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〜緋稲荷(ヒイナリ)壱〜

泣かないでよ、僕が悲しくなるじゃないか。


怯えないでよ、僕の心が傷付くじゃないか。


叫ばないでよ……君の首を締めたくなるじゃないか。


緋稲荷ヒイナリ、君も、そウ思ウダロウ――


――アア、アア、思ウトモ。








校舎は東西南北に一棟ずつ建てられていたが、旧校舎のみ北西の方角に建っていた。


今林檎(リンゴ)が向かっているのは、西の方角に建つ二年生の校舎。


東の一年校舎からは一番遠く、また間にある三年校舎と旧校舎の渡り廊下を使ってしまえば、授業をサボっているのが誰かにバレてしまう。


仕方がないので円を描くように、校舎の影を縫いながら林檎は進んだ。


旧校舎の死角まで歩いて、そこでやっと安堵の息を吐く。


ここまで見つからずに来た自分の強運に感謝し、しかし各棟の一階部分の職員室には油断ない視線を這わしながら。


向かう先は二年校舎の三階、ある男子生徒のいる教室だ。



(多分、あの人だよなぁ~)



林檎はその人物に思い当たりがあった。

きっと今朝コンビニでぶつかった相手――獣臭かった、あの人であろう。


この事を譚檎(タンゴ)に言えば、不自然と感じた時に捕まえときなさいと怒ってくるはずなので黙っておく。


自分本位な妖怪の考えが移ったかな~などと思っていると、授業の終わりを告げる鐘の音が辺りに響いた。


休み時間なら動きやすいと林檎は勇み立ち、譚檎に隠れているように言う。


妖紙を持たない今、ここで戦いなど起こすわけにはいかない。


今回は妖力の無い林檎が偵察に向かい、相手がどんな状態であるか調べる事が優先だ。


妖力という気配のしない林檎なら、普通の学生として疑念なく接せられる。


そして人害のない場所で妖紙を使い――噂怪を殺す。


その下調べのため、林檎は旧校舎の影から歩を進める。


殺すというその後の確定事項を意に介さず、幼さの残る林檎の顔には愛想笑いが張り付いていた。


仕事と割り切っている訳ではない。


――ただ、これは自分の『造られた理由』なのだ。


受容や拒絶という選択肢すら存在しない、決まりきった事でしかないのだ。


二年校舎に入れば、玄関前に幾人かの生徒を見受ける事ができた。


渡り廊下でなく玄関から入ってきた林檎に、皆一様に訝しげな視線を送るが声をかけたりはしない。


同学年とはいえ知らない生徒もいるだろうし、なにより林檎の堂々とした態度が疑惑を払拭させていた。

襟にある校章の色を見れば林檎が一年生と分かるのだが、そこまで注意深く見る者は当然ながら――



「そこの一年生! 待ちなさい!」



――いた。


さっさと階段を上ろうとしたが、声を張り上げた主は素早く林檎の眼前に立ちふさがり、四角の眼鏡をキラリと光らせる。



「こんにちはぁ~副会長さん」



「人の事は名前で呼びなさい! 私の名前は浅井 紗々(アサイ サシャ)です!!」



先ほど林檎を一年生と呼んだのはどうなのかと問いたくなるが、また口喧しく言われるので止めた。


自ら名乗った紗々は額を強調するように前髪をピンで斜め止めし、右腕に腕章を掲げていた。

『副会長』と刻まれたそれを微かに揺らしながら、眼鏡の奥の鳶色の瞳で林檎を睨みつける。



