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〜緋稲荷(ヒイナリ)弐〜

荒れ狂う風を全身に浴び、華雪の華奢な身体は宙へと放り出された。


元いた場所から数メートルまで飛ばされはしたものの、その暴風は優しく華雪を地面に着地させる。


その風を、この妖力の正体を華雪は知っていて、よく知る名をすぐさま叫んだ。



「朱毬さん!!」



呼ばれた朱毬は親水橋の中程にいて、こちらに両手をかざしている。

華雪は急いで駆け寄ろうとしたが、その時風が一際強く荒れ狂った。



「私の竜巻は中々のものだろう! 噂怪!!」



黒く染まった竜巻を見て、男か女か判然としない声の主が噂怪だと華雪はやっと気付いた。


また、それが蛇蝎の名を呼んでいた事の意味も――



「っそうだ! 蒼那ちゃんは!?」



先ほど噂怪の尾に蒼那は腹を貫かれ、華雪はその安否を心配していた。


幅広く造られた親水橋の横幅いっぱいに黒い竜巻は渦巻いていたが、しかし蒼那と蛇蝎の姿は見当たらない。


朱毬の妖力が乱れるここでは他の妖力を探すのは難しく、華雪の心に焦りが募っていく。


蒼那は無事なのか否か。


最悪の事態が不意に頭をよぎり、必死で打ち消すように頭を振った。


その時、艶やかな声が橋に響いた。


「確か、確か……『風紋天狗フウモンテング』だったわね」



声は朱毬より更に後ろから聞こえ、慌てて見てみればそこには蛇蝎の姿が。


片手には、首襟を掴まれた蒼那を持った蛇蝎がいた。



「あらあら、いつもの癖で助けてしまったわ。もう仲間じゃないのに――ね」



朱毬と華雪が見る中、蛇蝎はゴミを放るような何気ない動作で蒼那を投げた。


華奢に見えるその身からは信じられぬ程蒼那は宙を飛び、竜巻へ放物線を描いていく。



「!?」



――華雪が蒼那を受け止められたのは、殆ど偶然であった。


蛇蝎が蒼那を掴んでいると見るや走り出し、その一挙手一投足を見つめていた賜物である。



「しっかりですの蒼那ちゃん! 蒼那ちゃんっ!?」



「……華……雪」



地面を擦るように受け止め、蒼那の名を叫んだ。

うっすらと目蓋を開けて蒼那も華雪を呼んだが、顔面は血の気の抜けた蒼白色だった。



「ごめ……ん。巻き込ん、で……迷惑かけ……て」



「もういいですの! 傷口を凍らせて、すぐにお医者さんに連れて行ってあげるから!!」



悲痛な叫びは風鳴きの音に消されそうで、蒼那の弱々しい微笑みも、費えてしまいそうで。


それでもしっかりと華雪は蒼那を抱き締める。

それは蒼那が生きている事を実感させる、唯一の方法のように思えたから。



「何でっ……血が、血が止まらないんですの!?」



どす黒く開いた腹の傷を凍らせようとするも、なぜか氷膜は張ってはくれない。

それどころか血は際限なく流れ出て、華雪の身体を地面を、赤に変えていく。



「……もう、いいよ、華雪。ね、だから、そんな顔……しないでよ」



消え入る蝋燭のように儚く、蒼那は笑っていた。

華雪は顔面を涙と鼻水でグシャグシャにして、懸命に蒼那の名を呼ぶ。



「華雪……逃げて。私は、いいから……早く」



蒼那の瞳からはみるみる生気が失われていく。

華雪の声ですら届かないように、逃げる事をただただ懇願する。


死に逝く今この瞬間でさえ、蒼那はひたすら、友を心配した。



「守れ……な……ごめ、ん……ね?」



