いつもとは違う夜
何気なく窓の外を眺めながら、リーズは一つ息を吐き出した。
見慣れない部屋の中にあっても、視線の先の夜空の景色は当然のように見知ったものである。
そのことに何となく、安心を覚えたのだ。
「……それにしても、気が利かないわよね」
と、不意に聞こえた声に顔を向けると、そこではノエルが寝そべっていた。
完全にだらけきっている姿に、溜息を吐き出す。
「ノエル……だらしないですよ?」
「そんなことを言ったって、ここには椅子すらないんだから仕方ないでしょ?」
「まあそれはそうかもしれませんが……」
椅子どころか、この部屋には灯りすらない。
窓から差し込んでくる光だけが唯一の光源で、それだけでは照らしきれない薄暗い暗闇が部屋の中には広がっている。
装飾品どころか必要最低限のものすらないのだから、随分と徹底された部屋であった。
「せめて暇潰しの道具ぐらいは用意しておけって話よね。あたしだって別に贅沢は言わないわ。炉と金床と槌……あとはそうね、素材となる鉄さえあれば十分だっていうのに」
「それはもう贅沢という言葉で相応しくないような気がするのですが……?」
というか、暇潰しにしたってノエル本位過ぎるだろう。
そもそもそれはもう暇潰しの道具ではない。
しかしこんな時でもいつも通りだと、リーズは苦笑を浮かべた。
「ノエルは本当に、ノエルですね」
「なによそれ……? それを言ったらリーズだってリーズでしょ」
「そうですか……?」
「そうよ。いつも通りだって言うなら、あなただって……いえ、むしろリーズの方が最初からずっとリーズらしかったと思うわ。まったく焦った様子もなかったし」
「それは単に、ノエルが先に焦ってくれたのと、わたしは既に驚き焦った後だったからですよ」
悪魔だというあの女性にここまで連れてこられて、色々と聞かされて、その時点で驚き尽くしてしまったのだ。
後はノエルの方が驚いてくれたから冷静でいられたという、それだけのことである。
「本当かしら……? それにしては随分と落ち着いているように見えるけど? あれからもう十日は経ってるっていうのに」
「……そういえば、もうそんなに経つんですね」
リーズがここに連れて来られ、ノエルがすぐ後に連れて来られてから、もう十日以上が経つ。
一日一日が妙に長く感じるが、それはここでは文字通りの意味で何もしていないからだ。
ずっとこの部屋の中にいて、食事だけは持ってきてもらえるが、それも扉の下の小さな隙間から差し出されるだけ。
初日だけは容器やフォークなどもあったのだが、そのフォークでノエルが窓や壁を壊そうとして以来素手で食べられるようなものだけが出されるようになっている。
結界が張ってあるらしく、傷一つ付くことはなかったのだが、念のためということだろう。
そういうことをするから、暇潰しの道具などが用意されることがないのではないかと思うのだが、仕方のない事だとも思う。
リーズが試さなかったのは、リーズの腕では無理だと早々に諦めたからでしかなく、相応の腕があればやはり試していただろうと思うからだ。
それに元々この部屋には何もなかったのである。
増えたのは初日に差し入れられた毛布ぐらいのものであり、それ以降は本当に何もない。
仮に最初から大人しくしていたところで、暇潰しの何かが与えられたかは疑問だ。
もっとも、攫われてここに連れて来られたという時点で当たり前のことかもしれないが。
「それにしても、また何もしなかったまま一日が終わるわね。いい加減あたしにも説明があってもいいと思うんだけど?」
「にも、と言われたところで、わたしも説明のようなものは聞いていませんよ? 話は聞かされましたが、それはどちらかと言えばあの悪魔の人が勝手に喋っていたようにも見えましたし」
「でも、ここに連れて来られた理由は聞いたんでしょ? それが分かってるだけでも大分違うじゃないの」
「それは確かに、そうかもしれませんが……」
しかし、分かっていたからといってどうなるものでもないというのも事実だ。
何せ――
「将軍と大司教の代替わりのため、とか言われても、具体的に何をするために連れて来られたのかなんて分かりませんし」
「……まあね。でも、何も知らないままずっとここに放り込まれてたら、頭がおかしくなってたとしても不思議じゃないわよ? 不安も感じてたでしょうし」
「そんな格好で言ってもまったく説得力がありませんよ?」
寝転がっているノエルは、完全に寛いでいるように見えた。
そんな状況で不安とか言われても、何を言っているんだという気にしかならない。
「さっきも同じことを言ったけれど、そっくりそのまま返すわ。リーズも不安なんて感じているようには見えないわよ?」
