第八席 第二回異世界野点
フミニア宅の土間。
グラペットと呼ばれる草織の敷物の上に、利康が下着一枚で正座している。
家主のフミニアはすでに、予定にある来客を迎えに出ている。
かたわらにおいた水を張った桶に浸した布を絞り、体をぬぐい始める。
左肩から腕。
持ち替えて右腕を肩から。
続けて胸から背をぬぐい、左右の足を腕と同じ順で拭く。
そうして脂肪の薄い下着一枚の細身を洗い清めていく。
ひとしきり体を濡れた布で拭くと、桶に張った水を手にすくって顔にぶつける。
同じように水気を顔に加え、皮膚にまとわりついた脂を念入りにこすり落とす。
そして顔を拭いたあとには、水を肩に届く黒髪にすくいかけて、濡れたそれをわしゃわしゃとかき混ぜ洗う。
頭皮から毛根にまで、水が行き渡るように念入りに揉みこむ。すると頭を濡らす水を、頭からはがれた老廃物ごと追い払うように絞り落とす。
石鹸すらない状態ながら、できる限りに清めた体を窓から吹き入った風が撫でる。
「ううッ」
水気といっしょに体温を盗んでいくそれに、利康は首を縮ませて身ぶるいをひとつ。
利康はそんな自身を震わせた風の中に、蠱惑的な笑みを浮かべた女の像を見る。
だが神霊妖魔と通じあう才を持たない者が、助けも無しに風に紛れた何者かを見ることなどできるはずもない。
ただ思い込みが生んだ幻であろう。
利康は色気あふれた風をそう結論づけると、苦笑まじりにかぶりをふる。
そうして近くに準備してあった香炉に寄り、合わせて置いてあった粉末の香木を入れる。
火に熱せられた小さな金皿の上で、ゆらりとかすかな香煙を昇らせる抹香。
利康はそれをたしかめて、板間の端にたたんでおいた紋付き袴に手を伸ばす。
足元に置いた香炉からの煙。
その香りと熱を含ませるようにしながら、利康は手持ち唯一無二の礼装となった和服を身につけていく。
いま利康をその服ごとに燻している香炉と抹香は、フミニアの持ち物である。
草木の匂いの他にエルフ族の好む香りであるらしく、エルフ族の儀礼や会談にのぞむ異種族が用いるのであるという。
石鹸無しの水のみで体を洗うばかりの環境。それで茶の香に体臭がまじることを嫌った利康にとって、フミニアのすすめた香はまさにわたりに船。
礼をつくす一席のため、ありがたく借り受けた。
そしてこうして実際身を燻してみて、利康は着物に染み入る香りを気に入っていた。
刺してくるような主張の強さではなく、しかし身を包んでいるのを感じる存在感。
できるのならば、いずれ茶室を設けた時に焚きたい。そう思いながら、利康は香煙を髪に浴びせてひとまとめにくくる。
身を清め、支度を整えた利康は腹が膨らむほどに深呼吸。
不思議と安心感を与えてくれる香りを腹式にて取り込む。
「よし!」
そして短い気合をひとつ。来客をもてなすために表へ出る。
質素な木造平屋のすぐ前。
この世界ではじめて茶を点てたのと同じ場所に、席が整えられている。
同じとはいっても、寸分違わぬのは湯を沸かす鍋と、その位置だけ。
石組みかまどと鍋を仕掛けた場所を中心に、三枚の畳もどきが組まれて敷かれている。
近くに生えた木の影の下。広くのびた枝葉を日傘とする場所に。
風の通りも良く、涼しく整えられた野点の席。
加えて太い枝からは、先日見つけた百合似の花を土ごと植え替えた藁の植木鉢が吊るされている。
花も加わり、より整った今回の茶席に利康は目を細めてうなづく。
そして利康はかまどを傍らに畳もどきに正座。
中身を厚く詰めた藁織の座布団二つを前に、茶道具を一つずつ配置していく。
ゆるゆると利康のほほを撫でて流れる風。
その風に枝葉が擦れ合い、さわさわと歌う。
頭上にすぐ。また離れた所から届いたものとが重なり、豊かに深まる音色。
