第一章第一話 ~初めてのお使い(カール君、十四歳児)~
大陸暦千五百六十年五月十八日。
一年が十二ヵ月、一ヵ月が三十日のこの世界において、そろそろ夏の暑さが見え始めてきた昼下がりのことだった。
「では、以上の通り降伏するということで頼むぞ、カール。――済まぬな、このような不名誉な仕事が当主代行としての最初の仕事となって。ワシがせめてベッドから降りられれば自ら行くものを……」
「お気になさらないでください、おじいさま。俺も、もうすぐ十五歳。成人です。次期マントイフェル男爵家当主として、経験を積むにはちょうどいい機会ですから」
俺は、青い顔をしながらベッドの上で上半身を起こす自分の祖父にそう笑い掛け、その寝室から出る。
とっくに老境に入っているはずなのに、その鍛え上げられた体と、僕と同じ黒々とした髪で随分と若く見える人物だけど、今は見る影もないほどに老け込んでいるように見えた。
原因は、きっと病気だけではない。目の前に迫る大問題を前に、心労が溜まっているのだろう。
「カール様。王国軍からの使者が来ております。今は、謁見の間に」
「そうか。分かったよ、ギュンター。行こうか」
扉の前で控えていた俺の守り役である老兵、ギュンターとそんなやり取りをし、俺を先頭にして少し後ろをギュンターが続く形で足を進める。
兜を脇に持ち、すっかり白くはなっても十分な量のある髪を掻きながら付いてくるギュンターの表情は、とても明るいとは言えない。
まあ、気持ちはとてもよく分かるんだけど。
今も外を見れば、モクモクと盛大に立ち上る炊事の煙が見える。
マントイフェル男爵家の居城であるこのマントイフェル城を包囲する一万近い王国兵たちが、自らの存在を見せつけるように出しているのだ。
対峙する我が家の兵力はと言えば、弓兵五十に、歩兵三百五十で、歩兵のうち三十はスリングによる投石攻撃が可能。あと、新人の魔法兵が一人。城に逃げ込んできた人々の中から戦える者たちを武装させた歩兵約二百名を動員してまでやっと集めた戦力。
なんかもう、色々と圧倒的である。
俺もギュンターも、一応は戦争中だからと鎧に剣と武装はしているけど、使うとなれば、勝ち負けじゃなく、どれだけ道連れにできるかを語ることになるだろうし。
俺が前世で生きていた日本には居なかった魔法兵なんてのがしれっと混ざっているが、射程は精々が弓や投石の八割くらいで、攻撃範囲は一撃で数人を対象にするのがいいところ。
矢や投石用の石のように、特別な物資を用意しないで良いことは大きな利点だけど、この世界では、基本的に人間重機や工兵扱いである。工事の時に邪魔な巨岩を処理したり、硬い岩盤を掘り進んだりって具合に。
あとは、錬金術くらいだろうか。詳しくは知らないけど、これも『ファンタジー舐めんな!』って地球に啖呵を切ることができるほどに凄いわけじゃないみたいだけど。
つまり、魔法兵が一人とか、戦力的には誤差である。
魔法の資質持ちは希少で、貧民でも一気に富裕層の仲間入りできるとまで言われるほどの報酬が当たり前な取り合いがなされており、うちみたいな山奥のド田舎男爵家に一人いるだけでも驚きではあるようだ。
でも、一人で万軍を葬る大魔導士とか、強大な力を持ったエルフ族とかみたいな人外種族は、このファンタジー系の世界にも居ない。
数の力は強いのである。現実は非情なのだ。
それは、なぜか持っている前世の記憶ぐらいの『特別』では簡単に覆せない事実。
前世に何か思い残したことがあったとか、美少女を助けてトラックに轢かれたとか、そういう心当たりは全くなかった。
それでも、立ち上がれるようになるころにはくっきりと前世の記憶を思い出していた俺は、深く考えることもなく素直に興奮したさ。多数の中に埋もれる一人に過ぎない凡人が、選ばれたんだって。『特別』な存在になったんだって。
