*第三話*
この列に久々の変化が起きたのは、ちょうどそんな時だった。この列を、はるか遠くから、見張っていたはずの専従係員さんが、並んでいる人々に軽く会釈をしながら、私の横を通り掛かったのだ。一般人とはまったく違う、清楚な白い制服と帽子を身につけていたので、すぐにそれとわかった。係員さんだけは列を前から後ろまで自由に行き来していて、おそらくは無限に続く退屈や束縛とは、そもそも無縁の存在のようだった。どこへでも自由に歩けるその様子がうらやましくもあった。私は我先にと群がる人々を押しのけて、係員さんの右腕を掴んで、ようやく質問をした。
「もしもし、すいません。あなたはこの列の専従係員の方ですよね?」
係員さんはたった一人で、この長い列のすべてを管理しているので、それはつまり、常に誰かの人生相談を受けているような忙しさであり、彼がこんなに長い時間、暇そうにしていること自体が珍しいことなのだ。列のどの辺りにも必ず、ここ数日間、どうも体調が悪いから、どうあがいても、これ以上は前進できないだとか、後ろの人から押されて、精神的に苦しいから、どうにか助けてくれだとか訴える人が出てくるものだ。しかし、これだけの人数が前から後ろまで延々と並んでいて、そんな些細な理由で、いちいち係員さんを呼んでいたら、一人ではとても手が回らないのではなかろうか。こんな窮屈な身の上で、そんなことを考えていても、そもそも、彼には絶対届かないわけであるが、いつか、自分の疑問をぶつけてみたいと思える対象でもあるのだ。繰り返すが、専従係員は特別な存在である。多くの人はなるべく彼に迷惑をかけないように自己保身を心掛けていた。私としても、よほどのことがなければ、彼に話しかけることはないであろうと思っていた。しかし、長時間の停滞にすっかり嫌気がさした今回だけは、さすがに我慢しきれず声をかけてしまったのだ。
「はい、そうですよ。何か困ったことがありましたか?」
係員さんは、まるで、この世界においては、何も異常なことは起こっていないと、言わんばかりの冷静な態度だった。誰もがうらやむ特権を持っているのに、決して偉ぶっておらず、自分もこの列の住人ですから、皆さんと対等ですよ、とでもいうような、にこやかな表情だった。周囲でこの様子を伺っている人間たちも、何も聴いておらぬと平静を装ってはいるが、私が係員を呼び止めたことは当然察知していて、私のこれからの質問に興味の目を注ぎ、全神経を集中させながら注目しているだろう。その中の数人はわざと体勢を崩して、こちらに顔を近づけ、あざとく聞き耳をたてているように感じられた。私はそれを重々承知しているから、できれば自分だけが早く進みたいという、溢れ出る図々しさが他にばれないように、慎重に言葉を選んで質問をした。
「先ほどから、いえ、正確に言えば、もう四時間近くも我々の列は前に進んでいないのです。それに見てください。両隣の列は、我々を尻目にどんどん前へと進んでいってしまって……。何でしょう、左右の人々は、止まったままの我々の姿を一刻は不思議に思い、一部の人は、あれは間抜けだね、とあざ笑っているようにさえ思えるのです。ぜひ、聞かせてください。なぜ、我々の列だけが立ち往生しているのですか? いえ、不利益を被っているのが、私一人であるならば、こんな身勝手なことを申し出ることはしないわけですが、かなり長期間にわたり、列全体が止まっていますのでね。我々の列に並ぶ大勢の人が、ほぼ同時に多大なる不利益を被っているわけです。このまま推移すると、列の全員が他の列のライバルに遅れをとることになります。今回ばかりは危機感を感じるのですが……」
「申し訳ありません。この列はですね、少し、困った事情がありまして……。道路の向こう側にあたるのですが、一番区という特異な地域におきまして、ちょっとしたトラブルが発生してしまいまして……、それに伴いまして、通行人員を極端に制限する、規制を行っていますので、はるか前方から非常に混雑している状態が続いているのです。現在、トラブルの解消見込みは立っておりません。まだ、しばらくは前に進めない状態が続くと思われます」
「トラブルですって! いったい、何が起こったというのですか?」
