悪魔の笑み
遠方で何かの音が響いているのを、男は黙って聞いていた。
この拠点に使われている素材は特殊なものだ。
周囲の音を吸収するという特性を持っているため、基本的には何をしたところで音が響くということはない。
なのにここまで音が届いているということは、吸収しきれないほどの音が発信源ではしているということか、あるいは音を吸収する事が出来なくなった――限界を留めないほどに破壊されてしまっているかのどちらかだろうか。
そしてこの音から察するに、おそらくは両方だ。
誰かが暴れているということである。
だがそれを分かっていながらも、男が動く気配を見せないのは、その必要がないということを分かっているからだ。
どうせ陽動だろう。
この拠点の中で今何が起こっているのかを理解しているからこそ、そう推測するのは容易い。
しかしそう理解しているからこそ、男は同時に何もしていないというわけにはいかなかった。
陽動を仕掛けてくる相手の裏をかくには、陽動に引っかかったと思わせるのが一番だからである。
故に。
――世界の反逆者・空間干渉:ニトクリスの鏡。
男が指を鳴らした瞬間、顔の真横に鏡のような揺らぎが発生した。
その表面は不定に揺らいでおり、向こう側の景色を映してはいない。
代わりとばかりに映っているのは、ここではないどこかの光景であった。
男にとっては見覚えのある拠点の一角のはずだが、見覚えのない光景へと変貌している。
壁も床も何もかもが、大きく抉られていたのだ。
「随分と派手にやっているものだな……ここはあそことは違い元には戻らんのだが」
あそこは他の者達の協力があったために復元の術式が刻まれているが、ここはそうではないのだ。
壊されてしまえば時間の経過で元に戻ることはなく……だが、問題はないと言えばない。
確かにここは仮の拠点として今まで使ってきたところではあるが、この方面でやるべきことはほぼ終わっている。
そろそろ破棄しようと思っていたことだということを考えれば、壊してくれるのは有り難くもあった。
「暴れているのは……やはり勇者か」
映し出されている姿に、思わず舌打ちを漏らす。
蒼い雷を撒き散らし、周囲を好き放題破壊し続ける姿は相変わらず忌々しいものだ。
いっそのこと、勇者のところに出向くのもありかもしれない。
悔しさと絶望に歪んだ顔を見るのと、果たしてどちらが魅力的だろうか。
「ふむ……だがまあ、借りを返すことなどこの先幾らでも出来るようになる、か。ならば私のやることは決まっている」
そう呟くと、男はその場からゆっくりと立ち上がった。
指を鳴らし、揺らぎを消すと、ある方向へと視線を向ける。
そして。
――世界の反逆者・空間干渉:シャンタクの翼。
再度指を鳴らした瞬間、男の眼前には直前までとはまるで異なる光景が存在していた。
後方には横穴が広がっており、その先にある別の場所と繋がっている。
つまりは、男が立っているのはこの拠点への入り口であり、出口でもある場所、というわけであった。
ここに来たのは、無論のこと――
「――くたばりやがれ……!」
――世界の反逆者・空間干渉:バルザイの偃月刀。
瞬間、眼前で甲高い音が響いた。
蒼い雷が弾け、直後に飛び込んできた人影が吹き飛ぶ。
しかし地面に叩きつけられることはなく、そのまま地面を滑るようにして後退していく。
それと共に全身の姿が顕になり、だが見覚えのある姿であることに男が驚くことはなかった。
勇者がやってくるのは予想通りであり、だからそこで感嘆交じりの息を吐き出したのは別の理由からだ。
「ふむ……片腕を吹き飛ばすつもりだったのだが、片腕どころか無傷、か。侮っていたつもりはないのだが……直前まで姿が見えなかったのが原因か? おそらくは私の知らないアマゾネスが使うという力なのだろうが……中々興味深いな。こういう時は気配を探るのが苦手な我が身を恨めしく思うものだが……まだ近くにいるのかね?」
「はっ、わざわざお前に教えてやると思うのかよ?」
「なるほど、道理だ。だがまあ、構うまい。貴様の手足をもいだ後でゆっくりと探せばいいことなのだからな」
「あ? オレの手足をもぐだぁ……?」
「何かね? 不可能と言いたいとでも?」
「そりゃ当然だが、んなことしてどうすんだってことだよ。今までの恨みを晴らすために陰気臭く嬲るつもりだってか?」
「ふむ、それもないとは言わないが……まあ、どうせすぐに分かることだ。楽しみは後にとっておくべきだろう?」
