教皇
「きゃっ……!」
建物全体が揺れるほどの激しい振動を感じた瞬間、リーズは思わず悲鳴を上げていた。
反射的に足元を眺めたのは、今の振動が足元から伝わってきたように感じられたからだ。
同時に聞こえた轟音からも察するに、間違いなく何か不測の事態が生じたに違いない。
だが。
「おや……これはもしや、彼女の仕業でしょうか? まったく、仕方のない方ですね……。申し訳ありません、騒がしくしてしまって」
眼前にいる男性から告げられた言葉には、僅かな動揺も感じられなかった。
声の調子にも、顔の表情にも、動揺の一片も見られない。
まるで予定通りのことが起こったと言わんばかりであり、しかし本当にそうであれば今口にしたようなことは言わなかっただろう。
つまりは、明らかに予想外のことが起こったにもかかわらず、平静のままでいるということだ。
その佇まいは、さすがといったところか。
「しかし、我々が気にする必要はないでしょう。ここは大聖堂、教会の総本山です。優秀な方が揃っていますし、何かあった時のための備えは万全ですから」
そう言って笑みを浮かべた姿は、こちらを安心させようとするものであった。
爽やかな出で立ちといい、まるで好青年といった様子である。
だが、どうやらノエルはその様子が気に入らなかったらしい。
「優秀な方、ねえ……それはつまり、あたし達を攫ったみたいな、ってことかしら?」
「おや……これは手厳しい。そういうつもりではなかったのですけれど……」
「なら、どういうつもりだっていうのかしら? ねえ――教皇さん」
その言葉に、男性――教皇は、苦笑のようなものを浮かべた。
ノエルへと向けた瞳は優しげで、しかしそこに含まれているのは聞き分けのない子供に対するようなものだ。
そのことはノエルも感じ取っているのか、苛立たしげに眦を吊り上げた。
「そもそも、あたし達はどうしてここに連れて来られたのかすら聞かされてはいないのだけれど?」
「ええ、それはそうでしょうね。ちょうどこれから話そうとしていたところですから」
「……それは、今朝になって急にわたし達が呼び出された、ということに関しても、ですか?」
「勿論です」
頷くその姿に、嘘は感じられない……ように、見えた。
少なくとも、リーズの目にはそう見えなかったのは事実だ。
ただし、取り繕っているだけであり、リーズがそれを見抜けていないだけという可能性は十分にある。
何せ目の前の一見すると好青年にしか見えない人物は教皇――教会の最高指導者なのだから。
見た目は二十代前半程度の青年にしか見えないが、そんなことは有り得ないはずだ。
今代の教皇に代わってから、確か五十年ほどは代替わりしていないはずだからである。
どれだけ若くとも、七十……いや、八十を超えていなければおかしい。
だから最初目にした時は、教皇の代理なのだと思った。
教皇の姿を目にした者はほとんどいない、という話は有名だ。
そういったことも、大司教が実質的に教会を動かしている、などと言われていた所以ではあるのだが……ともあれ、何か理由があってか、あるいは警戒して本人は姿を現さないのだろう、と。
だが、事もあろうに目の前の青年は教皇だと自らのことを名乗ったのである。
こう言っては何だが、非常に嘘くさいが……周囲から何と言われていようとも、教皇は教会の最高指導者だ。
代理であろうとも、教皇そのものを名乗れるわけがない。
しかもここは、教会の総本山である大聖堂だ。
尚更偽称など出来るわけがなく……つまりは、目の前の人物が教皇だということに間違いはないということであった。
とても信じられることではないが、何か理由があるということなのだろう。
さすがにそれを問いかけることは出来ないが……ともあれ、目の前にいるのはそんな人物なのだ。
リーズの目を誤魔化すことなど容易いに違いない。
実際リーズは嘘を感じなかったとはいえ、教皇のことを信じているわけではないのだ。
自分達のことを攫ってこさせた張本人であるらしいのだから、当然のことではあるが。
そのこと――教皇自身がリーズ達を攫うよう命じたという話は、教皇に会ったすぐ後に本人から伝えられた。
間違いなく、自分が命じたことだ、と。
その理由に関しては、まだ聞いてはいないのだが……それを聞こうとしたところで、先ほどの揺れがあったのだ。
そして教皇によれば、これからその話をしてくれるということだが――
「さてしかし、何から話すとしましょうか……いえ、やはりお二方が気になっているのでしょう、どうして貴女方を攫ったのか、という話からしましょうか。もっとも、結論から言ってしまいますと、その必要はなかった、ということになるのですけれど」
「……は?」
そうして話された言葉に、ノエルが、何言ってんのあんた? みたいな声を出した。
しかしリーズも声こそ出さなかったものの、心境としては大差ない。
わざわざ馬車での移動中に強引に攫っておいてその必要はなかったなど、一体何を言っているというのか。
