使徒と英雄
詳しい話はまた後ですると言って、カーティスは牢を後にした。
残ったのはがらんとした空気であり、アンリエットは誰もいなくなった空間を眺めながら、何となく溜息を吐き出す。
「さて……どうしたもんですかねえ」
正直なところ、カーティスの提案はどうでもいいというのが本音であった。
誤解されることを承知の上で言うのであれば、アンリエットは帝国などどうなってもいいのだ。
誰が皇帝になったところで構わないし、カーティスが皇帝を目指すというのであれば好きにすればいいと思う。
可能であるかはまた別の話ではあるが、そんなことは言われるまでもあるまい。
やりたいようにやればいいのだ。
ただ――
「手伝えって言われても……ワタシにはそんなことする理由がねえですしね」
アンリエットが帝国に虐げられていたというのは、ある意味では事実だ。
名目上とはいえ侯爵家の当主なので直接的に何かをされることこそないものの、パーティーに行けば基本的に無視された上で聞こえるような陰口を叩かれるし、まるで襲ってくださいと言わんばかりの無防備さで他国のパーティーに連れ出されたこともある。
まあ後者に関しては、アンリエットがいなくなった場合、叔父達が暴走する可能性が高いと理解したのか、すぐに他国に連れ出されること自体がなくなったが、その代わりとばかりにあの街に押し込まれるようになった。
名目上の理由は色々あれども、結局あれは体のいい軟禁であり、ある種の生贄だ。
ラウルスが攻め込まれた場合、次に狙われるのは間違いなくアンリエットの住むあの街だからである。
狼煙代わりであり、多少でも足止めになればということで、アンリエットはあそこに住まわされているのだ。
それらを理由にして虐げられていると言われたら、少なくとも否定することは出来まい。
だが。
「ぶっちゃけどうでもいいですしねえ」
気にしていない、というのとは違う。
文字通りの意味で、どうでもいいのだ。
勿論恨んでなどはまったくいないし……敢えて彼らに対する感情を言葉にするのであれば、それはきっと呆れというものになるだろう。
子供がやらかした悪戯を、仕方がないなと見守っている大人。
アンリエットにとっての帝国とは、そういうものなのであった。
そもそもアンリエットがその程度のことしか思わないのは、納得しているからだ。
彼らがやってくる『悪戯』のことではなく、自分がそういう立場に立たせられているということを、である。
理由は単純にして明快。
ある意味でそれは自業自得でしかないからだ。
帝国はあくまでも、帝国としての利益を最優先とする。
寛容なのはその方が利益となるからであり、決して慈悲の心からではない。
逆に言えば、利益が上となれば余裕で非道な行いもする、ということだ。
幸いにもと言うべきか、基本的にそういったことはないのだが……アンリエットの知る限り、一度だけあった。
エルフを強引に自国の戦力として加えようとしたのである。
それは、理解出来る行いではあった。
それだけエルフという種は、精霊石などのことも含めて、戦力とした方が有益なのである。
エルフの帝国に対する感情が悪化することや、エルフ同様に取り込んだ他国、他の種の者達に疑惑を与えることになったとしても、結果的に帝国のためになると判断したのだ。
繰り返すことになるが、その判断はアンリエットにとって理解出来る行いであった。
しかし。
納得出来るかは話が別であった。
だから、アンリエットはほんの少しだけ手を回して、邪魔をすることにしたのだ。
その行動にどれだけ意味があったのかは分からないが、結果としてエルフは現在のようになり、アンリエットは疎まれるようになった。
故に自業自得であるという、そういうことである。
アンリエットが自身に対する行いをどうでもいいと感じているのも、ある種責任のようなものを感じているからで……いや、でもそれは、理由の半分程か。
残りの半分は、結局のところアンリエットは使徒だから、ということなのだろう。
使徒は神の僕であり、神の命に忠実に従うだけのモノだ。
神と同様人類よりも高次元の存在ではあるが、神の命のみが絶対であり、また唯一でもある。
意思はないに等しく、意味もない。
ただ神が自らの理想を実現するための道具。
それだけのはずであった。
アンリエットがいつからアンリエットであったのか、実のところよく覚えてはいない。
最初の記憶は曖昧で、覚えているのは下の世界をぼんやりと眺めていたところだ。
使徒には多くの権限や能力があるが、その大半は基本的には封印されている。
必要のないところで余計な干渉をしないためで――するかどうかはともかく――しかし逆に言えば、干渉することにはならない能力は封印されなかったということだ。
下の世界――人類の世界を覗き見る能力は、その一つであった。
下とは言うものの、文字通りの意味で下にあるわけではなく、あくまでも便宜上の言い方だ。
使徒や神の住む世界は別次元にあるため、下を向く必要はない。
