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〜猫女(ネコオンナ)とフランケンシュタインの娘・壱〜

寒い……暗い……痛いよ。


僕はここにいる、まだここにいる。


身体の自由が効かなくても、僕はちゃんとここにいるんだ!


だからお願い、助けて、緋稲荷から助けて――猫女っ!!








「く……は、はははははっ!!」



『……何ヲ笑ッテイル?』



襲いくる緋稲荷の尾を裂きながら、朱毬は腹の底から笑い声をあげた。


訝しげな緋稲荷の、しかし止まぬ攻撃を避けながら、朱毬は心底安心しきった声で言う。



「やっと本命が登場したんだ、今までの三文芝居など、一瞬で忘却の彼方に吹き飛ばすような本命がな。脇役の私からすれば悲しくもあり、笑える程に嬉しい事なんだよ」



緋稲荷に肉薄していた身を遠ざけ、朱毬はかなりの距離を取った。

お互いが攻撃の範囲外になり、知らずその手も休められる。



「お前の偽物の尾と戦っても体力を減らすだけだしな、本物に貫かれる前で良かったよ」



『気付イテイタノカ』



「当たり前だ、お前より妖力が下だろうと経験は上。下手な考えなどお見通しだ」



風の鎌が霧散し、まるで朱毬は自分の役目が終わったような顔をした。

ちらりと林檎と譚檎のほうを見やり、緋稲荷はまた訝しげな声を出した。



『解センナ……見タトコロ奴ラハボロボロ、到底我々ニ勝テルトハ思エン。ソコマデ頑ナニ信ジルモノガ、奴ラニアルノカ?』



乱れた髪を手ぐしで直していた朱毬が、今度は静かに笑う。


笑みは、何も知らぬ者を諭し、何も知らぬ者を嘲るかのように見えた。



「ある――と言ってもそれは、目にし感じなければ分からないものだがな。お前が黒い体液を使い竜巻から逃れたり、偽物の尾を作ったり、破邪の裏法りほうを使って妖力を消したとしても、あの二人の前じゃ全てに意味は無い」



