届いた音
当たり前のことではあるが、暗闇の先へといくら目を凝らしたところで、その先が見えるようになったりはしない。
幸いにもと言うべきか、アレンにはそれを可能とする術を持ってはいたが、それは諸刃の剣でもある。
たとえ一瞬だとしても、何かを行使したことに気付かれてしまう可能性があるからだ。
潜伏中である現状、下手な手は打つべきではない。
だが。
縦穴の奥を見つめていると、再び何かの音が聞こえてきた。
それが気のせいではないのは、音が聞こえた瞬間にアンリエット達も反応していたことからも明らかだろう。
最初の音が聞こえていたのかは定かではないが、アレンにつられて縦穴の奥を眺めていたのだとしても今のは確実に聞こえたはずだ。
視線を向ければ、しっかりとした頷きが返ってきた。
「何かを砕いたような音が聞こえた気がするです」
「悲鳴のようなもんが聞こえた気もするな」
アンリエットとアキラが言葉少なめに、しかも今までよりもさらに声量を抑えてそう告げたのは、おそらく向こうの音が聞こえたということはこちらの声も聞こえる可能性がある、ということを考えてのものだ。
実際には先ほどまでと同じ声量で問題はないとは思うものの、万が一のことを考慮するのは間違いではあるまい。
アレンは二重の意味での同意を示すため、頷きのみを返し――三度、音が聞こえた。
相変わらずはっきりとは聞こえないものの、先ほど同様何かを砕いたような音に聞こえる。
おそらくは、足元の地面を砕けば、こんな音となるのではないだろうか。
ただ、残響音のことなども考えれば、その場所はかなり先だ。
百メートル……いや、もっと先か。
多分この縦穴の底だ。
何が起こっているのかを確かめようにも、直接確認しようと思えば間に合うまい。
そして何が起こっているのか、大体の見当は付く。
しかし何らかの行動をするにしても、まずは確信が必要だ。
逡巡したのは一瞬。
アンリエットに視線を向けると、短く用件だけを告げる。
「一瞬だけ使う」
「フォローは任せろです」
それだけで十分であった。
アキラやミレーヌが何かを言いたげな視線を向けてくるも、しっかりと説明している暇はない。
縦穴の方に向き直ると、その奥へと目を凝らした。
――全知の権能:天眼通。
瞬間視界に映し出されたのは、二つのものだ。
褐色の肌を持つ女性と、全長三メートルほどの鷲のような姿をした魔物。
直後に『目』を閉ざし、一つ息を吐き出した。
「縦穴の底で、アマゾネスの女性が魔物に襲われてる」
「――っ!?」
その言葉に真っ先に反応を示したのは、クロエであった。
今までの乏しかった反応が嘘のように、勢いよくこちらへと顔を向けてくる。
「さすがに詳細は分からないけど、多分皆が想像してる通りだと思うよ」
「……ま、こんなとこで魔物と戯れるわけはねえわな」
考えられる可能性は二つ。
悪魔が何らかの理由であの女性へと魔物をけしかけたか、あの女性が逃げようとしたところを魔物に見つかったか。
大別してしまえばそのどちらかだろう。
そしてそのどちらであろうとも、このままではあの女性の命はあるまい。
「……間に合う?」
「このままでは無理かな。走ったところで途中で何かないとは限らないし」
「そこまで深いんですか?」
「直線距離ならそれほどでもないんだけどね」
二百メートルだろうと、直線距離と考えればそれほどではない。
数秒もかからずに到達出来る距離である。
だがここの構造を考えれば、大穴の外周を何度も行き来しなければならないのだ。
単純に距離が伸びるだけではなく、手間もかかる。
足音のことなどを無視して全速力で向かったとしても、間に合う可能性は低い。
まあ、逆に言うならば。
直線で向かえばいいということなのだが。
その場を見渡すと、アレンは肩をすくめた。
「じゃ、後はよろしく」
「……え?」
突然の言葉に、クロエは戸惑ったような声を漏らし、だがそれはクロエだけであった。
他の三人は当たり前のような顔をして頷き、そのことにクロエはさらに戸惑いを濃くしていく。
しかしアレンはそれ以上の説明をするつもりはなかった。
クロエへの説明はミレーヌ達に任せれば問題ないだろうし、何よりも時間がない。
見えたのは一瞬だけとはいえ、そう判断するにはそれだけで十分だったのだ。
そして、折角救出に来たというのに、わざわざ寝覚めの悪い選択をするつもりは毛頭ない。
それによって何か問題が生じてしまうかもしれないが、まあその時はその時だ。
その何かも含めて、どうにかしてしまえばいいだけである。
そんな決意とも覚悟とも付かないことを思いながら、アレンは地を蹴ると、縦穴の奥、暗闇の先へと身を躍らせるのであった。
「――ちっ」
轟音と共に砕かれ、飛来してきた礫を叩き落しながら、イザベルは思わず舌打ちを漏らしていた。
視線の先の地面は陥没し、たった今回避したばかりの一撃が相応のものであったことを示している。
直撃すればただでは済まず、命すらも刈り取られてしまうかもしれない。
