帝国へ
――帝国。
この世界に帝国と名の付く国家は、実のところ一つしか存在していない。
広大な土地と人民の数を誇る大国であり、ヴィクトゥル帝国という名の多民族国家だ。
ただ、国家としてそういう方針があるというよりは、その武力で周辺の国々を吸収しまくった結果としてのものである。
人種の違いなど関係なく吸収出来るだけの下地があったとも、人種の違いなど関係なく打倒できるだけの武力があったとも言うことは可能だが、何にせよ様々な意味で一筋縄ではいかない国だと言うことだけは事実だ。
そんな帝国とアドアステラ王国は、国境を接している隣同士の間柄である。
ただし、正直に言って仲は非常に悪い。
周辺国と友好な関係を築いていく中、最後の最後まで争っていた国だと言えばその程度を推し量ることは容易であろう。
将軍のもたらした功績の中で最も大きいのは帝国との戦争を終わらせ和平に導いたことだ、などと言われるほどに、帝国とは先の見えない争いを続けていたのだ。
そんな国であったのだから、将軍が亡くなったのが分かれば即座に攻め込んでくるものと思われていた。
将軍の死は隠しきれるものではなく、半年前の時点で既に周辺国には知らされていたのだ。
王国側もそのつもりで備えており……だが、未だにその兆候すらなかった。
帝国が変わっていないことは、友好という名の睨み合いがずっと続いていることからも間違いないことだ。
帝国は大陸を帝国の名の元一つに纏めることを悲願としており、多民族国家になったのも結果的な話でしかないのである。
あくまでも統一が目的なればこそ、無用な虐殺などは行わず、取り込める者達は取り込んでいっている、というわけだ。
帝国の強さは、そういったところにある、とも言われている。
人種の違いなどは気にせず、能力がある者は積極的に取り込もうとすらするのだ。
帝国の獣人部隊と言えば精強で有名であり、帝国の特徴を示す象徴の一つとも言われている。
獣人は近接戦が得意な傾向にあるのだが、その分なのか何なのか血に酔い易いのだ。
端的に言ってしまえば暴走しやすく、獣人の国が戦争を忌避する傾向にあるのもそのためである。
抑制が利かなくなってしまうため、凄惨なことになりやすいからだ。
その分相手の被害も甚大なものとなるが、自分達の損害も同様のことになってしまうとなれば、忌避して当然のことだろう。
もちろん攻められればその限りではないのだが……帝国の獣人部隊が象徴などと言われているのはそれも理由の一つだ。
要するに、血に酔った精強な獣人達を帝国は殺すことなく捕らえる事が可能であり、従えることまで出来るということだからである。
しかも、取り込んだ獣人の国は一つだけではなく、帝国では他の国と比べドワーフやエルフの姿も頻繁に見られるという。
そういったことから、帝国はエルフまで取り込んだのではないかとも言われていた。
というのも、大半のエルフはエルフの森と言われる場所に住んでいるということは、当のエルフの口から伝わっているために有名なのだが、具体的にそこがどこにあるのか、ということは知られていないのだ。
エルフは魔法を得意とする種族ではあるが、長命種ゆえにその数は全種族の中で最も少ないとも言われている。
容姿が優れていることもあって心無い者から狙われることも多く、そういった者達から身を隠すためにエルフの森の場所は秘匿されている……ということになってはいるが、その真相は不明だ。
何にせよ、姿を見かけることが珍しい中にあって、帝国での目撃例が多いということだけは事実である。
そしてそんなことを言われる程度には、帝国は大陸の統一への野心を強く持っているということであり、王国とは停戦したものの、他の周辺国家との争いは絶えない。
の、だが、絶好の機会にも関わらず王国に戦争を仕掛けてこないどころか、ここ一年近くの間は周辺の国と戦争らしい戦争をしてすらいなかった。
明らかに妙であり、リーズが帝国へと行くことになったのは、その理由を確かめるためであるらしかった。
「それにしても、あなたって王女ではなくなったとはいえ、一応ではあるものの公爵家の当主なんでしょう? 帝国に直接出向く、なんてことをしていいの?」
「むしろ当主だからこそ、でしょうか? まあ、建前を別にするならば、今ろくに動けるのはわたししかいない、という事情もあるのですが」
「まあ、色々と大変そうだしね。そっちの家も、国も」
新ヴェストフェルト公爵家は、実質的には頭がすげ替わっただけとはいえ、何せやったことがやったことである。
本来ならばお家取り潰しどころか、関係者全員物理的に首が飛ばされたところで文句が言える事ではないのだ。
だがそんなことを出来る余裕は、今のこの国にはなかった。
ゆえに徹底的に調査をするということだけを条件に、何とかほぼそっくりそのまま移行することになったのだが……そこでまた問題が発生したのである。
そのまま移行したところで、ろくな人材が残っていなかったからだ。
どうにもアレンが追放されたのと時期を前後して、相当数の者が辞めていたり辞めさせられていたらしい。
特に家周りに関しては、必要最低限の者しか存在してはいなかった。
話に聞いて驚いたのだが、アレンが知っている頃と比べ、使用人に関しては八割以上が辞めていたそうである。
人が足りていないとかいうレベルではなかった。
数が揃っていたのは兵達ぐらいのものであり……しかし実のところ、兵の方にも問題は発生していたようだ。
練度の問題である。
