VRホラーゲームを買ったはいいもののめっちゃこわいし早くおうちに帰りたい(おうちでやってる)
ひどい雨の日だった。
それでも俺は雨合羽を着込んでチャリを漕ぎまくっていた。通り過ぎる雨風が目鼻を容赦なく蹂躙していたけれど、俺には向かうべき場所があった。
二十分も走れば見えてくる。薬局だとかホームセンターだとかと共有しているバカでかい駐車場。俺が目指しているのは、緑色のロゴマークがついたゲームショップ。
駐輪場に自転車を立てかけて――、風に吹かれて安定しないそれを結局横倒しで置いて、合羽も脱いで前籠に詰め込んで、入り口までの短い距離を走って抜ける。
自動ドアを抜けた先、平和な屋内を、濡れた前髪を気にしながら逸る気持ちを抑えられないままに早足で歩く。
目当てのソフトを探すのに、わざわざ棚の奥にまで入る必要はない。何せ今日が発売日なのだ。だから間違いなくそのゲームハード――最近リリースされたばかりのVR対応ハードだ――、の一番目立つところにコーナー展開されている。
待っていろ、『史上初☆超リアル学園恋愛シミュレーションゲーム Blue Love Song (税込7,980円)』!
高らかに心の中で叫んだ俺の魂は獅子にも似て、隠しきれぬにやけ面を通りすがりの小学生に不審がられたりしたが、そんなことは何ら問題ではなく財布を握りしめる手は固く辿り着いた特集コーナーにはすでに延々PV映像を流し続けるモニター以外の影はなく。
売り切れだった。嘘でしょ。
「嘘でしょ」
綺麗さっぱり消え去っていた。モニターから流れる美麗なPV、コーナーの名残らしき女の子たちの決め顔ポスター(可愛い)。ソフトはひとつもない。
コーナー外に残っていないかと見回ってみるけれど、当然のごとくひとつもない。通りがかった店員さんに迷いなく俺は尋ねた。
「すみません、『史上初☆超リアル学園恋愛シミュレーションゲーム Blue Love Song (税込7,980円)』って残ってないですか」
「あー、午前中で売り切れちゃったんですよねー。申し訳ないです」
マジかよ人類の性欲最低だな。
「次の入荷いつになりますかね」の質問に対する「メーカー側の在庫が切れてるから今のところ未定」という回答に俺は打ちのめされた。
そしてじっと財布を見つめた。俺の半年は何だったのだ? うら若き中学生がたまたまネットで見つけたVRギャルゲーを購入したいあまりにあらゆる誘惑を断ち切って貯金した一万円は? 初回限定購入特典でついてくる全キャラクター水着DLCは? ていうかこれ逃したら二度と水着DLCはお目にかかれなくない? スマホで通販在庫をチェックすれば惨劇の『在庫なし』。明日からクラスでのあだ名はクソダメオタクボーイに決定だ。頬を伝う涙。
親が受け取りするリスクを踏み倒してでも通販予約するべきだったのだ。今更ながらに自らの危機意識の薄弱さに後悔しながらも、そのまま帰るでもなく未練がましくVRゲームコーナーをうろうろしていた。
そこで目についた。
「安っ」
二千円もしないVRゲームが売っていた。パッケージはシンプルに黒背景に赤文字縦書きの『あなた』。年齢制限はなし。ジャンルがホラーで年齢制限なし? ちょっと不思議に思ったけど、ライトなホラーゲームなのかもしれない。この値段帯だとボリュームも控えめだろうし。
買うか。折角こんな日にゲーム屋まで来たんだし。
この値段なら次回入荷時に『史上初☆超リアル学園恋愛シミュレーションゲーム Blue Love Song (税込7,980円)』を買う分の金も残る。俺は『あなたはオカルト研究会の一員となって学園生活を』という説明書きを凝視しながら、レジへと向かった。
*
「え、マジで? あーうん。わかったわかった。はいはい、戸締りね。うん、そっちも気いつけてね。はーい」
通話終了のボタンを押せば、今夜俺は家にひとりになることが決まった。強い風雨の影響で電車が止まったらしい。明日は土曜日だし、ということで父さんも母さんも会社に泊まってしまうことにしたとのことだ。
戸棚から持ち出したカップ麺を啜りながらニュース番組を点けてみれば、なるほど確かに交通機能はマヒしているらしい。一体どこから湧いて出たんだか、という数の人間が駅で人波を形成しながら右往左往している。こんな日に売り切れゲームを買いにチャリを漕いだ俺は一体何なんだ。馬鹿かな。
食べ終えたカップ麺のカップをゴミ箱にどーん。帰宅して即シャワーを浴びたから、歯を磨いてしまえば寝る準備は完了してしまう。まだ時刻は十九時過ぎ。