朱毬は地面を確かめるように何度か踏むと、空高く跳躍した。


口元に笑みを貼り付けたまま、向かう先は譚檎達のいる所。



「生まれたばかりで知らんだろう? あの二人のコンビは最強なんだぞ」



追いかけもせずに緋稲荷は朱毬を見送った。

白濁した目に映る対象を一人と一匹に変え、緋稲荷は顔を歪める。



『面白イ……』



ゆっくりと、そちらに歩き出した――








傷だらけの華雪に労いの言葉をかけ、譚檎は蛇蝎を見た。

薄っぺらい笑みを浮かべた顔に、思わず譚檎の表情が歪む。



「相も変わらずムカつく笑みを浮かべてるわね。それより……さて、まずは何から聞いたほうがいいかしらね?」



対して蛇蝎は鉄扇で扇ぎながら、これまでと変わらぬ口調で喋った。

それは、譚檎の出現に何ら脅威を感じていない声色であった。



「さて、さてね。私は何から聞かれても構わないわよ。もちろん今すぐ殺し合うのも――ね」



殺気と妖力は見えない圧力となり譚檎に襲いかかる。

余波を受け華雪が苦しげに呻くが、譚檎は平然と前を見据えていた。

小さな体躯は、しかし盤石のように頼もしかった。



「猿犬さん、華雪ちゃんを遠くに連れて行ってください。ここまで乗せてくれて有難うございました」



林檎の隣では猿犬の片割れの黒犬がいた。

しかし大きさは先ほどの比ではなく、虎かライオンを思わせるほど巨大。

しかして息は、頼りなさげに乱れていた。



「す、少しは休ませてくれんか。お主の身体は妖怪にとって“毒”のようなものじゃから、さすがのワシでもこたえるわ」



「うわ、微妙に失礼だよ~」



さして気にした風もなく林檎が反論じみた事を言う。

そんな二人の会話を聞き、華雪がようやく口を開いた。



「林檎さん、を……乗せて、きたんですの?」



林檎の――いや、フランケンシュタインの娘の身体の『特性』を知っている華雪として、その事実は何とも信じがたい事である。

短い時間なら接していられるだろうが、もし長時間となれば……確実に妖怪は、存在できなくなる。


どんなに仲良くなろうとも華雪などの並の妖怪が触れる事は、死に直結する。

だからこの一年、林檎に触れた妖怪は譚檎しかいなかった。



「猿犬、さん……凄い、ですの」



「仕方なしじゃ……しかし、ふむ。“妖力を吸われる”とは苦しいものがあるのぅ」



巨躯から何とも不釣り合いな声を漏らしながら、地面にへばっていた黒犬は身体を持ち上げた。

と、朱毬が近くへと降り立ち、いの一番に華雪に駆け寄った。



「華雪! しっかりしろ!!」



近寄る朱毬に華雪は弱々しい笑みを返し、しかし相手の身体が傷だらけな事に気付く。



「朱毬さん、その、傷……」



「掠り傷だ、すぐに治る。だがお前のは……蛇蝎の毒は面倒くさいからな」



朱毬の傷は確かにそこまで酷くはない。

しかし傷口には黒い液体が付着し、血は止まる事なく流れ、蒼那と同じ状態であった。



「……これは、どうやらこの液体は傷口にへばり付き、血が凝固するのを止めるようじゃな。治すには巨大な妖力で液体を消し飛ばすか、エンバーミングのように妙薬に精通した者じゃないと無理だの」



黒犬は朱毬を見、瞬時にそう判断した。

華雪に背に乗るように促し、黒犬は譚檎を見る。



「華雪を富裕荘に連れて行くぞ。その後、戻ってきてやろうかの?」



「はっ、年寄りに頼るほど弱くないわよ。とっとと行きなさい、邪魔だからね」



辛辣な言葉だが、不思議と付き合いの長さを感じされる。

それは旧知の仲だからこその掛け合いなのだろう。



「任せたぞ、譚檎、林檎」



「エン婆は二年校舎の屋上を直してると思うから、人間に気付かれないように気を付けてね~」



林檎が身体でなく別の心配を語ったので思わず苦笑し、朱毬はまた空高く跳躍した。

そのすぐ後、黒犬も朱毬の起こした強風で同じように空に昇った。


落ちないように掴まりながら、華雪は今出せる精一杯の大声を譚檎と林檎に向ける。



「蒼那ちゃんの分まで……そんなやつ、ぶん殴ってくださいですのぉっ!!」



林檎がしっかり頷き、譚檎は尻尾を揺らし、そうして親水橋には四者が残された。

離れゆく華雪達を一瞥し、緋稲荷も譚檎達の近くへやって来る。

譚檎と林檎を挟むように蛇蝎と緋稲荷が立つ中、口を開いたのは蛇蝎であった。


「あらあら……良かったのかしら? 見たところパートナーはボロボロよ。それにあなたも、妖力が殆ど無いようだけど」



「ソノ身デ我々ニ勝テルト世迷イ言ハ言ウマイナ? ダトシタラ笑ア話ニモナリハシナイゾ」



前と後ろから嘲笑を含んだ声が聞こえたが、臆する事なく、というよりも不思議そうに譚檎と林檎は目をしばたかせた。


その態度に蛇蝎が訝しそうにすると、ややあって譚檎が喋りだした。



「蛇蝎……あんたまさか、本気で言ってないわよね?」



「いや、でも私達も北の妖怪の事とかあんまり知らないし、詳細を知らなくても矛盾はしてないのかな~」



「……まったく、まったくもって意味が分からないわ。何が言いたいのかしら?」



蛇蝎は初めて、苛立ちを含んだ声を出した。

自分の知らない事で、知らないままに納得されるなど不愉快極まりない。



「とても、とてもよく知ってるわ。無意味で無価値……大した妖力も無く永く生きているだけの猫女と、どこかの外国で作られた人形フランケンシュタインの娘。私の相手にならないほど弱いのに……“神”に気に入られている。媚びの売り方がすごい上手いって所かしらね?」



