*第四話*
私は周りを見回して、この列に並ぶ、他の人間の様子を伺ってみた。密かに恐れていた通り、みんなが白い目でこちらを見ていた。確かに、この期に及んで私がヘマをしても、憲兵に連れ出されることになっても、弁護をしてくれる人やかばってくれる人はいなさそうだった。周囲は皆ライバルだと思えという声が雲の上から届いてきそうだ。
「この列に並んでいる人達は、他人とはいっさいつるまないで、一人で並んでいる人が多いようですが、何か明確な理由はありますかね。それとも、道の向こうに早く辿り着いて栄光を得る、ということは、友情より大切だと言うのですか?」
「その通り、誰だって、今現在自分がいる場所を守るために必死なのです。あなたのように道路を渡ることだけに熱心な人は他にいませんよ。もっと、足元を見て歩みなさい。私だって、堅実に歩みながらも、未来を見据えます。いつしか、道路の向こうに辿り着くことができたなら、今度こそ、あの大きな魚を釣ってみせます」
学者は声に力を込めてそう言ったが、私はその意味が理解出来ず、すぐに聞き返した。
「うん、大きな魚ですって? それは何かの例えですか?」
「違いますよ。この先の試練の話です。まあ、あなたはこれまでの言動から察するに、ここから先に待ち構えていることを、何にもご存知なさそうだから、よろしければ、この先の試練について少しだけ教えて差し上げましょうか?」
学者ふうの男は顎を少し上に向けて、私を見下すようにそう言ってきた。最初は嫌みをぶつけてくるだけの存在だったので、とてもじゃないが、近しくはなれそうもないと思っていたが、長いこと話しているうちに、私の単純な性格の裏に隠されている臆病な性格の方に親しみが湧き、打ち解けてきたのかもしれない。それとも、自分だけが隠している、と思い込んでいる秘密というのは、長い間、保管しているうちに、自然と他人に教えたくなってくるのかもしれない。
「この先のことを具体的に知っているんですか? そういうことであれば、ぜひ、教えてくださいよ。私はというと、ここから先の情報を何も持っていないのです。このまま、無防備なままで道路を渡るのでは、不安で仕方がない」
「うんうん、そうでしょう。いつか、あの信号は変わると、仮定しなければなりますまい。道路を渡り切れば、いっさいの間合いを置かずに、すぐに試練が始まるのです。このまま、あなたに何も知らせぬまま、その競争に持ち込めば、情報を持っている私は非常に有利になります。並び順の近いあなたにだって容赦はしませんからね。私には情報があるだけで、上から見下ろすような優越感がある。しかし、今のままでは、無知なあなたがあまりにも不憫に思える。先のことをすっかり見通しながら、待ち受けている様々な障害に対して、どんな手段で挑むかを、常に想定しながら、並んでいる人間には、あなたのような未来の予測をまるで持たない人間が、まるで大雨の道路わきに捨てられた子犬のように、とても哀れに思えるのです」
「おっしゃる通り、人生を賭けた試練だというのに、それが、下手をすると、あと数分後に迫っているかもしれないのに、それなのに何の準備もなく、焦る心さえ持たずに、ここに並んでいる、無知蒙昧なる人間たちは、道路を渡り終えてから、いきなり競争ですよ、と言われても、とても対応はできないでしょう。完敗を見越して戦うようなものです。真っ赤なマントをまとって大量の雌牛で充満した牧場の中を走り回るようなものです。反省をしろと言われれば、今からでも、素直に懺悔します。少しでもいいですから、試練の内容を教えていただけませんか?」
「よくわかりました。そこまで真剣に考えているなら、教えて差し上げますよ。実はですね、私は若い頃に一度道路の向こう側に渡ったことがあるのです。驚きましたか? まあ、その時のことはあまり詳しくは申しますまい。人生経験浅い頃の話というのは、話すごとに自分の恥になりますからな。まあ、とにかく、先に拡がる、希望の世界を垣間見たわけです。はっきり申し上げて、目が眩みましたよ。しかし、人生とは十中八九上手くはいかないものです。私はそこで不慮の事故に巻き込まれて、憲兵に睨まれてしまい、大きく順位を下がることになってしまったのです。今、こんな落ちぶれた位置にいるのは、そのためです。順位を落とした理由? 決して、誰が悪いわけでもないですがね。その原因は、実は、これなんですよ」
学者ふうの男はそう言って目配せをすると、私の顔の前で小指をピンと立ててみせた。今は立派に見える彼も、若い頃はかなり危険な橋を渡っていたらしい。そんな無邪気な失敗を犯していたにも関わらず、彼は少しも過去の行いを恥じずに、堂々としているではないか。