やるか。
二階の自室に上がる。それから本体にソフトメモリを差し込んで、ベッドの上に寝転がる。今日はどうせ親もいないことだし、進めるところまで進めてしまおう。ホラーを堪能するにはうってつけの環境だ。案外今夜中に終わってしまうかもしれない。VRゲーム用のバイザーを装着して電源をつけると、バイザーの示す視界が切り替わる。メーカーのロゴが消えればゲームスタートだ。コントローラーを握りこんだ。
そして始まるOPムービー。夜の木造の校舎、飛び立つ鴉。フラッシュのように差し込まれる謎の人影。鳥居。ありきたりもありきたり。かえって王道めいてるな、なんて頬をにやりと上げれば。
「あなた」
と耳元でいきなり囁かれて、それからちりん、と鈴の鳴る音。
そしてスタート画面。白状しよう。すでにちょっとビビっている。かといって二千円。投げ出すほど豪気な性格はしていない。スタートボタンをプレス。『はじめから』を選択。画面は暗転。
「ねえ、人はどんなときに恐怖を感じるか知ってる?」
また耳元で、ぞわぞわするような囁き。声が可愛いのだけが救いだった。
「それはね、きっと理由がないときなの。何かひどい目に遭うのに、それ相応の理由がないとき。誰だってひどい目に遭うのは怖いものだけど、それが理不尽なら理不尽なほど、自分の行動で避けようがないほど、予想がつかないほど怖く感じてしまうものなのよ。それは例えば……」
一瞬の無音。呼吸したみたいに。
「私とあなたが、出会ってしまったみたいに」
それから画面が切り替わった。小さな木造の教室にいた。昔の漫画でしか見たことがないような、古臭い建物。目の前には長い黒髪に真っ黒なセーラー服の女の子が座っている。これもまたテンプレなイメージだ。好きだけど。
すでに画面を動かすことはできる……、はずなのだけど、コントローラーが反応しない。けれど視線を左右に向けると視界を移動させることはできる。コントローラーの充電切れだろうか。
一旦バイザーを外すか、と思ったところで目の前の女の子が話しかけてきた。
「あなたはどこに行きたい?」
そう言って彼女は小さな紙を差し出してきた。そこに注視するように目線を向けると、詳細な文面が見える。
真ん中で十字に切られて、四つの選択肢が提示されていた。左上が『旧校舎』、右上が『寂れた神社』、左下が『廃トンネル』、右下が『あなたの家』。それぞれ鉛筆書きのイラストが添えられている。この女の子が描いたという設定なのだろうか。結構好きな絵柄だ。
何はともあれコントローラーがなくては、ともう一度立ち上がろうとしたところで、ふと思い当たることがあった。まずないだろうとは思いながらも、一応確かめてみる。
「おすすめは?」
「どこでもいいのよ。好きな場所に行きましょう」
そう言って彼女はにっこり笑った。
すげえ。
もしかして、と思ったけれどももしかした。音声入力形式だ。視線解析と音声入力でほぼすべての操作を済ませてしまう最新システム。『Blue Love Song』がその形式を取っていると前情報で聞いていたけど、これもそれを導入しているらしい。二千円でこれができるのか。
でもこの形式はちょっと恥ずかしいし(親がいる日はできないし)、たぶんコントローラー入力オプションがあったはずだけど……。まあいいか。折角今日は誰に気兼ねすることもなくゲームができるんだし。
思う存分この黒髪美少女といちゃいちゃするぞ。そういうジャンルじゃないけど、たぶんそういうこともできると思う。モデリングに異様な気合が入ってるし。
ハイパー下心くんなので俺の意識はだいぶ『あなたの家』という選択肢に向けられていたが、配置の問題がある。とりあえずは。
「じゃあ、『旧校舎』かな」
彼女は笑って立ち上がる。
俺も立ち上がろうとして――、あれ、どうやって移動モーション取るんだろう。んんん?と疑問に思いながら視線だけをきょろきょろさせていると、彼女が隣に立って俺の手をつかんだのが見えた。
「行きましょう」
手を引かれてゲームの中の俺は動き出した。
最高だなこのゲーム。
*
「この校舎、使ってるのは私たちだけなのよ」
どうやら移動は基本的に彼女に行く先を指定して連れて行ってもらうらしい。ずっと手を引かれている。その上この旧校舎は他の生徒が寄り付かずに、俺と彼女――どうも彼女がオカ研の部長らしい――しかいない空間になっているらしい。
最高だな、このギャルゲー!