利康がそんな木の葉の音に耳を傾けていると、音に近づいてくる足音が混じる。
柔らかく軽やかなその足音に顔を向ける。
するとそこにはフミニアと並んで美少女がもう一人。
おそらくは来客として予告されていたアイアノと言う名の娘だろう。
フミニアとは違い、肩にかかる程度の薄金色の髪。
その髪質はフミニア以上に細く、まっすぐ。そよ風にしゃらしゃらと揺れている。
明るい緑色のチュニックを着たその体は、並び歩くフミニアと比べてもさらに細身である。
しかしフミニアも小柄で細身であり、出るところがバランス良く出ているスタイルなのである。
つまり、並んだアイアノのスタイルには女性らしい起伏が……いや、みなまで言うまい。究極的には見る者の主観によるものなのだから。
それはともかく、並んだ二人のエルフ耳娘たちは見るからに良く似ていて血縁を感じさせる。
ただ体型の違いは姉妹でもよくあることとして、ひっかかるのはその耳の違いである。
フミニアの耳をエルフ耳と呼んだが、隣のアイアノのものとは細かに形状が違う。
アイアノの耳はフミニアのものよりもさらに細長く。たとえるなら竹の葉のよう。
耳まで含めフミニアをなにからなにまで細くしたようなアイアノ。
彼女は正面の利康に気がつくと、フミニアによく似た大きな碧眼をまばたかせる。
「彼がいま話したコガ・トシヤスさん」
「ご紹介にあずかりました、古賀利康です。はじめまして」
紹介してくれるフミニアに続いて、利康は畳に手をついて一礼。改めで自分からも名乗る。
「お……っと、チ・アイアノ・イァドよ。はじめまして」
戸惑いながらも慌てて返礼するアイアノ。
利康はその馴染みの無い法則の名前に内心首を捻る。
しかしながらそれを表に出さずに笑みを深めて、目の前の草織の座布団をすすめる。
「本日は森の奥の都からこの村まで、招待に応じてくださりありがとうございます。長く歩いてお疲れでしょう。まずは足を休めてください」
「ああ、はい。ご丁寧に、ども……」
まだ戸惑いまじりながら、アイアノは利康にすすめられるままに畳へ歩み寄る。
「姉さん。利康さんのいる板に上がる前にこれ使って」
フミニアはそんなアイアノを姉と呼びとめて、畳の傍にある木桶を指さす。
そう言うや否やフミニアは水を張ったそれの近くに腰をかけて革靴を脱ぐ。
そして桶からすくい出した水で足を濡らしてもみ洗いはじめる。
ひととおり足のマッサージを終えると、フミニアは布で足を拭いて水気を取り除いて畳に上がる。
フミニアがそうしてやって見せると、アイアノも頷いてその後に続く。
畳に上がり、藁詰めの厚い座布団の上ながら正座をするフミニア。
それとその隣に、同じく座布団上で横座りに落ち着くアイアノ。
こうして並んで座れば、やはり二人はよく似ている。先のフミニアの姉と呼んだ言葉も納得である。
微妙に異なるエルフ耳の姉妹を前に、利康はかまどに入れた炭を熾す。
「黒い薪?」
火を噴き上げずに赤く熱を発し始めた炭。それに目をまたたかせて首を傾げるアイアノ。
その様子に利康とフミニアの二人は笑みを深める。
鍋に満たした水を沸かしながら、利康は小さな木箱を前に出す。
塗りこそされていないが、滑らかに磨かれた木目の美しい箱。
それを前に利康は改めて一礼。
「本題のお話に入る前に、ひとつ……菓子と茶にてくつろいでいただければと思います」
前置きに続いてふたを持ち上げる利康。
「これは……!?」
そして現れた箱の中身にアイアノは目を見開く。
箱におさまっていたのは美しい二輪の花。
花弁は薄黄色の漏斗型。
小さな木皿と緑の葉を下敷きに鎮座するそれは、一見食べる物には見えない。
だがこの花は、紛れもなくフミニアの手による菓子である。
