地下牢
周囲の光景を眺めながら、アンリエットは思わず溜息を吐き出していた。
何せつい先ほどまでの、ある意味優雅な生活とは一変してしまったのだ。
溜息の一つや二つ吐きたくもなるものだろう。
アンリエットが今いる場所は、先ほどいた場所同様、窓のない部屋であった。
ただし絨毯などという気の利いたものは地面に敷かれていないし、椅子こそあるものの、先ほど座っていた物に比べれば大分質は落ちる。
いや、そもそも鉄格子があるという時点で、あの部屋と比べるのは間違ってはいるのだが。
そう、アンリエットがいるそこは、牢屋であった。
「噂に聞いたことはあったですが……帝城に地下牢があるってのは本当のことだったんですねえ」
皇族が何かをやらかしたり、あるいは表に出すわけにはいかない者を収容するために存在している、などというよくある都市伝説じみた話はどうやら事実であったようだ。
おそらくは地下牢の存在だけではなく、その内容に関しても。
というのも、確かに絨毯やら調度品やらはないものの、牢というイメージから来る薄暗さやジメジメした様子とは程遠いからである。
明かりはしっかりと隅々まで届き、椅子の質が落ちるとは言ったが、あれは単純に元の質が高すぎただけだ。
一般人からすればまだ高級に分類される椅子であり、ベッドまで完備されている。
下手な宿に泊まるよりも快適に過ごせそうであった。
「貴賓……それも、相当高位な立場のやつが入る用の牢屋ってとこですね」
牢である以上、あまり快適すぎては意味がない。
だが皇族などを一般人と同じ牢に入れるのは色々な意味で無理だ。
だからこそこんなものが作ってあるのだろうが――
「問題は、アンリエットはこんなとこに入るような立場じゃねえってことですかねえ」
アンリエットは所詮名目上の侯爵家の当主でしかない。
爵位こそ序列で言えば第二位ではあるものの、自身の影響力で言えば侯爵家の中では最下位だ。
下手をすれば伯爵の中にも負ける者がいるかもしれないという、その程度でしかないのである。
皇帝暗殺の重要参考人ということになっているとはいえ、ここまでの扱いをされるというのは、いっそ不気味ですらあった。
「――不気味っていうのは酷いな。どうせなら快適に過ごせた方がいいだろうって考えただけだってのに」
「っ……!?」
唐突に聞こえた声に、適当に遊ばせていた視線を反射的に正面へと向けた。
まるで気配を感じなかったが、これは油断していたというよりは感覚のずれが原因だろう。
今のアンリエットは、特に拘束などを受けてはいない。
しかしそれは単純に、その必要がないからである。
貴賓向けとは言っても、やはりここは牢なのだ。
特殊な材質で特殊な作りをすることにより、この中ではギフトを上手く使えないようになっている。
問題なのは、この、上手く使えない、というところであり、決してギフトを封じたりするわけではないというところだ。
そのせいで、ギフトを使わない――否、ギフトを使えないアンリエットにまで影響が及んでしまっている。
アンリエットはアレン同様、前世の、使徒であった頃の力を使うことが出来るのだが、手足と同じような感覚で使っているそれに僅かなずれがあるため、全体的な感覚が狂ってしまっているのだ。
まあ、しばらくすれば慣れてくるだろうが……ともあれ。
声と共に現れた姿に、アンリエットは目を細める。
声の時点で分かってはいたが、見知らぬ人物であった。
リゼットでは無論ないし、そもそも性別からして違う。
鉄格子の向こう側に立っているのは、自分と同年代だろう少年であった。
ただ少し気になるのは、先ほどかけられた声からは親しみのようなものが感じられたことだろうか。
だが顔をじっくり眺めたところで、やはり見覚えはない。
訝しげに見続け……少年がふと、苦笑を浮かべた。
「ま、やっぱ分かんないか。最後に会ってから俺も随分変わったからな。でもどうだよ姉さん、見違えただろ?」
「姉さん……?」
そこでアンリエットが眉根を寄せたのは、アンリエットには弟は勿論のこと、従弟などもいないからだ。
唯一の血縁が叔父であり、少なくともアンリエットが知る限りでは他にいない。