「でも残念ね。もうここが使われていたのもずっと昔の話だから、どんな怪談が残っているのか、私も知らないの」
一歩一歩、進むごとにぎしりぎしりと板張りの廊下が鳴く。外は誇張し過ぎなくらいに真っ赤な夕焼けが迫っていて、外の木々に止まる鴉が、時折声を上げる。現実ではすっかり日も沈んで、月も星も吹き飛ばされてしまったような荒天の夜なのに、全くそんなことを忘れてしまいそうな没入感だ。
「あなたは、人間と幽霊と、それから人間でも幽霊でもないもの、どれが一番怖い?」
ちょっと考えてから、俺は答える。
「人間でも幽霊でもないもの」
「あら、お化けが怖いのね」
くすり、と彼女は笑った。美人のお姉さんに軽く馬鹿にされたいという欲望を満たしてくれる素晴らしいゲームだと思う。
「でも私は残念ながらこの校舎にどんなお化けがいるのか知らないの。だからね、」
こっちから呼んでみましょう、と彼女は言って、数多ある空き教室のうちのひとつに入っていった。当然ながら俺も続く。
教室の中はやはり廊下と同じく古びていた。廊下側から射し込む西日に照らされて橙色に染まった教室は、軽く埃が被っていて、部長はそのうちのひとつの椅子を動かして、ひとつの机を囲むようにして俺も座らされた。
「こっくりさん。テーブルターニングなんて、ちょっと古臭いかもしれないけどね」
はにかみながら彼女が取り出したのは、ホラーじゃお馴染みのあの紙。あいうえお表にはい/いいえ、零から九までの数字、それから赤い鳥居が書かれたこっくりさん用紙(?)。
もしかしてさっきの三択の問いは分岐なんだろうか。もしそうなら随分凝ってるな、と思う反面、パターン変化量が結構あるようなら、各ルートの話は短くて共通部分を何周もしなくちゃいけない仕様になってそうでちょっとめんどくさそうだ、とも思う。VR系のゲームは攻略サイトを参照するのも面倒なのだ。
彼女が十円玉を紙に乗せて指を置いた。俺も十円玉に視線を集中させれば、勝手にゲーム内の指が動いて十円玉に触れる。
「こっくりさんこっくりさん」
と彼女は呪文を唱え始めた。俺も合わせた方がいいのかな、と思ったけれども、現実の方で来ちゃったら(来ないだろうけど)嫌なので、無言を貫いた。どうやら俺が合わせる必要はなかったらしく、部長が呪文を唱え終わると、つうっ、と十円玉が鳥居の上に動いた。
「あなたから質問していいわよ」
と部長は言ったけれど、ゲームのこっくりさんに何を質問すればいいかなんて、パッとは――、
「『Blue Love Song』はいつ再販されますか」
思いついた。ゆっくりと動き出した十円玉が指し示す。『一』『零』『か』『こ』。十日後。ちょっと遠いようなそうでもないような。
「へえ、そういうの好きなのね……」
声に釣られて目線を上げると、部長が面白がるように笑っていた。このゲーム作った人たぶん変態だと思うんですけど。というか本当に対話AIがよくできてるなこれ。フルボイスでこれは相当金かかってる気がする。
「次は私の番ね」
と告げて、先輩は尋ねた。
「『あなた』の名前は何ですか」
『あなた』が指し示すのが、俺のことなのかこっくりさんのことなのかわからなかった。けれどそんな戸惑いの間にも十円玉は動き出す。
『 』
『 』
『 』
俺の反応を待つこともなく、俺の名前を、正確に。