「……やっぱり何も知らないじゃないのよ」



蛇蝎の言葉にそう返した譚檎は浅く溜め息を吐くと、林檎に目で合図した。


右手を緩慢とした動作でどてらのポケットに入れ、氷が溶けたせいで濡れている妖紙を取り出した。


右手を胸の高さまで持ち上げるが、その手は細かく痙攣していた。



「何かしら、それは?」



動作を見ていた蛇蝎が問うと、林檎の尾髪が突然群青色に燃えだした。

目を見張った蛇蝎を尻目に林檎は結ばずに垂れている尾髪を触り、今度はしっかりとした手つきで妖紙を掲げた。



『妖怪から摂取した妖力を妖炎に変換、同時に右手に付与――妖紙による吸収を確認、微量なので問題無し。“Raum”の発動が可能です、猫女からの指示を待ちます』



「発動を許可するわ。いっちょ派手に燃やしなさい」



『了解。妖炎を妖紙に付与――“Raum”、発動します』



言うが早いか、燃えずにいた妖紙は瞬く間に燃えあがり、灰も残さず焼失してしまった。


――そして視界は唐突に、闇へと閉ざされた。



「っ!? 何、何なの!?」



『何モ見エンゾッ!?』



叫びをあげるのは蛇蝎と緋稲荷。

いきなり目の前が闇に染めら、譚檎達の姿が確認できない事は少なからず恐怖に繋がる。



「怯えるんじゃないわよ、肝が小さいわね」



と、譚檎の声が辺りに響き渡る。

しかし視界は以前として暗闇、内心の微かな恐怖を悟られた事に蛇蝎は平静を装おいながらも、怒りに震えた。



「妖紙……って言っても分からないでしょうね。これは私用に特別に作られた物だし。一年前に林檎も使えるようになった――って、何で私が教えなきゃいけないのよ。林檎、任せたわ」



『妖紙とは異空間の切れ端のようなものです。猫女か私の妖力を注ぐ事により繋がりが再構築され、私達が“Raum”と呼ぶ異空間が現れます。この“Raum”は世界とは切り離されたものであり、猫女か私が自らの意志で解くか、命が無くなるまで発動し続けます。また特性として中にいる者の妖力を際限なく吸収します』



闇がノイズのかかったように、荒れてきた。

その僅かな合間に色の付いたものが見えると、また譚檎の声が響き渡る。



「私には妖力の制限が掛かってるの。それを掛けたのは神……お陰でいつもの私は、大した妖力を持たない妖怪になったわ。けどね、“Raum”は妖力を吸収するのよ――つまり神が掛けた制限も、妖力を吸われて効果を無くす。そして私は、本当の私に戻る――」