――はらり、と。

涙が一筋頬を伝って。

華雪が声を枯らす程に大声を上げて。


蒼那の目蓋が、静かに閉じていって。



「――仕方ないわねぇ」



その瞬間、蒼那の身体は金色の光に包まれた――








その光はまるで、太陽の輝きのように鮮やかだった。

その光はまるで、春の陽射しを吸い込むように暖かかった。



「本当なら私の一族以外は助けないんだけど、あいつに恩を売れそうだしね」



声は静かに、澄み渡るように。

だがその威圧は――思わず頭を垂れてしまう程だ。



「それに一応、妖孤の出来損ないの不始末だからね――長たる私には、責任があるし」



華雪の鼻腔を、微かに酒の匂いが掠めた。

酒よりも甘い物を好む年頃である華雪は眉を潜め、それに気付いた声が聞こえる。



「あらごめんね、この時分はいつも飲んでいるから」



声と同時、カランと小気味良い音が華雪の横で鳴った。

見ればそれは下駄が地面に付いた音であり、視線を上げれば当然の如く穿いている主を見る事ができる。


網タイツを纏った細い足。

ビニール製か微妙に光沢を持った黒のレオタード。

手首にはカフス、首には金色の蝶ネクタイ。

絹糸のように滑らかな金髪の頭には、なぜか三角形の獣の耳が付いており、小柄な体躯では隠し切れない茶色の尾が一本揺らめく。



「…………誰、ですの?」



バニーガールの恰好ながら耳と尾だけが別物の、そこに立つのは見知らぬ少女であった。


あまりにちぐはぐ、今の状況と先ほどからの絶対的な威圧感を説明するには、あまりに不釣り合いな姿をした人物の登場であった。



「覚えてないなんて悲しいわ、確かあなたは……『淡雪娘(アワユキムスメ)』の華雪、だったわね? で、この子は蒼那と。記憶力いいわぁ私」



「――っそうだ! 蒼那ちゃん!?」



突然の登場に思わず意識を離してしまった蒼那を再び見る。


眩い光でさえ離さなかった手の中で、蒼那は静かに寝息を立てていた。

安心しきった赤子のような寝顔を見て、安心すると共に華雪に疑念が浮かぶ。



「私の尾を一本、一時的にだけど繋いだのよ。私の尾は死人さえ蘇らせる不死の妙薬であり、百の妖怪より多くの妖力を練り込んであるからね」



華雪の疑念を頭からすくい取るように少女は喋った。

蒼那の下半身を見れば、確かに少女と同じような尾が臀部から生えている。


しかしこちらは、淡く金色に輝いていた。



「あなたは……一体?」



「……あらあら、まさか“九尾の狐”が登場とはね」



蛇蝎の、今までとは明らかに違う邪気の滲んだ声が華雪に届いた。


言葉を聞いて、最初は分からなかった。


否、理解出来なかった。


九尾の狐――あの、『大妖(タイヨウ)』の一体であるあの九尾の狐。

それが、今目の前でバニーガールの恰好をした少女?


有り得ない、と華雪は即座に否定した。


華雪は一回だけ九尾の狐と話した事がある。


しかしこのように若い外見では無かったし、服装も白衣に紅袴と、巫女装束を思わせるものであった。


こんな、同性から見ても目のやり場に困るような服装では無かったはずだ。



「まったく、まったく。まさか九尾の狐が出てくるとは……けれど“身体”は出てこれなかったようね」



「……私の名が玉藻って知ってるはずよね? まぁ三流妖怪のあなたには分からないだろうけど、大妖はそこにいるだけで天災を引き起こす。今はこの、金孤の身体に意識だけを乗せているのよ――あっ」



