二つの終わり
「ば、馬鹿、な……フェンリルが、一撃で、だと……? そんな、こと――っ!」
物言わぬ屍と化したフェンリルに、男は数瞬呆然とした視線を向けていたが、その後の行動は早かった。
手に持っていた剣をこちらに向かって投げると、そのまま即座に逃亡を選んだのだ。
投げられた剣は未だ動けないノエルを正確に狙っていたが、アレンが軽く打ち払ったことで難なく無効化される。
だが男に視線を戻した時には、その姿は、夜の闇に紛れるように消え失せていた。
「っ……あの男、がっ……!」
「うん、良い判断だね。勝ち目がないと悟るやそれで姿を消しての全力逃走。基本ではあるけど、さっきまで余裕ぶってたからね。そこからの転身は見事だって言って構わないんじゃないかな?」
「って、アレン、貴方ならあの男の姿見えるんでしょう……!? なら……!」
「まあ、追おうと思えば出来るけど、それよりも先にやることあるしね。ノエルの治療とかもそうだし」
命に関わらないというだけで、治療しないでいいような傷ではないのだ。
なのに今まで治療しなかったのは、あくまでもその余裕がなかったからである。
余裕そうに見せてはいたものの、実際にはそこまでの余裕はなかったのだ。
そして今となっては、逆にノエル治療以上に優先すべきことはない。
「っ……あたしは大丈夫よ。さっきは確かにこのまま死ぬかもしれないとは思っていたけれど、さすがに冷静になれば自分の状況は分かるわ。確かに治療は必要だけれど、あたしが最優先ではないでしょう? それよりも、あの娘達を……!」
「いや、だからそっちは大丈夫だって。それは別にブラフじゃないから」
だが何の心配もいらないと言えるわけではもちろんない。
それもまた確かにやることの一つではあり、しかし今はそれよりもノエルの方が優先というだけだ。
「会ってそれほどの時間が経ってはいないとはいえ、僕はノエルのこともう友人だと思ってるしね。友人をこんなとこに一人放ってはいけないよ。それに……そんなことしたと知られたら、多分リーズに怒られるしね」
「それはっ……」
その光景がありありと想像できたのだろう。
それ以上先の言葉を口にすることの出来なかったノエルに、肩をすくめる。
「ま、心配なのは分かるけど、なら大人しく治療受けて欲しいかな? その方が結果的に早く向かえるだろうしね」
「……分かったわよ。けれど、治療ってどうするのかしら? ポーションとか持っているわけではないのでしょう?」
「ん? 別にそんなの必要ないけど?」
――理の権能:魔導・ヒーリングライト。
「っ……これは……?」
淡い光が自身の身体を包み込む光景を、ノエルは目を見開きながら眺めていた。
しかしリーズの治療で慣れているからか、傷が癒されていっている、ということにはすぐに気付いたようであり――
「……薄々気付いてはいたけれど、貴方かなりのでたらめよね」
「さて……そこそこ色々出来る方ではあるかな? ぐらいには思ってるけどね」
「どの口でそんなことを言うのだか……」
呆れたような視線を向けてくるノエルに再度肩をすくめ、治療を続けていく。
このままであればそう時間はかからずに治療は終わり、そのままあの二人のところへと向かうことが出来るだろう。
だが大丈夫だとは思っていながらも、やはり気にはなり……ふと、ノエルと目があった。
そこには焦燥と心配とがあり、どうやらアレンと似たようなことを考えていたらしい。
そのことにノエルも気付いたのか、その口元に苦笑が浮かぶ。
「心配ならあたしのことは放っておいて行ってもいいのよ?」
その言葉にアレンも苦笑を浮かべながら、三度肩をすくめるのであった。
目的の場所には、あっさりと到着する事が出来た。
とはいえ、そう驚くようなことでもない。
場所は既にあの男が調べていたし、何よりも今は夜だ。
さらにはこの力があるとなれば、到着出来ないわけがないのである。
ともあれそんなわけで、その宿の前へとやってきた少女は、何の感慨も覚えることなく先へと進む。
夜ということもあり当然宿の扉は閉まっているものの、少女はそれを気にした様子もない。
構わず足を進め――そのまま、扉を通り抜けると宿の中へと入って行った。
さすがに中は薄暗く、周囲の様子はよく見えない。
だが暗闇の中にあるというのは逆に都合がよかった。
この状況でならば一旦この力を解除してしまっても問題ないだろうと思えたからだ。
――模倣:クレアボヤンス。
本来は暗視をするための力ではないのだが、結果的に周囲の状況が分かるのであれば問題はない。
階段を見つけるとそこまで向かい、そこで力を解除した。
――模倣:インビジブル。
そして再び自身の存在を消すと、上を目指し歩き始めた。
――ふと、どうしてこんなことをしているのだろうかと少女は思った。
思ったが、すぐにその思考は沈んでいく。
考えたところで意味がないからだ。
今の少女はあの男のモノであり、それ以上でも以下でもないのである。
そして死にたくないのであれば、あの男の言うことを聞く以外にないのだ。
この力を使えば逃げることは出来るだろうが、それをあの男が予想していないとは思えない。