例えるならば、荒波に呑まれたような。

強風になぶらるたような、今まで感じた事のない感情が蛇蝎の全身を染めあげた。



『場所が“Raum”に浸食される際、視界が黒に染まりますが、時間が経てば元通りになります。これは猫女や私も同じ現象ですので、この間の攻撃は意味を成しません』



「私を猫又と勘違いする馬鹿がたまにいるけど、そんなの笑い話にもなりゃしないわ。私は猫女――妖力を持ちすぎて神に嫉妬された、百八本の尻尾を持つ妖怪よ!」



声と同時に視界が一気に開かれた。

地面は石灰のように白くザラザラとして、今までいたアスファルトとは変わっている。

地面がしばし続くと途中で途切れ、それ以降は闇が広がっていた。

闇はまるで蠢いているように感じられ、頭上までそれは続いている。


形容するなら、闇色の巨大なドームと言えるだろうか。

そんな空間、“Raum”に閉じ込められた蛇蝎だったが、その目は周りを確認などしていなかった。


目線はただただ、眼前へ。

そこにいるものを凝視する。


細身の体躯は弱々く、女性的な丸みを帯びている。

絹のようにキメ細かく繊細で、地面に届きそうなほどの純白の髪。

限りなく薄められたような肌色は儚く見えるが、確かな存在感を醸し出している。

白無地の着物はその他一切の色を寄せ付けぬように見え、帯紐の黄色だけが浮き上がっている。

踝からを包帯のようなもので巻き、足には何も履いていない。


切れ長な金黄の瞳に、少し短めの眉。

潤みを含んだ唇は妖艶に輝き、隙間からは犬歯を覗かせている。

頭の両端からは尖った耳が生え、まさしく猫の耳に違いなかった。



「猫……女」



「改めて挨拶したほうがいいかしら? 蛇蝎」



その声を聞き間違えるはずは無い。

それは確かに譚檎の声――目の前の、巨大な妖力を発している妖怪の声だった。



『コレガ……奴ラヲ信ジル証カ。確カニ驚キダ、シカシ――』



成り行きを見ていた緋稲荷の身体が突然膨れあがった。

それは見る見る体積を増し、黒い液体を飛び散らしながら膨れていった。



『緋稲荷の妖力増大を確認。“Raum”の吸収作用に対しての、生存本能だと思われます』



「生まれたての噂怪だから危機に際しての反応があったのかしら……消化しきれずにいた人間も取り込みだしたわね」



林檎は尾髪を燃やしながら淡々と言い、譚檎もさして驚いた風もなく答える。

その間にも緋稲荷はどんどん巨大になり、男か女か判然としない声は、枯れてしわがれた響きに変わっていた。



『ククク……礼ヲ言オウゾ。喰ッタガ妖力ニ変エキレテナカッタモノヲ、全テ妖力ニスル事ガ出来タ。後ハ宿主ヲ喰ラエバ、コノ身ハ妖怪ヘト転ジラレルダロウ』



その姿は狐のようであった。

だが耳と手足は異様に長く、身体も人の身より巨大。

地面に黒い液体を垂らしながら四つん這いの姿勢をし、臀部からは九本の尾が生え、揺れていた。

異様な、黒い巨大な狐はなおも続ける。



『オ前達ノ強サガドレホドカ知ランガ、我ヲ越エテイルトハ到底思エン。本当ノ姿ニナッテソレカ、猫女ノ妖力モ底ガ知レル』



変化に驚きはしたが、今の譚檎の妖力はそれほど高くない。

抑えてはいるのだろうが、それはこちらとて同じで、本気になれば自分は負けないだろう。

更に『あの御方』から教えてもらった術もある……そこまで考え、蛇蝎はようやく普段の笑みを取り戻した。


これは過信でなく事実だと己に言い聞かせ、金黄の瞳を見つめ返す。



「確かに確かに、緋稲荷の言う通りね。危うくあなた達の罠に引っかかる所だったわ」



「罠?」



意味が分からないといった顔で聞き返す譚檎に、鉄扇を持った右手を向けた。

鉄扇の前が揺れたかと思うと、何処からともなく手には蛇が絡まっていた。

赤い身体をうねらせ、口から紫の舌を覗かせる。



「そう、そうよ。思い込みは時として真実をねじ曲げる。噂や噂怪も思い込みによって生まれるわ……妖怪の根元も、人間の思い込みによって成り立ってるわ」



「だから、罠って何よ?」



「あらあら、キレたりしてみっともない……つまり思い込みで妖力を大きく見せて、その通りにしようとしたのよ。確かにこの空間やあなたの姿には驚いたけれど、でもそれだけ――私達が強いのは変わらないわ」