突然に、玉藻と自らを名乗った少女が華雪を振り返る。


いきなりで驚いた華雪は思わず抱きしめる力を強くしてしまい、蒼那が苦痛の寝言を吐いた。



金孤キンコの姿だから分からなかったのね。何だ納得――改めて、お久し振り」



「は、はいっ」



まだまだ信じられないという顔の華雪ではあるが、差し出された手を握り返さぬほど無礼者ではない。


握れば玉藻が――実際は金孤という少女の身体なのだが――花咲くように笑顔になり、一瞬だけ華雪の頬が緩んだ。



「――い、いつまで喋っているんだお前らは! そろそろこの竜巻も限界だぞ!!」



朱毬の怒号で我に返った華雪が急いでそちらの方を見た。


朱毬は苦悶の表情で未だ両手をかざしていて、しかし竜巻には最初程の勢いは無い。


そうこうする内に竜巻は急速に勢いを無くし、うなる巨体は霧散するように空気に溶けた。


辺りは一気に静寂へと包まれ、皆の視線が竜巻の巻き起こっていた場所へ集約される。



「姿が――無い」



しかし。



「なぜだ!? 確かに竜巻の中から噂怪の妖力が感じられたのにっ……いないだと!!」



驚愕したのは朱毬である。

よほど手応えがあったのだろうが、しかし現実は相手の姿が掻き消え、また妖力も『突然』に消えてしまった。


妖力は知覚できるものとは別種のものである。

勘で捉えていると言える程、不確かなものだ。

妖力を探るのに長けたもの――林檎の察知機能やエン婆の金塩体など、探る力を増幅させるものなどだ――は確かにいるが、しかして普通の妖怪なら何となく感じる程度である。


だが、今は。



「あの気配が……消えたですの」



「……はぁ、また面倒な事を」



華雪が息を飲み、玉藻が嘆息するように、緋稲荷の妖力は完全に消えていた。


微々たる気配も感じ取れず、華雪は知らず蒼那を引き寄せていた。


朱毬も警戒した様子で辺りを見回し、緋稲荷を静かに探す。



「破邪の裏法は、何時如何なる時も使ってはならないと決められてるはずだけど……説明はあるかしら? 北の代表」



――しかし、玉藻だけは平然としていた。

くるりと蛇蝎の方を向き、それ程強くはない口調で問う。


しかして言葉に乗せられた殺気は、尋常ただならぬ量を含んでいた。



「ない……ないわ。だって使ったのは事実――というより、そんな決まりを守る気なんて持ち得てないのよ、玉藻さん?」



口の端を吊り上げ蛇蝎は笑う。

妖艶なのにどこか空恐ろしい雰囲気の笑みに華雪は鳥肌立ち、その時また、あの声が聞こえてきた。



『破邪ノ裏法……クク、妖力ヲ完全ニ消セルトハ見事ナモノヨ』



欄干の手前から宙へと湾曲した、いわゆるワーレントラスと称される橋桁に声の主はいた。


全身が底光りする黒に覆われ、鈍い光は白濁の瞳のみ。


異様に長い手足が、まるで煤焦げた木の添え木のように身体にくっついていた。

飛沫となって風に吹かれる黒い液体が、薄雲の空の下血のように見えた。



「噂怪、ですの? まるで本物の妖怪のよう――」



「我ガ名ハ緋稲荷ダ、小娘」



華雪の困惑の声を緋稲荷は遮り、音もなく橋桁から飛び降りる。


その際、背中辺りから風になびく尾を見つけた。


凝らして見れば特徴のない顔の上、黒髪の両辺には獣の耳を思わせるものが生えている。


異様を体現した存在に見える緋稲荷は地面に着地すると、頬まで裂けた口を下卑た笑いに変え朱毬を見た。



『我ノ体液ニモ多少ノ妖力ハ含マレテイル。イクラ天狗ノ一族トハイエ、七十四人ヲ喰ラッタ我ニハ敵ワヌヨウダナ』



「……何、だと?」



口から僅かに漏れた空気で、何とか言葉を紡げた。

しかし表情から見て取れるように、驚愕の色は明らかに濃いものであった。



「七十四人を、喰った……そんな、でも行方不明になった人間がいたなんてニュースは聞いてないですの」



破邪の裏法――存在を固定し身動きを取れなくする、使用を固く禁じられた術法。


二年前の『ある事件』を知っている朱毬や、もちろん華雪にも馴染みある言葉。


己の知識を照らし出せば、破邪の裏法は身動きが出来なくなるだけでなくその場を動けなくなるという。


人間を喰らわねば存在の消える噂怪にとっては、まさしく最悪の術といった所だ。


――だからこそ、七十四人を喰った緋稲荷はおかしいと華雪は思う。



(身動きが取れないのにどうやって喰ったんですの……北の妖怪が人間を連れてきたとしても、七十四人も喰らうには時間はかかるはずですの……)



朧気な存在とはいえ、噂怪とて生きている。

人間を喰らうとしても一日の量には限界がある。


もしかしたら緋稲荷は大食漢なのかもしれないが、七十四人も一気には喰えないだろう。

時間を掛ければ、必ず行方不明と噂は立つはず。

妖怪へ変異する場合、短い期間で出来る者など皆無だ。


華雪や朱毬のように一族の子として生まれるか、特殊な譚檎や林檎なら話は変わるが、新しく成った存在の緋稲荷が、人間を喰うにはそれ相応の時間が必要なはずであった。



「ふ、ふふふ……玉藻さん、これが何か分かる?」



蛇蝎が袖から何かを取り出し、優越感に浸った声を出した。


玉藻は握られた物を一瞥するや目を細め、不快と不機嫌を混ぜ合わせたような表情になる。



「そう、そう。これは、さる高名な御方から頂いた術具なの。人間が作った物らしいけど、使い勝手が凄く良いのよ」



「……なるほど。元凶は“あいつ”ね」



蛇蝎の掲げた物に見覚えがあるのか、玉藻は小さく呟いただけで無言になった。

華雪も蛇蝎の握った物を見てみるが、距離が遠いのと物自体が小さいのでよく分からない。


曇天の光を鈍く照らし返す、ビー玉大の球体のように見えた。



「これは、これは本当に凄いの。人間を形そのままに何人、何十人と吸い込む事ができて……噂怪を育てるにはもってこいの物だわ。それに――分かるかしら? ここに人間がまったく寄らないのが」



