にせよ、皆に通達する必要はあるだろう。
最大限の警戒の呼びかけと……あとは、最悪周囲の街道を全て封鎖する必要もあるかもしれない。
とはいえ、さすがにそれは人手が足りないだろうから……王国側を優先的に、といったところか。
ないとは思うが、あのことを知られてしまっていたとするならば、まずいなどというものではない。
万が一にも、王国側に知らせるわけにはいかなかった。
さすがに考えすぎだとは思うし、あの少年を止められるという自信は微塵もない。
だが万が一の事態に備え、それを防ぐことこそが自分達の本来の役目である。
ならばそれを果たすだけだと、そんなことを思いながら、リゼットは男の身体を担ぎ上げ、そのままその場を後にするのであった。




