第八話 ~『死の行軍』を踏み越えて~
ズデスレン政庁敷地内にある庭園。
美しく整備され、夏の草花が青々と茂る中に降り注ぐ朝日は、二徹半後の仮眠明けの俺には少々刺激が強い。
このままふかふかのベッドに飛び込みたいとの誘惑に耐えつつ、今も人々が激闘を繰り広げている、政庁内にズデスレンにおける執務用としてとりあえず指定した大部屋へと向かう。
「境界確定訴訟? 入会権? 土地なんて有りあまってるんだから、隣の土地との境界とか、森で薪を拾う権利の隣の集落との境目とか、一々喧嘩するなぁっ!」
「またビアンカちゃんが暴走するぞ!」
「総員、取り押さえろぉっ!」
うんうん。朝から元気で、スバラシイネ。
我らが男爵領唯一の魔法兵であるビアンカちゃんは、少なくとも書類を処理し続けて四徹はしてるはずだし……まあ、前に暴走した時よりは持った方じゃないだろうか。
絶賛文官不足の我が家では、暴走分を差し引いても書類仕事において五人分の働きをするビアンカさんには、もう少し自発的に休息を入れながら労働してもらえると助かるんだけど。潰れられたら困るし。
本人は「学生時代に、生徒会で慣れました。ええ……」って死んだ魚のような目で語っていたけど、人間には限界ってものがあって、それは慣れだけでどうにかできるものじゃない。まあ、限界に挑まなきゃどうにもならないほどに仕事が押し寄せる現実があるのも確かなんだけど。
こんな悲惨な現状の始まりは、ズデスレンが皇帝直轄領から正式にマントイフェル男爵家に引き継がれた、十五日前までさかのぼる。
「では、引き継ぎは以上です」
「あっはい……え?」
とても分かりやすい説明が添えられた引き継ぎ関係書類を手に呆然とする俺の目の前で、当然のように去っていく皇帝直轄領時代の役人たち。
彼ら彼女らはそのまま、家族を引き連れて帝都へと向かってしまった。
この事態に対する、大人たちの見解は次の通りである。
「聞かれたところについて考えるので必死だった」
「こうなるかもって思いはしたけど、うちには皇帝陛下の直轄地を下賜された先例がなくてはっきり分からないし、問題があるなら男爵様が最後に止めるものと」
「代官は二年交代だけど、その下の役人はずっとズデスレンで働いている。長い者は、以前うちの男爵家でズデスレンを担当してた頃から今まで働いていた。そんな状況でまさか、代官以外まで問答無用で中央に行ってしまうとは思わなかった」
「孫が十日かそこらで思いもしなかった劇物を持ち込んできて、正直そんなところまで考えてる場合ではなくての……いや、言い訳じゃな……」
フーニィと組んでの領地改造計画も始まってないから経済はガタガタなままだし、下っ端だろうと皇帝陛下の部下って大企業の正社員ポストと、下請けの地方中小企業の正社員じゃ、考えるまでもなかったのかもな。
交通がそこまで発達してないこの世界、この時代では、遠く華やかな帝都への憧れは幻想補正込みでかなり大きいし。何より、帝都ならばそれなりの金銭と実力があればそれなりの学校に行かせられて中央でのそこそこの出世も狙えるけど、こんなド田舎じゃそもそも学校すらなくて子供に一流の教育を受けさせる機会すら存在しないのだ。
と、冷静に分析している場合ではなかった。
人口数千のズデスレンにおいては、相応の仕事を日々こなさねばならない。
行政に司法、中央の定めたものに抵触しない範囲での立法と、領内における三権をすべて行使せねばならない以上、業務の停滞は許されないのだ。
それがたとえ、ズデスレンの半分くらいの人口のマントイフェルをギリギリ回せる人員から無理やり六割ほど引き抜いてきただけの寡兵であろうと、敗北の文字は許されない。
「読み書きができればなんでもいい! 頭数を集めろ!」って俺の号令に、「読み書きできるような希少技能持ちは、官民問わず、すでに相応の職にあるのが普通です」ってギュンターの答えが来ても、泣いてはいけないのだ。既存街道の拡幅工事が終わって、先のマントイフェル城での戦い以降初めて、やっとまとまった休暇を取っていたビアンカちゃんを引っ張り出して臨時文官にしたら、思った以上に使い物になったことを喜ぶべきなんだ。
