意地と覚悟
声は、上げなかったのではなく、上げられなかったが正しい。
ノエルの頭の中にあったのは、混乱と疑問だけだったからだ。
確かに、目覚めてもおかしくはない状況ではあった。
だがそれならば、昼間にこそ目覚めているべきだっただろう。
あの時には目覚めずに今は目覚めるなど、道理に合わない。
あるいは、自分が傷つけられる可能性があるということを、本能的に察知したとでもいうのか。
「……っ」
ならばある意味ではわざわざここに赴いた意味があると言えるのかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。
先に述べた通りである。
所詮確かめるなどというのは建前なのだ。
この手で剣を突き立てられないのであれば、意味がない。
しかしだというのに、ノエルの身体はピクリとも動かなかった。
その目に射すくめられてしまったかのように、指一本動かない。
それは多分、本能的なものであった。
少しでも動いたら死ぬということを、本能的に感じ取っていたのだ。
半ば無意識のうちに、ごくりと唾を飲み込む。
だが、そこでそのまま棒立ちになってしまったり、即座に逃げ出すぐらいならば、きっとノエルは最初からこんなところにやってきはしなかった。
怯える心をねじ伏せ、一歩前に踏み込むと共に握ったままだった剣を――
「――かはっ!」
瞬間、何が起こったのか分からなかった。
分かったのは、視界に映っている光景が直前までのものとは違うということと、背中に圧迫感があるということ。
そして。
「――っ」
遅れてやってきた、全身がバラバラになったかのような痛みに、悶えることすら出来なかった。
だがそのおかげでと言うべきか、そこでようやく状況を把握する。
どうやらノエルは、殴り飛ばされたらしかった。
「……こほっ」
咳と共に血の塊が出たのも見るに、身体の内側も傷付いたか。
それどころか、外側が酷いことになってる可能性もあったが、怖くて確認することは出来なかった。
おそらくは先ほどとは違う意味で、身体が動かなかったからだ。
「……っ」
たった一撃で、これ。
情けなくもあったし、諦めるつもりはなかったが……身体が動かなければどうしようもない。
しかも、ノエルの手には何もなかった。
飛ばされる途中で落としてしまったらしく、視線の先ではノエルの剣が転がっている。
ここから立ち上がり、あれを手にし、再度あの魔物の前に立ちはだかるのは、酷く遠いことのように思えた。
と、その音が聞こえたのは、その時のことだ。
それは魔物が歩くようなものとは違う、人が地面を歩く音。
その何者かは、少しずつノエルのところへと近付いてきていた。
期待していなかったと言ったら嘘になる。
音が聞こえた瞬間、もしかしたらと思ったのは事実だ。
「ふむ……なるほど、これは随分と見事な一品ですな。ええ、これならば確かに『アレ』を傷つけることも出来たかもしれませぬ」
ノエルの剣にまで近付き、拾ったその者は、見覚えのある人物であった。
だが同時に、期待した人物では、ない。
シルクハットに燕尾服を着た、この場にそぐわない格好をした男は、昼間会ったばかりの人物に間違いなかった。
アレンと共にこの森へとやってくる途中であった、あの男だ。
男はしげしげと剣を眺めながら、感心したように呟いており――
「ただの念のためだったのですが、これはその甲斐があったというところですかな? さすがに殺されることまではなかったとは思いますが、いくらか傷は負ったことでしょう。この状況でのそれは、いささか面白くありませんでしたからな」
男が何者なのかは、分からなかった。
アレンも知らないようではあったが、しかしその言葉を聞けば予測できないわけがない。
いや……おそらくその呟きは、そもそもがそれをノエルに知らしめるためのものなのだ。
奥歯を噛み締めながら、憎しみを込めて男を睨みつける。
「っ……あんた、はっ……!」
「おや、喋れるのですかな? これは少し意外でした……てっきり意識を保つ程度で精一杯だと思っていましたし、その程度で済むように言って聞かせたのですが」
その言葉の意味するところは、直後に分かった。
男の背後に、巨大な存在が音もなく現れる。
間違いなく、あの魔物であった。
だがそんなものが現れたというのに、男は焦ることすらなく、悠然とその場に佇み続ける。
そしてあろうことか、男が背後を振り返ると、『それ』は頭を垂れ始めたのだ。
まるで……否、間違いなく、恭順の意を示す行動であった。
「まったく……いけませんな。アレは予想以上の働きをしてみせたというのに、こちらの方は予想以下でしか動けないとは。まあとはいえ、最低限のことは出来たようですから、一先ずよしとはしておきますか。次同じことをすればどうなるか……分かっていますな?」
それは決して強い調子ではなかったのに、魔物は目に見えて身体を震わせた。
多分それは恐怖によるものであり……持ち上げられた目が、こちらに向けられる。