その場に座りながら、他の使徒たちと同じように、ぼんやり虚空を眺めるようにしてアンリエットは人々のことを眺めていた。
その能力は本来、神の命を実行するためのものである。
使徒は時に世界へと降り立つこともあるが、基本的にはしない。
上位の存在である使徒が降り立つということは、それだけで世界の均衡が崩れやすくなってしまうからだ。
神の手伝いをするために神のやることを増やすなど本末転倒である。
そのため使徒には、世界を移動しなくとも力を振るい声を届けられるよう、世界を覗き見るための目が与えられているのだ。
そして何故使徒達がそんな目を使って世界を眺めているのかと言えば、暇潰しのため……というわけでは、ない。
それもまた、神のためであった。
使徒は神とは異なれば人とも異なる存在だ。
思考形態が異なれば価値観も違う。
使徒は使徒である以上当たり前のことであり……だが、時にはそれが理由で取り違えが発生してしまう事がある。
神の意図していたこととは、望んでいたこととは異なる結末に至ってしまうことがあったのだ。
それは神の意図を使徒が読み違えてしまったということが原因の時もあれば、人類側の行動を読み違えてしまったことが原因の時もあった。
だから、使徒達は何もすることがない時は人類のことを眺めるようになったのだ。
そうして眺め続け、人類のことが理解出来るようになれば、取り違えが発生する可能性は今よりもずっと低くなるだろうから。
ただ、人類のことをどう眺めるのかは、使徒によって異なった。
人類の集団――村や街といった単位で眺める者もいれば、国で眺める者もおり、あるいは無造作に選んだ場所を眺める者もいる。
しかしアンリエットはそのどれでもなく、誰か一人の人間を眺め続けることを選んだ。
何故アンリエットがそうしたのかは本人も自覚してはいなかったし、それは他の使徒達も同様だろう。
選んだ対象の違いが個性の発露などということには、きっと誰も気付いてはいなかった。
だが気付こうが気付くまいがやることに違いはなく、ともあれアンリエットは数多いる人類の中で一人を選んでは眺め続けていたのである。
それは無作為に選んでいるようにも、そうでないようにも見えたが、少なくとも最初の頃のアンリエットにその自覚はない。
他の使徒達と同じように、神のために人類を眺め続けていると、そう思っていた。
自覚し始めたのがいつだったのかは、記憶にない。
それでも自分の心が波打つ瞬間があることだけは、知っていた。
それは……自分が眺めていた人物が、死ぬ瞬間だ。
使徒に、寿命というものはない。
そんな使徒から見れば、人類というものはあっという間に死んでしまう。
そもそも寿命で死ねる者の方が稀だ。
さらに言えば、アンリエットが見ていた者達の中で、寿命で死ねた者はいなかった。
誰かから殺されるか、自ら死を選ぶか。
そのどちらかしかいなかったのである。
無論その世界の全ての人間がそうだったというわけではなく、寿命で死ぬ者も多くいた。
あるいは自分が常に誰かを眺めているとは限らないということもその一因なのだろうか、ということに気付いたのは、さていつのことであっただろうか。
アンリエットは、常に誰かのことを眺めていたわけではない。
眺めていた誰かが死ねば次の誰かを探すが、眺めようと思える者がおらず、誰も眺めないままに呆としていることも多かったのである。
時にはその時間の方が長いことも多く、それは世界に争いが少ない、平和な時であればあるほど顕著な傾向となった。
そんな状況に変化があったのは、アンリエットがとある物の存在を知ったからである。
いや、以前から存在その物は知っていたのだが……正確な意味で認識した、といったところだろうか。
ともあれその存在を知ったことにより、アンリエットの生活には変化が生じたのだ。
その物の名は、本といった。
これまたその時は理由が分からなかったのだが、アンリエットは本というものに酷く興味を引かれたのである。
使徒は世界に降り立たなければ物に干渉することは出来ないが、本程度であれば転写することが可能だ。
そうしてアンリエットは眺める者がいない時には本を読み……どっぷりとはまった。
世界中の本を取り寄せようとも、使徒の時間は文字通りの意味で無限だ。
確実に読み終えてしまう方が早く、だが幸いにも世界もまた無限にあった。
アンリエット達の神が運営している世界は一つだけなのだが、他にも沢山の世界が存在しており、使徒達はそれらの世界も眺める事が出来たのである。
世界によって人の価値観等は異なるため、眺めたところで神の役に立つことはないと、他の使徒達は注意を払うことはしなかったが、アンリエットにとってはそれらの世界は十分以上に価値のあるものであった。
無数の書物がそれだ。
転写も可能であったために、アンリエットは幾らでも本を手に入れる事が出来るようになり……ただ、そこには落とし穴も存在してはいた。
先に述べた通り、世界によって価値観というものは違うのだ。