「ここは二年校舎ですよ! 一年のあなたが何の用ですか!」



「そ、そんな大声で言わなくても聞こえるよ~」



両耳を押さえても聞こえる紗々の声に辟易しながら言うと、紗々は更に声を大きくして叫んだ。



「あなたには厳然とした態度で接すると決めたのです! 最初からそうであれば、あんな悪行を許す事などなかったのに……」



紗々が苦々しく言う悪行――それは一ヶ月ほど前まで遡る。


親水高等学校には売店があり、弁当持参でない生徒は大概がここで昼食を買っている。


場所は特別棟の玄関前。ただのプレハブ小屋に見える外観だが、昼休みになればいつも長蛇の列が伸びている。


華雪に弁当を作ってもらってはいたがそれだけでは足りず、林檎は売店を利用していた。


それだけなら紗々も何も言わなかったが……林檎は買う量の限度を考えなかったのだ。


林檎曰わくあれでも規制していたらしいのだが、しかし昼飯を食べられない生徒は急増。


売店側も仕入れ量を増やすが事態は酷くなるばかりで、とうとう紗々が林檎を注意しにやって来た。


屋上にいると聞き、そこに行けば林檎は昼食を食べ終えたところのよう。


明らかに女子高生の食べる量を逸脱した空容器に囲まれながら林檎は――プリンを食べていた。



「っ!?」



売店にはパンやオニギリ、少数類のお菓子は置いてあったが、プリンは置いていない。


また通例として、親水高等学校は売店以外で買った飲食物の持ち込みを禁止している。


……極めつけとして、紗々は校則を厳守する堅物の生徒として有名で、付いた異名は『校則からの四角』


『刺客』を眼鏡の形である四角と皮肉った異名が付いていた。


――後に林檎は、この時般若を見たと弥生達に語っている。


その時から目を付けられ、林檎は紗々からの詰問をよく受けていた。

今も日常的になってきた光景といえるのだが、今回は林檎も急ぎの身である。


早く男子生徒の教室に向かいたいのだが……



「休み時間は限られてます! すぐ戻りなさい!」



「す、すぐ終わる用事だから今日は見逃してよ~」



「次の授業の予習復習を削ってまでの用事とは何ですか! はっ、まさか裏取引のプリンを受け取りに!?」



「変な方向に飛躍した!? と、とにかくどけて――」



そこまで言って、林檎は突如身体を強ばらせる。

目を見開いて瞬時に上を仰ぎみた。


紗々は怪訝な顔で名前を呼んできたが、林檎は見開いた目を困惑に染めるだけで反応しない。



「……嘘」



発したのは、たったの一言。


仁王立ちしていた紗々も上を向いてみるが、見えるのはリノリウム張りの校舎の風景だけ。


その一瞬を突いて、紗々の横を林檎が駆けのぼっていった。



「あっ!? 風斬さん待ちなさい!」



紗々の制止も聞かず林檎は駆けた。

目指すのは男子生徒のいる三階ではなく、階段の続く先――屋上だ。


息が弾み、鼓動があがる。

際限なく膨らむ困惑と疑念。


――そして、屋上に渦巻く大量の『妖力』



(今まで殺してきた噂怪の比じゃないっ……)



なぜ今まで気付かなかったのか。

なぜ今まで分からなかったのか。


それ程までに感じる妖力は、強大で、甚大で、悪辣。


だからこそ、林檎は焦る。



(こんな場所で……弥生ちゃんや美結ちゃんのいる学校でなんて!!)