視線誘導か?と初めは思った。名前を尋ねられて、無意識のうちに目線が自分の名前を表から探してしまったのかと。確かめるために一度ぐるぐると表の上に視線を巡らせてみたけれど、十円玉の動きは迷いない。迷いなく俺の名前に向かう。
それならVRハードの方に名前を入力して――? いやそんなこともない。ネット接続のときに本名データが残っているのは不安だからと、そもそもの本体設定からHNを入力していたはずだ。
そして、最後の一文字までこっくりさんは示して。
<ア゛ァーーーッッ!! アッ、ア゛アァーーーッッ!>
突然鴉の鳴き声が響き始めた。
ギョッとして窓辺の方を見ると、ものすごい数の鴉が夕日を覆う勢いで窓にへばりついている。ごつごつと、嘴で叩かれた窓ガラスが、頼りなく振動する。
「へえ……、あなたは××××っていうのね……」
けれど彼女はそんなのどこ吹く風、という調子で俺の名前を呼んだ。名前を? 滑らかに? そんなことが可能なのか?
「危ないから逃げよう」
と、俺はできるだけ簡潔に伝えた。何にしろこれが良い展開とは思えない。狂乱する鴉の叫び声に遮られないように、できるだけ大きな声をかけると、彼女は落ち着いた様子で返す。
「もう終わりにしちゃうの?」
「終わりにする」
「でも、こっくりさんにちゃんと帰ってもらわないと」
彼女の言葉を待つこともできず、俺は呪文を唱え始める。お帰りください、と。
『いいえ』
「あら、困ったわね」
鴉の嘴が、窓ガラスに亀裂を入れ始める。教室の窓だけではなく、廊下側からも叫び声が聞こえてくる。もう一度唱える。
『いいえ』
『か』
『え』
『ら』
悠長に動く十円玉に焦りが勝って、もう一度俺は呪文を唱えるけれど、それは俺の言葉なんて聞かないで続きの言葉を指し示して――。
『せ』
『な』
『い』
「え――」
と声を出したときには、もう遅かった。用紙がぼうっ、と音を立てて、端から勢いよく燃え始めたのだ。
「うわっ!」
みるみるうちに黒い灰になっていく紙に驚き、俺は思わず十円玉から指を離してしまった。
――指を、離してしまった?
「あーあ」
と、視線を向けた先で彼女は言った。
「帰れなくなっちゃったのね」
と。その言葉に、一気に疑問が噴き出して。
俺は右手を動かした。
すると、動いた。ゲームの中の右手が、思った通りに。
「コンフィグ! オプション! ゲーム終了!」
音声入力しても何の反応もない。部長はじっと俺を見ていた。それからもう一度。
「帰れなくなっちゃったのね」
と呟いた。
起き上がろうとしても、現実の足の動かし方がわからない。バイザーを外そうとしても、同じように。身体の感覚がすっかり、さっきの、たった一瞬の間にすり替わってしまったように。
なんなんだよ、これ。
さっきまでとは状況がまるで変わってしまった。違う。さっきまでの恐怖は俺の知らない細かな技術によって発生した可能性があるけれど、これは違う。
VRなんて言ったって、視覚を没入させるのが精一杯だ。全身型のゲームも出てることにはできるけど、まさかバイザーだけで体感型ゲームをプレイすることができるなんて、そんな技術領域に達しているはずがないし、その上現実の身体の動かし方がわからなくなるなんて、そんなものは見たことも聞いたこともない。
ありえない。
ありえないなら、この状況はなんだ?
