帝国の侯爵令嬢
アレンが帝国の侯爵令嬢と顔見知りなのは、彼女が王国に来たことがあるからであった。
半ば冷戦状態にあったとはいえ、名目上は友好な関係を築くことになったのだ。
ならば互いに交流は必要だろうとのことで、王国と接している土地を持つリューブラント侯爵家の者が時折王国を訪れていた……と、アレンは聞いている。
そしてそんな相手と顔を合わせることになったのは、今から十年近く前の話だ。
未だアレンが神童などと呼ばれていた頃、父親に連れられて行ったパーティーの一つに、彼女も偶然参加していたのである。
とはいえ、挨拶をしたのはそれ一度きりで、以後は何度か顔を見かけたことはあるが話したことはない。
敢えて話そうとしなかった、というのが正確なところではあるが――
「……久しぶりだね」
「……そうですね、確かに久しぶりです。で、オメエは何でこんなとこにいやがるんです?」
「それはどっちかって言うと、こっちの台詞なんだけどなぁ……」
確かに彼女はこの周辺の領地を治める家の令嬢ではあるが、だからこそ本来はこんなところにいるはずがないのだ。
侯爵家の屋敷はここから大分離れたところにある街にあったはずだし、そもそもここは王国とは目と鼻の先なのである。
最も栄えているなどと言われていようとも、貴族の令嬢が訪れていいような場所ではあるまい。
しかも周囲をざっと眺めた限り、護衛などの姿もないようだ。
無用心どころの話ではなかった。
「なによアレン、知り合いなの……?」
「えっと……確か、リューブラント侯爵家のアンリエット様、でしたよね……?」
と、その声には疑問が含まれていたが、同時に別の何も含んでいるように聞こえた。
視線を向けてみれば、リーズ達は想像通りと言うべきか、何とも言えない表情を浮かべている。
だが何故そんな顔をしているのだろうかと思い、首を傾げ……彼女達の視線を辿ってようやくそれに気付いた。
アレンは先ほどアンリエットのことを助けた時から、ずっとその身体に触れたままだったのである。
「っと、ごめん」
「いえ、助けられておきながら細かいことで文句を言うほど器の小さいやつじゃねえつもりですから構わねえですが……」
本人が構わなくとも、体面というものがあるし、何よりも彼女は確か一応アレン達と同年代のはずである。
その身体は軽々しく触っていいものではないだろう。
色々な意味で。
「さて、まあ、とりあえず……彼女はリーズが言った通り、リューブラント侯爵家のアンリエットなわけだけど……もう少し詳しい説明はいる?」
「いらないわよ。さすがのあたしでも、今自分がいるのが誰の領地なのか、ということぐらいは知っているもの」
「……同じく。でも、どうしてここにいるのかは不明?」
「そうですね……いくら自分の家の領地とはいえ、一人で来て良いような場所ではないはずです。……いえ、わたしは人のことを言えた立場ではないのですが……」
「そうです、人のことをとやかく言う前に、そっちの説明をしやがるのが先なはずです。ラウルスとはいえ、どうして王国の王女……っと、今は確か違ったんでしたか? ですがまあ、公爵家の当主だろうと何だろうと、何でそんなのと一緒にここにいやがるんです?」
「……え? アンリエット様、もしかして知っているんですか……?」
そう言ってリーズが驚いたのも、無理はないことだろう。
何せリーズが王女ではなくなったという情報は、口外されていないはずのものだからだ。
というよりも、ヴェストフェルト家関係のもの全てが、と言うべきだろうか。
将軍が亡くなったという情報が流れてしまっている上にそのことまで知られてしまえば、本格的に周辺の国がどうでるか分かったものではない。
そう判断してのものであり、王国の中ですら知っている者は限られているはずだ。
だというのに、最も知られてはならない帝国の者が知っているとなれば、驚かないはずがあるまい。
もっとも、アレンからすればそれほど不思議でもないのだが――
「ま、これでもそれなりに事情通ではあるですからね。あ、それと、アンリエットのことは呼び捨てで構わねえですよ? この口調からも分かる通り、堅苦しいのは苦手ですしね」
「ん……? そんな今更のことを言うってことは、もしかして二人って初対面だったりするの?」
他国の貴族だというのにアレンが呼び捨てであったりするのは、最初に会った時にそれで構わないと、今と同じような感じで言われたからだ。
それを今口にするということは、以前にはそういったやりとりはなかったということになる。
「いえ、初対面というわけではないのですが……」
「以前に会った時は本当に挨拶をしただけでしたからね。世間話とかも一切なしでした。まあ、帝国の人間ということを考えれば当然の対応だと思うです」
「……確かに、言われてみたらその通りだね」
子供とはいえ、油断など出来るわけがない。