私は大きく身を乗り出して、そう叫んだ。自分の悪い予感が完全に的中した気がして、全身に悪寒が走った。これだけ多くの雑多な人間が並んでいるわけだから、遥か彼方に霞んで見えるゴールへと到着するまでに、いっさい何も起きないという方が、かえって不思議であり、いつか、復旧不可能な事故が起きて、この流れがストップするのではないかと、内心脅えていたのだ。外見がどんなに落ち着き払って見えても、実際のところは、みんなイライラしているわけなので、ちょっとしたことで言い争いや、殴り合いが始まってもおかしくない状況であった。
「それがですね、道路の向こう側の最初の区間においてですね、自分としては今のルールに、いくつか納得できない点があるから、これ以上は進みたくないと主張する人が数人出てしまいまして、まあ、規則上、そのような進行を妨げる行為は、認められていませんので、後に並んでいる人達からは、そんなつまらない私情を捨てて、早く進むようにと、強い要望が出されました。つまり、場の空気はかなり険悪になっていたということです。それでも、前に居座っている、厄介な思考回路をもった数人は道を塞ぐように座り込んでしまって動きませんので、専従係員や駆けつけた司法官らを含めまして、そこで長々とした協議をしているところなのです。しかし、この協議自体も非常に無駄なものです。なぜなら、例え、何事が起こりましても、列の順番は絶対に変えられないからです。係員がその辺りを上手く丸め込みながら、説得に当たっているところなのですが、それでもまだ、復旧の見通しが立たない状況です。何しろ、『今のルールのままで進行させるのであれば、自分のこれからの成功をすべてふいにしてでも前には進みたくない』と頑なに主張しているわけですからね。その騒ぎが周囲の人間の心にもさざ波を立て、次第に大きくなっているわけです。当然ですよね。後ろで待機している人たちからすれば、何の落ち度も無いのに進めないわけですからね。まだ、収束時期は判断しかねます。しばらくは、この混乱は続くと思われます」
イライラしながらこの列に並んでいる多くの人を、短時間の説明でなんとか納得させようと、係員は丁寧な態度でそう答えてくれた。不利益を被っているのは道路のあちら側もこちら側も同様である。下手に我々の感情を逆なですると、まだ道路を渡っていない集団の中でも混乱が起き、この騒ぎが列の全体に及んでしまうからだ。
私はその丁寧な説明にもいくぶん納得がいかなかったので、この場を代表して質問を続けた。
「しかし、トラブルの当事者の方々は、道路の向こう側まで渡っておきながら、いったい何を衝突する必要があるんですか? 向こうに渡っている人達はですね、もうすでに一つの成功を勝ち取っているんですよ。ここから後ろを見てくださいよ。我々はまだ道路にも辿り着けていないし、渡れていない人達がこんなにいるんです。その後ろには、ほとんど見込みのない人たちもいる。それを思えば、自分たちは相当恵まれているのだなと、単純に納得して、自分の境遇については深くは考えずに、さらに前へと進んでもらえませんかね。こういう世界では、思考はなるべく単純化した方が良いと思うんですよ。難しく考え出したら、そもそも我々を産み出した神様にまで文句をつけなくてはならなくなるわけです。なぜ、自分をこんな悪い位置に産んだのですか、とね。言うなれば、道路の向こうは成功者の群れです。一つひとつの成功について、そんなにがめつくなる必要はないんです。あとは標識に沿って順当に進んでもらいたいのです。後ろの人はそれを待っているのです」
「それについては、上の人には上の人なりの悩みがあるのだ、としか言えませんね。ここから先はですね、海に例えれば、沖に出て行くようなものです。これまでとは比較にならないほど波は高くなります。逆風も強く吹いてきて顔や胸を容赦なく叩きます。自分の位置を守ることすら困難になるわけです。この辺り一帯を、小さな貝や蟹しかいない、平和な浜辺だとすれば、道路の向こうは、高波がしぶきをあげる沖にあたるわけです。平気で人を襲うような大型の魚介類も増えます。これは競争がさらに激しくなるという意味です。左右の列からの苛立たしいちょっかいも増えます。まさに、我々には伺い知れない世界です」
「それでは、その激しい競争の中で、我々の勝者が最終的に得るものが、いよいよ見えてくるというわけですか。いったい、あの道路の向こうには何があるのでしょう。さわりだけでも教えてもらえませんか?」
