裏切り
「さて……ここまでの道案内、ご苦労だったな」
男がそう告げると、クロエは身体を一度跳ねさせた。
どうやらまだ良心の呵責とやらに苛まされているようだ。
だがそれでこそであった。
そうでなければわざわざ裏切り者など仕立て上げるわけがない。
簡単に開き直られてしまっては興ざめなだけなのだ。
そう考えれば、この少女は中々の当たりだったと言えるだろう。
決して従順というわけではないが、最終的にはこちらの言うことを守り、また堕ちきらない。
観賞するには最適であった。
しかしだからこそ、多少は惜しむ気持ちもある。
裏切りを完遂してしまえば、最早楽しむことは出来ないだろうからだ。
あとは精々が、裏切られた者達の中へと放り込み、最後の反応を楽しむことぐらいだろうか。
もっともがき苦しむ様を見ていたかったのだが……まあ、言っても詮無きことである。
せめて、最期までしっかりと見届け、楽しませてもらうとしようか。
そう思い、男はその言葉を口にした。
「それでは、連れてくるがいい。お前が裏切った者達を、な」
勇者の行動が陽動だったというのは、既に述べた通りだ。
しかし男が遠視で見た勇者が拠点の中で暴れているという光景は、こけおどしだったのだろう。
勇者達は男があの光景を見るということと、それを陽動だと見抜くことを予想していたに違いない。
陽動がいるということは、その間に他の行動を行う別働隊がいるということでもある。
その別働隊とはここに捕らえておいたアマゾネス達のことであろうし、目的はここから逃げ出すこと以外にあるまい。
で、あれば、陽動で男の目を引き付けておいている間にさっさと逃げ出そうとするに違いなく、その目論見を潰すには出口へと先回りしておけばいいわけである。
そしてそこまで読まれることを想定していたからこそ勇者があそこに現れたのだろうが……男はそこまで読んでいた。
いや、読んでいたというのは、多少語弊があるか。
そう行動するように男が誘導した……否、させたのだから、分かっていて当然なのだ。
アマゾネス達を捕らえていた広間の真下には、広間と同程度の規模の隠し部屋が存在している。
さらにその一角は隠し通路へと続いており、そのまま外へと繋がっている……と、吹き込ませたのだ。
無論嘘である。
隠し通路から繋がっているのは、男のいるこの場所だからだ。
そもそもあの隠し部屋は、こんなこともあろうかとこの拠点を作った時に仕込んでおいたものであった。
まさか本当に出番があるとは思ってもいなかったが、わざわざ作った甲斐があったというものだ。
逃げられると思っていたのに、そうではなかった絶望。
仲間と思っていた者に裏切られていたことに対する忿懣と怨嗟。
仲間を思って裏切ったというのに、それを仲間に理解されない嘆きと悲しみ。
甘美なその瞬間がついに訪れることを思い、男は口元の笑みを深め……だがすぐに、その眉を訝しげにひそめることとなった。
連れてこいと告げたというのに、アマゾネスの少女は俯いたまま動こうとはしなかったからだ。
「ふむ……どうした? 今更後悔でもしているのか? だが既に手遅れだ。それに、これ以外で貴様らが生き残るすべがないことは、よく理解しているはずであろう?」
抵抗しても無意味であり、痛い思いをするだけだということは、奴隷としてここに連れてきた初日に徹底的に身体へと叩き込んでいる。
それに、よしんば勇者などから影響を受け、抵抗する気に再びなったのだとしても、無意味だ。
クロエとは従属の『契約』を交わしている。
本人の意思とは無関係に、男の利に反するような行為を取ることは出来ない。
もしも取ろうとすれば全身に激痛が走り、それでも抵抗しようとすれば死に至るだろう。
男に従う意を示した時から、この少女に選択肢などはないのだ。