だからおじいさま。片っ端から心当たりに連絡を取って必死に集めていてくれているはずの人員を、早く寄越してください。具体的には、殉職者が出る前に……。
そんなことを祈っているだけでは、現実は変わらない。
仕方がないので、無事に鎮圧されて仮眠室へ運ばれていくビアンカちゃんを横目に、俺と入れ違いに仮眠に入ったはずのギュンターからの引き継ぎの書置きを確認する。
なるほど。俺のサインで決済できる書類はなくて、おじいさま送りのものばかりか。
なら、少しでも効率的に分業するために設置した仕分け箱の中で、急ぎのものに入っている判決文の清書でもやっておこうか。
そうして何通かの判決文の添削済み下書き文を取り、みんなが自由に取れるように大皿に山盛りで置いてあるサンドイッチをいくつか小皿にとって水と一緒に自分の席に持ち込んで、仕事開始である。
傷害事件で、裁判終了後に出てきた後遺症についての賠償がどうのこうのって点についての判決文をカリカリと。
夜道で襲われた少女が暴漢の男に大きな石をぶつけて返り討ちにしたものの、意識を失ってからもとにかく殴り続けて殺してしまったのは正当防衛か過剰防衛かって点についての判決文をカリカリと。
確かサンドイッチって、そんな名前の伯爵さまかなんかが名前の元らしいけど、こっちの世界では俺が考案したようだから『マントイフェル』って食べ物になるのか、俺がサンドイッチって呼ぶからそれで定着するのか、なんて思考をふわふわと。
そんなこんなで朝日が天頂まで道半ばってあたりに差し掛かっただろう頃のことだ。
「俺に来客?」
「はい。モニカさまが、火急の用があると。警備の方々とは別に、カルラさまと、後は見知らぬ男性の方が一名いらっしゃいました。お三方とも、応接室にお通ししております」
本当は責任者の俺とその代理であるギュンターの両方が席を外すのは良くないんだけど、戦時でもないし何かあったら呼んでくれって言葉だけを残して、俺を呼びに来たメイドさんに連れられて姉上たちのところへと向かう。
姉上や、ギュンターの娘で姉上に仕えているカルラはともかく、見知らぬ男性、か。
「久しぶりね、カール。元気――には見えないわね」
ソファに座ったまま、心配そうにそう言う姉上。
カルラはあくまでメイドとして同席するつもりか、姉上の後ろに控え、俺には一度微笑みかけてからは反応しない。
そして、問題の男性。
姉上の隣に腰掛け、黄金色の髪をした知的な雰囲気の彼は、年齢こそ一回りは上の三十代後半ほどに見えるが、どこか姉上の旦那を思い出させるような雰囲気がある。
姉上もカルラもどこか打ち解けた空気があり、その男性は、二人ともそれなり以上に知れた仲だろうことがうかがえる。
「姉上」
「何かしら、カール?」
「遂にやってしまいましたか。浮気はダメでしょ」
「どこに浮気相手を連れて実家に帰るバカが居るのよ」
カルラは顔色を変えず、男性の方は思いもしなかったことを言われたとでもいうように呆けた様子。
まあ、普通に考えれば姉上の言うとおりだけど、当時すでに愛し合ってたとはいえ、家同士の因縁だの、周辺諸侯との政治的関係だので大変だったときに、未来の旦那を押し倒して既成事実を作ってしまい、大混乱を巻き起こしたのと引き換えに無事結婚したような人だしなぁ……。
常識云々だけで語れる気がしないんだよ。
「ハハハ……。初めまして。パトリック・フォン・ロストル・ゴーテです」
「ゴーテ? えっと、義兄上――ゴーテ子爵の親戚の方ですか?」
「はい。私の父と現ゴーテ子爵のお父上が兄弟でして、いとこになります」
こちらこそどうも、と自己紹介するが、目的が見えない。
「姉上?」
「おじいさまから手紙を頂いたの。官僚が足りないんでしょう? このパトリックさんを雇わない?」
雇わない?