蒸かしたイモを滑らかに潰し混ぜた餡。それに樹液由来のシロップ、穀物粉を混ぜて練る。
そうしてできた生地を花の形に整えたものである。
生地の薄黄色はイモそのもののが作る過程で薄まったもので、なんの操作も加えてはいない。
「これがお菓子!? 本当に!?」
利康が膝の前にさし出した菓子。
その繊細な出来栄えに、アイアノは信じられないとばかりに皿ごと手に取り、大きく見開いた目と鼻の先に寄せる。
「ええ、まぎれもなく。僕が求めたようにフミニアさんが作ってくれたお菓子です」
「フミニアが!?」
利康から菓子の作り手の名を聞いて、アイアノは見開いた目を隣の妹へ向ける。
そんな姉の視線を受けて、フミニアは照れたようにはにかむ。
「いやでも、トシヤスさんにお願いされた通りに作っただけだし……アハハ」
「だからこそですよ。僕の無茶ぶりに答えてこうして形にしてくれたのはフミニアさんなんですから」
利康が言うとおり、砂糖の手に入らない状況下で代わりになる食材を集めて形にしたのはフミニアの尽力によるものだ。それもまったくなじみの無い形の料理でである。
畳もどきの手配も含め、ほんの三日でここまで要求を満たしたフミニアの苦労。
利康はそれを思うと、このエルフ耳の少女に頭が上がらない思いが湧いて止まないのである。
「ともあれ二人ともどうぞ、お茶の前に召し上がってください」
そう言って利康は二人に出した茶菓子を重ねてすすめる。
とは言っても、片方は調理した本人なのだが。
「はい。大地と森の恵みに感謝を」
「我らを育む森と大地に感謝を」
しかし二人は素直に従って、糧をもたらしたものへの感謝の言葉をささげる。
木皿に添え乗せた小さな木へら。
それをフミニアは躊躇なく手に取り、ナイフを入れるように花をかたどった菓子を切る。
続いてアイアノも妹の動きを手本にして菓子に手を付ける。
姉妹は小さなナイフ状に研かれた木べらで菓子を切り分けて、一口。
そして口の中に広がった甘味に目を見開く。
「おお! おいしい!」
「うん! 味は見ておいたけど、ちゃんとできてる」
口中を満たす幸福。それを楽しむフミニアとアイアノに、利康は目を細める。
甘味は本来生物の求める味覚である。
より正確には、エネルギーとして効率よく取り込める物質を甘く感じるようになっているのである。
二人はそれから続けて菓子を切り分け、口中の甘味を絶やさぬように次の一口を舌に乗せていく。
そんな姉妹を横目に、利康は炭火にかけた湯の具合を確かめる。
ほどほどに蒸気をあげるほどに沸いた鍋の中身。準備の整ったことを確認して利康はうなづく。
そして二人が茶菓子を食べ終えるのを見計らい、一礼する。
「これより、お薄をさしあげます」
対してフミニアは二度目ともなれば慣れたもので、無言で指をついて返礼。すると姉のアイアノも慌ててその真似をして頭を下げる。
それを受けて利康は懐から紫の帛紗を出すと、両端を引き広げてちり打ちをする。
小さくたたんで手のひらサイズにまとめて茶器、茶杓を拭き清める。
そして柄杓を確かめて、二つの抹茶茶碗に汲んだお湯を注ぐ。
お湯を入れた茶碗に茶筅を入れてゆっくりとかき混ぜる。
器と茶筅。双方をウォーミングアップ。
温めるのに使ったお湯を傍らの木の椀に流して、茶巾で水気を取り除く。
準備を整えて、利康は棗形の茶器から二つの茶碗に抹茶をそれぞれ茶杓に一杯と半分入れる。
そしてまずは素朴な方の茶碗にお湯を必要な分注ぐ。
すると柄杓から茶筅へと持ち替えて再び器の中へ。
素早くかき混ぜ茶を点てる利康。
その手つきにアイアノがほう、と呆けたように感嘆の息を吐く。
そんな吐息が耳に入っていないかのように、利康は茶を点てるのに集中している。
まずは一杯。土そのものの雰囲気も色濃い素朴な碗の一杯を仕上げてフミニアの前へ。