そうしたら死ぬのだろうと想像することは容易かった。
そもそも、逃げたところでどうするというのか。
逃げたところで、少女に帰るところはない。
なくなってしまった。
故郷は、あいつらに滅ぼされてしまったのだから。
少女が生き残ったのは、ただの偶然だ。
珍しいギフトを持っていたからと、目を付けられただけ。
そして死にたくなかったから、あの男のモノになった。
仲間を、友人を、家族を殺した相手に頭を垂れた時点で、きっと少女の人生は決まっていたのである。
それに、今更に過ぎる話だ。
逃げるというのならば、もっと早くに逃げ出していればよかったのである。
そのチャンスはきっといくらでもあった。
でも結局は自分でその道を選ぶことは出来なくて、全てをどうでもいいという言葉に押し込めた。
そうしたところで何も変わらないということは知ってはいたけれど、自分の意思を持って何かをするということにはもう疲れてしまったのだ。
今更どうしてなどということを思ったところで、とうに手遅れであった。
だから、間違っているということは分かっていたけれど、最後の一歩を踏み出した。
最上階。
床をしっかりと踏み締めながら、あの男に言われたことを思い出す。
「……少女の首を切り、頭部を持って帰る」
意味は分からなかったが、少女は言われたことをやるだけだ。
どうでもいいと呟き、さて肝心のその少女はどこにいるのだろうと思って歩き出し――ふと、自分の足が見えていることに気付いた。
「……え?」
それは有り得ないことであった。
自分一人である現状、力の強度は最大限に上げている。
あの少年のこともあるから、万が一のことがないように自分ですら自分の姿が見えないようになっているはずなのだ。
なのに、何故――
「――っ!?」
生じた疑問と混乱によって、完全に身体が硬直し――瞬間、風が吹いた、ような気がした。
直後に足から力が抜け、その場にくずおれる。
斬られた、ということに気付いたのは、頭が地面に触れる直前だ。
そしてその時になってようやく、視線の先に一人の少女が立っていることに気付いた。
それはおそらく、目的だった少女だ。
薄暗くてどんな顔をしていてどんな表情を浮かべていたのかは分からなかったが……それでも、その目に強い光が宿されていることだけは分かった。
抵抗することを諦めたのは、だからきっとその目を見たからだ。
そんな目をした相手にならば、全てを諦めてどうでもいいなどと言っている自分が敵うわけないと、そう思ったのである。
このまま目を閉じてしまえば、二度と目覚めない可能性が高い。
しかしそれを分かっていながら、ならばそれも構わないと、少女は全てを受け入れ、目と共に意識を閉ざしたのであった。
斬りつけ、倒れ伏した少女のことを眺めながら、ベアトリスは溜息を吐き出した。
アレンからこの少女がやってくる可能性があるという話は聞いていたものの、外れればいいと思っていたのだ。
だが現実はこの通りであり、これが溜息を吐かずにいられるかという話である。
自分の目が節穴だった、というのはいい。
いや、よくはないし反省すべきではあるが、それを今問題としているわけではないのだ。
確かにベアトリスは騎士であるがゆえに、今までも色々なものを斬ってきた。
魔物ばかりではなく、人を斬ったことも少なくない。
しかし主と同じ年頃の少女を斬るというのは、さすがに思うところがあった。
それと、もう一つ。
「……リーズ様、何故部屋から出てきた? 万が一のことを考えれば別の場所に、せめてアレン殿の部屋に避難すべきだと言われていたのに、それを突っぱねただけではなく部屋からも出てくるとは……」
「……アレン君やベアトリスが頑張ってくれているというのに、わたしだけ安全な場所になんていられませんよ」
その言葉は、きっと本心ではあったのだろう。
実際のところ、リーズがこの街に来たのは、そもそも撒き餌としての意味もあったからだ。
アレンは薄々気付いてはいるだろうが、将軍の件ではまだ告げてはいないことがある。
それと、リーズ達がこの街にまで来た本当の理由についてもだ。
嘘を吐いているわけではないのだが……少々込み入った事情があり迂闊に話せないのである。
話す時が来るとしたら、それはきっと彼の人に関する情報が得られた時だろう。
心苦しくはあるも、仕方のないことでもある。
ともあれ、そしてリーズがここに残ったのも、それ関係であった。
おそらくは、彼女から何か情報が得られるかもしれないと思うと、いても立ってもいられなかったのだろう。
本来であれば、ベアトリスはそれを諌めるべきであった。
だがそれができなかったのは、ベアトリスが守るべきは主の身体だけではなく心もだからである。
そのためには仕方がないと判断したのであった。
倒れ伏した少女を前に、ベアトリスは再度溜息を吐き出す。
その身体を拘束するために屈み込みつつ、少女の傷を癒すためにこちらへとやってくる主の姿を眺める。
その瞳に強い意思がこもっているのを確認しながら、さてどうしたものかと思うのであった。