私は周りの人間にはなるべく聞こえないように、声を潜めてそう質問をした。このような貴重な情報はなるべく少人数で分かち合った方が良いからだ。係員は私のその問いかけに特に驚くような素振りはなかった。信号にほど近い、この辺りにおいて呼び止められるということは、当然、そういう答えに窮する問いをなされることもあると予見していたようだ。
「もちろん、ここから先はですね、これまでのように、ただ順路に沿って、何も考えずに歩んで行くというわけには参りません。皆さん方でですね、様々な試練を受けていただきまして、その難関を早く突破できた人から順番にですね、次の区間に進めるような仕組みになっています。試練が始まってしまいますと、これまで保障されていたはずの、列の順番はすべて反古にされますので、弱肉強食の、非常に厳しい世界と言えると思います」
このまま一直線に並んで進むだけの楽な世界が、この先においても続くわけはないと、多少の覚悟はしていたものの、私はその言葉に対して、動揺を隠せなかった。
「実は、私はかなり気弱な人間でして、ほら、普段から胃薬を常用しているんですよ。そういう試練だの競争だのというのは、一番苦手なんです。つまり、他人を押しのけて進むことが、いっさいできない性分なんです。列の後ろから、極力前方にいる人と同じことをしながら、それにくっついていくだけの方が遥かに気楽でして……。ですから、そこに到達するまでの間に、少しでも情報を得ておきたいんです。これは、もしかすると図々しい申し出なのかもしれませんが、試練の内容を少しでも教えて頂けませんか?」
私は他人を出し抜くという考えにそれほど執着していたわけではなかった。この世界においての特権階級として、一般の人間とは明らかに区別され、誰からも一目置かれた存在である、専従係員さんが自分の話を聴いてくれている、という安心感と高揚感が相まって、ぜひ、もう少し、話を続けたいと思い、そこから放たれた質問である。
「残念ですが、どなたもひいきにはできません。ここから先はすべての方々に同じ条件で競って頂きますのでね。病弱でも気弱でも優遇するわけにはいきません。これまで不安と期待を胸に、ここを渡っていった人達も各々に何らかのハンデは背負っていたでしょうけど、みんないっさいの不正をせずに、今現在、試練に取り組んでいるんですよ。禁煙中の人も、大枚はたいて購入したばかりの自転車のタイヤが、即日パンクしてしまった人も、目ざとい家政婦にへそくりを発見されてしまった人も、動揺せずに頑張ってます。この世界には賄賂も優遇もありません。あなたにも、きっと同じことができますよ」
係員は少し興奮している私を落ち着けるように、少し微笑みながらそう言うと、もう、これ以上話すことはできないと言わんばかりに、軽く会釈をすると、すみやかに通り過ぎていった。
「この列はしばらく停止いたしますー。ご気分のすぐれない方は申し出て下さいー」
専従係員が後方の群衆に呼びかける、よくとおる声が響いてきた。しばらくして、誰か他の人から呼ばれたらしく、彼はかなり後ろの方まで走って行ってしまった。もう、この位置から大声を出しても、その声は届かず、呼び戻すことはできないかもしれない。私はふと不安に襲われ、なにか聞き忘れたことはなかったろうかと思いを巡らせた。私が彼から有益な情報を聞き出せなかったのは、今の立場が弱いせいかもしれない。あるいは、もっと上手い文句があったのかもしれない。前を行くような出来の良い人たちだったら、こういう時にどういう問いかけをしただろうか。私は下を向いて唇を噛み、激しい屈辱感に酔った。
すると、前に並んでいた、先ほどの学者ふうの男が振り返って、不気味な笑みを浮かべながら私の顔をじっくりと見回した。彼は係員との、言うなれば、不正を働こうとして失敗に終わった会話を、すべて聞いていたようだ。
「ふうん、あなたは今、あの係員から情報を得ようとしていましたね。あるいは、何か卑怯な手を思いついて、係員をうまく利用して、前に並んでいる我々を出し抜こうとしていたんですか?」
「面目ない。あまりにも長く待たされるものだから、気分が苛立っていたんです。この際は自分一人で情報を独占してやろうかと企んでしまいました。魔がさしたとは、まさにこのことです。ただ、追い抜きをしようとまでは考えていませんよ。私は他人に嫌な思いをさせてまで成功したくはない」
「あなたに忠告などする義理はないんですが、この際言っておきますと、列の内部で追い抜きなどを考えると、後々ひどい目に遭いますよ」