都合良く、という言葉で片付けるには無理がある程、人間の姿は皆無であった。


普通あのような竜巻があれば野次馬の群れが出来上がってもよさそうなのに、だ。



「人払いの術、認識阻害、意識誘導、幻惑幻覚……様々な方術を教えてもらって情報を操るのが楽だったわ。お陰で、北の人間は誰かが消えたとしても誰も気付かない――楽しい、楽しいわねぇ」


「――――」


蛇蝎を見ていた華雪は吐き気を覚えた。

時折見せる笑顔、時折滲ませる狂喜――常時放っている、底知れぬ鬼気。



(妖怪とか噂怪とか関係ない……あれは、異常ですの)



『アア、ソレノオ陰デ随分助カッタ。後ハコノ宿主ヲ喰ラエバ……我ハ完全ナ妖怪ト変異出来ル』



緋稲荷はそう言うと哄笑し、緩やかに蛇蝎へ歩み寄る。



「……話をするのはいいが、忘れるな。お前は殺されなければならない存在だという事をな!!」



朱毬が低い姿勢で走り出した。


もちろん標的は緋稲荷、両手の爪にカマイタチを発生させ、計十本の風の鎌で緋稲荷を狙う。


一陣の風のように走り抜ける姿勢と風の鎌、それは朱毬の主な戦闘スタイルであった。

華雪はそれ以外を見た事がない――それは単に、その戦い方が強かったからだ。


手合わせを幾多とやったが、華雪が勝つ事は十回に一度あれば良い方。


噂怪に遅れを取る戦い方ではないと、無意識に確信していた。



「何ダ、死ニタイノカ天狗ヨ?」



――だから、今この目の前で起こった光景を華雪は信じられなかった。



「なっ――」



朱毬よりも速く、風さえ切り裂いて黒い尾がその身を翻した。


朱毬が慌てて右手を盾のように構えれば、尾はそこに吸いつけられていく。


瞬間、鈍く重苦しい音が辺りに響き渡った。



「朱毬さん!?」



華雪が叫ぶも連続で鳴る音に消され、静寂は一気に狂騒に変わる。

風から風へ移るように俊敏に動く朱毬に対し、緋稲荷は愚鈍といっていい様な速さだ。

しかし尾となれば話が変わる。

朱毬の動く先を読み、追撃の手を緩めない。

また戦闘と同時に、不可解な事も起こっていた。

鎌に斬られた緋稲荷の尾は、斬られたと思うや瞬時に元の形に戻り、決して動かなくなるというのが無いのだ。


妖力を使っての再生では有り得ぬ速度、いくら斬っても終わりの見えない攻防が続いた。



「野狐にしてはあの再生力……いえ、あれは妖力じゃないわね――そういう事」


思案顔だった玉藻は突然思い付いたような声を出し、華雪が振り向いてみれば顔に笑みが零れている。



「ど、どういう事ですの?」



「最初は人間を喰らって、野狐として力を付けたのかと思ったわ。黒いから黒狐って考えもしたけど、よく見ればあれは別物……とんだ偽物よ」



「偽、物?」



朱毬が鎌を振るう。緋稲荷は身を翻しながら、身代わりのように尾を差し出し、斬られるとすぐに別の尾を伸ばす。



「いくら七十四人も喰らったからといって、すぐに己が身として取り込めるかと言えば、それは無理。強く強大になるには、相応の時が必要なのよ。だからあいつの場合はあの尾は偽物――ほら、よく見てて」