もっとも、あの時恭順していなければ殺していただけであっただろうから、男に捕らえられた時点で何かを選択する権利などというものは存在していなかったと言えるだろうが。
「さあ、さっさと連れて来い。焦らされるのも嫌いではないが、そろそろ貴様らの絶望を楽しみたいのでな。そもそもここで多少の抵抗をしたところで無意味であろう? どうせすぐそこに――む?」
クロエから視線を外し、扉の方へと顔を向けた男は、そこで初めて何かに気付いたかのように目を細めた。
この部屋へと通じている扉は特殊な効果を持っており、扉を開けたところで内から外、外から内の光景は互いに遮断されたように見えないようになっている。
その効果の制限は任意で緩めることも可能だが、効果そのものはこの部屋全体に及んでおり、つまりはギフトなどを使ったところでこの部屋の様子を外部から探ることは不可能になっているのだ。
だがあくまでもその効果は、視覚にのみ作用するものである。
扉の前にいるはずの数十人の気配を感じないなどということは、有り得るわけがないのだ。
有り得るとしたら、その可能性は一つだけである。
扉の効果を解除した瞬間、扉の向こう側の光景が見えるようになったが、やはりと言うべきか、そこにはアマゾネスの姿などは一人も存在してはいなかった。
「……貴様、どういうつもりだ……?」
怒りを押し殺しながら問いかければ、クロエがゆっくりと顔を上げていく。
しかしその顔に浮かんでいた表情は、男の想像していたものとは違っていた。
恐怖を押し殺したような顔か、覚悟の決まったような顔のどちらかだろうと思っていたのである。
だが、そこに浮かんでいたのは、全てを吹っ切ったような満面の笑みであった。
「え、どういうつもりって言われても、アタシは当たり前のことをやっただけだよー?」
「当たり前のこと、だと……? 貴様、死ぬのが……いや、仲間を見殺しにするつもりか……?」
元々クロエを裏切らせる条件として提示したのが、変わりに仲間のアマゾネス達のことを殺さない、というものであった。
無論わざわざそんな条件を提示してまでクロエの裏切りが必要だったわけではない。
単純にその方が面白くなりそうだと思ったから、そうしたのだ。
アマゾネス達を殺さないという条件は、しっかりクロエと交わした『契約』の中に含まれている。
故にクロエが従順である限りは男からアマゾネス達に手を出すことは出来ないのだが……あくまでもクロエが従順でいればの話だ。
逆らうというのであれば、こちらも契約内容を守る必要はなくなる。
「ふむ……罪悪感に耐え切れなくなって、ついに自棄になったか? まあ、ならばそれはそれで問題はない。貴様の目の前で一人ずつ貴様の仲間を殺し、自分のしたことがどういうことであったのかをたっぷりと教えてやろう」
「ふ、ふふっ……自分のやったこと、かー」
「……何故貴様は笑っている? それとも、壊れたか?」
「ううん、アタシは正常だよ? 自分がしでかしたことがどんなことなのかなんて、もうとっくにちゃんと分かってるのになー、って思っただけだからね。……うん、アタシがどれだけ馬鹿だったのかってことを、ね」
「馬鹿、か……確かに貴様は愚かだな。もしや貴様の仲間が殺されないとでも……逃げ切れたとでも思っているのか? 貴様が一人でここにいる時点で、貴様らが何をしたのかは分かっている。私が撤退した後で、堂々と拠点を抜け出したのだろう?」
この拠点から外に出るには、あそこを通る以外にない。
だからあの場には勇者だけではなく、おそらくアマゾネス達も潜んでいたのだろう。
そして男がいなくなった後で、ここから抜け出した、というわけだ。
今頃は全員抜け出した後に違いない。
分かってしまえば簡単なことであった。
ただ、そこまで予想出来てはいなかったので、出し抜かれたことは確かである。
まだまだ自分は未熟なようだと自省し……しかし、それだけでもあった。