「ど、どうしたら……」
「帰りたいのね」
混乱しながら、ごく自然に、頭痛をこらえるような仕草を取ってしまいながら尋ねた俺に、彼女は頷いた。
「帰りたいなら、その十円玉をどうにかしなくちゃいけないわ。そういうルールだもの」
彼女が指さした十円玉を、俺はぎゅっと握り上げた。
「どうすれば……」
「お祓いするなら神社でしょ?」
そう言って彼女は俺の手をまた取った。
こっくりさんのルールだとかお祓いするなら神社だとか、そういうところがやけにゲームっぽいことに俺はどこか安心した。
一方で、ならば俺の手を引く彼女は誰だ、と不気味に思い、それでも手がかりはここにしかない以上、従うほかなかった。
教室から一歩出れば、視界は暗転した。そのことに俺はホッとしながら。
暗闇の中で、ガラスの割れる音と、肉がぶちぶちと千切れる音を聞いた。
*
暗転が明けた瞬間にわかった。ここは『寂れた神社』だと。
どうやら移動で時間経過があったらしい。雲間から覗く黒よりも暗い赤色の夕日が闇を濃くして、森の中にいる俺はほとんど影めいて自分の手の色すらも上手く把握できなくなっている。
神社は小さい。灰色の石鳥居には蔦が絡みつき、その奥に風でも吹けば崩れてしまいそうな社があるだけ。けれどその社へと続く上り階段はどんどん幅が狭まっていて、奥の方にはほとんど光は射し込んでいない。
「こっくりさんで使った道具は処分しなくちゃいけないってよく聞くわよね。でもテーブルターニングの時代にウィジャボードを毎回処分していたとは考えづらいし、一体いつからどんな風に浸透したルールなのかしら」
彼女はそんなことを呟きながら、俺の腕を引いて――、
しかし俺は抵抗した。
「行きたくない」
彼女は不思議そうな顔で俺を見た。
「どうして?」
と尋ねられたけれど、どうしても何もない。
いるのだ、そこに。
ボロボロの白い服を着て、だらんと伸ばした手に鋏を持った、髪の長い人間が。
箒のように傷んだ髪に隠れて目は見えない。けれどそいつは、俺の方を向いていた。そしてよりにもよって、そいつは神社の傍に立っていた。
誰が好きこのんで、あんな場所に行くというのだろう。
けれど彼女は容赦なく俺に告げる。
「帰りたくないの?」
「……」
結局のところ、俺はこのゲームのルールに従うしかないと、頭では理解できていた。ひとつもわけがわからない、説明のつかない状況で、混乱していて、縋れるものはルールしかないのだ。これがゲームだったとしても、ゲーム以外の何かだったとしても。
考えなくてもわかる。ホラーゲームなのだから、恐怖に飛び込むしか道はないと。
理性で本能をねじ伏せる。願わくば、そこに危険がありませんように、と儚い願いを託しながら、俺は頷いて彼女の手を握った。
奥へと進む。鋏の人物は動かない。社の目の前に立っても、なお。少しだけ、胸をなでおろした。
「そこのお賽銭箱に十円玉を入れればいいわ」
言われた通りにそれを投げ込む。賽銭箱、というよりも木枠と言った方がしっくりくるようなくたびれ具合だった。鳥居の向こうから射し込む光はほとんど影を作るだけで、その底はどうなっているのか見ることは叶わない。
「それから目を瞑って、手を合わせて。私がいいって言うまで、開けちゃあダメよ」
ああ。
来てしまった、と思った。もしも恐怖があるならこのタイミングだと、わかってしまった。
けれど、予想できてしまえば覚悟も――、それなりには。俺は「はい」と頷いて、手を合わせて目を瞑る。隣でパン、と手を合わせる音がして、彼女も瞼を閉じたのがわかった。
這いずる音がする。
ずりずりと、人間が這い寄ってくる音。
しゃきん、と。鋭い金属音が鳴った。
しゃきんしゃきんしゃきん、と連続して鳴るそれは、段々とその音源がせり上がってくるのがわかる。今は胸の高さよりもきっと上だ。