アンリエットの姉と呼ぶ者など――
「……あれ? そういえば……」
昔自分のことを、そう呼んだ者が一人だけいた気がする。
そのことを思い出した瞬間、ふっと脳裏に当時のことが蘇った。
記憶にある顔と目の前にある顔はまるで重なることはなかったが……その目元だけは僅かに面影が残っているような気もする。
「カーティス、でやがるです……?」
言った瞬間、少年――カーティスは破顔した。
本当にその顔は嬉しそうであり……しかし、アンリエットはさらに眉をひそめる。
この少年がカーティスだというのであれば、この場にいるのは有り得ないことだからだ。
「……どうしてオメエがここにいやがんです? カーティス――カーティス・ハルネス・ヴィクトゥル」
ヴィクトゥル帝国の中において、ヴィクトゥルの名を持つ意味など決まっている。
即ち、皇帝の血を継ぐ者……カーティスもまたその一員だということであった。
「残念だけど、それは既に俺の名じゃない。今の俺は、カーティス・リューブラントだからな」
「はい……? 確かにオメエが養子に出されるって話は聞いたことがあったですが……どうしてウチなんです?」
「そんな不思議に思うことか? 皇族の使い道は確かに沢山あるが、生憎と俺に利用価値なんざ大してない。だからお前んとこに使われたってわけだ。お前の叔父達は正当性を欲してたからな。程よくあいつらを満足させるために俺はちょうどよかったってわけだ」
「それは……まあ確かに、納得出来る話ではあるですが……」
カーティスは皇帝の血を引いてはいるものの、厳密な意味では皇族ではない。
母親が庶民の出だからだ。
皇族ではないというよりは、皇族として認められていない、といった方が正確かもしれない。
そしてだからこそ、カーティスの言ったことは正しいのだ。
皇族であれば他の国との婚姻であったり国内の有力者との結びつきを強くするために使えるが、カーティスは下手に使えないのである。
皇帝の血を引いているということは、それを利用してどこかで火種となってしまう可能性があるし、かといって皇族と認められていないために他の皇族との結びつきは皆無に等しい。
我侭な子供を満足させるための玩具代わりに使うのが精々であり――
「ああ、俺のことを気にしてくれてるんなら、そんな必要はまったくないぞ? むしろ俺は、ようやく姉さんと同じ名を名乗れるようになれて嬉しいぐらいなんだからな」
「……そういえば、昔もんなこと言ってやがったですね」
そもそもカーティスがアンリエットのことを姉と呼ぶようになったのは、確か目元が似ているとか言われたのが理由だったはずである。
昔会った際に少し世話をしてやり、それが原因で懐かれたのだが、アンリエットの後ろをちょこちょこ歩いてきているカーティスを見て誰かがそんなことを言ったのだ。
それで、ならば姉と呼ぶとか言い出して、可能ならばアンリエットと同じリューブラントの名も名乗りたいとか言ってもいたのだが……子供の戯言ではなく、今の今まで覚えていたということらしい。
「ま、姉さんにとっちゃあんなのは何でもないことだったんだろうけどな。でも……俺にとっては人生を一変させたような出来事だった」
「さすがにそれは言いすぎですよ」
アンリエットがカーティスの世話をしたのは、さすがに少し目が余ったからだ。
皇帝の血を継いでいながらも……あるいはだからこそ、当時カーティスはいじめのようなものを受けていた。
それが見ていられなかったから軽く介入したという、それだけのことである。
「ま、そんなことよりですね、それでオメエは一体何しにこんなとこに来やがったんです? いえ……どうやってアンリエットがここにいるってことを知って、どうしてここに来れたんです?」
アンリエットがここにいることを知っているのは、黒狼騎士団を除けば、公爵家当主と皇族ぐらいのものだろう。
その誰もが情報を漏らすとは思えない。
特にカーティスは今や侯爵家の養子だという。
ならば尚更そんな人物に情報を流す理由はあるまい。
一瞬何か頭に引っかかるものがあったが、それが形になるよりも先に別の疑問が形になる。