「はっ、生憎とオレは好物は先に食うタイプなんでな……!」
「そうか……この気持ちが分かち合えないとは、残念なことだな」
言葉を言い切る前に、勇者は既に地を駆けていた。
しかし予測済みであったために、焦る必要すらない。
そもそも男達が今いる場所はそれほど広い場所ではないのだ。
どれほど早く動こうとも、移動する場所は限られている。
ならば、先読みは容易であった。
――世界の反逆者・空間干渉:バルザイの偃月刀。
その先へと、小さな空間の揺らぎを置く。
小指の爪ほどの本当に小さなものであり、だが数は十ほどだ。
気付かずに進めば身体に穴が空き、気付いたところでどうにかできないほどの大きさである。
回避する以外にすべはなく、しかし空間の揺らぎというのは元々視認しにくいものだ。
進路にある全てをかわすことは出来まい。
全ての揺らぎの位置を認識できれば話は別だが、勇者は戦闘能力に比べ特別な目などは持っていないと聞く。
全てを認識するのは不可能だろう。
問題があるとすれば、当たりどころ次第ではそのまま勇者が死んでしまうかもしれないことだが……その時は仕方あるまい。
残念ではあるが、勇者を捕らえるのは必須ではないのだ。
他の二つが成功すれば、何の問題もない。
勇者の力は、前回の戦いで把握済みだ。
これをかわすことは出来ないと、自信を持って言え――
「はっ……あんまオレを舐めんなよこのクソ悪魔が……!」
「――む? ……ほぅ?」
呆気ないものだと、そんなことすら思った瞬間のことであった。
地を駆けていた勇者が、飛んだのだ。
無論のこと、揺らぎは空中にも仕掛けてある。
だが勇者が向かったのは、前方ではなく横、壁だったのだ。
そのまま壁を蹴ると天井の方へと上り、半回転すると共に天井も蹴る。
そこで終わりではなく、さらに壁の方へと向かうと再び壁を蹴り天井へと。
地に足をつけることなく、こちらへと向かってきた。
その動きは完全に想定外であり、妨害出来るような位置に揺らぎはない。
そして気が付いた時には、勇者は目の前に迫っていた。
直後に肉を斬られる感触と、痛みが走る。
血が迸った。
「ふむ、まだ底を見せてはいなかった、か……それにしても今の動き、まるで獣だな」
「うるせえよ。勝ちゃあそれが全てだし、お前らに何かを言われる筋合いもねえよ」
「……なるほど、確かにな」
「そんで、これで終わりだ。今度は逃がさねえ」
「――残念だが、それは不可能だ」
「あ? ――ちっ!?」
男の言葉によって勇者が『それ』に気付くが、既に遅い。
――世界の反逆者・教会の加護:リザレクション。
勇者の振るった聖剣は、半透明と化した男の身体をすり抜け、地面へと突き刺さる。
苛立たしげに、勇者が舌を鳴らした。
「くそっ……一度ならず二度までもかよ……! テメエ、覚えてやがれよ……!?」
「それはこっちの台詞だがな。だが、手の内は今度こそ知れた。最早私は貴様に負けることは有り得まい」
「負け惜しみ言ってんじゃねえぞクソが……!」
「ふむ、ただの事実なのだが……まあ、すぐに分かることだろう」
別の場所で拠点を破壊していたはずの勇者がここにいるということと、明らかに揺らぎの全てを把握した上での先ほどの勇者の動き。
そのどちらもが勇者の協力者の仕業であることに違いはあるまい。
ならば次は、そこまでを想定に入れるだけのことだ。
そして、確かに先の動きは予想外ではあったが、ここで勇者に負けること自体は想定の内である。
男は満足しながら瞳を閉じ、開いた時には、眼前には見慣れた光景があった。
先ほどまでもいた、男の居室である。
距離が近いためか、今回は直接ここに跳んだらしい。
いつも通り身体には傷一つなく、やろうと思えばすぐさま勇者との再戦も可能だろう。
しかし男は敢えて、その選択を取ることをしなかった。
他にやるべきことがあるからであり、そもそも、だからこそあそこまであっさりと勇者に負けてみせたのだ。
それに……どうせ勇者もすぐにここへと現れることになるだろう。
その確信に、男は唇の端を吊り上げ……ふと、音が響いた。
この部屋へと続く扉の開く音であり、その向こうから現れた姿に、くっと笑いを漏らす。
「ふむ……どうやら、タイミングはちょうど良かったようだな」
どことなく強張ったクロエの顔を眺めながら、男は口元の笑みを深めるのであった。