<あ…て……い…>
何かを呟きながら、それは迫ってくる。低い声だ。男かもしれない、と冷静になる頭がある一方で、心臓が早鐘のように脈打つ。
まだか。まだダメなのか。
<ハアーッ……、アァーーッ……>
耳元まで来た。生ぬるく荒い吐息が、首筋に当たる。獣の唾液のような、不快な臭いがする。
しゃきん。
しゃきん。
耳に触れるような場所で鋏が鳴る。ぱらぱらと肩に当たる細かい感触は、きっと切られた髪の毛だ。
<開けていいか?>
「ひっ――!」
耳元で囁かれて、思わず声を上げてしまった。
地の底から唸るような、鼓膜を振動させる声。けれどそこにはうっすらとだが確かに知性が宿っていることがわかって、それが余計に恐怖を煽る。
<開けていいか? 開けていいか? 開けていいか?>
しゃきんしゃきんしゃきんしゃきん。
一体何を開けるっていうんだ、と恐怖を誤魔化すように疑問が湧くが、俺は決して口を開かない。ただ息を潜めて、この男がどこかへ消え去るのを、あるいは隣の彼女の「もういい」という言葉を待ち続ける。
しゃきん、と。
その音を最後に、うるさいくらいに耳元で鳴り続けた鋏の音が突然止んだ。
ようやく終わったのか、と息をついて、瞼に込め続けていた力を少しだけ緩める。
首元にぴたり、と冷たいものが当たった。
<開けて、入っていいか?>
「たすけ――!」
もう一度、首元でしゃきん、と鳴る音が聞こえるのと、「もういいわ」と彼女が告げる声が聞こえたのは、きっと、同時だった。
*
「よく頑張ったわね」
目を開いた瞬間に見えたのは、にっこり笑う彼女の顔だった。
得体の知れないゲームの住人を見てホッとする、なんてのもおかしな話だけれど、それでも安心してしまったものはしょうがない。
「どうなったんだ」
「無事お祓いは終わりました。だから後は家に帰るだけよ」
彼女の言葉に胸を撫で下ろしたのも束の間。彼女の背景にあるものに気が付いてしまった。
「廃トンネル……」
「トンネルを抜けると、ってやつね」
彼女はまた、いつも通りに俺の手を取った。
「ここを抜けないとおうちには辿り着けないわ。はぐれないように手をつなぎましょう」
それから、と彼女は制服のポケットに手を入れて、小さな鈴を取り出した。
「もしも私の手を離してしまったら、この鈴の音を頼りについてきて。決して私から離れてはいけないわ」
俺は素直に頷いた。ぐだぐだやっていても仕方ない。迷った時間分、恐怖が増えるだけだ。
部長は俺を見て頷いた。
「行きましょう」
と。それだけ行って、俺たちはふたり、闇の中のトンネルに足を踏み入れる。
すっかり時刻は夜になっていた。深夜と言われても驚かない。何せ、自分の手のひらの色どころか、輪郭すらも全く見ることができないのだから。
部長の歩みはゆっくりだった。ホラーゲームのプレイヤーキャラの移動速度がゆっくりに設定されているように、緩慢な動作は恐怖を増す効果がありそうなものだけれど、今はありがたい。足元が全く見えないから、おっかなびっくりな移動になってしまうのだ。
ゆっくり、ゆっくりと進んでいく。ちりん、ちりん、と。オープニング映像で聞いたようなそれと同じ、鈴の音が鳴る。
「どのくらいで着くんだ」
と、俺は問いを投げかけた。それはトンネルの中で反響して、何重にもなって返ってきたけれど、しかし彼女はそれに答えなかった。
「なあ」
不安になってもう一度尋ねたとき、突然足元を引っ張られたようにして俺は転げた。打撲の音がトンネルに寂しく反響する。
痛い。
「ひっ――」
その事実に俺は恐怖した。痛みだ。
さっきまでも感触はあった。触覚があるというのに、痛みが再現されない道理はない。頭ではわかっていても、それは恐怖に直結する。
痛いのだ。この場所に、痛みがあるのだ。