つまり、追加人員!
「姉上!」
「彼、名門の帝国中央アカデミーを卒業して財務省に勤めてたんだけど、マイセン辺境伯の失脚騒動に巻き込まれて失職したのよ。それからは、子爵領に戻ってきてたの。おじいさまは、あんたが良いならあんたの部下として雇っても良いっておっしゃったわ。どうかしら?」
「ぜひ!」
迷う理由も断る理由もないからそう返事すれば、帰ってきたのは、姉上の呆れたような溜め息。
「ちゃんと、意味が分かってる? 『あんたの』部下なのよ?」
「はあ……」
「うん、分かったわ。ちょっと人事関係の現状から確認しましょうか」
姉上曰く、次世代当主である俺を将来的に支えるべき学友なりの次世代重臣候補が居ないのはマズいんだそうな。
その上、人件費的な意味で経験の足りない若手を育てる余裕がなく、就職先として魅力がなかったこともあって、官僚の高齢化が進んでいるのも問題。
先のズデスレン召し上げで多くの人材が将来を案じて引き抜かれ、そうでなくても次世代の就職先は男爵家外に求めており、代々仕えてる家の子、ってほど任せられる地位が居ない。
今、家臣団の孫世代の年齢が一けたの子らの成長を待つのも一つの手だが、回復したとはいえおじいさまの健康不安もあり、カールへの代替わりの準備も少しでも早く進めねばならない状況なんだとか。
「今までは、引退するたびに補充せず家臣団の規模を縮小してきた。けれど、今の男爵家には経済的な余裕が生まれつつある。だからこそ、父上のでも、おじいさまのでもない、次期当主たるカール自身の家臣団を編成しないといけないの。引き継いだ家臣団ってのは、なんだかんだでやりにくいものよ」
なるほど、と、我が家の失脚関係のあれこれを成人まで教えるつもりのなかったことに加え、財政的な意味でどうしようもない問題として先送りにしていたこともあってだろうが俺が聞かされたことのない問題に相槌を打つ。
最悪、やりにくいってだけで家臣団の引き継ぎで致命的なことになるとは考えにくいことも、先送りを選んだ理由だろうか。
「あの、カール様。申し訳ありませんでした!」
そうして自分なりに言われた内容を考えていると、何かを思いつめたようなカルラが突然一歩前に出てきた。
「私は――」
「カルラ!」
「しかし……」
何がなんやら分からずにいると、姉上は今にも泣きだしそうなカルラから目を放し、思わず背筋が凍るような鋭い視線を俺に向ける。
「さっきの次世代重臣候補だけどね、たった一人だけ候補が居たのよ。ただ一人残った代々の重臣の一人娘であるカルラよ」
言われてみれば、確かに。
俺の中では姉上とカルラはセットだったから、カルラが俺に仕えるなんて考えもしなかったや。
「客観的に見れば、私の嫁入りを口実に落ち目のマントイフェル男爵家から『逃げた』って思うかもしれないわね。一人娘が、実家を捨ててまで私についてきたんだもの」
俺は、何も言えない。
俺自身はそう考えたことはないけど、姉上の言葉を否定することもできなかったからだ。
カルラはもう、見ていられないほどに肩を落としている。
「でもね。あんたを残していけないって悩んでいたカルラを、私が無理に連れていったの。家を継ぐかもしれないからって一応は色々と学んでいても、メイド業以外は経験なし。しかも、当時の男爵家に人材を満足に育てる余裕はなかった。それも、年々余裕がなくなっていくの。だから、『カルラが残ってもできることはない』って、私は連れ出した」
姉上の真剣な雰囲気に飲まれて、俺は何も言えなかった。
だけれど、そんな姉上が、突然立ち上がって頭を下げた。
「初陣であれだけのことをやってのけたあんたから見れば、経験がないくらいがどうしたって思うかもしれない。けれど、この家は、私にはカルラって『親友』をくれて、あんたにはギュンターって『先生』をつけた。本当なら領地運営の中枢に関わるべき重臣の職務を減らしてまで、厳しい状況の中であんたを跡取りとして育てようとしてたの。だから、私は愛しい人と結婚して、外から家を支えることを選んだ。そして、メイドじゃなくて家臣として育つ環境も十分じゃなくて、主家が傾いては婿取りも難しいところに親友を置いていけなかった。カール、あんたを一人でそんなところに置いていったのは私のせいなの! 恨むなら、この姉一人を恨んでちょうだい!」
その言葉に、カルラは口を開こうにも言葉にならない様子でただ涙をぬぐう。