王女に何かあったら即戦争になるだろうが、帝国側からすればむしろ望むところなのだ。
ならば子供でも気を抜けず、余計なことはさせないというのは当然の対処であった。
「で、まあ、とりあえずですね……結局のところ、オメエらは何でこんなところにいるんです?」
「……それは、リューブラント侯爵家の人間としての質問、ってことでいいのかな?」
「それは深読みしすぎなだけですね。アンリエットは純粋な疑問として口に出してるに過ぎねえです。心当たりがねえとは言わねえですよね?」
「まあね……」
リューブラント侯爵家の人間でなくとも、王国側の人間が堂々と帝国に足を踏み入れているとなれば、気になるのは当然と言えば当然だ。
表向きは友好関係ということになってはいるものの、本当に馬鹿正直に帝国に向かう人間はほぼいない。
何をされるか分かったものではないからである。
だからこそ、王国側の人間がここにいるということは、相応の理由があるということになるのだ。
……もっとも、アンリエットはそういう意味で言っているのでもないのだろうが――
「まあ……そうだね、端的に言っちゃえば、観光、ってところかな?」
「ふうん……『観光』ですか……」
目を細め、観光の部分を強調して口にしたアンリエットに、肩をすくめる。
ある意味では間違っていないし、嘘を吐いたわけでもない。
とはいえ、それは誤魔化すために言ったのではなく、それで十分だと思ったからだ。
事実アンリエットはしばらくアレンのことを探るように眺めていたが、やがて納得しように息を吐き出した。
「そうですか……まあ、ちと気になっただけですから、余計なことにしに来たわけじゃねえんなら構わねえです。個人的にはとっとと帰った方がいいと思うですが」
「うん? そんなことを言うってことは、何かまずいことでも起こってるの?」
「まずいことって言うかですね……ほら、オメエら悪魔撃退したって話じゃねえですか?」
「っ……どうして、それを……!? いえ、確かに緘口令が敷かれてるとはいえ、完全に隠しきれると思ってはいませんでしたが……」
悪魔に関しての一件は、リーズが言ったように緘口令が敷かれている。
これも公爵の件と同じというか、言及していくと結局はそこに辿り着いてしまうからだ。
公爵家が安定するまではとりあえず秘密にしておかなければならない、ということであり……だが、そのことを知っているのは、当時王都にいたほぼ全員なのである。
即座に緘口令が敷かれたとはいえ、隠しきれるものではない。
それでも、これまた帝国側に知られてしまっていたとなれば問題であることに変わりはなく――
「まあ、隠しきれるものではないものね。……でも、それで、それがどうかしたのかしら?」
「どうかしたかっていうかですね……オメエらもある程度は知ってるとは思うですが、悪魔に悩まされてるのは帝国も同じなわけです」
王国は悪魔の国と国境を面しているが、実は帝国もまた同様である。
どころか、面積的には帝国の方が大きく、よりその被害を受けていると言って良いだろう。
アンリエットが言っていることは、そういうことだ。
「んー……つまり、どうやって撃退したのかって情報を帝国側は欲してる、ってこと?」
「少なくとも、オメエらのことが知られたら、その情報を求めにこねえとは言えねえですね。逆にそれを対価とすれば良い感じに取引材料とすることも出来かもしれねえですが……まあ、面倒事に巻き込まれたくなければやめとくのをお勧めするです。利用されるだけってことになる可能性もあるですしね」
「……その心配はなさそう?」
ミレーヌがこちらを見ながらそんなことを言ってくれるものの、アレンは黙って肩をすくめた。
アレンは確かに色々と経験があるが、それでも百戦錬磨の相手ともなれば、さすがに一方的に利用されることはない、などと言える自信はないのだ。
そもそも平穏を求めてここに来たのだから、面倒事に巻き込まれては元も子もあるまい。
「何にせよ、オメエらから情報提供しなくとも、何がどうなるかは分からねえですからね。しかもオメエらが帝国にいる限りは常にその可能性は付きまとってくるわけですから、アンリエットとしてはやっぱり素直に帰るのが一番だと言っておくです」
現時点では、アンリエットの言葉は何とも言えないものだ。
確かにある程度の説得力はあるものの、帝国側がどんな状況にあるのかということはまるで分かっていないのである。
鵜呑みにするわけにはいかず……というか、リーズの目的としてはそれを探ることでもあるので、仮に信憑性があったとしても、素直にアンリエットの言う通りにする、というわけにもいかないだろう。
とはいえ、可能性の話であるならば、十分有り得るのも事実だ。
ゆえに。
「んー……まあ、忠告はありがたくちょうだいしておく、ってところかな?」
アレンはそう口にすると、肩をすくめてみせたのであった。