「それで……だからどうかしたのか? ここから抜け出したというのであれば、すぐに追いかけ再び捕まえればいいだけのことだ。私はそれが可能だということを忘れたのか? 貴様のしたことは無意味且つ愚かであり、仲間を殺す結果にしかならなかったというわけだ」
「仲間を殺す、かー……うん、アタシが愚かだったのは、まさにそこだったんだよねー」
「……なに?」
「アタシはさー、すっかり勘違いしちゃってたんだよねー。手も足も出ないでやられちゃって、皆も一方的にやられちゃって、そのうちの一人からアタシ次第で皆のことを助けてくれるって言われちゃって……アタシが皆のことを守らなきゃって、そんなことを思ってた。でもさ、違うんだよね。だってアタシ達はアマゾネスだもん。アタシ達は、馬鹿な種族だから。たとえ殺されたって、それが無意味だって、最期まで必死に生き足掻くのがアタシ達だから……生かしてやるって手を差し出されたら、大きなお世話って噛み付くのが正解だったんだよね」
「……なるほど。どうやら貴様らは、思っていた以上に愚かだったようだな」
そう呟きながら、男は認識を新たにした。
この肝の座りようは、生半可な手段では揺らぐことすらあるまい。
あるいは目の前で仲間を陵辱され尽くし、虐殺されたとしても、眉一つ動かさない可能性もある。
そのぐらい覚悟が決まっているように見えた。
だがゆえにこそ、面白いとも思う。
屈服した心にさらなる絶望を塗りつけるのも面白いが、折れそうにない心をへし折り絶望に染めるのもまた面白そうであった。
「貴様の心が定まったのはよく分かった。だが貴様の力は脆弱なままだ。再び蹂躙され、身の程を知るがいい」
「ふんだっ、そんなのとっくに知ってるよーだ。だからこそ、ここにはアタシ一人だけが残ったんだもん。アタシ程度はほんの少ししか時間稼ぎが出来ないだろうけど……彼ならそれだけでも十分だろうから。その間に、きっと皆のことを助けてくれるだろうからね。アタシはそれで……」
「誰のことを言ってるのかは知らんが、まあ貴様もすぐに気付くだろう。貴様ら人間が私達の相手になるなど有り得ない、とな」
悪魔とは世界に反逆するモノだ。
世界を相手取ろうとしているというのに、人間などが敵うわけがあるまい。
正面から事を構えようとするならば、本来ならば勇者ですら足りてはいないのである。
さすがに勇者を相手にしようと思えば消耗は免れないために、出来ればあまり戦いたいものではなく、だからこそ忌々しいと言われているのだが……そろそろ分からせてやるべきだろう。
勇者が呆気なく殺される場面を見れば、強固な心も折れるかもしれぬし、一石二鳥でもある。
悪魔に勝つなど……それこそ、単身で世界を救うことの出来るようなものでもなければ、不可能なのだから。
「さて、まずはそのよく回る口から奪うとしようか。その後で両手両足をもいでしまえば、何も出来ない上にいい見せしめにもなる。貴様も集中して惨めに殺されていく仲間達の姿を見ていられよう」
「へー……いいんじゃないかな? つまりは、それだけアタシに時間をかけるってことだしねー」
気楽に言っている姿に、気負いも恐れも感じない。
どうやら本気で言っているようだ。
同時に、本気で仲間達は助かると思っているようでもある。
果たしてその根拠がどこにあるというのか。
興味を抱くと共に、面白いとも思った。
「ふむ……全ての確信が幻想であると分かった時、貴様のその顔はどのように歪み、壊れるのだろうな? その時が、楽しみだ」
言葉を継げながら唇の端を吊り上げ、その姿に向かって一歩近づき――
「残念ながら、そんなクソみたいな好奇心を満たす機会が訪れることはないかな? 無事にちゃんと連れ帰るって約束したからね」
瞬間、そんな言葉と共に、男とクロエの間へと一つの影が割り込んできたのであった。