パトリックさんは、身内の話に口を挟む気はないようだ。ただ、姉上の推薦で俺の家臣になるかもしれない以上、まったく関係ないとまでは言えない立場でもあり、じっと成り行きを見守っている。
「あの、姉上。頭を上げてください」
「いいえ。許してもらえるとは思ってないけど、せめて――」
「いや、そもそも怒っても恨んでもないですから」
ガバっと頭を跳ね上げ、目を真ん丸に見開いた姉上。
うおっ。何か、カルラやパトリックさんも信じられないものを見るような目で見てくるんだけど。
「え? でも、あの……え?」
「だって、さっき姉上自身が言ってたじゃないですか。カルラが残ってたってメイド業以外で十分に実力を発揮できるような状況じゃなかったですし、しょうがないですよ。領地運営について関わるようになって、これまでの我が家の落ち目っぷりは本当に酷いんだって分かりましたし」
「だって、ほら。ほら! こう、まだ年齢が十四、五なんだし、そんな相手の立場に立ってばかりじゃなくて、理不尽な立場に立たされた自分を見捨てられたってことをもっと考えてみるとか、ね?」
「はぁ……」
いや、一応はそれなりの理由もあるし、姉上とカルラは幼いころから面倒を見てもらって情もあるんで、むしろカルラに泥船での心中覚悟で来られても困るっていうのが本音なんだけどなぁ……。
そうこうして姉上としばらく睨み合ってると、先に目を逸らしたのは姉上だった。
「あんた、年齢を誤魔化してるんじゃないの?」
「ハハハ……」
転生前を含めれば、姉上のずっと年上ですよ――なんて言えるでもなく適当に笑っていれば、姉上は疲れた様子でソファのひじ掛けにもたれるように体を投げ出した。
「はいはい。初陣でいきなり訳の分からない大戦果を叩き出す天才様の頭の中を想像するなんて、恐れ多いことが出来るわけなかったですよ。あとは好きにしなさい」
「じゃあ、パトリックさん。これからよろしくお願いしますね」
姉上が転げ落ちた。
カルラは姉上の心配をすることも忘れて頭を抱え、パトリックさんの顔は強張っている。
あ、姉上がなんとかソファに這い上がった。
「よーし、賢い賢い我が弟よ。人を雇う前には、面接ってものが必要でね」
「いや、今回は不要ですよ。姉上もカルラもおじいさまも、俺が信じている人たちが三人もここまで通したんですから。それに何より――」
まあ、ここが一番肝心なだけど。
「ちょっとやそっと面接したくらいで、初対面の相手の人柄やら能力やらなんてさっぱりわかる気がしません!」
いやほんと、人事の人たちとかって、どうやってるのやら。
胸を張って自信満々に返した回答に、疲れた様子の姉上はお手上げとばかりに両手を肩のあたりまで上げてから口を閉じ、後の二人も特に口を開く気はないようだ。
「じゃあ、改めて。俺の家臣団の中核として、よろしくお願いしますね、パトリックさん。いや、よろしく頼むパトリック、の方が良いかな?」
「ええ、後者でお願いします。喜んでお仕えさせていただきます、カール様」
座ったまま握手し、これで無事交渉成立。
いつ頃から働いてもらえるかなど、何を聞こうか考えていると、先にパトリックが口を開いた。
「実は、同じくかつて中央で働いていた友人たちも何人か心当たりがあります。会っていただけませんか?」
「ぜひ喜んで! と言いたいところだけど、あの、うちでいいの? 中央で働けるだけの学歴なりがあるなら、今でももっといいところで働いてるんじゃ?」
パトリックだけなら、姉上やゴーテ子爵家の厚意だって受け取れるけど、そんな人材が何人も転がり込んでくるような所じゃないと思うんだけど。
「いや、お恥ずかしながら、その学歴や実績がくせ者でして。そんな者を下働きに使うわけにもいかないんですが、実家に戻れば幹部の席が埋まっていて、役職を創設したものも何をするのかよく分からない役職に押し込まれる、なんてこともあるんです。他にも、当主よりも学歴や実績が大きすぎて、使いづらいと判断されたり。就職活動をしてみても、地方の人々には、使いこなせる気がしない、などと言われることも多いんです。生活費の心配をしなくてもいいのは助かるんですが、こんな微妙な立場だと嫁取りもうまくいかず……」
きっと、上手くいってる家は上手くいってるんだろうけど、恐らくはパトリックさんも含めて苦労してる人も居るんだろうことは、この実感の籠った話し方からして、間違いないんだろうと思う。
読み書きどころか、中央で活躍してたような人材ならば大歓迎だ。
むしろ、そもそも人が足りなすぎて、優秀すぎてどうこうなんて心配をしてる場合じゃない。