「ああ、いえ、必要がないと言い切ってしまうと多少の語弊があるかもしれません。とはいえ、そうでなければならなかった理由があったかといえば、実際なかったというのが本音です。穏やかな手段でお二人をここに招待する方法も、あるにはありました」
「その手段を選択しなかった理由が、当然あるんでしょうね?」
「はい、勿論です。主に三つありますけれど、一つ目が、それでは妨害されてしまう恐れがあったからです」
「妨害、ですか?」
「ええ。我々は力を持たないことを公言している組織です。そのおかげで認められている部分が多々あります。けれど、お二人をここに呼び寄せてしまうのは、教会が力を手に入れようとしているのではないかと、勘繰られてしまう可能性がありました」
「……確かに、聖女とか呼ばれてるリーズが教会に近付いて、もしも信徒にでもなったら、教会の影響力は確実に増すでしょうね。でも、あたしは関係ないでしょ?」
「おや、これはご謙遜を。確かに貴女はリーズ様ほど名が知られてはいませんけれど、その分知る人ぞ知る名工として名高い。貴女を迎え入れたら、教会は何を企んでいるのかと間違いなく思われてしまうでしょう」
実際その言葉は、大袈裟ではなかった。
ノエルは超一流の鍛冶師だ。
剣に特化しているとはいえ、つまりそれは、ノエルを仲間とすることが出来れば、超一流の剣を幾らでも揃える事が出来るようになる、ということである。
事情を知る者は、確実にその状況を見逃すまい。
「ですがそれならば、しっかりと事情を説明すれば……」
「ああ、それは不可能です。何故ならば、貴女方を教会に取り込もうとしていること自体は事実ですから」
「……まあ、でなければこんな場所に連れて来ないでしょうね。で、その部分が事実である以上は、どう言い訳しても無駄、ってこと?」
「はい。我々は世俗などに本当に興味はないのですけれど、人々からの疑念というものはどうあっても晴らす事が出来ないものですから」
「……それで、二つ目の理由とは、何なんですか?」
「二つ目の理由は、貴女方に分かりやすく説明するためでした。言葉で説明されるよりも、実際にご自身の目で見られた方がいいかと思いまして」
「……悪魔と教会の関係、ということですか?」
言葉を告げる事はなかったが、それはつまり肯定だということなのだろう。
確かに、言葉でどれだけ言われても信じがたかっただろうが、実際に悪魔によってここまで連れて来られたのだから、信じるほかあるまい。
「ちょっと、あたしは実際に見てはいないんだけど?」
「ノエル様に関しては、実際に見た方が厄介なことになりそうだと判断したからです。リーズ様からの説明で十分だとも思いましたし」
「……なるほど」
「納得してんじゃないわよ。……あたしもちょっと納得しちゃったけど」
「ともあれ、実際に目にすることで、よくお分かりいただけたかと思います。我々と悪魔は共存関係にあり、我々であれば、悪魔ですら説き伏せる事が出来るのです。そして勿論それは我々が力を求めているからではありません。全ては、人類のためなのです」
「人類のため、ですか……?」
何故だろうか。
その言葉に嘘はないと感じているのに……同時に、背筋が薄ら寒くなるのは。
教皇が浮かべている笑みは心の底からのものだと思うのに、鳥肌が立つのは。
「人々は、神々の御心を何も知らないのです。折角ギフトという素晴らしい力を神々が授けてくださっているというのに、その意味を何も考えようとはしない。しかし、知らないことは罪ではありません。ですから、我々が人々に神々の御心を教えてさしあげる必要があるのです」
「さしあげる、ねえ……随分上から目線に聞こえるんだけど?」
「それは申し訳ありません。そのようなつもりはないのですけれど……全ては私の不徳の致すところです。教皇などと呼ばれようと、百年の時を生きようと、私などはまだまだ未熟だということでしょう」
「百年……? 本当にそんな年齢なんですか? とてもそうは見えないのですが……」
「これも全ては、神々が与えてくださった奇跡の賜物です。もっとも、百年程度では胸を誇れることではありません。幾つかは人類のためになることが出来たと自負していますけれど……」
「人類のためになること……? ……一体何したっていうのよ?」
そう言いながら、ノエルが胡散臭そうな顔を教皇へと向けるが、リーズも同感ではある。
何となくでしかないのだが……ろくなことをしていないのだろうという予感があるのだ。
そして。
「そうですね、あまり昔のことを誇っても仕方がないでしょうから、比較的近年の話をしますと……ああ、そうそう、超一流の腕を持つドワーフを始末しましたね」
にこやかな笑みで、教皇はそんなことを言葉を口にした。
「…………は?」
先ほどの呟きとは異なり、それは何を言っているのか分からないという呆然としたものだった。
呆然としたノエルの視線を向けられることを教皇は気にせず、むしろ嬉々とした様子で話を続ける。