「まあ、過ちを犯して、順番を下げられてしまう人の多くは、やはり、これに足を取られるようですな。人生の旬を迎えた女の魔力は凄いものです。一日に数万人の死者がでる戦場において、冷や汗一つ流さず、地雷を上手く避けて進むベテランの軍人も、さすがに、これには引っかかりますからな」
学者は意味深にほくそ笑みながら、小指を左右に振りつつ、少し嫌らしい目つきでそう言った。
「道路の向こうの試練では、ついに、異性からの誘惑まで絡んでくるというのですか?」
「そういうわけではないです。与えられる課題はいたって真面目なものなのですが、競争する相手には、当然、異性もいますからな。どうしても手心を加えてしまうというか……。まあ、後々のことを考えての下心が出てしまうものですよ。誰しも心に秘めている、異性への小さな優しさは、ばれなければ、まったく平気なのですが、あなたもご承知の通り、この列の中には堅物が多くて、そういう破廉恥な行為には総じてうるさいですからな。まあ、これは余計な話になるかもしれませんが、異性との付き合いには、もっと、おおらかな列もあるんですよ。向こうに見えている白人の列なんて、女性にならば、自由に順番を譲ってもいいそうです。最近の言葉で、レディファーストとか言うそうですがね」
「他人に自分の地位を譲るなんて、この列では絶対に起こりそうもないですね。それどころか、この列では、前の方で幅をきかせているのは、ほとんど男性ですね」
「まあ、当然のことですが、男性の方が機転も利くし、ずる賢くて、目ざといので、ルールに抜け道を見つけやすいですからな。どんなに険しい関門でも、効率の良い進み方を見つけることが、特に上手いですな」
学者はそう言って、右手で口元を抑え、ほくそ笑んだ。自分の過去の経験の中に、男性の特権を利用して、得をした記憶を呼び覚ましたらしい。異性への優しさとは口ばっかりであり、いつも、女性を助けている、というわけではないらしい。人間なら誰だって、大事な局面においては、薄汚れた道を選ぶこともあると、そう言いたいようだった。
「そうそう、話が逸れてしまいました。たしか、道路の向こう側の世界を教えるという約束でしたな」
「はいはい、ぜひ、お願いします」
私はその話に飛びつくように、彼に顔を近づけた。
「私の記憶の中では、道路の向こうの景色は、常に真っ白でしてな。わかりやすく言うと、霧が立ち込めておるんですよ。よく前が見えません。視界がよくないということは、不安とか期待とか、様々な錯覚を呼び起こすわけです。それが普通の状態なんです。ただ、何も見えなくとも、落とし穴は常にあります。それは、今までと一緒なんです。まずは、足元に気をつけなければなりませんよ。道路を渡り終えた瞬間から、そこは東洋風の大きな庭園になっているはずです。様々な神々の胸像が飾られている。広大な芝生の中を、複雑な迷路のような小道が奥へと続いています。視界は悪いですが、前へ前へと道なりに進んでいくと、そこには天空を貫く豪壮な宮殿と、その脇に巨大な池があるのです。宮殿の前にテントが張ってあって、そこが身分の登録所になっています。つまり、そこまで、この大行列は続いているわけです」
「そこで、いよいよ試練が行われるわけですね? いったい、どんなことで競い合うのですか?」
私はいても立ってもいられず、身を乗り出して質問した。
「まず、宮殿前の先ほど説明した登録所で身元の調査が行われます。本当にここまで辿り着ける器の人間なのかがそこで調べられるわけですな。順番の不正操作などがありますと、そこですべてばれてしまうわけです。調査を通った人には釣竿が渡されます。そして、庭園の中央にある大きな池で釣りをするわけです」
「釣りで競うのですか? いやはや、簡単なことで良かった。そのくらいなら、何の特技のない私にも出来そうですね」
「ここから先が重要なんです。まあ、落ち着いて聞きなさい。池の中には三種類の魚がいます。それぞれ色分けされていて、金と銀と銅です。大きさも様々です。この池にいる魚は特別で重さという概念はありません。釣竿にかかれば、誰にでも持ち上げられます。当然、大きい魚の方が価値があるようです。一匹でも釣れたら各々、宮殿前のテントまでそれを持って行き、評価を受けたら次の試練に進めるというわけです。そこから先はまた行列になります。この試練によって、人数はだいぶ少なくなりますけどね」