そうして一ヵ月もすると、パトリックに声を掛けてもらった即戦力候補の三十代から四十代前半の中央経験者十七名、おじいさまやゴーテ子爵家が声を掛けてくれた準貴族や富裕平民の子息四十四名、監督のために残ったマントイフェルのベテラン官僚若干名、そしてギュンター。
これが俺の下でズデスレンを担当する人員たちである。
中央経験者に伯爵家以上の家の縁者が居なかったことは、うちが男爵家に過ぎないことと無関係ではないだろう。
そして、鉱山や林業などの専門職担当者以外の新入りはこっちに回されてベテランが少しついたことは、このチームを中核に将来の領土運営をしろってことだと思う。
だけど何より、これで徹夜の日々から解放されたのが嬉しくてたまらない!
たまらないんだけど――
「まだ足りないのか?」
俺個人の参謀的な立場なうえに、エレーナ様のところに行くときにはついてきてもらわないと困るギュンターとは別に、俺のところの官僚のまとめ役としてパトリックを任じたんだけど、最初に持ち込まれた問題は中々の難題だった。
「ええ。平時には十分でしょうけれど、この先数年に限って、移民の大量管理や急激な商取引の増加、膨大な建築工事の管理など、仕事が大幅に増加することが予想されます」
「一時的だから、終身的な雇用にはしづらい、と」
「はい。しかし、マントイフェル男爵家で働いても、現状ではあまり箔付けにもならず、読み書きを自在にできるような人材が、私の友人たちのような特殊事情でもなければもっと良い職場はいくらでもあり、数年の期限付きの求人に応じるとは思えません」
「かと言って、基本的な読み書きがやっとの人間を育成しても、育った頃に契約が終わるのか」
終身で雇うって言いながら理由もなく解雇することは、それ以後の求人に影響が出るらしい。
労働法なんてしっかり整備されてるでもないんだから自己防衛しないといけない以上、仕方ないことなんだろう。
だからこそ、お父様やおじいさまの財政再建のためのリストラでも、自主退職や暗黙の了解として存在する定年以外では解雇しなかったらしい。俺の代まで悪評が残ることを恐れて――とは、この一ヵ月の間にギュンターと会話した中で出てきた話である。
しかし、どうしたものか。
数年だけ読み書きがスラスラできる人材が働いてくれる方法か……。
「あ、労働力を『買え』ば良いんだ」
「買う?」
「そうだよ。期限付きで、労働力を買い付けるんだ。フーニィの商人たちなら、興味を持ってくれるかもしれない」
おじいさまに許可を取ったうえで、俺は大急ぎでフーニィ市長に手紙を書く。
要は、労働者派遣だ。
商人ならば読み書き計算は必須な訳で、商業ギルド経由で若手をとりあえず一年契約くらいで派遣してもらえれば、こっちで人員を集める必要もないし、万々歳だ。
「なんて思ってた頃もあったなぁ……」
早々に帰ってきた返事を囲み、俺とギュンターとパトリックは、笑うしかなかった。
「誰も彼も、それぞれの商会の一線で現に活躍するような若手ばかりですな」
ギュンターの指摘が、本当に頭が痛い。
「『読み書きができればいい』との条件には確かに当たりますし、人数も注文通りですが、想定していた機密に触れないような単純作業だけをやらせれば、これだけの有能な人材の評価がその程度か、などとフーニィの機嫌を損ねる恐れもありますね」
パトリックさんも頭を抱えているけど、フーニィとは仲良くしないと困る以上、ここが難しいのだ。
向こうも分かってるだろうから本気で怒ることはないと思うけど、『怒ってる振り』をする口実を与えるだけでも面倒だ。
間違いなく優秀だろうから『返品』とか言ったら一般にこっちが我が儘を言ってるように映るし、かと言ってあまり核心に迫るような情報を抜かれるのも面白くない。
そもそも、あの抜け目ない商人たちのことだから、情報に触れる機会があればその価値を理解して抜きだせるような教養のある奴らを選んだんだろう。
次からはちゃんと、能力の下限だけじゃなくて、上限も指定しよう。
「とりあえず、予定通りの単純作業もやらせるとして、機密保持なんかの観点も考慮してちょうど良い仕事を考えようか……」
労働環境とか待遇とか、色々と頑張って気を使って、文句のつけようがないように気持ちよくこき使われてもらおう。
◎労働者派遣法改正審議
(民主革新同盟代表フェーベ・アデナウアー、挙手。発言)
宰相、宰相! 話をそらさないでください!