促されるまま朱毬と緋稲荷の攻防を見つめる。



「あっ」



そしてすぐに、違和感に気付いた。



「同じ尾しか……斬られてないですの」



「そう、つまりそれが偽物の尾なの。鎌に斬られてもすぐに繕える、影から派生したものって感じかしら。本物は……四本、偽物に紛れさせながら隙を窺ってるわ」



偽物を斬っても意味はない。朱毬はただ、無意味に踊らされているだけなのだ。

そうして出来るであろう隙に、本物の一撃を放たれる――華雪は教えるため叫ぼうとしたが、玉藻がそれを手で制す。



「言わなくても朱毬も気付いてるわ。北と違って南の代表はとても有能――そう思うでしょう、蛇蝎」



「あらあら、手厳しいお言葉ね」



蛇蝎は愉快そうに含み笑いをして、その纏わりつくような視線で玉藻を見る。


恋慕する少女のように情熱がこもっていながら、動物の死骸を一瞥する冷ややかにも感じられ、華雪の目つきは更に剣呑となる。



「ふふ、ふふ……あなたにはどうやら、嫌われたようね」



蛇蝎は緩やかに笑いながらそれを受け流し、玉藻も蛇蝎に視線を投げながら、笑う。



「それで、それでどうするの? このまま私と緋稲荷を倒すのかしら?」



「……大妖は、いかなる時も妖怪に関わってはいけないのよ。この子を助けたのは金狐で、私は関係ない。もちろん、あなたを倒すのにもね」



「……あらあら、それなら仕方ないわね」



蛇蝎は帯から鉄扇を抜いて広げる。

黒地に蛇と蠍の描かれたそれは、そこはかとなく恐ろしい。



「……あなたは逃げなさい。この身体じゃあ、私は勝てないから」



「え?」



華雪に小声で話しかけてきた玉藻は真剣な顔つきで、冗談には聞こえない。

しかし大妖と崇め奉られ、恐れられる九尾の狐が勝てないとは、どういう事なのだろうか。

それほど蛇蝎は、強いというのだろうか。



「んっ、勘違いしちゃ駄目よ。別に蛇蝎が強いとかじゃなく、ただ金狐の身体じゃ勝てないってだけ。私本来の妖力は使えないし、金狐の妖力も使いにくい。意識を離したらこの子、戦わずにすぐ帰ろうとするだろうしね」


「……なら、それなら蒼那ちゃんをお願いですの」


「え?」


華雪は、心で燃える情念を感じていた。

蒼那を傷付け、そうなるように仕向けた張本人――そして何より、あの嘲笑の瞳。

蒼那は怯えていたのだろう、それでも逆らう事ができず……でも、親友を傷付ける事ができず。


全てを嘲るあの目、あの声が、華雪には許せなかった。



「……勝てると思う?」



そう問われずとも、答えは決まっている。



「勝てない……ですの。でも、それでも私は」



前を、見据えた。

身体の震えは恐怖か武者震いか。

勝てない勝負、負ける勝負――そんなもの、関係ない。



「――親友を傷付けられて、それを許せるほど大人じゃないですの」



華雪は確かに笑った。

しかしその笑顔は、散り際の儚い花などではなく、力強く咲く、満開の花のようであった。



「本当に、南には良いのが揃ってるわね。その心意気――いいわ、舞台は譲りましょう。死んだら……駄目よ?」



その言葉に、一瞬の優しさが垣間見えた。

華雪にはそれが、たまに見せる譚檎の優しさに似ていて、つい可笑しくて笑った。



「心配ないですの……こう見えて私、けっこう強いんですの」



玉藻は無言で頷くと蒼那を担ぎ、どこかへと駆けて行った。

安全な場所がどこか華雪には思い当たらないが、九尾の狐なら何とかしてくれるだろうと、妙な安心感がある。



「あらあら、まさかあなたが私を止めるのかしら? それはちょっと、無謀と思うわよ」



今は、それよりも。



「……無謀かどうか、その目でしっかり見てほしいですの」



コートを脱ぎ捨てる。

服装は昨日と変わらぬ半袖ミニスカであるが、変わった箇所が一つだけ。



「言っておきますが、この季節の淡雪娘をナメちゃ駄目――ですの」



露出した肌がみるみる彩色を無くし灰色に変わっていく。

足元はいつしか薄氷が張り、華雪の靴底には氷のエッジが生えている。



「私の演舞……命懸けで見ろですのっ!!」



華雪の叫びに、蛇蝎はただただ笑っていた――









譚檎の叫びを微かに聞こえはしたが、すぐさまやってきた爆音により林檎の聴覚は狂わされた。


熱風の煽りを受け身体は平行感覚を失い、自分が立っているのか飛んでいるのかさえ、生きているのかさえ分からなくなる。



(いや……思考できてるんだから生きてるよね)



