襲撃
こんなことになるとは思ってもいなかった、などと言ってしまえば、それは嘘になるだろう。
少なくとも、可能性の話であれば十分に予見できたことだ。
しかしそれでもやはり、どうしてこんなことに、と言わざるを得なかった。
襲撃されることは予想出来ても、同行してくれていた騎士が三人ともまとめてやられてしまうなど、予測出来るわけがないのだ。
だがそのことを悔いることは出来なかった。
彼女にはその権利がない。
こうしてここまで来てしまった以上は、後悔する事など許されてはいないのだ。
彼女に許されているのは、今回の件を無事に成功させるために必要な事柄だけであり、それは彼女の役目で、果たさねばならない義務でもあった。
「――っ」
と、足元からの衝撃により、身体が軽く跳ねた。
思わず反射的に外の景色へと視線を向けてしまうが、そこには先ほどから変わらない平原が広がっているだけだ。
おそらくは石か何かを踏んでしまったのだろう。
しかしそれでも速度が緩む気配がないのは、そうしなければならないからだ。
先ほどから随分と足元が激しく揺れているのも同じであり、今は急がなければ追いつかれてしまうからである。
そんなことは、ここで縮こまっていることしか出来ない彼女でも分かっていることであった。
状況が悪いのだろうことは、言われるまでもなく分かっている。
今も必死でこの馬車を走らせている自分の護衛騎士が何も言わないのは、その余裕がないからでもあるのだろうが、どちらかと言えば自分を不安にさせないためだろう。
とはいえ、何も言わない時点で状況が悪いと暗に語っているようなものだが……それでも口にしない方がいいほどに状況は悪いに違いない。
だがそれが分かったところで、彼女に出来ることは何もなかった。
助けを叫んだところで、こんな場所では誰も助けになど来てくれはしないだろう。
……いや、あるいはここでなかったとしても、それは変わらなかったのかもしれない。
今の状況は命の危機であり、助けに来るとなればその人にも同様の危険性がある。
それでも助けてくれるような心当たりなど、今も必死になってくれている護衛騎士以外には存在しなかった。
だから、たとえここが王都であろうと、他のどこであろうとも、結局は――
「……いえ、もしかしたら、彼ならば――」
そこまでを考えて、しかし彼女は口元に自嘲の笑みを浮かべた。
それはあまりにも都合がよすぎる考えだったからだ。
彼がこんな場所にいるわけがない、ということもそうだが――
「……あの時何も出来なかったわたしが、彼に助けてもらえるわけがありませんものね」
後悔と自嘲を混ぜたような、そんな呟きを零しながら、リーズ・アドアステラは自らの腕を強く握り締めたのであった。
必死に馬車を駆りながら、ベアトリス・アレリードは思わず舌打ちを漏らしていた。
このままでは馬を潰してしまうだろうということと、そこまでしても迫ってきている相手を振り切れないということにだ。
むしろ少しずつ差は縮まってきており、このままではそう遠くないうちに追いつかれてしまうだろう。
「っ……こうなったら私が出るしかないか……? いや、だが……」
後方へと視線を向け、その姿を確認すると共に唇を噛む。
どう想像を巡らせてみたところで、自分がアレに勝てるイメージは微塵も湧かなかった。
『それ』は、狼のような形をした何かであった。
狼だと断定しないのも、魔物だと言わないのにも理由がある。
そのどちらでもないことは分かっているからだ。
そもそも勝てるイメージが湧かないのも、一度ベアトリス達は『それ』と刃を交えているからである。
厳密にはベアトリスは戦ってはいないのだが……同行していたベアトリスの同僚の騎士達が既に挑み、敗れているのだ。
ベアトリスよりも強い、王国の中でも上位の力を誇っていた三人がまとめて、である。
彼らに戦力で劣るベアトリスが勝てるイメージが湧かないのは当たり前のことであった。
というか、元々今回ベアトリスが同行したのは、戦うためではないのだ。
ギフトのこともあり、ベアトリスは守ることの方が向いているからである。
――『騎士』。
ベアトリスのギフトであり、守備側に寄った身体能力強化系のギフトだ。
ただしその本質は契約と盟約にあり、主を定めた時にこそ初めてその真価を発揮する。