彼は私の言葉を信じないのか、胸の辺りを二三度ポンポンと叩きながら、脅すような口調で言った。その学者はそのまま列の最後方を、いや、それは地平線の向こうに霞んでしまって、そもそも、『後方』という概念がどこにあるというのか、まったく確認できないのだが、とにかく後方を指差して言った。
「いいですか? 追い抜きや割り込みなどをして、まあ、仮にそれがわざとでなかったとしても、その不正行為が周囲にばれた場合どうなると思いますか? 私は知っていますよ。しばらく前に鶏肉料理を得意とする下町のコックが、私のすぐ前に並んでいましてね。何度か雑談してみたところ、人柄は決して悪くなかったのですが、あなたのように非常に短気な人でしてね、信号に近い位置で長時間待っているのに耐え兼ねて、前にいた二人のご婦人が、他愛のないおしゃべりに夢中になっている隙に、忍び足で側面からその二人の前に割って入ったのです。その行為に、彼の意思がどの程度働いていたのかはわかりません。しかし、その瞬間、けたたましい非常ベルが鳴り響きましてね。私はいつもは物音一つしない、きわめて静かなこの列において、あんなに興奮を掻き立てる大音量はおおよそ聴いたことがないほどですよ。その音を聞き付けて数人の専従係員が険しい表情で駆けてきまして、そのコックは瞬時に羽交い締めにされてしまったのです。彼は悲鳴をあげましたが、言い訳をすることすら許されませんでした。涙を流して、これは単純な出来心だと訴えていましたが、それすら、法の鬼と化した係員の前では、聴き入れられませんでした。ある程度長く生きていれば、誰にでも悪徳に身を染める瞬間はありますが、そこから、どんな言い訳を生み出そうとも規則は規則ですからね。あの印象深い大犯罪から、数時間後に、彼の腕前により料理されるはずだった、数羽のニワトリが、もしあの光景を見ていたらなんと言ったでしょうかね? 結局、彼は強引に列の外へと引きずり出され、この列の最後方まで引きずられて、そこから並び直しとなったのです。あのコックはバケツを満たしてしまうほど涙を流しました。その悲痛な叫び声を、私は今も覚えていますよ。これまでの半生のほとんどが無駄になった瞬間です」
「悪意を伴わない割り込みをしたぐらいで、最初の位置から並び直しですって? それは少し厳し過ぎると思いますよ」
私は驚きのあまり一歩後ずさりをした。そのくらいの過ちであれば、自分の身にも、いつ降りかかっても、まったく不思議はない。
「誰だって、自分が今いる位置より、少しでも前に出たいとは考えているわけです。少々の出来心で悪事を働いてしまうかもしれないのです。良書を読み尽くした聖人に、何と言われようとも、私はそのコックさんに同情しますね。最後方からやり直しだなんて、いくらなんでもやりすぎですよ。少しの苛立ちや思い違いで、誰だって道に外れた行為をしてしまう可能性はあるんですよ。自分に不備がなくとも、前に並んでいる人たちに気に喰わない行為をされるかもしれないわけで、それならば、この世界の人間すべての責任でもあります。我々は、言うなれば全員が少しずつ干渉しあって生きているわけですからね。善人から教えを請い、成長できることもあれば、悪人から取り返しのつかない影響を受けてしまうこともあるわけです。この長い人生の中で、その哀れなコックさんの心に誰が影響を及ぼしたかなんて、今の段階ではわかったもんじゃないですよ」
「そんな甘えは許されませんよ。あなたね、他人のことなんて気にしていられるんですか。あなただって、今、相当に焦っていて、心が浮ついているようですけど、そんなことでは、そのうちにルール違反を犯しますよ。現に係員から先の試練に関する情報を聞き出そうとしていたようですが、厳密に言えば、それだってルール違反です。競争とは常に平等でなくてはならないですからね。誰がこの順番を決めたか知りませんが、私とあなたは、この通り、近しい存在です。だからこうやって、本当は大して意味もない関係なのに、それをあえて意識せずに、親身になって忠告していますけど、他の人だったら、あなたの危うい行為を黙って見過ごして、あなたが専従係員に連れて行かれても、何もせずに見送るだけだと思いますよ。事態がその段階まで進んでしまったら、私もあなたを助けませんよ。自分の身が惜しいですからね。友情などというものに揺るがされない程に、私の今の地位への執着は強いんです」
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