エルフの想い
夜の闇が支配する街中を、一つの影が動いていた。
誰かが見ていれば不審の一つも覚えようが、幸か不幸かそんな者の姿はない。
闇を打ち払うほどの力を持たぬこの街では、夜とは即ち身体を休める時なのだ。
昼間は騒いでいた冒険者も、威勢よく叫び続けていた商人も、明日への活力を養うために今はその身を夢の中へと落としていた。
もちろんそうなれば街中には光一つなく、さらに今夜は月が完全に隠れている。
地上を照らすものは何もなく……だがだというのに、全てが見えているかのようにその影は迷いなく先へと進んでいく。
しかしそれは当然であった。
そもそも、エルフとは本来森と共に生きる種族だ。
夜の森の中では平地のそれなどとは比べ物にならないほどの闇に包まれることを考えれば、その程度の夜目が利かないわけがないのである。
ともあれそういったわけで、その影――ノエルは、夜の街中を難なく進んでいく。
念のために周囲を警戒してはいるものの、それは本当に念のためでしかない。
こんな闇の中を動ける者などこの街にはノエル以外にいないだろうし、目的を持っている者も同様だろう。
だが万が一にも、邪魔をされるわけにはいかないのである。
周囲に目を配りながらも素早く先へと歩き……街の外へと足を踏み出したところで、抱えていた布を抱えなおしながら、ようやく息を一つ吐き出した。
「ふぅ……ここまで来ればさすがに大丈夫かしらね。あの娘もさすがにここまで追いかけては来ないでしょうし」
呟きながら、先に視線を向ける。
本来ならばこの先をこそ警戒すべきなのだろうが、エルフであるノエルにとってみればどうということはないことだ。
魔物の多くは人と同様に夜に活動することはなく、そもそもそんなものが街の周囲にいたらおちおち寝てもいられない。
そういった魔物が近くにいない場所にこそ、街を作るのだ。
故に平原は街中以上に気楽に歩け、あっという間に森にまで辿り着く。
そしてやはり気楽に、ノエルは森の中へと入って行った。
夜の森の中は、むしろ昼間に来た時よりも騒がしいぐらいである。
森の中では、夜の方が活動が活発になるような魔物も珍しくはないからだ。
しかしノエルにとっては関係がない。
全てが分かっているがごとく……否、実際に全てが分かっているため、魔物と遭遇しない場所を選んで歩いていく。
これはギフトとは関係がない、種族としての特性である。
森の中に入ると勝手にその森の全てが頭の中に入ってくるのだ。
ノエルはエルフの誰かにそういったやり方を教わったことはないので、おそらくは本能的に最初から知っていることなのだろうと思っている。
最初の頃は随分と驚いたものだが、今ではすっかり慣れたものだ。
「最初、か……あそこは山だったから、森に入ったのはアイツに連れられて行ったところが初めてだったのよね」
それを懐かしいと思うよりは忌々しいと思ってしまうのは、やはり同行者が同行者だったからだろう。
そのおかげで王都にまで行けたとはいえ、それでこの感情が薄れることはない。
たとえそれが単なる八つ当たりに過ぎないということを理解していたとしても、だ。
それに、その感情が薄れないということは、あの時の想いが磨耗していないということでもある。
それはきっと、歓迎すべきことであった。
あと少しでそれも終わるとはいえ、終わるからこそ、しっかりとあの頃の想いを持っておきたかったのだ。
「……当時はそのせいでかなり苦しみもしたけれど、まあ今があるのはそのおかげでもあるものね」
それがなければ、きっとどこかで諦めてしまっていたに違いない。
そもそも、王都を離れる気にすらなれたかどうか。
あそこは煩わしいことも多かったけれど、そのまま永住することになってもいいかもしれないと思える程度には良い場所であった。
「ま、何にせよ、これで終わりかと思うとさすがに色々と感慨も湧くわね。……どういう結果になるかは、分からないけれど」
呟きと共に、足を止める。
気が付けば眼前には、あの広間が存在していた。
そしてそこに横たわる、あの魔物の姿。
「……っ」
色々なものが弾けそうになるのを抑え、拳を握り締めることで誤魔化す。
爪が掌に食い込み痛みが走るが、構わない。
ここで全部台無しにしてしまうことに比べればマシであった。
アレンの見立てによれば、『それ』の傷はほぼ治っているようだ。
余計なことをしてしまえば、今すぐに目覚めてしまってもおかしくはないという。
ノエルはそれに、そうだろうなと思う。
何せ三年前についた傷なのだ。
今まで治らなかったのが異常なぐらいなのであり、ならば今すぐ動き出したところで何の不思議もなかった。
そんなことを考えながら、ノエルは治りかけの生々しい傷跡を視線で追いかける。
それを、見覚えがあると思うのは、きっとただの気のせいだ。
あの時は、そんなものをジッと見ている余裕など欠片もなかったのだから。
コレと勇者が戦っていた場面など。
――『コレ』がノエル達の住んでいる家を襲ってきたのは、突然のことであった。
忘れもしない、忘れられるわけがない、三年前のあの日。
ずっと続いていくと思っていた日常が唐突に終わった、その日のことだ。
あの日ノエルが生き延びたのは、ただの偶然に過ぎなかった。
何故ならば、あの人の打った剣では、襲ってきた魔物に傷一つつけることが出来なかったからである。
ノエルの目にすら……いや、ノエルの『目』だからこそ、その全てがどれも素晴らしき名剣と呼ぶに相応しいものであったということが分かっていたのに、だ。
それでも、彼女だけならば逃げられたはずだった。
その時に初めて知ったのだが、彼女は剣の腕の方も相当だったからである。
ノエルを置き去りにしてしまえば、逃げるだけならば可能だったはずなのだ。