など意外と冷めた事を考えた瞬間、いきなり重力が身体を襲った。



「ぐげっ!?」



女の子らしからぬ悲鳴をあげ林檎は地面に叩きつけられ、強打したお尻をさすりながら目を開いた。


目の前には灰色の煙を上げる場所があり、そこが爆発のあった地点だと分かった。

けれど、と林檎は訝しんだ。


自分の身体を見る。

所々破れた制服、血を流す両腕。

それはまさしく、爆発が起こる『前』のケガであった。


爆風によって飛ばされたなら、いや、そもそも爆発地点の中心にいたのだから、こんな怪我では済まないだろう。


煙が段々と晴れてきて、ふと爆発のあった場所に倒れる何かを見つけた。

林檎の胸が不自然に跳ねる。

それは小柄な体躯で、体毛は縮れ、黒ずみ、ピクリとも動きはしない。

見覚えある、しかし変わり果てた姿を見て、林檎は震える口でやっと一言喋った。



「……………猿犬エンケンさん?」



「――うむ、無事で何よりじゃ林檎よ」



声は後ろから。

振り返ればそこには、黒い犬がいた。

ハッハッと規則正しく息を吐き、体格はそれ程大きくもない、一見何の変哲のない犬。



「間一髪でワシとお主の“位置を交換”できたようじゃな。ふむ、良かった良かった」



――喋る事以外は、だが。



「あ、あれ? 何で猿犬さんがここに? 北区に行ってるはず――譚檎、そういえば譚檎は?」



少しばかり混乱している頭で、林檎は譚檎を探した。

姿が見えない、まさか爆発に巻き込まれたのでは――



「……し、」



「譚檎!? どこいるの!!」



「し……した」



「した? ……下?」



――今思えば、打ったはずなのにお尻はあまり痛くなかった。

戻ってきた感覚をお尻に集中させれば、柔らかい『何か』を認識できる。


見たくない、でも見ないといけない――ああ、やっぱり。



「た、譚檎……無事そうね」



「どけ……な、さいっ!!」



慌てて退けた次の瞬間、林檎の顔面は綺麗に切り裂かれたのであった――









「……で、何で猿犬がここにいるの。北区は今どうなってるのよ?」



林檎を一通り裂いた後、譚檎は黒犬に向かって問いかけた。

それに答える寸前、黒犬は何かを察知したのか耳を動かす。



「ちょっと待ってくれんか。そろそろ回復――したようじゃ」



しわがれた老人のような声に重なるように、こちらは快活な、しかし同様に年老いた声が響いた。



「おぅおぅ、やっと動けるわい。しっかし中々の爆発じゃったの。こっちの妖力も吸って爆発するタイプじゃったから回復に時間がかかっわい」



そう言いながら、爆発地点でうずくまっていたモノが起き上がる。

埃を落とすように身体を叩けば縮れた体毛は抜け落ち、薄茶色が顔を出す。

顔は酒を飲んだように赤みが刺し、手が異常に長い――それは猿だった。


猿は林檎を見るや口の端を上げて笑い、何とも人間くさい笑みを作り出す。



「無事じゃな小娘。しかし代わりに儂は死にかけた――ふむ、お礼は今晩のお主の飯でいいわい」



「そ、それはちょっとヒドいです猿犬さん~」



「何を言うか、儂が助けとらんとお主は今頃生きとらんぞ。感謝は相応の物で示さにゃならん。『儂』もそう思うじゃろう?」



軽い足取りで近寄ってくる猿は林檎を通り過ぎ、黒犬の背に跨った。

話しかけられた黒犬は小さく唸った後、林檎に向けて喋った。



「ワシは何とも言えんよ。しかし感謝を物で示すという考えは良いものと思う。いやしかし、ワシは何とも言えんの~」


この、一見別々に見える猿と黒犬。

しかして実態は二者一対の妖怪、猿犬である。


猿が猿犬であり、黒犬が猿犬でもあり、どちらも本物の猿犬という存在。

他に類を見ない希少な妖怪であるが、その能力もまた珍しい。


自身と、任意した者の転移。

先ほどの林檎と場所を変える事が可能である。

また、片割れが死んでももう片方が生きていれば蘇る事のできる、限定的ではあるが不死身のような能力を有している。