その意図は、明白であった。
「しかしまあ、警戒していたというよりは万が一のためだったのですが……アレのことも含め、何が幸いとなるか分からないものですな。まさかあなたの方から来てくれるとは思いもしなかった、ということも含めてですが」
「……? なにそれ、どういう……」
「どういう意味も何も、そのままの意味ですぞ? わざわざこんなものを用意したのは、あの街を攻め滅ぼすためだったとでも? まさか。そんなことをして私に何の得があるというのです? 私の目的は、最初からあなただったのですよ」
「……っ!?」
理解は、出来なかった。
自分に誰かから狙われるような理由があるとは思わなかったし……だが、それが事実だと言うのであれば。
あの時のも――
「っ……じゃあ、三年前そいつが来たのも……!」
「ふむ? 三年前? 確かに三年前にもコレを動かしたことはありますが……その時狙ったのはドワーフですぞ? あのまま放っておいたら、色々な意味で脅威になってしまいそうでしたからな」
「っ……やっぱり……!」
「んん? もしや、あなたはあそこにいたのですかな? ……なるほど、確かによくよく見てみれば、この剣の出来合いはどことなく見覚えがある気がしますな。もしやあなたはアレの弟子か何かだったのですか? となれば……実に奇縁ですな。まさか師弟揃ってコレに殺されることになるとは」
「……っ」
今すぐに剣を取り返して斬り裂いてやりたかった。
せめて一発でいいから殴りたかった。
でも相変わらずピクリとも動かない身体では、睨み続けることしか出来なかった。
「それにしても……この剣、本当に見事ですな。見事すぎるほどに。ふむ……本来であればやつらに引き渡す予定となっていましたが、これは止めておいた方が無難ですかな? 頭だけで同じことが出来るとも限りませんが、まあここは安全策を取るべきでしょう。下手をすればやつらの戦力を増強させることになってしまうわけですからな」
そんなノエルのことを無視して、男は意味の分からない言葉を呟いていたが、その内容を理解する気はなかったし、必要もなかった。
別に男が何を考え、言っていたところで、ノエルの思うことは一つだけだからだ。
「いえ、いっそのこと、私が手に入れてしまう、というのも一興ですかな? 誤って丸呑みしてしまった、などと言えばどうとでもなるでしょう。あっちを渡せば、文句も言ってはこないでしょうしな」
そんな言葉と共に、男がノエルの方へと視線を向けてきた。
その顔に浮かんでいるのは場違いなほどの笑みであり――
「というわけで……あなた、私のモノになりませんかな?」
「……は? 何を言って……」
「悪いようにはしませんぞ? これでも私、働く者にはきちんとした対価を払うと評判ですからな。それに、心配もいりません。既にあなたと似たような者が一人いますからな」
「……それはつまり、あんたの仲間になれって意味かしら?」
「まあ似たようなものですな。ああ、コレのことならば心配する必要はありませんぞ? 後から来たからといって下扱いはしませんからな。同格扱いをすると約束をいたしましょう」
それは多分、悪くはない話ではあった。
このままではノエルが死ぬのは確実だ。
ノエルは別に死にたいわけではないし、むしろ生きていたい。
どんな形であろうとも、少なくとも生きれるというのならば死ぬよりはマシだ。
「考える時間が必要というのでしたら、そのための時間程度ならば差し上げますぞ?」
「……必要ないわ。答えなんて決まっているもの」
「ほぅ? では?」
「……ええ」
――ただし。
何事にも、例外というものはつきものである。
「あの世から、あんたが苦しんで死ぬよう祈っていてあげるわ」
唾でも吐けるのならばそうしたかったのだが、出来ない自分の身体を恨みながら、それでも悪態だけは吐いた。
「……そうですか。残念ですな。あなたならばもっと賢い選択をしてくれると思っていたのですが」
「なに言ってるのよ、当然でしょう? あたしの母親を殺したやつらの仲間になんて、なるわけがないでしょうが」
「ふむ……なるほど? まあでは仕方ありませんかな。――フェンリル」
『――――――!!!!!!』
言って男が指を鳴らしたのと、魔物がその大きな口を開いたのはほぼ同時であった。
巨大な叫び声が響き……それでも、ノエルは決して視線を逸らさない。
何も出来ないけれど、せめて――
「餌ですよ。喰らいなさい」
気が付いた時には、その口が目の前にあった。
でも、やっぱり目は逸らさず、逃げず、口を閉ざす。
意地など張っても意味ないと分かっていたけれど、最後まで抵抗を続けたあの人みたいに、自分も最後まで抵抗をしたかったのだ。
ああ、それでもやっぱり、死にたくはないなと、そう思い――瞬間、轟音が響いた。
「……え?」
直後に視界が開け、驚きに目を見開いている男の姿が見えた。
そして。
「ごめん、ちょっと遅くなった」
聞き覚えのある声が、耳に届いたのであった。