これは話に聞いたことからの想像でしかないが……おそらく悪魔達は、ある時期から襲撃の手を緩め始めていたのだろう。
それと平行して、こっちの兵への訓練も少しずつ温くなっていっていた形跡がある。
気付かれない程度に緩慢に、だが確実に弱体化させられていっていたのだ。
ちなみに、兵達の訓練内容などを考えたり指示を出したりしていたのは、当時のヴェストフェルト公爵家の当主である。
「ベアトリスも大変そうだしね」
「そうなんですよね……こんなことをするためにここに来たわけではない、とこの間愚痴られました」
さもありなん。
その様子がありありと想像出来、アレンは肩をすくめた。
リーズの後を追うために近衛を辞めることを決意したベアトリスは、無事近衛を辞める事は出来たらしい。
だが問題だったのはその後で、先に述べたように兵達は弱体化してしまっており、その強化は急務であった。
そんな中へと、王国でも最強の一角とも呼ばれている人物がやってきたのだ。
どうなるかは容易に想像が付くだろう。
ベアトリスはリーズの護衛ではなく、ヴェストフェルト公爵家の兵達の世話をすることになってしまった、というわけである。
もちろんそれを断ることは出来たはずだ。
しかし色々な思惑が絡んでのことだろうとはいえ、リーズが現ヴェストフェルト公爵家の当主であることに変わりはない。
実務は王家から派遣された者が握っているらしいのだが……それでもやはり、リーズこそが当主なのだ。
そしてどうやら今は悪魔側からの侵攻は止まっているらしいのだが、いつそれが再開されるとも限らず、今の兵達ではそれを凌げるとはとても思えない状態になってしまっている。
ベアトリスはそれを見てみぬフリなどは出来なかった、ということだ。
尚、アレンがそういった事情を知っているのは、現当主が世間話の体でちょくちょくとそういった話をしてくるからである。
少しならば手伝ったりしているということもあるが……ともあれ。
「まあそれでも、本当にいいのか、っていうのは僕も同意見ではあるんだけど。というか、考えてみたらベアトリスさんもよく行くことを許したよね?」
当たり前と言うべきか、アレンは当初一人で帝国へと行くつもりであった。
だがそれを告げると、リーズが自分も付いていくと言い出したのである。
そろそろ帝国側の様子を誰かが探らなければならないという話になっていたからちょうどよかった、などと本人は語っているが――
「むしろ自分が行くよりも余程安心だと言っていましたよ?」
「さて、信頼されていると考えて良いものかどうか……まあ、ベアトリスさんのことだからそれで良いんだろうけど、責任重大だなぁ」
それが事実であれ、別に理由があれ、少なくともアレンに拒否権はない。
厳密には拒否することは出来るが、リーズにならば一人で行くと言われてしまえばそれまでだからだ。
そしてアレンはそんな危険なまねを見過ごすことなど出来るわけがないのだから、実質的に拒否することなどできはしない、というわけである。
とはいえ、先に述べたように現在の帝国は戦争らしい戦争はしていない。
余計なことをしなければ直接的な危険はそれほどないと考えていいはずだ。
その分キナ臭さはあるものの……やばそうだったらその時点で引き返せばいいだけのことである。
それぞれに行く理由はあるわけだし、少なくとも実際の目で見もせずに何かを言うのは間違いだろう。
ちなみに、リーズの直後に自らも同行することを告げたノエルではあるが、こちらは帝国ではドワーフの姿もそれなりに見る事があるらしいから、というのがその理由らしい。
以前から行こうと思ってはいたのだが、その機会が中々来ず、ちょうどいい機会だと思ったから、とのことである。
要するに、鍛冶の腕を上げるためにその技術を盗めるようならば盗みに行く、というわけだ。
既に超一流の剣を打てるようになったノエルではあるが、聖剣と比べるとさすがにまだ見劣りしてしまう。
聖剣を超えるという目標はまだ健在であり、そのための努力を欠かすつもりはない、ということらしかった。
尚、ミレーヌはその付き添いというか、さすがに一人で残すわけにはいくまい、といった感じだ。
おそらく最も帝国に行く理由が薄いのはミレーヌだろう。
だが行く理由がなんだろうと、薄かろうと、行く理由があることに変わりはあるまい。
ともあれそういったわけでアレン達は揃って帝国に行くことになった、というわけであり……今こうして、馬車の上で揺すられている、というわけであった。
「ところで、そろそろかしら?」
「そうだね、多分そうじゃないかと思うけど……ミレーヌ、どう?」
言いながら、御者台の方へと視線を向ける。
御者は雇ったりしたわけではなく、出来る者で交代して行っており、今はミレーヌの番であったのだ。
そしてそんなミレーヌは、こちらの言葉にしばし前方を眺めた後で振り返ると、頷いた。
「……多分、もう少し?」
その言葉が正しいことは、すぐに明らかとなった。
それからそう時間も立たないうちに、前方に城壁が見えてきたからだ。
関所などではない。
王国側に位置している、帝国の誇る城塞都市の一つだ。
そう、アレン達は既に帝国の領土内へと足を踏み入れていたのである。
そうしてそこからさらにもう少しだけ時間をかけ、ようやくアレン達はそこへと辿り着いた。
あの街を後にしてから、実に一月強。
本当に、ようやくといった感じであり――
「――申し訳ないが、お引取り願おう」
そして、到着早々、アレン達は門前払いを食らったのであった。