どちらも猿犬の言葉であり、助けてもらっておいて反論など出来るはずもなく。

林檎の晩飯は、猿と黒犬の口に吸い込まれる事になるであろう。



「ワシがここにいる理由じゃったな。しかし語り聞かせねばならぬ程、事態は穏やかではないじゃろう?」



黒犬が喋り、猿が頷く。



「儂らとて蛇蝎には一杯食わされたわい。危うく殺される所じゃったが、その時『あの子』が助けてくれたんじゃ」



譚檎は猿の目線を追った。

そちらはユウキがいる方向で、そういえばあいつはどうしてるのかと思い――いた。


爆風をモロに浴びたのだろう、何となく焦げているユウキの肩を持ち、こちらに歩み寄ってくる者がいた。


林檎もその者には見覚えがあり、久しぶりの再会もあって嬉しそうな声を上げる。



銀狐ギンコちゃん!」



呼ばれた相手は僅かに会釈をしただけだったが、それが最大限の感情表現だと林檎は知っている。


くすんだ灰色の空よりなお輝く、銀色の長髪。

白衣に紅袴と巫女装束のような出で立ちで、顔は瞳の色以外、金狐と瓜二つである。

しかし感情といったものがまったく感じられず、一貫して無表情を貫いていた。



「か、身体が思ってたより重い……林檎、犯人はあなたでしょ?」



「あ、あの場合は仕方ないというか~。私だって腕壊されたからお互い様だよっ。それより銀狐ちゃん、何でここにいるの?」


よろめきながら掴んでくるユウキをかわしつつ、林檎は銀狐に問いかける。

一拍ほどの間が空き、銀狐は答えた。



「……玉藻さまの、お供」



それを聞いた瞬間、譚檎は嫌そうな顔をしたのを背後に感じつつ、林檎は更に聞く。



「あれ、でも大妖って勝手に出てきていいんだっけ? 駄目だって、前に譚檎に聞いた気が」



薄く開けた目蓋の間から、銀色の瞳を覗かせて銀狐は押し黙る。

もう一回聞こうかという頃合いに、返事が返ってきた。



「……金狐に、乗り移ってる。それの、お供」



林檎が納得したと同時、譚檎があからさまに嫌そうな声を漏らした。

振り返ってみれば、丁度爆発地点に降り立つ影を見る事ができた。



「――っと、銀狐じゃないの。あなた、ここで油売って……あら? あらあら、随分久しぶりなのを見つけたわねぇ」



「…………」



銀狐に歩み寄った後、明らかに目に入っていたであろう譚檎に向けて玉藻が声をかけた。

しかし譚檎は黙ったまま、目線さえ逸らしている。



「前に会ったのは確か一年前だったかしらぁ? あの時はそうそう、林檎ちゃんが挨拶に来たのよね。林檎ちゃんも久しぶり」



「お、お久しぶりです」



金狐の姿で、しかもバニーガールという格好での挨拶に、林檎は少し戸惑った。



「……あれは、玉藻さまの趣味。たまにあの格好で、奉仕させられる」



「えと~……銀狐ちゃんも?」



起伏ない声で教えてくれた銀狐に聞くと、黙って頷いた。



(……私の命令が九尾の狐に付く事じゃなくて本当に良かった)



心からそう思う林檎なのであった。



「で、で? あんたは一体何しに来たのよ? 借り物の身体に入ってまで私に会いたかったわけ?」



「その話はまた後でね――今はそうね、出来損ないの妖狐と蛇蝎をどうにかしないと」



微妙に焦った声の譚檎とは反対に、玉藻の声は静かなものに変わっていた。



「親水橋で今、朱毬と華雪ちゃんが相手をしてるわ。私はこの子を任された」



そう言って身体より大きな尾を振るうと、なんと中から蒼那が出てきたではないか。

それには譚檎も驚いたようで、怪我を見て更に驚いた。



「私の尾を一本付けてるから、一命は取り留めてるわ。この子を安全な場所まで連れて行くのが、今の私の使命といったところかしら?」


「使命?」


「華雪ちゃんに頼まれたの、この子を任せるってね。私は手出しできないし、金狐に身体を渡したらそのまま帰っちゃいそうだから、あの時はそうするしか無かったんだけど……ね」