威嚇するように蛇は口を開け、矢のように譚檎に飛びかかった。

その速さは目に追えないほどで、蛇は一直線に首もとを目指して飛翔する。



「――まったく、本当嗤い話にもなりゃしないわね」


――譚檎は微動だに動かなかったが、蛇が噛みつく事はなかった。

その身は何処から飛んできたのか、仄かに白く発光する棒のような物に貫かれ、地面に縫い付けられていた。


譚檎はヤレヤレと首を振り、蛇蝎に視線をくべる。

その視線には、憐れみが滲んでいた。



「あんた馬鹿なの? 確かに思い込みは妖力の元って考え方は分かるけど、私がそんな小細工すると思う? 最初に言ったわよね――私は百八本の尻尾を持っているって」



音も無く“Raum”内の風景が変わりだす。

空間いっぱいを埋めるのはただただ――白い色のみ。

仄かに光るそれは譚檎を中心に広がりを見せ、静寂の中で身を現していく。


それは尻尾の群れであった。

細長い純白の尻尾が宙に浮かび、エノコログサの草原のように広がっていく。



「…………そん……な」



『……何、ダトッ……』



驚きは、それだけではない。


その一本一本から間違いなく、いや、間違えようのないほど巨大な妖力が放たれているのだ。


感じる一本の妖力だけで、蛇蝎の身体は自然に震えてしまうほど。

それが百八本――全てが、譚檎の妖力。



「正直私は弱いもの虐めって好きじゃないのよ。でも仕方ない――蛇蝎、あんたは私を怒らせたの。私の所有物を傷付けたんだから」



「……所有物、ですって?」



「この町とそこにいる者全て。それが私の所有物で……何より大切なものよ」



蛇に刺さっていた尻尾が抜け、譚檎の目の前で止まる。

僅かに揺れるそれを眺め、次いで蛇蝎に向けた表情は、心底楽しそうな笑みであった。



「私がステップ教えてあげるから――“ラ・クンパルシータ”でも踊ってみる?」



蛇とは比べものにならない速度で尻尾は飛翔した――








Raumと呼ばれる空間に取り込まれた時から緋稲荷は困惑の渦中にいたが、今やそれは己が身体すら震わす不可視な恐怖へと変わっていた。


押し寄せる怒涛の荒波、そう例えるのが適切に思われる譚檎の妖力。

自分とて七十四の人間を喰らい妖怪へと近づいたはずであるのに、そこには厳然とした差を見出してしまう。


岩壁に打ちつける波のように譚檎の妖力は緋稲荷の自信を削り、白濁の瞳はただただ眼前の光景に向けられる。

戦い――否、それは蹂躙だ。

強者が弱者をなぶるように、一方的な殺戮ショー。はたまた、結末の見えた薄っぺらい舞台劇のよう。



「蛇蝎ガ……押サレテイルダト」



言葉に変えたのは確かめたかったのかも知れない。

噂怪に成っていない時期から破邪の裏法を用いられ、束縛の身の内であった。

その時から緋稲荷は蛇蝎と話し、語り、気持ちと決意を知っていた。


共感には程遠い、しかし理解より少し近い、そんな感情を抱いていた。

利用し利用される間柄、それは生物の本能に真に沿った関係性に思える。


知らない間に『信頼』があったのかも知れない。

それほどまでに、話してきた蛇蝎は活力と魅力に溢れていた気がする。



『絶望カ……クククッ、ソノヨウナ感情ヲ体験スルトハナ』



『ターゲット照準――緋稲荷。これより妖力吸収、およびターゲットの抹殺を行います』



『助ケニハイカヌゾ……我ハコノ人形ヲ壊ス。蛇蝎ヨ、貴様ハソノ絶望ヲ突キ砕イテミヨ!!』



『“Raum”との接続――完了。損傷率が27%を超えているためシナプス伝達速度がコンマ0.4秒減速。これらの外部要因を照合した結果、妖炎での部位修復にはおよそ三分程度かかります――緋稲荷、良かったですね』