「お先に」
「うん」
フミニアは利康の差し出した茶碗を、姉との間に移して軽く一礼。
対するアイアノは律儀に声まで出して返礼。
それにフミニアは微笑み姉への会釈を重ねる。
「お点前、頂戴いたします」
そして茶碗を正面に戻すと、茶を入れた利康に深く一礼。続けておしいただくように茶碗を持つ。
両手で包むようにした茶碗を回して正面を避けて口を付ける。
「はぁ……お茶菓子の甘味が先にあったから、お茶の味が前にいただいた時よりもはっきりしてます」
菓子を加えた茶の味。フミニアはそれに感嘆の息をもらして二口目を口につける。
そんなフミニアをよそに、利康はつるりとした青い器の茶を点ててアイアノへ差し出す。
「ど、どうも……」
アイアノは浅い会釈とともに青碗を受け取ると、先にフミニアがやっていたのを見よう見まねで辿ってみせる。
ところどころで詰まりながらも正確にまねて、一口。
そして茶を含んだ瞬間、その味わいに目を見開く。
「苦みはある……けど、これはそれ以上にまろやかで、おいしい……!?」
アイアノは驚きのまま碗の中にある泡立った茶を見て、二口目へ。
それに続いてフミニアは音を立てて自身の茶を啜りきる。
それから指先で飲み口を拭き、自前のハンカチで指先を清める。すると碗を逆回しに戻して膝前へ下ろす。
「結構なお点前でした」
茶を味わっている途中の姉に先んじて、深く頭を下げるフミニア。
そんな妹に、驚きの目を向けるアイアノ。
正確には、フミニアが茶を音を立ててすすりきったことにだろうが。
「茶の香りをきわだて、味わいを完全に引き出すための作法です。どうしても抵抗があるのでしたら音を立てずに飲みきって下さって問題ありませんよ」
フミニアと自分の茶を見比べ戸惑うアイアノに、利康は微笑みながら助け船を出す。
これはフミニアにも先に茶席を設けて見せた時にあらかじめ説明している。
だがフミニアは、それが作法ならばと素直に従って教えた通りにすすりきって飲んで見せている。
アイアノは利康の語った理由と、自分の信じる行儀を優先しても構わないとの言葉にうなづいて、茶碗に口づけ傾ける。
そして音を立てて茶をすするアイアノ。
茶を飲み終えて碗から口を離して、ほう……と息を吐く。
「こんなおいしいお茶、はじめてよ」
眉と唇を緩ませ微笑むアイアノ。
姉と呼ばれていただけあって、フミニアとよく似たその笑顔。
「いえ、不調法にてお恥ずかしいかぎりです。ですが、ありがとうございます」
薄茶点前を称えるアイアノの言葉に、謙遜しながらも礼を言う利康。
そして利康がゆっくりと顔を上げる。
しかしその正面ではアイアノが茶碗を抱えたまま固まっている。
「姉さん?」
「どうしました?」
頬笑みを強張らせたまま固まったアイアノへ、フミニアと利康は揃って首を傾げる。
「えっと……こっからどうするんだっけ?」
澄んだ彩りの茶碗を両手に抱えてのその言葉に、利康たち二人はそろってその顔を緩める。
音を立ててすすり飲むこと。
それから受けた衝撃に、フミニアの見せていた手本からすっかり意識がそれてしまっていたのだろう。
アイアノは完全に次の手順を見失って固まってしまっていた。
「気にしないで下ろしてくださって構いませんよ。茶の湯を楽しんでくださったのは充分伝わりましたから」
そんなに笑みを深めながら、手順を気にする必要はないと告げる。
「あ、うん。美味しいお茶をありがと」
利康のその言葉を受けて、アイアノは息を一つ吐いて強張った顔を緩める。
そうして茶碗を膝前に下ろしたアイアノに、利康は改めて指をついて深々と礼をする。
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