ものすごい不安に襲われて、次の瞬間に気付いた。
手を離してしまった。
「ど、どこに――!」
手探りで周囲の空間を探る。
ちりん、と鳴った鈴の音を頼りに、そちらの方に這いつくばるように手を伸ばせば、ぱしり、と手をつかむ音がした。ぎゅっと握れば、あちらも握り返してくる。
危なかった。
俺はその手に縋るようにして立ち上がる。また歩き出す。
もう二度とこの手を離すまい、と強く握って彼女に続く。この場所でもう一度手を離してしまったら、そのときが最後だろう、という危機感とともに。
それに、さっき足を取られたあれはなんだったか。引っ張られたような感触が足首に残っていて、もしかしたら定番のアレだったのだろうか、なんて、無理やり笑い飛ばすように考えながら、黙々と歩く。
それこそ恐怖から目を逸らすように、黙々と、どこまでも黙々と――。
そして、鈴の音が遠ざかっていく。
「――え?」
ちりん、ちりん。
少しずつか細くなっていく音と、はっきりとした手の内の冷たい感触。
鈴の音が彼女の目印なら、ならこの手は。一瞬の迷いを見抜かれて、一気に俺の手を握りこむ、その手の力が強くなった。骨まで砕かん、とばかりに俺の手を握りしめるそれを、俺はもう片方の手で握りこんで、放せ、と叫びながら身体を間に割り込ませようとして――。
この手は、腕より先の身体がない、ということに気が付いた。
「クソッ!」
意味もなく叫んで、今度は掴まれた手を自分で握りこんで引っ張りこむ。体重をかけながら尻もちをつくようになんとかその手を引き抜けば、鈴の音はゆっくりと遠ざかっていく。
「待って!!」
大声はトンネルに反響するけれど、彼女が立ち止まる気配はない。俺は走った。もはや足を取られることなど気にせずに。
何かにぶつかった。
壁ではない。何か冷たい――、肉のような、マネキンのような。形のわからないそれを弾き飛ばして進む。またぶつかる。ぶつかってぶつかって――、それでも、りん、と鳴る音を印に俺は走り続ける。
獣臭い何かに触れた。
昆虫のような固いものの柔らかい部分に手をついた。
何かの断末魔がトンネル中をかきむしるように響いた。
しゃきん、と鳴る音が肩に痛みを生んだ。
けれど俺は止まらない、止まれない。トンネルの中に何がいるか、考える頭もない。必死で走って、追いすがって。
そして、光を見た。
「家だ……」
トンネルを抜けた先には、家があった。
俺の家だ。
そっくりそのまま、俺の家だ。
「おめでとう」
りん、と鈴の音が鳴って目を向けると、やっぱり彼女がいた。
「これ、どうなって――、いや、だって、俺の家なんてモデリングの仕様が――」
「おうちに帰ってこれたのよ。おめでとう」
未だに状況を受け止めることができずに困惑している俺の言葉を聞かず、彼女はどうぞ、と言わんばかりに俺の家の玄関を手で指し示す。
どうなったんだ。
帰ったら終わりなんじゃなかったのか、とそう思うと同時に、最初の選択画面には四つの選択肢があったことを思い出した。
帰ってこれても、まだ終わりじゃないのか。
彼女の誘導に従って玄関の戸を開ける。もう手は繋いでいない。
家の中はどこからどう見ても俺の家だった。さっきゲーム屋から帰ってきたときにびしょ濡れなのを気にして他の靴から離して置いた運動靴の配置まで再現されている。
俺の家だ。
けれど、どこかに違和感がある。それは例えば、そこにあるすべてのものが、どこかから持ってきた『俺の家にそっくりなもの』で構成されているような――。
そんなことを考えながら家の中を見回していると、彼女がすっと前に出てきた。ふわり、と風が俺の頬を通り抜けて、彼女は勝手知ったる様子で俺の家の奥へと進んでいく。
「どこに行くんだ」
尋ねると、彼女は振り向かないままに静かに答えた。
「あなたの部屋」