『何ガダ、フランケンシュタインノ娘?』



『あなたの寿命が、カップめん程の時間だけ伸びました。おめでとうございます』



『……人形ガ、ソノ減ラズ口スグニ黙ラセテクレル』



視線と視線の交差。


殺気と殺気の交錯。


沈黙はただの一瞬。次の瞬間には、黒と群青に辺りが塗り尽くされた。









ゆらり、と意志を持つように緋稲荷の尾が揺れた。

それはすぐさま敵を射抜く為の巨大な槍と化し林檎に襲いかかる。

学校の屋上での光景と酷似し――しかして一点の箇所のみが明らかに変わっていた。



『――遅い』



認識の枠を外れる一撃を林檎は身を低くして避け、あまつさえ群青に燃える右足で尾を蹴り飛ばしたのである。

炎はたちまち尾を包みこみ、黒い液体を一瞬で蒸発させていく。

緋稲荷は残りの尾で燃え盛る尾の根元を切る。地面に落ちた尾は少しの間のたうち回っていたが、燃えカスも残さず燃え尽きた。



『厄介ナ炎ダナ。触レレバ燃エル……ナラバコレナラドウダ?』



果肉を潰すような気持ちの悪い音が響き、緋稲荷はまた新たに尾を生やす。

林檎は意識を緋稲荷に集中させ、瞬きや指の動きさえ見逃すまいとしている。

両腕は以前潰れたままだが、群青に燃える髪は輝きを増したように思われる。


僅かに、徐々に、確実に。

群青色の炎は密度と熱気を増大させていた。


『我ノコノ黒液ニハ妖力ヲ上手ク循環サセヌ効果ガアル。妖力ヲ持タヌ人形ニ効クカハ分カランガ……切リ刻ムニハ支障ナイダロウ』



『!?』



音というのは総じて、事象の後に付きまとうものである。

落雷はまさしくその類いであり、事象から音を感知するまで微かに無音の時間が出来上がる。


緋稲荷の尾から放たれた黒い半月の刃はまさしくその域であり、林檎は認識してから無音の時間を体感する事ができた。



『っ――――』



『……ヤハリ避ケルカ』



苦虫を噛み潰したように呻く緋稲荷の言葉通り、林檎は黒刃を難なくかわしていた。

屈めた身をスライドさせるように右側に逸らし、左半身を後方に下げる。

右肩が緋稲荷に見える格好で首を僅かに傾げれば、皮一枚という距離スレスレに黒刃が飛んでいった。


人には先天的に備わっている無条件反射というものがあるが、それを当てはめるとしても林檎の反射はずば抜けている。


人間に見える人外の者――その証こそ、卓越した身体能力と群青に燃える髪なのだろう。


砂を噛みしめた音を轟かせ林檎が緋稲荷に突撃した。

おおよそ数十メートルの距離は一気に半分に縮み、その動きに呼応するように緋稲荷の尾も刃を放っていく。

曲芸師か軽業師を思わせる身のこなしで避け続ける林檎であったが、両腕が使えぬハンデは中々に重い。


反転、回転、宙返り、横っ飛び。

腕が使えれば更に避ける幅が増えたのであろうが、今はこれが精一杯であった。

そして林檎は黒刃を蹴り飛ばそうとはしない。

あくまで避け続け、身体に触れさせないようにしている。



『ドウシタ、蹴リ返シテモイインダゾ? ソノ瞬間オ前ノ足ハ飛ンデイッテシマウダロウガナ』



『密度の測定値――180%超。これだけのものを燃やすには今の妖炎では出力不足です。蹴りのモーションに入った瞬間私の身体は細切れになるでしょう……残り、二分』