林檎はひたすら、屋上を目指す――








屋上は基本立ち入り禁止としてあり、昼休み以外はドアに鍵をかけられている。


しかし今は無残にひしゃげたドアノブが垂れるばかりで、鍵の意味はとうに失われていた。


無理な力でこじ開けられたようなドアをくぐれば、林檎の視界に陰惨な光景が飛び込んでくる。



「……っ」



思わず渋面になる。しかめた顔を向けた先、探していた人物は微動だにせず佇んでいた。


錆びた鉄を思わせる、すえた臭い。


灰色の地面を赤く彩る、おびただしい血飛沫。


そのただ中に立つ、真っ黒な学生服をまとった男子生徒。


体格も顔も特徴なく見えるのに、その口元だけは異様な存在感を滲ませる、赤色。


目線はただただ虚空に投げ出され、林檎の存在など気付いてないようにしている。


林檎は油断なく相手を眇め、止めていた足を一歩踏み出した――



「っ!!?」


――知覚できたのは、何か巨大な物が真横から飛んできた事のみ。


次いで認識できたのは、身体全体を撫でつける圧倒的な圧力であった。


骨の砕ける音、肉の潰れる音を響かせながら身体は吹っ飛び、地面を何度もバウンドして、フェンスにぶつかる事でやっと止まる。


歪んだフェンス下に林檎は横たわり、皮膚は擦り切れ血を滲ませて、瞬く間にその周りには血溜まりが出来上がる。


糸の切れた人形のようにピクリとも動かない林檎を、男子生徒の目は初めて見つめた。


いや、そもそも目と呼べるのであろうか。


白濁し、血走った白色のみの眼球。

どこを見ているのかも、見えているのかも分からぬ目線は林檎の方に向けられ、裂かれるように開いた口からは血の混じった唾液を垂らしている。


と、血飛沫だけの足元が不自然に脈動した。

傷口から染み出す血のように形を成したのは、黒く巨大な『尾』


男子生徒の何倍もあろう尾は黒い水滴を地面に落としながら、ゆっくりと林檎に近づいていく。


見れば林檎の左半身は墨汁を浴びたように汚れ、横殴りにしてきた圧力の正体がこの尾だったのだと窺い知る事ができる。


弓なりに反った尾は暫し林檎を見定めるように宙をさ迷い、程なくして興味を無くしたのか男子生徒の足元へ戻る。


白濁の眼球で林檎を見つめながら、男子生徒の口から声が発せられた。


その声は抑揚のない、男か女か判然としないものであった。



『妖力モ生物ノ気配モ感ジヌ、我ラト似テ非ナル存在――オ前ガ蛇蝎ダカツノ言ッテイタ「フランケンシュタインの娘」カ』



話しかけられても林檎は反応を示さない。


壊レタカ、声は感情なくそう言うと顕現させていた尾を空へと掲げてみせた。


途端、切れ目を入れられるように尾先は真ん中から割れはじめる。



『人形ヲ喰ッタトコロデ我ノ妖力ガ増エルワケデハナイガ、蛇蝎ハオ前ガ嫌イラシイ。恨ムナラ、奴ヲ恨メ』



割れ目からは鋸の刃を思わせる歯のようなものが生え、その風貌は目玉の無い黒塗りの鮫だった。


黒い水滴を唾液のように垂らしながら、奇怪な尾は割れ目を目一杯に開いて林檎に突進した。


噛みつくと思われた瞬間――群青の炎が闇色の尾を包みこんだ。



『!?』



絡みつく鎖のように炎は尾を伝い、瞬きする間も与えずに男子生徒の足元に襲いかかる。



『ナメ……ルナッ!』



吐き捨てる声と共に手を振るう。

尖った指先は尾を切り裂き、間一髪で炎の流れを断ち切った。



「……その力、もう何人も人間を喰らったみたいだね」


声はただただ、日常の響きで。

己が身体が、非日常になっていようとも変わりなく。



「その呼び方は好きじゃないの。私の名前は――林檎」



血染めの風景、傷だらけの身体。


林檎はそれらを日常と認めるように、いつもの声で名を語った。


『コノ炎……蛇蝎ノ話デハ、妖紙ノ中以外デオ前ハ無力ト聞イテイタガ』



「……蛇蝎って、もしかしなくても北の代表だよね? 何で生まれたばかりの噂怪がそんな名前を知ってるのかな~」



身を起こす林檎。身体から滴らせる血とは対極的に、頭の尾髪は群青色に燃えていた。


人間では決して有り得ぬ現象――しかし血臭漂うここでは、異様なそれも風景の一部と化す。



『生マレタバカリ、カ……クククッ、我ヲ見テ本当ニソウ思ウノカ? 身体ハ似セレテモ、頭ノ方ハ足リテオラナンダナ。蛇蝎ハ我ノ、良キ親友ヨ』



口に溜まった血を吐きながら、林檎は訝しげに目を細める。


どうやら蛇蝎と関係あるのは確かなようだが、この噂怪の生まれた時間はまだ短い。


親友と呼べる関係を作り出すには、この噂怪は長く生きてはいないはずなのだ。



「――なるほど、やっぱり蛇蝎が絡んでたの。噂の情報を伝えてないのは北だけだし、まぁ当然と言えば当然ね。あんたの妖力の異常さや林檎を知っている事……蛇蝎はあんたに『破邪の裏法(リホウ)』をかけてたわね?」