でも結局のところ、歴史物を始め色んなゲームや漫画なんかに手を出していたぐらいしか特筆することがない大学生だったらしい俺では、歴史上の少数で多数を破った戦いの大まかな流れなんかは知ってても、現実の兵を作戦達成のために運用する経験も、実戦に裏付けられた知識もない。
これは、こっちでの十五年近い人生で身をもって知ったこと。
農業チートをしようにも、基本的知識の不足や気候の違いなんかから具体的に質問されればなんにも答えられない。
兵器チートとか考えたけど、火薬がないから火器は作れず、他の兵器にしてもなんとなくしか知らないから、子どもが大人を説得して開発費を引っ張ってこれるほどには形にできない。
人権だの選挙だのって言ったって、自分たちで決断させようにも、富裕層以外は読み書きができればそれだけで褒めたたえられるレベルで、前提として必要な教育がまったくなされていないから、滅茶苦茶なことばっかり言い出す。
『特別』は『全能』を意味しないと、社会的・技術的に条件が違えば求められるものや有効なものも違うのだと、そこでようやく気付いたのだ。
これまでの人生は、その『この世界で求められるもの』を学ぶために費やしてきた。幼くして両親を亡くし、唯一の兄弟姉妹である姉は隣の子爵家に大恋愛の末に嫁ぎ、男爵家を継ぐことを早くから告げられてきた身では、将来のためにもそうするしかなかった。
それでも、何とか教科書を叩き込んだだけで実地の経験がまだだから、どこまで使えるかは不明なんだけど。
「カール様。交渉はどのような方針で?」
「降伏だよ。他にないから」
「そうですか……」
我がマントイフェル男爵領は、所属する帝国の中でも王国との国境の守りを任されている西方地域に存在している。
と言っても、西方地域の中でも中央部に位置しているので、国境からここまでは、まっすぐ進んでも何日もかかる。もちろん、その道のりすべてが、どこかの貴族領か皇帝直轄領であり、すんなりと進んでこられるわけがない。
その状況で万の軍勢にこれだけ入り込まれて、味方はなんの対策も打てていないのだ。
西方地域を取りまとめるマイセン辺境伯家からの情報では、平原地帯を突き進む王国軍本隊が別に居るそうで、そっちへの対処が優先されるだろう。となれば、すぐには増援が来ない。
そこに、おじいさまの見立てでは、一日か二日も抵抗できれば万々歳という微々たる程度の戦力しか持たない我が家。山地の堅城でも、予算不足で何年もまともに整備していないこともあって、圧倒的な数の前にはそんなものらしい。
この状況で、徹底抗戦なんて言えるものか。
失敗すれば城下の民も丸ごと戦火に焼かれるのに、ここで再現できるかも分からない前世で知った戦いの知識になんて頼れるほどに心が強くはないのだ。
「我々が後方で動こうとすることを防ぐために、自腹で出陣を求められることになりましょう。そして、当主代行としてカール様の初陣となります。他の降伏した領主と隔離されながらも共に監視下で付いていき、そこに居るだけとなるはず。このような初陣……我らの力が及ばぬばかりに、申し訳ありません……」
「なに、前線に出なくていいなら、むしろありがたいよ。精々、戦場の空気を吸って帰ってくるさ」
振り向いてそう笑い飛ばしてみせても、ギュンターは弱々しい笑みを返すだけ。
西方地域と王国領の間にはかつて無数の中小国があったらしく、その奪い合いの過程で血なまぐさい因縁が多く生まれたと学んだ。
帝国の弱小貴族が王国軍に降伏してその指揮下に入れば、嫌がらせの一つや二つどころじゃないほどの色々なことがあるのは簡単に想像できること。それでも、足のとても遅い老人や子供を連れて山道を逃げ切るのは不可能に近かった以上、男爵家を、そして領民を守るには他に手がないのも事実。