当然その価値観は本にも表れ……端的に言ってしまえば、アンリエットには合わない本が沢山あったのである。
だが幸いにも、とある世界の価値観はアンリエットにとって非常によく合うものであった。
アンリエットが自分の抱いているものが何であるのかを気付いたのも、その世界の書物を読み進めていったことが理由であり……その世界がアレンの出身世界であったのは、ある意味運命だったのかもしれない。
アンリエットが抱いていたものとは、簡単に言ってしまえば怒りであった。
理不尽に対する怒りであり、嘆きだ。
その結末が、あまりにも報われていなかったようにしか見えなかったからである。
そしてアンリエットが眺めていた者達の共通点についても、その頃には理解し始めていた。
アンリエットが眺めていたのは――所謂、英雄と呼ばれる者達だったのだ。
彼らの人生を眺めることは、心が躍った。
理不尽を打ち砕くその姿に、悲劇が塗り替えられるその光景に。
神のためではなく、純粋にアンリエット自身が、そういったものを眺めることを好んでいたのだ。
アンリエットが好んで読んでいたのも、英雄譚などと呼ばれるものであった。
英雄達の活躍を、悲劇が覆される瞬間を読んでいる時は、いつだって胸がすく。
しかし同時に、一つだけ気に入らない事があった。
それが、英雄達の最期……その死だ。
英雄達にはいつだって、非業の死が訪れる。
それが世界の理であり、最後に帳尻を合わせるが如く、それまでの華々しさから一転して英雄達は悲惨な死を迎えるのだ。
信じていた誰かに裏切られて、あるいは敵の狡猾な罠に嵌って。
彼らは無残に散っていく。
物語の中だけであるならば、まだよかった。
だがアンリエットが直接眺めていた英雄達もまた、同じような結末を迎えていたのだ。
アンリエットには、そのことがどうしても、我慢ならなかった。
とはいえ、所詮アンリエットは使徒である。
何をどう思ったところで、どうすることも出来ない。
否、そもそもそんなことを考えること自体がおかしいのだ。
少なくとも他の使徒はそんなことを思いはしない。
もしかしたら自分は壊れているのではないだろうかと、そんなことをすら思い――世界を救うため、一人の英雄を導くよう言われたのは、そんな時のことであった。
そしてアンリエットは英雄に出会い――
「ま、今はこんなことになってやがるわけですが」
結局のところ、アンリエットが帝国や自分自身のことをどうでもいいと思っているのは、その根底に自分は使徒だという認識があるため……言ってしまえば、自身は物語の添え役であると考え、意図的に度外視しているのである。
帝国がどうなろうとも、それは自分が関わることではないから、あるがままにあり、なすがままになせばいい。
しかし、エルフが不幸になることは気に入らなくて……特に問題だったのは、別にそんなことをする必要はなかったということである。
確かにエルフを強制的に働かせれば帝国は楽になるだろうが、必須のことではなかったのだ。
だからほんの少しだけ介入した。
それだけのことなのだ。
そういったことがなければ、どんなことが起ころうとも、それが誰かの意思の結果であるならば、アンリエットはそれを許容する。
何故ならば、元使徒だという以上に、自分は本来ここにいるべきではなかったからだ。
アレンと共に転生したのは、要するにアレンのことが心配だったからである。
気になったからだ。
言ってしまえば単なる我侭であり、アレンがどうなるのかということにしか関心がない。
そしてアレンは相変わらずのようではあったが、この世界では問題なく幸せになれそうであった。
だから……だから、アンリエットは、もうどうでもいいのだ。
出来れば最後まで見届けたかった、という思いは確かにあるものの、それだって絶対ではない。
アレンは大丈夫だという確信を得られたから、満足であった。
まだまだ危なっかしいところはあるけれど、彼は一人ではない……なくなったのだ。
一人で嘆き、苦しみ、悲しむことはなく、自分が隣に立つ必要はない。
それが分かったのだから――
「もう、ワタシにやることはねえです」
残った問題は、カーティスが何をやろうとしているか、というところだろうか。
どうにもアレンのことも巻き込んでしまったようだし……とりあえず、最低限の始末ぐらいはつける必要があるだろう。
それが終わったら……その時、自分がどうなっているかは分からないけれど――
「また使徒に戻るってのも、悪くはねえですかねえ。……まあ、戻れるのかは知らねえですが」
何せアレンを転生させることはともかく、自分に関しては完全な独断だ。
むしろ罰が待っていたところで不思議はない。
「……ま、その時はその時ですかね。どうなったところで、結局は大差ねえような気がするですし」
そんなことを呟きながら、アンリエットは虚空を眺めつつ、目を細める。
かつて使徒であった頃、そうして英雄のことを眺めていたように、何をするでもなく。
ただ呆と、まるで他人事のように、これからの自分のことを考えるのであった。