その言葉通り、彼女は二階へと上がっていく。俺は迷いながらも、しかし今更彼女から離れて何をできるわけでもなく、仕方なしについていく。
自室の前まで来た。
「開ける? 開けない?」
彼女が俺に尋ねた。その質問の意図を飲み込めなかった俺は、質問を返した。
「開けたら? 開けなかったら?」
「さあ?」
彼女はどっちでもいいわ、と言わんばかりに肩を竦めた。
今更迷うこともない、進むしかない。きっとこれで最後の最後なのだから。
だから俺は彼女の前に立って、と思い切って扉を開いた。
そして――。
「――え」
一目で異常だと思った。
色彩のめちゃくちゃになった部屋だった。でたらめに混ぜ込んだ絵具を部屋中にぶちまけたみたいな、悪趣味な夢のような色の部屋だったけれど、それでも形でわかる。俺の部屋だった。
けれどそれよりももっと異常なものがある。
ベッドらしきものの上に横たわるそれは――。
「あなた」
俺だ。
異常な着色の施された部屋の中で唯一、そのまま残る俺の姿。VRバイザーを頭に着けて死んだように横たわる俺の姿――。
いや、違う。
『死んだように』なんかじゃない。
「あ――」
それがなぜなのかも、そしてなぜそれがわかるのか、何も理解も直感もできず、それでも俺は無意識のままに俺の死体に向かって手を伸ばして――。
「帰れて、よかったわね」
どん、と背中を押されて倒れ込み、最後に彼女のその言葉だけが耳に残った。
*
目を開いても真っ暗だった。
焦って顔の手前あたりをとにかく探ったら、こつん、と固いものに手が触れた。バイザーだ。慌てながらそれを取り外すと、自分のベッドが目に入った。見慣れた色彩の、普通のベッド。視線を巡らせれば、同じくいつも通りの自分の部屋。間違いない。
「……終わった」
力を抜こうとしたけれど、肺が固まってしまったみたいに、上手く呼吸ができなかった。それでも激しい動悸の残る胸を撫で下ろして、強張った肩から少しだけ力を抜いた。
何が何だかわからなかったけれど、ゲームは終わったのだ。
さっきのは一体何だったのか、終わってもまだよくわからない。
もしかしたら俺はゲームの途中で眠りでもしてしまったのか、とも思う。それでゲームと夢がシームレスに繋がってしまったのか。
確かめるためにもう一度ゲームを起動しよう、なんて気持ちは、これっぽっちも湧かなかった。とてもじゃないけれど、『もしかしたらまた同じ目に遭うかもしれない』という考えを拭えそうにもない。恐怖を忘れた頃にこのゲームのバグ報告でもなんでも検索して覗いてみよう。忘れてしまったら、それはそれできっといい。
外したバイザーをとりあえずしまいこんだ。VRゲームは『Blue Love Song』が入手できるまでは触らないようにしよう。あるいはそれからもしばらくの間は。あまりにも衝撃的な体験だったし、ちょっとやそっとじゃ上書きできそうにない。
立ちあがってカーテンを開けてみると、相変わらずの嵐の夜だった。
雨はざあざあ、というよりもびゅうびゅう吹き荒れている。この分じゃ両親の帰宅には期待できそうにもない。となると、この状態で朝までひとり寂しく、この家で過ごすことになるわけで――、ぶるり、と身震いがした。
リビングにでも降りようと、そう思った。
この部屋にいるのはちょっとつらいし、まず眠れそうにない。それから深夜の、お笑いとかちょっとスケベな番組とかをテレビで見ながら朝まで過ごそう。怒られるのを覚悟で、戸棚の食料を片っ端から平らげてしまってもいいかもしれない。とにかく何か楽しいことを一番中続けて、朝日が家を照らすのを待つことにしよう。
カーテンを閉めて、これから長い夜になりそうだ、と思いながら部屋のドアに手をかける。
<――開けて、入っていいか?>
薄板一枚隔てた先で、ちりん、と鈴の鳴る音が聞こえた。