元英雄、驚きの目で見られる
目の前で起こった出来事に、ベアトリスは自分の今の状況を忘れるほどの驚愕を覚えていた。
アレンのレベルが1のままずっと変わる事がないということは、本人からも含め何度も耳にしたことだ。
最後に会ってから五年が経っているが、その程度で忘れるわけもなく、またレベルが上がったという話も聞いていない。
周囲は出来損ないなどと呼んではいたものの、立場としては公爵家の嫡男である。
もしも何かあったのならば伝え聞かないわけがなく、ならば今も1のまま変わっていないのだろう。
だが今ベアトリスが目にした光景は、到底レベル1で引き起こせるようなものではなかった。
何せ、ベアトリスですら何が起こったのか分からなかったのだ。
分かったのは、アレンに襲い掛かった『アレ』とアレンの死角から放たれていた攻撃が全てバラバラになっていたということだけであり、その様子からすればアレンが何かをやったのは間違いないだろう。
しかし、ベアトリスはこれでも、王国最強の一角とも呼ばれるレベル9だ。
攻撃こそ自信はないものの、防御に関してならば実際誰にも負ける気はしない。
そして防御において最も重要となるのは、目だ。
相手の攻撃が認識出来ないようでは防げるわけがなく……そんなベアトリスに捉えきれなかったのである。
有り得ることではなかった。
だが同時に、ベアトリスは頭のどこかで納得を覚えている自分がいることも自覚していた。
アレンならばこんなことが出来ても不思議ではないと、何となくそんなことも思っていたのだ。
ベアトリスがアレンと初めて会ったのは、今から十年ほど前のことである。
騎士団学校を出てから四年、同じだけの時間を騎士団の一員として過ごし、近衛として抜擢され、主を定めた直後のことだ。
それは確かどこぞの貴族の誕生日パーティーか何かに呼ばれたのだったと思う。
主役となるはずのその貴族よりも遥かに人に囲まれて目立っていた二人の姿をしっかりと覚えている。
当時神童と呼ばれていたアレンと、アレンとはまた別の意味で神童扱いを受けていた、ベアトリスが主と定めた少女であった。
二人が言葉を交わすようになったのは、ある種の必然なのだろう。
特別扱いをされる同い年の少年少女であり、しかも二人の家の家格は十分釣り合う。
本人達の心情的にも、大人達の都合的にも、そうならない理由こそがなかったのだ。
その時ベアトリスは護衛として同行しており、二人が言葉を交わしたその場所にも常に居合わせていた。
交わされたのはただの雑談で、互いに大変だねとか、そういったものだ。
しかしベアトリスはそんなアレンのことを眺め、正直なところ少し妙に感じていた。
変な意味ではなく、どことなく捉えづらかった、といったところか。
最も適切な言葉を探すのであれば、本当に子供なのかといった疑問だろう。
自らの主も歳の割には大分早熟ではあったが、それどころではなく、また大人っぽいなどという言葉で言い表せるようなものでもない。
とかく、妙、としか言いようはなかったのだ。
その後何度もアレンとは主と共に顔を合わせることになるが、その印象は薄まるどころかさらに濃くなっていく一方であった。
特に、神童と言われていたアレンの評価が徐々に落ち、出来損ないなどと呼ばれるようになった頃には、より明確に感じていたと言っていい。
アレンとは逆に主の評価は上がる一方であり、それでも顔を合わせていたのは大人達の勝手な都合によるものではあるが……そんな状況であれば普通はそれまでと同じように会う事は出来ないだろう。
こちらが悪いわけではないとはいえ、邪険にしたところで仕方ないと思ったに違いない。
だがそれでもアレンの態度は変わることがなかったのだ。
むしろこちらの方が不自然に気を使ってしまっていたぐらいである。
今から五年ほど前からアレンは公の場には現れなくなってしまったため、最後に会ったのは主である彼女の私的な誕生日パーティーの場であったが……最後までその印象が変わることはなかった。
そんな印象が今も強く残っているからか、自分が負けてしまった相手にアレンがあっさりと勝利を収めても、頭のどこかであのアレンならばそんなこともあるのだろうなと思ったのだ。
そしてベアトリスはアレンのそんな姿に安堵も覚えていた。
何故アレンがこんな場所にいるのかは分からないし、アレンが一体何をしたのかも分からない。
しかしレベルが1のままであろうことを考えれば、ギフトを使って何かをしたのだろうと考えるのが自然である。
ということはそれは余程強力なギフトなはずであり、ならばもう彼が冷遇されることはないはずだ。
基本的に顔を合わせていたのは主ではあったが、同じ場にいるとなれば自然とベアトリスも会話を交わすようになる。
アレンとは歳が倍近く離れているが、歳が離れた弟のようにも、友人のようにも思っていたのだ。
友人の生活環境が改善されたとなれば、それを喜び安心しないわけがあるまい。
それに、アレンならば主のことを任せることも出来る。
安堵の中には、そういう意味も含まれていた。
だからベアトリスは一つ息を吐き出し……身体から力を抜いた。
ここまでは何とか耐えていたものの、さすがに限界だったのだ。
受けた傷はそもそも致命傷であったし、血も流しすぎた。
もはや顔を持ち上げることすら億劫だ。
しかしベアトリスの心は、穏やかなままであった。
アレンには面倒をかけるとは思うが、心残りという意味ならばもう何もない。
そうしてベアトリスは、重くなっていく瞼に逆らわず、目を閉じ――
――理の権能:魔導・ヒーリングライト。
手をかざすと同時、ベアトリスの身体が光に包まれた。
特に光は下腹部に多く集まっており、その光景にアレンは安堵の息を吐き出す。