主を定めていない時にはステータスの器用さと体力の値に対して一割程度の増加しかもたらさないが、主を定めることで増加率は二割にまで増加するのだ。
さらには主の危機に応じてその倍率は高まり、命の危機にある時には実に二倍にまで達する。
もちろんそんなことはない方がいいに決まっているのだが、万が一のことを考えればこれほど有用なものはあるまい。
ベアトリスが今回同行したのも、その万が一のためであった。
あくまでもベアトリスは基本的には盾としての役目が主であり、剣としての役目は同行した他の三人のものであったのだ。
しかしその剣達が失われてしまった以上は、最早そんなことは言っていられない。
ベアトリスが何とかするしかなく……だがそこで先ほどの問題にぶち当たる。
このまま戦いを挑んだところで、犬死する未来しか見えなかった。
別にこの際死んでしまうこと自体は恐ろしくも何ともない。
しかしこうして主を危険に晒した挙句、役目もろくに果たせずに死んでしまうことだけが恐ろしかった。
あるいは、主と共に挑みギフトの効果を最大限に発揮することが出来るのならば、ほんの少しだけ勝ち目があるのかもしれない。
だがそれは主に仕える騎士の考えではないだろう。
そんなことをするぐらいならば潔く死を迎える。
とはいえ、そうすればベアトリスは満足するかもしれないが、それは本当にベアトリスが満足する以外の意味はない。
主と一緒に自殺することと一体何の違いがあるというのか。
となれば――
「残る手段は一つだけ、か」
呟くと共に、後ろを振り返る。
後方の様子を確認していると見せかけて、一瞬だけ主の姿を確認した。
馬車の中で小さくなっているその姿は、歳相応の少女のものにしか見えない。
まだ成人を迎えたばかりであることを考えれば、それが当然なのだ。
しかもおそらくは、何か余計なことを考えてしまっているに違いない。
ベアトリスが彼女に仕えてから、もう十年だ。
その程度のことが分からないわけがない。
そしてだからこそ、ベアトリスは覚悟を決めた。
主の為に命を捨てる覚悟は、主を定めたその時に終わらせている。
ゆえに今した覚悟は、これから主を自らの手で不確定な未来へと突き落としてしまうことに対してのものだ。
ここを生き延びても、一人きりとなってしまった彼女がその後も無事でいられるとは限らない。
その後であっさり死んでしまう可能性だってある。
だがベアトリスは、主である彼女を信じていた。
縮こまって余計なことを考えてしまっていても、その瞳の中に強い光が宿っていることを知っている。
だからきっと、大丈夫だ。
覚悟を決めきった身体に、自然と力が入る。
そしてそうと決めてしまえば、後は早かった。
激走する馬の手綱から手を離し、立ち上がる。
そのまま御者台の外へと、身を躍らせた。
「――っ!?」
一瞬、真横を通り過ぎていった馬車から主の驚いたような顔が見えたが、彼女のことだからすぐにこちらの意図は察してくれるだろう。
これ以外に方法はない、ということも。
手綱を放したからといって、馬が止まるということはない。
これまでと同じような激走は続かず、それどころか方向すらもろくに定まらないだろうが、幸いにしてここは平原が続いている。
馬を駆る技能のない主でも、遠くに移動するだけのことならば可能だろう。
ただしその先がどうなるかは分からないが、それに関してはもう信じると決めた後である。
そうしてベアトリスが地面に降り立ったのと、『それ』が追いついてきたのはほぼ同時であった。
ベアトリスが考えた作戦は、単純にして明快。
このまま主が逃げ切るまで持ちこたえるというだけだ。
主がこの場におらずとも、ベアトリスが防御方面に秀でていることは変わらない。
本当に逃げ切るまで持ちこたえる事が出来ると思っているわけではないが、最低でも瞬殺されるということはないはずだ。
僅かにでも時間を稼ぎ、少しでも主の生き残る可能性が上がるのであればそれで十分である。
そんなことを考えながら、ベアトリスは左手の盾を前面に構え、剣を持った右手を引く。
防御主体に構えつつ、油断なくその姿を見据えた。
その形状はやはり、狼のものだ。
ただしこうして改めて眺めてみるとよく分かるが、同時に狼そのものでも有り得ない。
明らかに生物ではないからだ。
精巧に作られてはいるが、おそらくその身体は土で作られている。
