元英雄、英雄の力を振るう
地面に倒れ伏している見知った姿の人物に、アレンは思わず首を傾げていた。
彼女はこんなところにいるはずのない人物だったからである。
彼女――ベアトリスは近衛騎士であり、王族の一人に仕えている人物だ。
そしてその王族はこんな場所に来るはずがないため、ベアトリスもまたこんなところにいるはずがないのだが――
「……アレン、様? 何故こんなところに……?」
「いや、それはどっちかっていうと僕側の台詞なんだけど……あと、以前にも言ったけど、僕を様付けで呼ぶ必要はないよ? そもそも以前とは違って僕は完全にそういう立場でもなくなったしね」
「……? それは、どういう――っ」
「っと、色々と聞きたいことはあるし、言いたいこともあるけど、今はそれどころじゃなさそうかな? ……二重の意味で」
倒れ伏していてもベアトリスの腹部から血が流れていることはよく分かるし、先ほど蹴り飛ばした狼のような何かも健在のようだ。
どちらも放っておくわけにはいくまい。
とはいえ、同時に対処出来るほど両方とも楽なことではなさそうだ。
この場合どちらを優先すべきかと言えば、やはりベアトリスの方ではあるのだが――
「んー……ベアトリスさん、何とかもう少しだけ死ぬの我慢出来る? 可能ならあと数分ぐらい頑張ってくれると嬉しいんだけど」
「……ふっ、この状況で私にかける言葉がそれか。貴殿は相変わらずのようだな……」
敢えて軽い言葉を使ってはみたものの、それで笑みを返してくるあたりベアトリスも相変わらずのようだ。
さすがは『彼女』の護衛を任されるだけはあるといったところか。
「……まあ、正直かなり厳しいが、あと数分程度ならば耐えてみせよう。だが……大丈夫なのか?」
その大丈夫かという言葉には色々な意味が込められていたのだろう。
ベアトリスはアレンが出来損ないと呼ばれていることも、そう呼ばれている理由も知っている。
対してベアトリスは王国最強の一角であるレベル9だ。
本人は上には上がいると言ってはばからないし、実際攻撃においてはその通りではあるが、その分守ることに関してならば王国で一、二位を争うほどだと聞いている。
そんなベアトリスが呆気なくやられてしまったのだ。
先ほどベアトリスがやられた場面はアレンも目にしていたので、それが不意打ちのせいだということは分かっているものの、相手が並ならばそのまま防げたに違いない。
つまりは、『アレ』は並の相手ではないということである。
そしてベアトリスはアレンの事情を知りながらも普通に接してくれる数少ない一人ではあるが、それでもアレンのレベルが1なのは事実だ。
ならば心配するのは当然であり……だがアレンはただ肩をすくめてみせる。
それから返答代わりとばかりに、無造作に足を踏み出した。
続く言葉がなかったのはこちらに対しての信頼故か、あるいは単純にその余裕がないのか。
確かめなかったのは、その時間すらも惜しかったからである。
繰り返すことになるが、ベアトリスはアレンの事情を知りながらも普通に接してくれる数少ない人物の一人なのだ。
亡くすには惜しすぎるし、何よりもそれは『彼女』が悲しむ。
それはアレンの望むところではなかった。
そんなことを考えながら前方を眺めれば、彼我の距離は十メートルといったところであった。
先ほどの動きを見る限りでは『アレ』なら一瞬で距離を詰められそうなものだが、動きもしないのはこちらの様子を窺っているからか。
しかしそれに付き合う義理はなく、構わずアレンは歩を進める。
だが時間がないからといって……否、だからこそ、情報収集は大切だ。
一切の油断もなく一瞬で終わらせるために、アレンはそれを『視た』。
――全知の権能:天の瞳。
瞬間視界に映し出されるのは、狼の形状をしたそれの全情報だ。
現在の体長に体重、正式な名称に愛称に製作者、レベルにステータスに攻撃手段に弱点、他にも様々な情報が得られたが、必要のないものは破棄する。
そうして全てを把握し――それが飛び掛ってきたのは、直後のことであった。
おそらくは視られたことに気付いたのだろうが、生憎と遅すぎる。
それの正式名称が魔導生命体クレイウルフだということも、ゴーレムに似た性質を持っているということも既に分かっているのだ。
弱点もゴーレムと同じであり、体内のどこかにある核を砕けば自壊する。
その場所もまた把握しているし、この状況で最も面倒だったのは即座に逃走に移られた場合であった。
しかし向こうから向かってきてくれた以上はそれを考える必要はなく――
「っ……アレン様……!」
と、後方から聞こえた声に、アレンは苦笑を浮かべた。
だから様付けはいらないと言っているのに。
口調だけは何とかなったのに、呼び方だけは頑なに変えようとしないところは本当に頑固だ。
まあそれはともかくとして……ベアトリスが声を張り上げた理由は分かっていた。
それは、警告である。
後方の死角となっている地面から、鋭く尖った槍のようなものがアレンに向かって勢いよく伸びているのだ。
アレンはそれが見えているわけではない。
ただ、予測出来ていたというだけであった。
先ほど馬がそれに刺し貫かれていたのを目にしたし、何よりもアレンは『それ』がどういう攻撃をすることが可能かということを知っているのだ。
地面に対し干渉することで土を操作しそういったことが可能だということが分かっているのであれば、予測出来ないわけがなかった。
だがそれはつまり、飛び掛ってきたのは半ば罠だということである。
そちらに注視すれば死角から貫かれ、かといってそっちに気付いてもタイミング的には両方に対処するのは厳しい。
先ほどの馬車への攻撃もそうだが、割と頭を使うタイプであるようだ。
――もっとも。
「ま、意味はないわけだけど」
――剣の権能:百花繚乱。
秒を待たずに煌いたのは、百の剣閃。
眼前のクレイウルフも、死角から迫っていた土の槍も、その影に隠れて迫っていた第二の槍も、瞬きをする間もなく諸共両断した。
「……っ!?」
瞬間、後方から驚愕の気配が伝わり、再び苦笑を浮かべる。
まあ、彼女達に見せたことはなかったので、驚くのは当然だろうが。
アレンのレベルは確かに1のままである。
ギフトも手に入れることは出来なかった。
だが。
アレンが前世から引き継いだのは、実は記憶だけではないのである。
そう、アレンは前世の頃の――英雄と呼ばれていた頃の力を使えるのであった。
今使った技も、土くれとなったそれを『視た』のも、そのうちの一つである。
それは今まで誰にも話さず、見せたこともないものであったが、それはアレンが望んでいたのが平穏な生活だったからだ。
教えてしまったら明らかに状況が悪化する未来しか見えないものを、何故教えなければならないのかという話である。
しかし追放された以上はもう誰の目もはばかる必要はないし、今は間違いなく使うべき場面でもあった。
だから使うのを躊躇する事がなかったという、それだけのことである。
アレンは確かにレベルが上がらず、ギフトすらも授かることはなかった。
だがそれでもアレンには、その全てを覆すことの出来る力があるのだ。
もっともアレンがその力を振るうのは、自分の目指す平穏な暮らしのためだけではあるが……故に、アレンは今も死の淵にいるベアトリスの元へと急ぎ戻るのであった。