林檎が抑揚なく答えると緋稲荷の顔に笑みが浮かんだ。

口が下弦の月のように割れ、赤い口内がいやに目立つ。


と、黒刃が一旦止まった。回避のステップを踏んでいた林檎は訝しんだが、好機と見なして再び突撃する。


――その身が吹き飛んだのは、直後であった。



『がっ!?』



空中で錐揉みする体勢を何とか立て直し地面に着地しようとするが、衝撃を上手く「いなせず」そのまま転げ回ってしまう。

石灰に似た砂じゃりが肌に刺さり、土埃が服を汚し、鈍重の衝撃が左脇腹に突き刺さる。


痛みというものを林檎は感じない。林檎にとって五感は数値であり、数値が五感であった。

よって痛みにのた打ち回るという事は無いのだが、しかし身体への負担は変わらない。

濛々と土埃が舞う中立ち上がるが、すぐに左側から崩れ膝をつく。


何が起こったのかと確認しようにも視界は土埃によって不明瞭で何も見えない。


その時不意に、風の切れる音が聞こえた。


その方向は見ずに動き出し地面に突っ伏す林檎。

すぐさま巨大な黒刃が轟音を響かせながら頭上を通りすぎた。


『無様ナ格好ダナ』



『!?』


声がすぐ間近から聞こえ、どこにいるかも確認せずまま後方に飛ぶ。

土埃から一瞬で抜け出すが、しかし相手の姿を視認できない。

ふと無意識に、着地の際林檎は地面を見た。


――そして、目を見張る。


地面に映っていた自分の影がまるで月星の消えた夜空のように暗黒へ様変わりしていたのだ。

そこまではっきりと影が映るはずはない。

ましてや今見えるこの影は……緋稲荷の色そのものであった。



『まさかっ――』



地面を踏みしめた瞬間、影が盛りあがり形を変えた。

するりと抜け出すように細長いものが現れ、瞬きする間もなく何十倍にも膨れあがった。


見紛うことなき、それは緋稲荷の尾。

林檎は理解すると同時に身体を吹き飛ばされ、地面へと叩きつけられる。

バウンドを幾度か繰り返してやっと止まるが、その身体は生死の判断も難しい程ボロボロになっていた。



『私の……影に、尾を忍ばせましたね……』



林檎の表情無き顔がひどく歪んで見えた。

どうやら地面で顔面を擦ったようで、左側の皮膚が千切れ赤黒い肉を覗かせている。



『我ノ根元トナッタ噂ヲ知ッテイルカ? 「オ稲荷様トハ似テ異ナルモノ。酉ノ刻ニ願イヲ半紙ニ書キ、丑ノ刻ニ燃ヤス。火ノ中ニ狐ノ顔ヲ見ツケラレタラ、ドンナ願イモ一ツダケ叶エテクレル」――稚拙ナ語リ言葉ダガ、コレガ我ガ緋稲荷ト呼バレル元トナッタモノダ』



『願いを喰らって、火は緋となり……人の欲する願望の、為に、働き続ける……やり甲斐のあるものだと、思いますよ』



いつの間にか、倒れている林檎の横に緋稲荷がいた。

林檎の身体を一握りできそうな前足を掲げ、容赦なくその背に振り下ろす。

何かのひしゃげる音と共に林檎は血反吐を吐き、だが緋稲荷は構う事なく行為を続けた。



『自我ガ生マレルマデ、我ハ人間ノ恋愛成就ヲ主トシテイタ。恋愛トイエド恨ミ辛ミハ存在シ、アノ女ヲ呪イ殺シタイヤ、アノ男ニ振ッタ報イヲナド……朧気ナ自我ノ中デ我ハ恐レテイタ』