だがどれだけ剣の腕が凄まじかろうと、そもそも攻撃が通用しないのであればどうしようもない。
そうして何故か抗い続けた彼女を、ノエルはただ見続けていた。
最初の襲撃の際、運悪く倒壊した家屋の下敷きになってしまったからだ。
ノエルは、見続けた。
あの人が力尽き、魔物に食われるまでの一部始終を、見ていることしか出来なかった。
結局あの人は最後まで何一つして大事なことは語ることなく。
足掻きに足掻き続け、それでもやはり魔物の身体には傷一つ付かず。
ついには指一本動かなくなって……なのに。
どうしてか、その顔には満足気な笑みが浮かんでいた。
アイツが現れたのは、その直後のことだ。
それは、勇者であった。
そしてそれは、今まで掠り傷すら付かなかった魔物の身体に、傷が刻まれた瞬間でもあった。
あれだけ何をしても傷一つ付かなかったというのに、勇者がその手に持った剣を振るった瞬間、あっさりと傷がついたのだ。
それが勇者の剣の腕のせいでないのは明らかであった。
その時のノエルは剣の腕はからっきしであったが、それでも分かる程度にはあの人の方が上だったからだ。
ゆえにそれは、剣の差でしかなかった。
勇者の振るう聖剣だけが、その魔物に傷を与えることが出来たのだ。
それをノエルは、理不尽だと思った。
道理に合わないと思った。
どれだけあの人が剣を打つことだけに力を注いでいたのかは知っている。
だがその全てを、否定された気分だったのだ。
ノエルが鍛冶師になったのは、その後のことである。
勇者が間に合わなかったワビだと言ってこの国の王都に連れていって、そこで鍛冶師となることを望んだのだ。
彼女から教わったわけではなかったけれど、ノエルは全てをずっと見ていたのである。
再現する程度のこと、なんと言うことはなかった。
それに何より、ノエルには少しだけ特別な目があったのも大きかったのだろう。
そうして気が付けば王家御用達などと言われるようにもなり、リーズとも出会い友達になり……だが、ノエルはあそこを一年足らずで出て行った。
駄目だと思ったからだ。
あそこで剣を打っていたのでは、いつまで経っても聖剣を超える剣を打てないと思ったのである。
ノエルが鍛冶師になったのは、それを目的とするためであった。
彼女のやっていたことは無駄ではなかったのだと、彼女ならばいつかそこに到達できたはずだと、証明したかったのだ。
辺境と呼ばれるような場所に流れてきたのは、煩わしいものから逃れるためと、そこでならばと思ったからである。
結局それでも駄目ではあったが……それでも、紆余曲折を経て、ついにその機会はやってきた。
勇者はあの時、魔物を倒しきれなかったのだ。
重症は負わせたものの、逃がしてしまい……ノエルが『それ』に気付いたのは、本当にただの偶然である。
素材を集めるために森に通っていたのも本当だ。
そして今から二十日ほど前のあの時、この魔物がここにいることに気付いたのである。
それはエルフの本能によるものか、あるいはこの『目』によるものか……それとも、ノエルの執念によるものか。
どれなのかは分からなかったが、それでも気付けたことだけは事実で、それだけで十分であった。
魔物が近い内に動き出すだろうということはその時点で予測出来ていた。
だからノエルは焦っていたのだ。
このままでは証明する機会を逃してしまうから。
何よりも、ノエルはあの街を割と気に入っていた。
二度も住処を奪われるわけにはいかなかったのだ。
ゆえに。
「……担い手は見つかって、最高の剣も出来上がった。あとは……あたしの腕が本当に追いつけているのか。それだけが問題ね」
それを確認するために、ノエルはここにいるのだ。
証明する手段は、ここにある。
抱えていた布を取り去る。
中から現れたのは、一振りの剣であった。
本当は、剣を打ち直すだけならば、朝まで待つ必要はなかったのだ。
それでも待たせた理由は、二つ。
二本打つとなると、さすがに夜までかかってしまうことと、こうして自分の手で確認しに来るためだ。
念のためということで、アレンには残りの二本も改良するとどうなるかを聞いておいていたのである。
これはそのうちの、自分に合うと思った方だ。
もう一本の、アレンのために打ったものは、家の分かりやすいところに置いてある。
たとえこのままノエルが戻れなかったとしても問題はないだろう。
問題があるとすれば、起き上がった『コレ』がそのまま街に向かってしまうことだが……その心配はおそらくない。
夜に活動する魔物というのは、昼間ほとんど活動しないものだからだ。
以前襲ってきた時は昼間だったことを考えれば、仮にここで起きてしまってもそのまま行動してしまうということはないと分かる。
だから、何の心配もなかった。
正直に言えば、ノエルは自信がなかったのだ。
アレンはいけると言ってくれたものの、自分に対する僅かな疑念は拭いきれなかった。
しかし模倣に過ぎないとはいえ、ノエルは鍛冶師である。
本当に超一流に至れたのかも分からないものを渡し、実戦で試させるわけには……いや。
そんなのは、ただの言い訳だった。
本音は、自分の手で『コレ』に傷を与えたかっただけである。
直後に殺されてしまう可能性が高いということが分かっていても、後は全部任せられると思ってしまった途端、その気持ちを抑えておく事が出来なくなってしまった。
これはただの自己満足だ。
そんなのは知っている。
知っていても抑える気がしなかったからこそ、ノエルはこうしてここにいるのだ。
剣を鞘から引き出す。
中から現れたのは、アレンのものよりも薄く、細い剣身。
それを構え――瞬間、目が合った。
ちょっと予想以上に話が長引いてしまったため、明日明後日と二話更新予定です。




