噂と不穏
――アドアステラ王国王都、カルディア。
この国の中でも最も栄えているその場所は、今日もまた賑わいに包まれていた。
人々のざわめきが満ち……だが、そこにはいつもとは少し違う、一種の異様さのようなものが含まれてもいる。
その理由は明らかだ。
街中を少しでも歩けば、そこかしこでその原因となるものが囁かれている。
「おい、あの話聞いたか?」
「ああ。国が俺達を……って話だろ? 本当なんかねえ……」
「おいおい、将軍様の言葉を疑うのかよ?」
「そういうわけじゃねえけどよ……分かるだろ?」
「まあな。まさか俺達が騙されてたなんて、考えたくもないさ。だけどよ」
「まあ、本当にそうなんだとしたら……俺達はどうすりゃいいんだろうなぁ」
それは友人達の雑談の一部であったり、商人達の商談の一部であったり、あるいは恋人達の語らいの一部であったりするが、その話をしている者達の多くが抱いている感情は共通している。
不安と恐怖。
それこそが、街の空気をいつもと異なるものにしている原因だ。
そしてそんなものを前にして、その男は大きな溜息を一つ吐き出した。
白髪の目立ち始めた髪に、これまた目立ち始めた顔の皺。
一目で相応に歳を取っていることが理解出来るが、その精悍で鋭い目つきからは衰えをまるで感じさせない。
武人であることは、纏っている鎧からも分かる通りだ。
しかしそんなものがなくともそうだと分かるだろうと思える程度には、その身体からは覇気とでもいうようなものが溢れている。
エドワード・ゴートゥゴード。
アドアステラ王国第一騎士団騎士団長。
王国最強とも名高い男であった。
そんな男が今いるのは、王城にある自らの居室だ。
騎士団長ともあれば、剣を振ってだけいればいいというわけにはいかず、こうして執務用の部屋が与えられているのである。
今もまさにその一環として、とある報告を副官から受けていたのだが――
「……街は相変わらず……いや、昨日よりもさらに悪化している、か」
「はい。噂はもう街全体に広がっていると考えてしまって問題ないでしょう。しかし、発信元が発信元ですから、ある程度は仕方がないとは思いますが……さすがにこれは。いくら何でも伝播する速度が早すぎるかと思います」
「誰かが敢えて広めている、ということか」
「ほぼ間違いないかと」
その意見に異論はなかった。
というか、そうでもなければ有り得まい。
王都は決して狭い場所ではなく、また人の流動もかなりのものだ。
だというのに、たった一日で街のそこかしこで同じ話が話題に出るようになるなど、意図的にそうしなければ起こるようなことではなかった。
「扇動者はどうだ?」
「申し訳ありませんが、見つかっていません。現状を考えるに、相当数がいると思われるのですが……」
「ふむ……手際の良さといい、やはり組織的な動きをしていると考えるべきか。それも、かなりの規模だな」
「……どこかの国が、ということでしょうか?」
「さてな……所詮俺は腕っ節だけでここまで上がってきた男だ。ただの勘でしかないし、当てになどならんよ」
「ご謙遜を。あなた様が本当に腕だけでここにまで来れたのだというのであれば、この国はとうに他国に攻め入られていましょう。いえ、それどころか、滅んでしまっていても不思議はありません」
「さすがにそれは褒めすぎだ」
この副官、書類仕事等をする上で大分助かっているし、その他のことを任せるにしても優秀で助かっているのだが、こういう無駄に自分を持ち上げようとするところがいただけない。
憧れるような目を向けてくれるのはありがたいのだが、どうにも対応に困ってしまうのだ。
苦笑を浮かべながら、エドワードはとりあえず話を変えることにした。
「では、将軍の方はどうなっている?」
「申し訳ありませんが、そちらも目下捜索中です」
「そうか……まあ、俺達がその話を耳にした時には、既に身を隠していたようだからな。仕方のないことだろうが……そもそもの話、本当に本物だったのか?」
「信じられない気持ちは理解出来ますが、多くの街の者が見かけております。その全てを欺いたと考えるよりは、本物だと考えた方がよろしいかと。……正直に申しませば、私も信じたくはないのですが」
目を伏せてそう告げる副官は心底そう思っているようであったが……エドワードは、それと悟られないように小さく息を吐き出す。
おそらくは、副官の思っていることと自分の思っていることは違っているからだ。
副官は単純に、将軍が裏切ったなど信じられない、と言いたいのだろう。
今回の噂は、将軍だと思われる人物が発端だ。
将軍がふらりと街の酒場などに現れては、こう告げたのだという。
――この国は皆のことを騙している。