『――猫女ダナ』



声の方向を見れば、フェンスの上に一匹の猫が佇んでいた。


器用に佇むその身体は純白。瞳は金黄色で、男子生徒を見つめている。



「譚檎……」



林檎の声に返事をするように尻尾を動かし、譚檎はフェンスから跳び降りた。



「まだ力を隠してるから正確には分かんないけど……あんた、五十人は喰ったでしょ?」



その言葉に林檎は驚き、男子生徒は愉快そうに口を歪める。



「噂怪に知られてるなんて有名になったものね、全然嬉しくないけど」



林檎の隣まで、血を踏まないように注意しながら歩く。


――尻尾を『二本』揺らしながら。



「あんたには聞きたい事が山のように有るけど……さて、どうしようかしら」



途端、譚檎の身体からも妖力が発せられる。


だが林檎が感じるその量は、明らかに目の前の噂怪より少ないものであった。


『悪イガ、オ前ノ相手ハセヌヨウ言ワレテイルノデナ。オ前ハ蛇蝎自身ガ殺シタイラシイ』



「ふん、あんな狡賢いのからラブコール貰っても、まったくもって嬉しくないわ。それよりも、私達から逃げられると思ってるの?」



林檎と譚檎はジリジリとにじり寄る。

だが噂怪の声は、余裕の響きをもって哄笑した。



『クククッ! 壊レカケノ人形ト、矮小ナ妖力シカ持タヌ猫女デ我ヲ止メルカ? 蛇蝎ガナゼオ前ラニ拘ルカ知ランガ、弱イオ前ラデハ我ノ瞬キスラ止メラレン!!』



空気に溶け込むように、徐々に男子生徒の身体は輪郭を無くしていく。


最初に数歩動いたのみで、あとは立ち止まったままの林檎と譚檎に、噂怪は最後に語りかけた。



『覚エテイロ、我ノ名ハ緋稲荷ヒイナリ――妖怪ヘ転ジルベク生マレタ、誇リ高キ妖狐ノ一族ダ!』



そうして姿は、淡い陽光に滲んで消えた。


後に残されたのは血にまみれた屋上と、歪んだフェンス。

傷だらけの林檎と、二股の尻尾をした譚檎だけ。


そこで譚檎は、やっと溜め息まじりの声を出した。



「あいつの妖力は消えたみようね……ふう、何とかやられずに済んだわね」



「『今』の私達じゃあ瞬殺だったはずだからね~。良かった良かった」



林檎の相づちも軽い口調で、表情も切羽詰まったものではない――しかし次の瞬間、一人の声によりその顔には焦りが浮ぶ。



「風斬さん屋上にいるの!! ここは昼休み以外立ち入り禁止になってる――」



「おぅわわ副委員長~!!?」



「きゃっ!? な、何よ……?」



当然といえば当然な、紗々の登場である。


屋上と己の左半身を見せぬ為に扉に隠れながら、僅かな隙間から追い返そうとする林檎。

反論し、必死で詰め寄ろうとする紗々。


両者一歩も引かぬ押し問答は、異変に駆けつけたエン婆が紗々に手刀を繰り出すまで続けられた――







「まさかあれ程の妖力を持ってたなんて……蛇蝎は一体何を考えているのかしら」



談話室、気絶させた紗々を保健室に連れて行き一年校舎に戻った林檎達は、エン婆に先ほどあった事を話していた。


驚いたエン婆だったが、突然金塩体で感じられた妖力を考えると、緋稲荷という存在に妖怪が肩入れしている事は明らかだと、頷いた。



「妖力を消している事はさして難しくないんだけど……問題はそれが噂怪という事。生まれて間もない噂怪が妖力の調整なんて、今まで聞いた事がないわ」



お茶を飲みながらエン婆は神妙な面持ちをする。


譚檎は、今は一本に戻った尻尾の毛繕いをしながらエン婆を見る。



「いくら噂が広がっていても、生まれる時の妖力は総じて低いはずよ。けどあいつは……緋稲荷は明らかに妖怪程度の妖力を持っていた。噂怪という朧気な存在のままで固定させる、破邪の裏法を使われたに違いないわ」