朱毬と華雪が相手をしている――聞いた瞬間、林檎は駆け出そうとした。


緋稲荷の強さは未だ判然としないものがあり、朱毬や華雪の強さを知っている林檎としては大した心配はない。

しかし問題は蛇蝎である。

仮にも北区の代表をしている者だ。

それに前朱毬に聞いた話だと、同じ代表でも自分との妖力の差は歴然らしい。


格段に自分より蛇蝎は強い――そう話した事を思い出したのだ。



「林檎、待ちなさい!!」



「っでも譚檎!?」



「勘違いしないの。妖炎の使えないあんたの足じゃ時間が掛かりすぎるわ……猿犬の猿は玉藻達を富裕荘に案内して。黒犬は――」



親水橋の方を向き、譚檎の声は高らかに辺りに響き渡らせる。

戦いを求める、喜々とした声を。



「確か、妖力次第で大きさを変えられたわよね?」



譚檎の言わんとしている事が分かり、猿犬はどちらともなく、溜め息を吐いた――










「かっ、は……」



「華雪!?」



――勝てる、とは思っていなかった。

だがせめて一太刀、蒼那の分でも仕返せればと、命を賭けてみた。



「あらあら、まさかこれでお終い? 淡雪娘の実力も、大した事ないのね」



「ぐ、ふ、うぅ……」



喋ろうとしたら、代わりに口から血を吐いた。

真っ赤なそれを見ていると蒼那の傷を思い出し、怒りが身体を駆け巡る。



「……本当にもうお終いのようね。とっても、とっても残念だわ」


だが感情だけではどうにもならず、瞬間、妖力の気配を自分の頭の上に感じる。

力を振り絞り転がった次の瞬間、コンクリートの破砕音と破片が華雪を襲った。

その衝撃で身体を欄干に打ちつけ、顔が苦悶に歪む。

先ほどまで自分が転がっていた場所を見れば、そこには赤黒く巨大な蠍の尻尾が刺さっていた。


宙の割れ目から生えた尻尾はゆっくりとコンクリートから抜け、鎌首をもたげながら華雪を再び狙う。

尻尾の先からは透明な液体が滴り、異臭を放っていた。


華雪は朦朧としだした意識で、必死に立ち上がろうとする。

橋の欄干を支えにし何とか立つが足はガクガクと震え、今にも倒れてしまいそうだ。



「華雪!? ――くそっ!」



遠くで朱毬の必死の声が聞こえるが、華雪にはそちらを見る余裕すらない。

ただひたすらに蛇蝎を睨み、怒りと命を絶やさず燃やすのみである。


「ふふ、ふふ……私の毒は中々に効くでしょう? 本当は即死性のもあるんだけど、神経性にしたのはあなたの為。すぐに死んじゃあ、悔いが残っちゃうからね」



「……聞いた、通り最低の、性格、ですの」



華雪は息を吐く。

今はその行為すらも激痛が走り、身体を蝕んだ。



「あなたの攻撃、とてもとても面白かったわ。まるで――そう、スケートを見ているようだった。氷柱や凍らせるのは蒼那と同じでつまらなかったけど、戦い方はとても面白かった……でも、もう飽きたわ」



蛇蝎が鉄扇を軽く振ると、蠍の尻尾が弓なりにしなった。

狙いは間違いなく自分だろう――華雪はそう思っても、身体は立っているだけでやっと。


避ける余力など、残ってはいない。



「さあ、さあ、舞台の幕引きかしら。それじゃあ――さようなら」



一撃も与えられず、嘲笑われ、なぶられ、そうして、殺される。


心に燃える怒りは、結局何にもならなかった。

燃やした命は、蛇蝎に届きさえしなかった。



「ごめん――蒼那ちゃん」



空気を裂いて迫る巨大な尻尾。

痛みも何も認識する事なくそれは――



「――舞台の幕引き? 確かにそうね」



「――――」



――それは、華雪に掠りもせず彼方へ吹き飛んでいた。



「仮の主役はここで舞台降板よ……これからは、本当の主役の出番」



この、声は。

この、優しくも威厳に溢れ、自信に満ちた声は。

華雪が顔を上げた先、声の主はそこにいた。



「よく頑張ったわね華雪……後は、任せなさい」



「ゆっくり休んでてね、華雪ちゃん」



「譚檎さん……林檎さん……」



華雪は、泣いた。

声を出すのさえ激痛になってしまう身体なのに、泣いた。


そして笑ったその顔は、もはや誰にも消し去る事のできない、希望に満ちた満開の笑顔であった。



「猫……女」



「……あんたはその呼び名でいいわ。名前で呼ばれたら虫酸が走るでしょうから。さてと――蛇蝎」



譚檎の声は、舞台開演の始まりを告げるように、厳かに。


決死の戦いを知らせるファンファーレのように、高らかに。


居合わせた者全ての心を捕らえ、離さず、鼓膜を震わせた。




   

「―ーー―譚檎わたしと、踊ってみる?」




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