――何のことについてかはまだ話せないが、その証拠もあり、近日中にそれは明らかになるだろう、と。
他の誰かが言ったのであればただの与太話で済むが、何せ相手が相手だ。
この国の最重要人物の一人であり、その影響力は下手な貴族など比べ物にならないほどに高い。
無視など出来るわけがなかった。
だがその内容が事実であれ嘘であれ、明らかにそれはこの国を害する行為だ。
現状も合わせて考えれば、将軍が裏切って別の国についた、と考えるのが確かに自然ではあるのだろう。
しかしエドワードが考えていることはそれとはまた別のことであり、もっと根本的なところだ。
正直なところ、エドワードは将軍がとうに死んでいると考えていたからである。
何せ将軍ほどの人物が、ここ数ヶ月の間まったく姿を見せていなかったのだ。
彼はそのギフトから将軍などと呼ばれてはいるものの、実際の肩書きは第二騎士団の騎士団長である。
少なくとも自分と同程度にはやらなければならないことがあるはずであり、何よりも彼は国防の要だ。
いつまでも顔を見せないことなど、有り得るわけがない。
一応エドワードは、体調が思わしくないため床に伏している、という話を耳にはしていたが……一月程度ならばまだしも、いくら何でも長すぎた。
だからこそ、本当は将軍はとうに死んでしまっており、その事実を隠しているのだとばかり思っていたのだが――
「……いや、もしかしたら違うのか? あるいは……」
「……団長?」
「ん……ああいや、ただの独り言だ。気にするな」
「はぁ……」
もしや、死んだのではなく、裏切って姿をくらませたからだったのか?ということをふと思ったものの、考えすぎだろうと思い直す。
というか、普通に考えればやはり偽者である可能性の方が高い。
将軍がどれだけこの国のことを思っているのかを、エドワードはよく知っていたからだ。
「まあ、いい。話は分かった」
言いながら、エドワードはゆっくりと立ち上がった。
唐突な動きに副官は目を数度瞬かせるが、すぐにエドワードの意図に気付いたのだろう。
慌てたように尋ねてくる。
「と、突然立ち上がって、どうされたのですか? 団長にはまだやっていただくことが――」
「やること? 国家存亡の危機に立ち向かうこと以上に俺にやることなどないと思うが?」
「国家存亡の、危機……?」
予想外の言葉だったのか、目を白黒させる副官に、エドワードは真面目な顔で口を開く。
「将軍が裏切ったかもしれないのだろう? ならば、やつに対抗出来るのは、今の王都では俺ぐらいのものだと思うが?」
「――っ!? それは……確かに」
考えていなかったのか、もしくは考えたくもなかったのか、副官ははっとした表情を見せた。
将軍が裏切るということは、敵の雑兵が突然一流の兵に変わってしまうということと同義である。
対応が遅れれば即座に致命傷になりかねない。
ただ、それがあるからこそ、エドワードは余計に将軍が裏切ったとは考えていないのだ。
そんなことがあったのならば、せめて自分達には知らせなければ、いざという時にはどうしようもないからである。
「まあそれに、本気のやつとはついぞ戦ったことがなかったからな。これは本当の王国最強を決める良い機会だ」
そう言ってにやりと口の端を吊り上げてやれば、副官はどこかホッとしたような顔をした。
エドワードがいればきっと大丈夫だと、そう思ったのだろう。
そんなことを思わせるのもまた、エドワードの役目の一つであった。
正直なところそういったことは得意ではないのだが……仕方があるまい。
力を持つ者には相応の責務がある。
どれだけ嫌がったところで、投げ出すことは出来はしないのだ。
ともあれ、エドワードはそのまま捜索隊に参加するため、部屋の外へと歩き出す。
考えるべきことは多いが……結局のところ、エドワードがやることは一つだけだ。
敵を斬る。
それだけは、どんな地位にいようとも変わらないことであった。
ふと、窓から差し込んできた光に、目を細める。
やることに変わりはない。
それは事実だ。
だが同時に、エドワードは妙な胸騒ぎを覚えてもいた。
しかもそれは、先ほどの話を聞いたからではない。
もっと以前から……昨日、将軍が街に現れたということを聞いてから、感じ続けていることだ。
とはいえ、騎士団の皆は優秀である。
たとえ本当に将軍が裏切っていたところで、すぐにどうなるとも思えない。
それに、先に述べたように、エドワードが出さえすれば将軍とその兵達は抑えておけるのだ。
何を心配する必要もない……はずである。
しかしいくら自分に言い聞かせたところで、嫌な予感は一向に拭いきれない。
だがそれを否定するように……何かあったとしても自分が何とかしてみせると自らを鼓舞するように、エドワードは力強い足取りで部屋を後にするのであった。