お茶うけの饅頭を頬張りながら、林檎はその単語に小首を傾げる。


身体にあった傷は自動修復機能によりすぐに直す事が出来たが、しかし服や血痕までは元通りにはできない。


エン婆から目立たぬようにと、どてらを借りた今の姿は珍妙と言い表すしかなかった。


林檎は一年近く譚檎の傍にいるが、その言葉を聞くのは初めての事だ。



「ねえ譚檎、その破邪の裏法って何の事?」



「破邪の裏法は、そうね――簡単に言えば『檻』かしらね」



「檻?」



更に分からないとする林檎に、譚檎はヤレヤレと首を振る。

説明などしている場合でないと思うのだが、疑問を置いたままで話は進められない。


というか、林檎が進めさせてはくれないのだ。



「ねえ、破邪の裏法って何なの何なの何なの~?」



「うるさいっ! ちゃんと教えるからちょっと黙っときなさい。破邪の裏法ってのは、人間の神子ミコがその昔、噂怪を封じる為に作った術よ。方術の亜種とでも言えばいいのかしら? まぁ人間にとって噂怪も妖怪も違いはないから、妖怪を封じる術とも言えるんだけどね」



「封じる……でも緋稲荷は妖力が巨大だったよ? 封じられたにしては元気が良すぎるというか……」



「破邪の裏法は確かに封じる為の術。けれどその術は不完全だったの……妖怪にはあまり効かないし、噂怪も存在を固定し動けなくするくらいしか出来なかった。そしてこの術は、『ある事』に使われるようになったの」


「ある……事?」


譚檎はそこで言葉を区切った。


沈黙が充満する談話室に、暫し電気ストーブの風を吐き出す音だけが響く。


長く感じられた沈黙を破ったのは、譚檎の再びの声であった。



「実験……怪なる存在を貶める、酷たらしい事よ」



「……あのね林檎ちゃん。妖怪や噂怪を、理論で看破しようとした時期があったの。その為に人間は破邪の裏法で捕らえた噂怪を――私も記述でしか知らないけど、それを読んで人間が不気味に思えたわ」



エン婆は溜め息を漏らしながら言う。


譚檎は何か思う所があるのか、先ほど喋ってからまた黙っている。

気分を紛らわすかのように、前足でテーブルの塩金体を弄くっていた。



「それが破邪の裏法。何だか、あんまり良い気分にはなれない術だね。そんなのが緋稲荷に使われてたんだ……」



「……まぁ過去の歴史はともかく、あれを掛けられると存在が固定されるから、噂怪に成る直前に掛け、人を喰わせながら妖力を高めていくの。解き放った時には、妖怪に匹敵する強さの噂怪が誕生って訳よ」



林檎ちゃんが来る前に破邪の裏法を使って似たような事があったの……教えてくれたエン婆の声は、なぜか悲しみに暮れていた。



「ん? なら何で七十五人喰わせてから解き放たなかったの? そっちのほうが確実なのに」



塩金体にじゃれ合い、いつの間にか本気で遊んでいた譚檎はハッと顔を上げると目を眇めた。


今更真剣にしても遅いと思いながらも、言ったりはしない優しい林檎。


単にまた引っ掻かれそうだからという心情は見てみぬフリをし、林檎は譚檎の返事を待った。


返ってきたのは、いつもより若干高めの声。



「噂怪が妖怪に転じるには、宿主の想いに関係する人間と――宿主本人を喰らわないといけないのよ。屋上の血痕は、想いに関係ある人間が喰われた跡でしょうね」



その声の正体を林檎は知っている。

それは一年という時間で知った、譚檎の心の機微の表れ。



「でもおかしいわね……噂怪の存在を知ったのは今朝。私が毎日確認してるから、昨日以前のはずは無いし、なら何であんなに人間を喰らってるのかしら。破邪の裏法以外にも、何かあるって事……それに北でなく、こちらの人間に関係する噂をなぜ噂怪にしたのか謎だわ……」