『……人間……を、ですか?』



振り下ろされ、また、林檎は血を吐いた。



『ソウダ、人間ホド己ガ欲望ニ忠実デ他者ヲ犠牲ニスル事ニ何ノ感慨モ抱カヌ生物ハオラン。ダカラコソ我ハ知リタクナッタ――人間ヲ』



『なぜ、そんな話を、私に……』



『我ノ傲慢サガ語ラセタノダ。死ニユク――オ前ノ場合ハ壊レユクカ。ソウイッタ者ニコソ語ル価値ハアルト我ハ思ウ』



林檎の髪は未だ群青に燃え盛り、その光は林檎自身を照らしている。

しかし緋稲荷の身体は光を受けてなお暗く澱み、まるで闇の衣を羽織って身を隠しているようであった。


林檎にはなぜかそれが、光を恐れ身を隠す弱くて矮小な狐に見えて仕方なかった。

光を恐れる理由はきっと、人の心の影の部分を覗いたから。

光ある場所には必ず影が存在し、そこを覗けば欲という名の魑魅魍魎が跋扈バッコする光景が広がっているはず。


ならば最初から、自分の身を闇に落としてしまえばいい。

最初からそこにいれば、恐怖を抱く事はないはずだから――



『人間ヲ知ル、ソノ為ニハ妖怪ニ変異シナケレバナラナイ。強キ願イト強キ想イガ重ナッテ我ハ噂怪ヘト成ッタ――狂人ノ暇ツブシデ作ラレタオ前トハ、存在スル価値ガ違ウノダ』



林檎を圧迫していた前足をどかし、緋稲荷の八本の尾が空高く掲げられた。

影に潜んでいた尾も鎌首をもたげ、林檎を見下ろす。



『タダ生マレタダケノオ前ト、望マレ生マレタ我ノ差……シカト噛ミシメテ壊レロ』



『――ふっ、ふふふ……はははははっ!!』



突如、それは響いた。

脆弱な声でありながら高らかに響き、甲高くありながら重厚に響き――耳障りの、決してよくない笑い声。



『――弱い、ですね。全ての動機も、何もかも……弱すぎて話になりません』



『……何ダト?』



嘲笑の笑いは、林檎の声。今までの抑揚なき声を払拭させるその声は、初めて見せる感情の一端。


自嘲と憐れみを盛大に含んだ、林檎という名の人形が発する、残った体力全てを絞り出すような声であった。



『あなたは弱く、だから人の心を、見なければ自分を確認できなかったんですよ。不確かな存在に耐えられないか、堪えきれないかは、分かりませんが……要は逃げただけ。それを心を知りたいなどと、耳障りの良い言葉に、変換しても……意味は、ないんですよ。逃げて逃げて……その先であなたは蛇蝎に捕まった。利用された――』



『減ラズ口ヲッ……』



『価値ある生も、価値なき生も……心を知るも知らないも関係ないん、ですよ。逃げた時点であなたは、負けました、高説ぶっても――そこは変わらない。逃げた事は、変わらないんです』



『我ノ存在ヲ否定スルカッ! タカガ人形ノ分際デ!!』



『あなたの、生まれた理由を、教えましょう――私に殺される、為ですよ』



『ッ!!』



振り下ろされた九本の尾は林檎めがけて先端を尖らせ、激しい轟音と土埃をあげた。


緋稲荷は知らず肩で息をしながら、貫いたという確かな感触に笑い声を零す。



『敗者ノ妄言ナド聞クニ及バンナ――我ヲ否定スルノナラ、我ヲ越コエテカラニシロ!!』



『――――それは、その通りです』



――声は、静かに、土埃にまみれ。



『ただ私は、あなたを否定してはいない。あなたの事を見下しても、いない』



群青の光は土埃さえ突き破り、とうとう緋稲荷すらその色に染める。



『ナッ――』



『敗者の妄言など聞くに及びませんから――ね』



尾に身体中に刺されながら、しかし意に介さずに林檎は立ち上がる。

今や髪全体が群青色の炎に変わり、尾髪は後ろになびいて龍の髭を思わせる。



『三分経過、妖炎による負傷部分の超速再生開始――終了。次いで妖炎の密度規定を変更、上限値を削除――“Befreiung von Vollendung”に入ります』



『ナゼ……ダッ』



『……一つだけ肯定します――私は確かに、望まれて生まれなかった』



静かに聞こえた声と同時、群青色に燃え盛る炎が緋稲荷の尾に牙をむいた――




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