即ち、カーティスが何故ここに来れたのかだ。
帝城は皇族のためのものであるため、皇族でないカーティスが出入り出来るわけがないのである。
一応アンリエットや公爵家当主達がそうであるように、許可さえもらえれば出入りそのものは可能だが、そのためには皇族全員の許可が必要だ。
しかしカーティスは皇族の年長二人から特に嫌われている。
帝城の出入りも禁じられているはずで、だからここに来れるわけがないのだが――
「ん? 何だ、そんなことは単純な話だろう? ――黒狼騎士団を動かしてたのは俺だ。だから、お前がここにいるってことを知らないわけがない」
「……黒狼騎士団は皇族じゃなければ動かせないはずですが?」
それは契約のギフトによって定められたことだ。
例外はない。
しかもギフトに縛られている時点で、自分の意思でどうにか出来ることではないのだ。
カーティスがどれだけ命じたところで、その命令を聞くことはできないはずなのだが……。
「ああ、それは厳密に言えば間違いだ。正確には、皇帝が認めた者でなければ、だからな」
「……つまりオメエは、認められたってことですか?」
「そういうことだ。念のためだったんだが……ま、備えあれば、ってやつだな」
瞬間、点と点が繋がった。
まだまだ分からないことは多いものの、一つだけはっきりとしていることがある。
それは――
「……なるほど、オメエがアレン達をここまで連れてきた挙句、色々間違ったことを教えてたってわけですね」
「あれ、気になるほうはそっちなのか? まあそれに関してはその通りだと言っておくがな。それにしても、お前と会ったってのは本当だったのか。本当に得体の知れないやつだな……念のために遠ざけといて正解だったな」
「……オメエ、アレンに何しやがったんです?」
「俺程度でどうにか出来るやつかよ、あれが。戦闘力を測るつもりでこっそり覗き見してたが、意味が分からなすぎて寒気がしたぜ? ま、とはいえ……どんだけ強かろうが、一人で出来ることには限度があるわな。そういう意味では、俺がここに来れた理由も同じか? どれだけ反対してたところで……反対出来なくなっちまえばそれまでだしな」
「っ……オメエ、まさか……!?」
「ああ、勿論力尽くでどうにかしたってわけじゃないぞ? それだと言ってることが矛盾するからな。まあただ……力を見せてないとは、言ってもいないが」
要するに、脅すか何かをしたということなのだろう。
まあ、正直皇族に何をしたところでアンリエットにとってはどうでもいいのだが……アレンに何かをするつもりだというのであれば、話は別だ。
アレンが脅し程度でどうにかなるとは思えないが、アレンだって無敵ではないのである。
何をするつもりだという意味も込めて睨みつければ、カーティスは困ったような顔で肩をすくめた。
「そう睨まないでくれよ、姉さん。それも全て姉さんのことを思ってやったことだったんだぜ?」
「アンリエットのことを思って? アンリエットがここでこうしてるのは、全てオメエのせいだってのにですか?」
「まあさすがにそれも理解してるか。だがその通りだ。勿論姉さんのためだけとは言わないし、どちらかと言えば俺の都合の方が大きいかもしれない。それでも、姉さんのことを考えてってことは決して嘘じゃないぞ?」
その言葉に嘘はないように感じられた。
だが、信じられるかどうかはまた別の話だ。
真意を見定めるように目を細め、眺める。
「……オメエは一体、何がしてえってーんです?」
「俺のやりたいこと? そんなの決まってるさ。俺は皇帝になりたい……いや。俺が皇帝にならなきゃならないんだ」
「ならなきゃならない、です? 皇族がいるじゃねえですか」
「あいつらじゃ駄目だ。いつまで経っても皇帝を決めることが出来ないあいつらじゃ、この国は任せられない。だから……」
そう言いながら、カーティスは真っ直ぐな目を向けてくる。
そして。
「だから、姉さん……俺に協力してくれないか? この国を手に入れるために。それはきっと、姉さんのためにもなる。この国で虐げられ続けてきた、姉さんのために」
その目と言葉に熱を灯しながら、そんなことを言ってきたのであった。