だがそんなことはどうでもいいことであった。
いや、むしろ厭うどころか、本来ならば歓迎すべきことですらある。
アマゾネスにとって強者と戦うということは、喜びなのだ。
自分の命を一撃で刈り取れるような魔物と戦うことに、歓喜以外の感情などが湧いてくるはずがない。
しかしあくまでもそれは、本来ならば、の話である。
もう一度舌を打ち鳴らしながら、首元へと手を伸ばすが、やはりそこに嵌められたものは外せそうもない。
首輪だ。
渾身の力でどれだけ引き千切ろうとしたところで、ビクともしなかった。
首が絞められて苦しいわけではない。
だが、ある意味では苦しいと感じているのも事実か。
この首輪のせいで、イザベルはギフトが使えなくなってしまったからだ。
折角強敵と戦えるというのに、こちらは本気で挑む事が出来ない。
これほど苦しく悔しく、忌々しいことが他にあるだろうか。
「ったく、何のためにこんなことさせんのかは知らないけどねえ……せめて気持ちよく戦わせろっての……!」
叫びながら、振り下ろされた前足を掻い潜り、拳を握り締める。
確かにギフトが使えなくなったのは痛いが、戦う力の全てを奪われたわけではないのだ。
ならばあるものだけで足掻くだけだと、固めた拳を眼前の胴体へと叩き込む。
鈍い音と共に、殴った感触が腕へと伝わり――
「ちっ……やっぱ駄目かい……!」
明らかに衝撃が伝わりきっていない感触であった。
おそらくは大した痛みすらも与えられていないに違いない。
即座にその場から離脱し――一瞬、意識が飛んだ。
「ごっ……!?」
吹き飛ばされた、ということに気付いたのは、背中に感じる感触と全身に伝わる鈍い痛みからである。
しかしそれが分かっても、意味は分からなかった。
魔物の動きには細心の注意を払っていたのだ。
あのタイミングであれば、前足だろうと後ろ足だろうと、魔物が攻撃してくる前に離脱出来ていたはずである。
だというのに何故、と思いながら魔物がいるだろう方向へと顔を上げ……思わず、口の端を吊り上げていた。
「は、ははっ……なるほどねえ……アタシは『それ』で殴り飛ばされた、ってわけかい」
視線の先では、魔物の外見がつい先ほどまで見ていたのと違うものになっていた。
翼を広げていたのだ。
そのせいで、全長は今までの三倍ほどになっている。
鳥型であるのを考えれば、当然の姿ではあるのだが、今まで翼を広げる素振りすら見せなかったので、完全に油断してしまっていたようだ。
「まったく……ざまないねえ」
こっちが本気を出せないから、向こうも本気ではこないだろうと無意識に考えてでもいたのだろうか。
いや、あるいはイザベルが油断したというよりは、あの魔物が油断しなかった、ということなのかもしれないが。
だが何にせよ、結果は結果だ。
そしてどうやら今の一撃は割と致命であったらしい。
痛みが走るばかりで、ろくに身体が動く様子はなかった。
ギフトが使えれば無理やりにでも動けたかもしれないが、言っても詮無きことだ。
「ああ、くっそ……悔しいねえ……」
戦場で散るのは本望だ。
アマゾネスにとっては誉れでしかない。
しかしだからこそ、こんな不本意極まりない形で死ぬのは、アマゾネスにとっては最悪に近かった。
せめて今からでもこの首輪を外せと叫びたいものの、言ったところで無意味だろう。
そんなことをあの悪魔共が聞くわけがない。
唐突に故郷を攻められ、殺されると思ったら何故か奴隷として連れられ、地面を掘ったり不本意な力仕事をさせられたと思ったら、その果てがこんな死か。
まったく以てやってられない。
そもそも、何故この魔物と戦わさせられることになったのかもよく分からないのだ。
見せしめとか言われたが、一体何に対してかも分からない。
不本意とはいえ皆真面目にやっていたはずだが……まあ、悪魔共が理不尽なのは今に始まったことではないかと思い直す。
思い直したところで何がどうなるわけでもないが。
結局のところ、イザベルに訪れる結末は変わらない。
それでも、ジッと魔物のことを見つめていたのはせめてもの意地だ。
ここで目を逸らすような惨めなまねなど、アマゾネスの一人として出来るわけがない。
視線の先で、魔物がゆっくりと翼を持ち上げる。
あそこからでは距離がありすぎて届くことはないだろうが……おそらくは何らかの遠距離攻撃の手段でもあるのだろう。
最後まで油断の一つもしないのは、魔物でありながらも天晴れであった。
惜しむらくは、本当にそんな魔物を相手に全力で戦えなかったことだ。
そのことだけを悔い……仲間達はせめて悔いのない死を迎えて欲しいと、不可能だろうと分かりきっていることをそれでも思い――その瞬間のことであった。
翼を振り下ろそうとした直前で、その身体が真っ二つに両断されたのである。
「…………は?」
思わず呆然とした間抜けな声を漏らし、その直後。
上空から落ちてきた何かが、イザベルの目の前へと着地したのであった。