「……そんなことはありませんよ?」
その言葉は事実だ。
先ほど夜空を見て安心したということは、それまで不安を感じていたということである。
それは間違いない。
ただ。
「そうかしら? まあ確かに、不安は感じてるのかもしれないけれど……それでもどうにかなるって思ってるように見えるけれど?」
「うっ……それは、その……それも、否定はしませんが」
実際リーズは、不安を感じるたびに思ってもいるのだ。
不安はあるけれど、それでもきっとどうにかなるに違いない、と。
遠く離れた場所で、見慣れぬ場所ではあるけれど……見知った空があるならば。
同じ空に続いているのならば――
「まあ、たとえ何か危険なことがあったとしても、その時にはアレンが当たり前のような顔して現れて何とかしてくれそうだものね」
「っ……そ、そんなことは――」
「考えていないって、言えるのかしら?」
「そ、それは、その……」
まさにそのようなことを考えていたところなんて、言えるはずがなかった。
自分の頬が赤く火照って来ているのを自覚していると、唐突にノエルが溜息を吐き出す。
「ど、どうしたんですか?」
「どうした、じゃないわよ。あたしのこと以前好き勝手言ってくれてたけど……あなたこそ気付いたら一緒に暮らすとか言い出しそうよね。まあ既に一緒に暮らしてはいるのだけれど」
「な、何の話ですか……!?」
「さあ……何の話かしらね?」
そう言って寝転がったまま肩をすくめると、ノエルはごろんと身体を横にし、顔を背けた。
そんなノエルに、もうっ、と呟きつつ……リーズは窓の外へと視線を向ける。
今のところは、本当に何もない日々が続いているだけだ。
それでも、わざわざ攫うなどということをした以上は、確実に相応の理由があるに違いない。
その理由こそが、きっと将軍と大司教の代替わりというものなのだろうが……果たしてそれはどんなものなのだろうか。
多少の想像ならば付くが、リーズに想像出来るのは、大司教だけではなく、将軍も教会と何か関係があったのだろうということぐらいだ。
そんな話を聞いたことはなかったが……悪魔がそんな嘘をわざわざ吐くとは思えないし、聞いた事がないというのならば、教会と悪魔が関係していたなどということも聞いたことはなかったのである。
ならば何が隠されていたところで、不思議はあるまい。
ただ、それでも分かるのは、おそらくはろくでもないことなのだろうということだ。
隠す以上は当然のことでもあるのだろうが――
「……ノエル」
「……なによ、あまりに暇すぎるからそろそろ寝ようかと思ってたんだけど?」
「なら、ちゃんと毛布かけてくださいよ。風邪引きますよ?」
「ああ……それも手かもしれないわね。風邪引けば薬は必要だろうし、誰か一人ぐらいは部屋に入ってくるでしょ。その相手をとっ捕まえて知ってることを吐かせるってのはどうかしら?」
「どうかしら、って駄目に決まってるじゃないですか。身体を張りすぎですし、そもそも風邪引きながらどうやって捕まえるんですか」
「そこはリーズが頑張るに決まってるでしょ。ま、冗談は置いておいて……なによ?」
「……大丈夫、ですよね?」
主語も何もない、一見すると何のことなのかも分からないような言葉。
しかしそれだけで、ノエルは言いたいことを察してくれたらしい。
「大丈夫に決まってんでしょ。さっきも言った通りよ。何かあったとしても、絶対アレンが来るもの。それに関しては、あなたの方がよく分かっているでしょう?」
「……そうですね」
本当にどうなるかなんて、分からない。
でも実際にリーズはアレンに二度も助けられたし、アレンが誰かを助けるのを何度も見てきた。
ならば確かに、大丈夫なのだろう。
その時のことを思い出し、口元に笑みを浮かべると、心の底から大丈夫に決まっていると思えた。
「ノエル、ありが――」
「……すぅ」
礼を述べようと、ノエルに視線を向き直すと、本当に寝てしまったようであった。
寝つきが良いのはいいことだが、毛布を掛けていないままだ。
「まったくもう……」
溜息を吐き出すと立ち上がり、ノエルの分の毛布を掴む。
そのままノエルの身体へと掛け――
「おやすみなさい、ノエル。……ありがとうございました」
自分を安心させてくれたノエルに、届くかは分からないけれど礼を告げ、今度は自分の分の毛布を手に取った。
そうしてノエルの隣で横になると、自分の身体にも毛布を掛け、ゆっくりと目を閉じていく。
明日はどうなるのだろうかと、不安からではなく、純粋な疑問として思い、そんなことを考えているうちに、リーズの意識もまた夢の中へと落ちていくのであった。