後から因縁をつけて家を取り潰したり養子を取らされたりして乗っ取られるかも、なんて思い付いてしまった時は、生まれて初めて前世の知識を持っていることを恨んだりしたのはここだけの秘密である。
そうこうしているうちに、謁見の間の前にある大扉にたどり着いた。
元々が、そう大きな城じゃない。ここに来るまでに心の準備をする時間が十分にあったとは言えないけど、やるしかないのだ。
大丈夫。とりあえず膝をついて、「降伏します」って言うだけなんだから。
うちみたいなド田舎貴族領なんて道路くらいの認識しかされてないだろうし、よっぽど失礼なことさえしなければ、上手くいくことは約束されているに等しい。堂々と行こうじゃないか。
大扉を守る二人の兵士に俺とギュンターが腰の剣を預け、黙って頷くと、外側に向かって左右に扉が開かれていく。
補佐のためについてきたギュンターを連れて謁見の間に入った俺は、直立状態から少しだけ背を曲げ、相手を直視せぬように目を少し伏せながら進み、二歩ほど入ったところで立ち止まる。
「お初にお目にかかります、使者殿。私は、マントイフェル男爵の孫で、カールと申します。当主が健康上の理由で政務を行えないことから、当主代行として参りました」
「あ、そ。ふーん」
おかしい。
思っていたよりも声が若々しく、二十代半ばくらいにしか聞こえないのは別に良いんだ。
ただ、この広めに作られた部屋の中で、声が思ったよりも遠くから声が聞こえるのはなぜなのか。
俺は、相手が部屋の一番奥にある上座の椅子の正面、謁見を求める者たちが立ち止まる辺りに居ることを前提に動いていた。
そりゃ、相手の方が立場は強いし、部屋の中でも一段高いところにある椅子に座るのは失礼だと思ったさ。だから、最初から一段高いところに出る奥の扉ではなく、謁見希望者と同じ大扉から入ってきた。
目上の相手にするように、最初から直視しないように礼をした。
礼儀云々の前に気になってちらっと見て、絶句した。
そこには、謁見希望者に会うために我が男爵家当主が座るべき華美な椅子に当然のように座って足を組み、こちらを見もせず爪にやすりを掛けている若い男がいた。
その左後方には見るからに鍛え上げられた大男が一人『完全武装』で『当然のように』無表情で控え、本人は輝くような自らの金髪に対抗でもしているのか、その引き締まった体を、鎧から装飾品まできんきらに飾り立てている。
まあ、椅子に座ってることは良いとしよう。きっと待ち続けて疲れたんだろうさ。
けど、当たり前のように自分も護衛も武装してるってどうなの?
たぶん止めただろう大扉の前の警備兵に対しても軍事的な優位をチラつかせて脅したんだと思うけど、まだ降伏も従属もしてない敵の城に『交渉』に来て、完全武装したまま?
いやまあ、結果も見えてるし、こんなものかとギュンターの方をさり気なく見れば、口を開けて呆ける老人が一人。
これはあれだ、アカンやつ。
狙いがあるのかないのかは知らないけど、まだ下に付いたわけでもない城主に武装したまま面会を求めるのは失礼という、こっちで学んだ常識が、いつの間にか改定されたなんて事実はなかったらしい。
それでも、実害がない以上、文句は言えない。
「じゃあ戦争な」と言われて困るのは、圧倒的にこっちなんだから。
「えっと、使者殿――」
「そういうの良いから。こっちの要求は紙にまとめといたから、さっさとサインしろ」
気を取り直して口を開けば、いきなりこれだ。
まあ、話が早いのは良いことだしと言い聞かせながら、護衛の大男が持ってきた一枚の紙を受け取る。
サインするのを待っているのか、その場で待つ大男に内心ビビりつつ、内容に目を通した。
「……えっ?」
「なんだ? さっさとしろ。時間がもったいないだろうが」
ここに来る間にギュンターとも話したように、従軍関係の条件は予想通り。
ただ、物資の引き渡し要求ってなんだ?