エン婆が独り言を呟く。

考えなければならない謎は山程あるが、しかし譚檎達に構っている暇は無い。


考えるのはエン婆へと任せ、林檎は確認のように譚檎の方を向いた。



「って事は……」



「――妖紙を取りに行かないといけないって事よ」



その声は、今から起こる死闘を楽しむ喜々とした声。


譚檎が猫女に――噂を噂怪を喰らう時がやって来たのだ。


窓から覗く空は、いつしか曇天模様に変わり始めていた――








日が真上に差し掛かった空の下、華雪は蒼那と連れ立って富裕荘へと歩いていた。


鼻血は無事治まりはしたが、しっかり握った手に時々頬を緩める蒼那。


華雪はやはり意識する事なく、握った手を嬉しそうに振っていた。



「そういえば蒼那ちゃん、何でここにいるんですの? 北の代表……蛇蝎さんだっけ。別の地区に行くのを心良く思わないって、私は聞いてるですの」



それは華雪からすれば何気ない質問であった。


ただ何となく、心に浮かんだ疑問をふと口にしただけ。


その、はずなのに。



「…………」



「蒼那ちゃん?」



今まで柔和だった蒼那の表情が強張るのを、華雪は確かに見た。


青と黄のオッドアイは焦燥に揺らぎ、呼吸も静かに弾みだす。


どうしたのと華雪は問おうとしたが、その間を縫うように蒼那が先に喋りかけてくる。


声は、僅かに緊張していた。



「華雪……あの、ね。そのさ……」



歯切れ悪く言葉を紡ぐ蒼那。

快活な姿しか見た事のない華雪からしたら、それは見慣れる不可思議なものであった。


言い淀み、口噤み、人影の無い親水橋に着いた時、蒼那は意を決したように華雪の目を見、口を開く。



「あらあら、まだ『始末』して無かったのですか?」



――蒼那の声は、明瞭に響く誰かの声に塗り潰された。



「!?」



蛇のように絡みつく、蠍のように毒々しい声。


淑女を思わせる落ち着いた声は、しかし同時に畏れを孕ませ。


声の先にいたその人物を、華雪は知っていた。



「蛇蝎……様」



蒼那の声が震えていた。

気づけば繋いだ手も震え、じっとりと汗を滲ませている。


紛れもない恐怖と畏怖を抱いている――華雪は、無意識に理解した。


なぜならそれは、自分の今の心情にも言える事であるから。



「さてさて、蒼那……私の言いたい事、分かるわよね?」



白濁した長髪が風になびき、色無地の着物は、血を吸ったような赤色。


金銀の刺繍のされた同色の腰帯には、鉄扇が一つだけ挟まれていた。


優しく笑った蛇蝎の顔を見た瞬間、華雪の肌は一気に粟立つ。


知らず後ずさろうとしていたが、蒼那と繋いだ手がそれを許しはしない。

まるで、蒼那が一人にしないでと懇願しているようであった。



「ま、まだ話してないんですけど……でも絶対っ仲間にしますから!!」



必死に喚く蒼那の声を聞き、蛇蝎はおもむろに歩を進める。


白磁を思わせる素足で音もなく、固まる二人に優雅に近づいていく。


包み込むように蒼那の肩に両手を添え、蛇蝎はその耳元にゆっくり顔を接近させた。


――口が、ゆっくりと、開かれる。



「駄目よ、駄目。私はあなたに始末を命じたのよ? 仲間――あの猫の仲間なんて、私には不要なのよ」



「そんっ――」



蒼那の声が途中で掻き消え、華雪は魅入られるように、ゆっくりと首を向けた。


見開かれたオッドアイ。

小刻みに震える口元。

そこから垂れた、一筋の赤いもの。



「蒼、那ちゃん?」