さすがに少しというか、大分焦ったが、この様子ならば大丈夫だろう。
この光は生命力を強化するものであるため、死んでしまった人や手遅れな人に使っても効果がない。
逆に言えばこうして光るのであれば助かるということだ。
しかしベアトリスの様子を見る限りでは、大分ギリギリだったというところだろう。
これでもかなり急いだのだが……まあ、ギリギリでも間に合ったのであれば問題はあるまい。
そんなことを考えている間に、見るからに光が弱まり始めた。
だが光が弱まるということは、健全になっていく証でもある。
むしろ全身が光っていたことの方がおかしいのであって、どれだけ危機的状況にあったのかという話だ。
光は最後まで下腹部周辺に残っていたが、やがてそれも消え失せる。
と、その瞬間ベアトリスが勢いよく跳ね起きた。
全身をペタペタと触り、特に下腹部を重点的に確認し、そこに傷跡すら残っていないことを理解すると、その顔に驚愕の表情を浮かべる。
そこにあったのは、先ほど以上の驚愕であり……そしてその理由はおそらく、傷が治ったということそのものだ。
何故ならば――
「馬鹿な……魔術であろうと魔法であろうとギフトであろうと、傷を癒すことの出来る力などというものは、存在しないはずだ」
それは事実だ。
この世界には魔術も魔法もあるが、傷を癒すための術式というものは存在していない。
負った傷を癒すには、基本的に自然治癒に任せるしかないのだ。
ただ一つの例外が、錬金術師の作り出すポーションである。
ポーションと呼ばれる薬液を飲むことで、四肢の欠損の再生などは不可能ではあるが、重症程度ならば即座の回復が可能だ。
しかしポーションを作り出すには相応の時間と対価が必要である。
しかも錬金術師になるには専用のギフトが必要であるため、絶対数が少ない。
必然的にポーションは非常に高価な代物となってしまい、アレンですら実物は数えるほどしか見た事がないほどであった。
それ以外のギフトでは、どんなものであろうとも傷を癒す手段はなく、直接癒す力などというものは存在自体が有り得ない――ということになっている。
だが近年王国の中では、一つの噂が流れていた。
それは貧しき者の家へと赴き、傷や病を手をかざしただけで治してしまうという、『聖女』と呼ばれる者の話だ。
出没する場所は王都ではなく王都より離れた寒村が多いという話だが、その正体は不明である。
聖女に救われたという話は聞くのだが、肝心の聖女の正体になると誰も語ろうとしないからだ。
分かっているのは女だということであり、だから幼い少女だとも、妙齢の美女だとも、あるいは腰の折れ曲がった老女だとも言われている。
そして王国は今その聖女を探そうとやっきになっているという話だ。
まあ人の傷を癒す力などないと言われている中で唐突に現れた存在である。
どれだけ有用なのかは言うまでもないだろうし、そうなるのはある意味当然だ。
ちなみに当たり前だが、それはアレンのことではない。
アレンが人の傷を癒すことが出来るのも、単に前世の世界では普通に魔法とかで出来たことだったから、というだけであるし……とはいえ、聖女と同じことが出来るということは事実でもある。
そんなアレンに、ベアトリスは困惑と疑惑の混じった顔を向けてきていた。
アレンを聖女だと疑っている――というわけではないだろう。
噂とは性別が違う、という以前の問題だ。
聖女が最初に現れたのは、三年ほど前と言われている。
その力がギフトによるものならば、先日成人を迎えたばかりのアレンにそんなことが出来るわけがないのだ。
もちろんアレンの力はギフトではないので、三年前だろうとやろうと思えば出来ただろうが、普通は前世の記憶を持っていてさらには前世の力まで持ち越してきているなどと考えることはできまい。
それに、ベアトリスがアレンのことを聖女だと疑わないだろう理由は、もう一つある。
こっちに関しては正直未だ推測の域を出てはいないのだが――
「――ところで、助けに行かなくていいの? 多分あそこに乗ってるのは『彼女』なんでしょ?」
「――っ!?」
しかし、そういったことは一先ず脇に置き、肩をすくめながらそう言った瞬間であった。
脇目も振らず、ベアトリスは横転している馬車へと向けて走っていったのだ。
とはいえそれも当然だろう。
アレンの予想通りであれば、あそこにいるのはベアトリスの主だ。
主の安全を確保するのは騎士が真っ先にやらねばならないことであり、その前には些細な疑問などは後回しにされて当然なのである。
「……ま、ベアトリスさん以外の人は多分些細だとは思わないだろうけど」
だが何よりも主を優先するからこそ、アレンは彼女のことを信頼しているのだ。
会うのは五年ぶりとなるが、変わっていないようで本当に何よりである。
そんなことを思いながら、アレンもまたゆっくりと馬車へと向かう。
横転した馬車のすぐ傍ではベアトリスが何かを叫びながら慌てている様子だったが、おそらくは横転した際の衝撃で扉が変にひしゃげて開かないのだろう。
どうにか出来ないか周囲を見て回っているようだが――
「あ、壊した」
どうやら力ずくで解決することにしたらしい。
吹き飛ばされた扉を気にする様子もなく、ベアトリスが馬車の中へと手を差し伸べた。
そうして中から姿を見せたのは、一人の少女だ。
日の光に照らされた銀の髪にアレンは眩しそうに目を細め、直後に少女の顔がこちらに向いた。
瞬間金色の瞳が見開かれ、アレンは肩をすくめてみせる。
予想通りと言うべきか、顔見知りであった。
「や、リーズ。久しぶり」
「……アレン君、なんですか……?」
リーズ・アドアステラ。
アドアステラ王国第一王女にして、アレンの元婚約者であった。