「一匹でも釣りさえすれば、取り合えず先へは進めるわけですか?」
私は学者さんの説明を一度遮って質問をした。
「単純に言えばそうですが、自分が選んだ魚で、その後の評価が決まるわけですから、そう簡単にはいきませんよ。例えば、よく見知っている友人が銀色の大きな魚を釣り上げたとして、あなたは銅の小さな魚で満足できますか? きっと、心がうずくでしょう。あなたのほうが早く宮殿前の審査所まで着いたとて、たくさん褒められるのは友人の魚の方ですからな。これから先、順調に出世していくのもおそらく友人の方です」
「私だって簡単には引き下がらないですよ。何度も挑戦して、きっと大きな魚を釣り上げて見せます」
「ところが、ここで行われる釣りは、あなたのような凡人にはなかなかうまくいかない仕組みになっているのです。池の魚には二つの変わった特徴があります。ここが肝心なのです。一つは、魚が自分から釣られる相手を選ぶということ。もう一つは、池を取り囲んで釣りに興じている人間の数の大小によって、魚の数や大きさが変化するということです。なんと、人間の数が少なくなるにつれて、魚のやつは図体がでかくなるのです」
「魚のほうから人間を選ぶですって? では、魅力のない人間はしょうもない魚しか釣れないということになりますね」
「単純にそうとばかりは言えませんが、容姿にも才能にも恵まれていない人は、大抵の場合、小さくて不恰好な魚を持って帰ることが多いようですね。ただ、能力の少ない人でも、人より多くの時間をかければ、いい魚が釣れることもあるというわけです」
「道路を渡るまでは、全員が公平なルールの下で並んでいたというのに、その先へ行くとずいぶん不公平な世界になってしまうんですね。私としては、才能に恵まれてない人間でも栄光を得られるような仕組みであって欲しかった」
「まあ、落ち着きなさい。何の知恵もなく、ただ漫然と釣りをするだけでは銅色の小さな魚をつかまされてしまうのですよ。そこで、先ほど申し上げた二つ目の特徴が生きてくるのですよ」
「魚釣りに興じている人が少ないほど、獲物が大きくなるというやつですか? そのルールはややこしくて、それほどうまく活用できそうもないですがね。何しろ、これだけの大人数で並んでいますからね。次の青信号で今か今かとイライラしている人間たちが、その池にどっと押しかけますよ」
学者ふうの男はそこで一度ウインクをして、そこからは声をさらに小さくして話を続けた。
「ですから、もう少し考えを進めてみましょうよ。俗人と同じ思考ではいけません。この列に並んでいるほとんどの人は次の試練がどんな内容か知らないんですよ。おそらく、次の青信号で渡る人間の中で魚釣りの情報を知っているのは私とあなただけです。つまり、魚の色や大きさが変化することを知っているのも我々だけです」
「なるほど、私にもわかってきましたよ。みんなが先を競って釣りをしているところをしばらく黙って眺めていて、池の周囲にいる人間の数が少なくなってきたら釣りを始めるというわけですね? その方法なら誰にでも大物が釣れそうですね」
「よく理解できましたね。その通りですよ。皆、早く先へ進むことしか考えていないから、釣れてしまえば、小さな獲物でも満足して先へ進んでしまうんです。しかしですね、ここでの評価は後々非常に重要になってきます。みんなが小さな魚で満足しているから、自分も小さな魚で良いと思ってしまいがちですが、その考えでは後で後悔する羽目になります」
「では、目先の小さい成功に惑わされず、腰を落ち着けて大物を待ったほうが良いというわけですね。素晴らしい助言をありがとうございました。礼を言わせてください」
「なんのなんの、礼などいいんですよ。この情報だけで次の試練に勝てるほど、この世界は甘くないですが、一見万人に公正に見える競争も、目を凝らしてよく探せば、どこかに抜け道が見つかるものなんです。私はここに並んでいる人々と違って、一度向こうに渡ったことがあるから、それが発見できたのです」
「なるほど、自分の才能が他の人間と大差ないとわかっているのなら、それを悔やんで、ただやみくもに努力を積むのではなく、競争という仕組みのどこかに、何か自分だけを有利にするような抜け道を探せということなんですね。いや、これは勉強になりました」
「なになに、当たり前のことを申し上げただけですよ。あなたはまだ若いから、この道の向こうで試練をうまく乗り切れば、まだ成功のチャンスは巡ってきますよ」
ここまで読んでくださってありがとうございます。次の話で完結となります。