「人里離れた場所に住む変わり者のドワーフだったのですけれど、そのドワーフはあまりにも腕がよすぎたのです。それも彼女は気まぐれでした。我々が幾ら言っても好き勝手に強力な武器を作り出してしまう。そんなものが管理出来ない相手に渡れば、何が起こるか分からないでしょう? ですから私は彼女を始末することにしたのです。悪魔と、悪魔の使役する魔物の力を使い。全ては、人類のためを思って」
理由はともかくとして、状況はどこかで聞いたことのあるようなものだ。
ノエルの様子を伺ってみれば、その顔からは表情が消え、異様なまでに鋭い視線が教皇へと向けられている。
そのまま淡々と、ノエルの口から言葉が発せられた。
「へぇ、そう……他には?」
「他には、そうですね……そういえば、帝国の皇帝を始末したこともありましたか。さすがに彼はやりすぎました。何事にも順序と程度というものがあります。あれ以上版図を広げられても困りましたからね。都合よく暗殺向きの力を使うことの出来る悪魔がいましたから、その力を使って……っと、暗殺と言えば、貴女方にもっと身近なものがありましたね。ええ、貴女方の国にいた将軍を暗殺させたのも、私の指示によるものです」
「っ……あれを、ですか……?」
「はい。ああ、そうそう、ついでですからこれも伝えておきますけれど、彼は実は我々の同志だったのですよ。しかし彼を取り込んだ事が知られてしまったら騒がれてしまいますからね。秘密にしておきました。貴女方と同じ、ということですね」
「……そういえば、その人達の代替わり、とかいう話だったかしら?」
「そうですね、貴女方を仲間としたいのも、彼らがいなくなってしまったからですから。いえ、いなくなってしまった、というのは正確ではありませんか。私がそう指示したのですから」
「その言い方からすると、もしかして大司教様も、ですか……?」
「ご明察です。将軍はよく働いてくれたのですけれど、働きすぎたのです。彼の存在があるというだけで、完全に争いが止んでしまいましたからね。過度な争いは厳禁ですけれど、適度な争いは必要です。そのおかげで人々は洗練され、神々の偉大さを感じるようになるのですから。つまり人類のために彼は邪魔だったのです。そして大司教も私の代わりによく働いてはくれたのですけれど……彼はあろうことか反逆を企てていたのです。理由は最後までよく分かりませんでしたけれど、おそらくは私の代わりをしているうちに勘違いしてしまったのでしょう。神々の代理である私に刃を向けようとするなど以ての外だというのに、彼は身の程を知らなかったのでしょうね。彼のギフトは有用でしたけれど、仕方がありませんでした。それに、必要があればまた神々が授けてくださるでしょうから、問題もありません」
そこまでのことを語り……やはり、教皇は笑みを浮かべていた。
優しさすら感じられる笑みに、リーズは同時におぞましさを感じる。
目の前の人物は……本当に、自分と同じ人間なのだろうか?
「ふーん……なるほど? 要するに、あたし達を攫ったのは、あたし達にそういったことの手伝いをさせやすくするため、ってこと?」
「勿論貴女方に処分を手伝うよう要請するつもりはありませんけれど……広義の意味ではそういったことも発生するかもしれませんね。私達にはそれを可能とする力がある、ということが、最も知ってほしかったことではあるのですけれど」
「よく分かったわよ」
「おや、そうですか? まだ理由の全てを説明してすらいないのですけれど」
「必要ないわ。リーズもそう思うでしょう?」
「……そうですね。そういうお話でしたら、答えはとうに決まっていますから」
そう言って毅然とした顔を向けると、教皇は何処となく困惑したような表情を浮かべた。
その顔もまま取り繕ったものではないように見えたが、だからといって答えが変わることはない。
そんなことを嬉々として話すような人に、協力出来るわけがなかった。
「……困りましたね。答えを聞く前から、何と言われるかが分かってしまいそうです」
「そう……ならきっとそれで正解よ」
「ですね。――そういうことでしたら、お断りします」
「やはりそうですか……不思議と皆、処分しなければならないと思った時になされる顔が、そういったものなのですよね。何故なのでしょうか……」
「――それは、自業自得、というものなのだと思いますわよ?」
不意に声が聞こえたのと、その場に新しい人影が現れたのは、同時であった。
反射的に視線を向け、視界に映った姿にリーズは目を見開く。
ノエルは誰だとばかりに眉をひそめていたが、それも仕方あるまい。
話はしたものの、ノエルは見てはいないはずなのだから。
「……あなたは」
「お久しぶり……というほどではありませんわね。言いたい事があるのは承知の上ですけれど、今は待っていただいてもよろしいかしら? わたくし、あちらの方に用がございますの」
「貴女が私に、ですか?」
「ええ……よろしいですわよね、教皇猊下?」
そう言って、見知った悪魔の女性は、艶然と微笑んで見せたのであった。