ゴーレムの一種といったところだろう。
もっともそれ自体は最初から分かっていたことだ。
最初に遭遇し戦闘になった際、同僚の一人がその身体を斬り裂いていたからである。
確実に首を落とし、だが直後に元通りとなったのだ。
明らかに生物に可能なことではなく、斬り裂いた同僚は一瞬だけ気を抜いたところを狙われ、お返しとばかりに首を噛み千切られた。
残りの二人がどうやられたのかを、実のところベアトリスは知らない。
その時点で主を馬車に押し込み、自身は御者台へと乗り込むと、そのまま走り去ったからである。
本能的にまずいと悟ったからであり、それが正しかったことは現状の示す通りだ。
ベアトリスが相手の出方を見ているのは、それが理由でもあった。
どういう動きをしてどういう攻撃をするのかが分かっていないのだ。
時間を稼ぐという意味も兼ねて、まずは様子を見るのは当然のことだろう。
何せ一人やられた時点で残りの二人は油断など微塵もしていなかったはずなのだ。
それなのにやられてしまったということは、相応の力を有しているということであり――
「……?」
だがそこでベアトリスの脳裏に疑問が過ったのは、相手もまた様子を見ているのを怪訝に思ったからであった。
少なくともあの時この相手は、即座にこちらに襲い掛かってきたはずだ。
あの場に残った二人があの後この相手に脅威を感じさせるほどの力を示したというのであれば、それを基準としてこちらの様子を伺う事があってもおかしくないのかもしれないが……それでもやはり、少し不自然に思う。
そもそも、ベアトリスはゴーレムに関してそれほど知っているわけではないが、基本的な知識ぐらいはある。
作成するには錬金術系のギフトが必須であり、作成する際の素材によって色々とランク分けがなされている、ということだったはずだが……しかしどんなものであれ、ゴーレムとは単純な命令しか聞くことは出来ないはずなのだ。
だというのに、この相手は自律行動しているようにか見えない。
となると、ゴーレムに似た何かということになるが……いや、それはどうでもいいことか。
問題なのは、何故様子を見ているのかということであり――
「……っ!?」
瞬間ベアトリスが背後を振り返ったのは、耳に悲鳴のようなものが届いたからであった。
だがそれは、人のものではない。
馬のものであり――見間違えでなければ、視線の先、大分離れた場所にまで移動した馬車に繋がられている二頭の馬が、地面から伸びてきている何かに貫かれ悶えていた。
そしてその動きによって、馬車がゆっくりと横向きに倒れていく。
その光景をベアトリスは一体何がという思いと共に眺め――同時に、盾を握る腕に力を込めていた。
直後に腕へと伝わった衝撃に、やはりかと思う。
方法は分からないが、アレもきっとこの相手がやったのだろうと思い……ずきりと、腕から感じた痛みに思考が吹き飛んだ。
「……は?」
反射的に盾を構えた腕に視線を向ければ、そこにはあるはずのものがなかった。
構えていたはずの盾が消失――否、切り裂かれて地面へと落下しており――
「……馬鹿な、ミスリル製の盾だぞ……?」
主を守るために、国王から授かった品だ。
それがこんなにあっさりと切り裂かれるわけがなく……そしてその呆然とした一瞬は、致命的な隙であった。
身体の一部が失われる感覚と共に、足から力が抜けその場に倒れこむ。
「が、はっ……!」
倒れてしまったため見えないが、おそらくは下腹部の三分の一程度が食い千切られた。
間違いなく致命傷であり、何よりもまずいのが痛みを感じないということだ。
それは既に身体が生きることを放棄してしまった証左に他ならない。
しかしそれでも、ベアトリスは諦めなかった。
諦めるわけにはいかなかった。
これでは本当にただの犬死にだ。
せめて一矢でも報いて少しでも時間を稼がなければ死んでも死にきれ――
「――っ」
必死になって上げた視界に映ったのは、それが前足を振り上げた瞬間であった。
ミスリル製の盾をも切り裂いた爪が、無慈悲に振り下ろされる。
迫り来る死を、ベアトリスはただ呆然と眺めることしか出来ず――だが、死が訪れることはなかった。
その直前で、死をもたらす存在が吹き飛ばされたからだ。
そして。
「――あれ、ベアトリスさん?」
それを疑問に思うよりも先に、この場にいるはずのない、聞き覚えのある声が耳に届いた。