おじいさまから聞いた話では、王国に降伏すれば帝国に居た時と同じで上納金は求められるが、別にその場で物資を求められることはないだろうとの予想だった。
東方の遊牧民族みたいな例外は除き、今どき略奪頼りなんて不安定な方法を補給の主とする軍隊なんてまずなく、略奪をやったとしても、敵地の経済にダメージを与えるためか、兵士たちの小遣い稼ぎのために黙認するくらいなんだとか。
そのため、通常はすでに十分な物資を持っているのであり、余剰となる巻き上げた物資の管理や輸送は、その手間の分だけ行軍速度の低下につながる。
だったら、小さな諸侯から取れる微々たる物資をその場で得るより、機動力を維持したまま降伏させた領土を確保し、後から取り立てる方が効率的。
どうせ、先に物資を巻き上げても敗北して撤退するときには物資を持って逃げ切れるわけでもないんだから、吹けば飛ぶような山奥のド田舎貴族である我が家にまで、即時の物資供出を求めてはこないだろうと言われたのだ。
そんな中、突然数字を見せられても、受け入れて良いのか悪いのか分からない。
一応は習ったはずだけど、数多い知識の中の一つに過ぎない我が家の財政状況なんて、実務に触れたことのない俺にはすぐに出てくるものではなかったのだ。
だから、こんなときのためのギュンターに助けを求めようとした時のことだ。
「こ、こんなまさか!?」
「なんだ、ジジイ。うるさいぞ」
不快そうに使者殿はそう言うが、後ろから要求書を見ているギュンターは落ち着くどころか一層熱くなっている。
「従軍についてはともかく、物資供出は不可能です! これだけの食料を提供すれば、兵士を養えない!」
「それがどうした。領民から徴発すれば良いだろうが。いくらド田舎の貧乏領地でも、この程度の微々たる量なら出せるだろ?」
「そんな……これだけの支出を賄えば、領民の少なくとも三割は次の収穫を待たずに死んでしまう! 秋の収穫はまだまだ先なんだぞ!」
「お前、バカか? 略奪されるのに比べれば、民草がいくらか死んだって得だろうが。そのしわだらけの頭は、飾りか?」
その発言に、ギュンターがこれ以上の反論をすることはなかった。
別に、あんまりすぎて言葉がなくなったとか、相手の言葉に納得したとかではない。
ただ、俺が無言で立ち上がって、そのままゆっくりと歩き出しただけのこと。
王国の大軍を前にどうするかで何日も心労が溜まってたとか、使者の態度があんまりだったとか、初めてのお使いで緊張しまくってたとか、理由を考えればすぐにいくつか挙げられるが、どれが決定的だったのかは分からない。
ただ、その結果は明白。
破談になれば領地壊滅の可能性が濃厚だという状況で、言葉を紡がず、ある種の極致に至り、穏やかな笑みで進んでいた。
どれくらいの至りっぷりかと言えば、要求の書かれた書面へのサインを俺のすぐ横で待っていた使者の護衛である大男が、使者のところへ向かう俺を止めることを忘れて固まっている程度には穏やかで、当の相手である使者がこっちに気付いても不思議そうに見てるだけな程度には晴れやかである。
ああ、こんなさっぱりとした心境は何日ぶりだろうか。
少なくとも、王国軍侵攻の報を聞いて以来、初めてだ。
そうして使者の前にたどり着いた俺は考える。
時間を掛ければ、護衛だってすぐに動く。だから、必要なのは如何に素早く結果を実現させるか。
全身を鎧で固めた相手に、素手の一撃で即座にダメージを通す方法は限られている。
今回の場合、狙うべきは顔面。視界の確保のために正面が覆われていない、割と一般的な兜を被っているのだから、この距離までくれば狙ってくれと言ってるようなもの。
「というわけで――死に晒せや! クソガキがぁッ!」
「げふぉ!?」
その拳は、正面から鼻下を撃ち抜き、前歯が砕ける手ごたえを余すところなく伝えてきた。
文句なく、前世から含めての生涯最高の一撃だったと自負する一撃である。
同時に、この瞬間、俺の初陣が、四百の軍勢で一万の敵を迎え撃つと言うとんでもない戦いになることが確定したのだ。
『第二次マントイフェル合戦』
その二百三十四年前に帝国相手に行われた第一次合戦に対し、ここでは帝国諸侯として王国軍相手にマントイフェル男爵家が戦った。
一万の軍勢に囲まれた上で、男爵家の有するすべての食料・武具、無期限の従軍娼婦として若い娘を五十人差し出した上で降伏することを要求された当主代行カールは鼻で笑い、「弱兵が一万程度群れたくらいで何をほざくか。我が精鋭四百名が、貴様ら全員の命をもって身の程を教えてやろう」との手紙と共に使者の首を送り返すことで宣戦布告したと言われている。
(中略)
なお、帝国側と王国側の記録には食い違う点が少なくなく、当事者である当時のマントイフェル男爵家当主代行カールの回想録などでもほとんど触れられていないことから、現在でも戦いそのものの詳細は不明である。
帝国史用語辞典(帝国歴史保存協会、第九版、大陸歴千九百九十七年)の同項目より抜粋