そもそも、労働者派遣制度は、我が国において始まったんです。エレーナ様に仕えていた軍師カール、知っていますよね? 大河ドラマでもよく出てきますし、小学校の歴史の教科書にも出てくる偉人ですよ。何より、宰相は彼とはかかわりの深いゴーテ家の直系であることや、そのカールの姉の血を引くことを自ら売りになさっていましたものね。その人がですね、自らの領地で一時的な人手不足になった際に商都フーニィから優れた若者たちを期限付きで招いたのが始まりなんですね。その扱いは、才覚に対して敬意を持ち、招かれた方が恐縮するほどの厚遇だったんですよ。
分かりますか!? 『一時的な人手不足』に対して、『敬意を持』って期限付きで人材を招いたんです! 同時期に、長期的に必要な人員については、積極的に正規雇用をしているんです!
ところが、今、内閣から提出されている改正法案は何ですか!?
雇用の流動化の名の下に、常設の仕事にも派遣を認めてその割合を高め、同じ仕事をしている正社員よりも手取り賃金が低い現状の改善策もなし。他の部分も、とにかく派遣労働者の奴隷化を進めているだけ! 安価で使い潰し、不要になったら放り捨てても良いと公認してるだけ! 企業さえ儲かればいいんですか!? あなたの言う雇用の流動化は、どこで奴隷になるかを選ぶ自由のことなんですか!?
労働者派遣制度が始めて行われた当時、帝国憲法も、もちろん人権規定もなかった。そんな時代ですら存在した人を人らしく扱う精神を、現代に生きる我々が踏みにじるんですか? 制度の中に息づいた人間に対する敬意を、人権の素晴らしさを憲法で謳う我々に打ち砕けと言うんですか!?
労働者派遣制度はですね、人の人に対する敬意と尊重で始まっているんです! 決して、搾取と悪意ではないんです!
宰相、宰相! 答えてください、宰相!
(帝国宰相エッカルト・フォン・ゴーテ、挙手。発言)
あー、アデナウナー女史の発言は必ずしも正確ではないものでありまして。
労働者派遣制度の始まりにおけるお話は確かにその通りなのですが、本改正案においてもその精神は失われていないものと思っております。
えー、企業の利益追求のためとおっしゃいますが、契約期限が来てもその先で別の勤め先へと移る自由が高度に保障されることは、現在問題となっているブラック企業などと俗に言われるものの駆逐にもつながり――
(以下略)
(大陸歴二〇〇八年五月十五日帝国議会下院本会議議事録より抜粋)
参考
大陸歴二〇〇八年五月十七日~十八日実施、帝国中央放送局世論調査
・政権支持率(八か月ぶりに不支持が支持を上回る)
支持:37.6%(-7.8%)
不支持:40.2%(+8.1%)
・政党支持率
立憲民生党(与党):36.6%(-0.2%)
民主革新同盟(野党第一党):12.4%(+0.3%)
(以下略)