じわりと、纏わりつくように何かが心を染めあげていく。


視線を、下に動かす。


蒼那の腹からは、血にまみれた黒い尾が生えていた。



「いいの、いいの――だってもう、あなたは要らないから」



『ククッ、相変ワラズ酷ナ事ヲ言ウナ……』



後ろから響く、男か女か判然としない声。


その声に振り向くより前に、華雪の身体は衝撃に襲われた――








譚檎は学校を出る前に、屋上の光景を隠すようエン婆へと頼む。


修復などは後日やる事にして、時間のない今はエン婆の魔術で隠蔽してもらう事にしたのだ。


だがエン婆は緋稲荷を見落としていた事に責任を感じ、譚檎達と一緒に緋稲荷を探したいと言い出してきた。



「……あんな光景を人間が見たらどうなると思う? これはあんたにしか出来ない、あんたにしか頼めない事なのよ」



真剣な眼差しでそう言ってきた譚檎の言葉に、ややあってエン婆は渋々、了承の言葉を呟いた。

いや、了承せざるを得なかったのかもしれない。


猫女にそうまで言われて、断れる妖怪などいやしないのだから。


――そして、現在。


林檎は尾髪を群青色に燃やし、譚檎は二股の尻尾をたなびかせて家々の屋根の上を疾走していた。


その速さは人間の比などではなく、また何メートルと離れた家々の間を難なく飛んでいく。


外見は人間と猫に見えるが、その中に内包されているのは別種の存在なのだと、まるで見せつけているように両者は駆け抜ける。



「譚檎、妖力使ってるけど大丈夫なの?」



「二股で妖力の制限ギリギリよ。屋上まで飛び上がったり屋根の上は走れるけど……戦いは無理ね。あんたこそエネルギーを“妖炎ヨウエン”に変えてるけど、それって通常時の分でしょ?」



「これくらいなら支障はないけど、やっぱり戦いは私もぉ……60,000kcal食べるか妖紙の中じゃないと無理だね」


成人男性の軽く二十倍以上のカロリー数を述べてはみるものの、それが不可能な事は林檎も理解している。


呑気に食べている時間など無いし、またそれだけ食べれば林檎の胃袋が破裂してしまう。


食べ物からエネルギーを採るのは非常用の機能であって、本来の摂取の方法とは異なっている。


妖紙の中に緋稲荷と『一緒に』入らなければ、何も始められない――両者の思考は結局そこに辿り着いた。


歩きなら十数分はかかる距離であったが、ものの数分としない内に譚檎達は富裕荘へと到着した。


急いで錆びた階段を上り部屋の扉を開ける。


鍵は掛かっていなかったが部屋には誰もおらず、華雪と朱毬の姿がない事に林檎は訝しんだが、譚檎の急く声を聞いて冷蔵庫を開けた。


キンキンに冷えた妖紙は薄い氷に包まれており、掴んでポケットに入れると急いで外に出た。







「林檎、緋稲荷の場所分からない?」



「……一応気配はあるんだけど、離れすぎてるか意図的に小さくしてるかで、詳しくは分からないかな~」



「大まかでいいわよ。兎にも角にも急ぐ――」



階段を降りた瞬間、譚檎は顔を前に向けたまま硬直した。


あまりに急に止まったので林檎は危うく踏みそうになり、慌てて足を左へとズラした。


どうしたのかと聞こうとして――林檎も、はたと気付く。


譚檎の向いている前方、数メートル程の距離に見知った気配がある。


突然だった。妖力を気配で察知できる自分が、しかし気付いたのはたった今だ。


見知った気配なら例え妖力を小さくしていようとも、数十メートルで気付くと思っていた。


いや、確実のはずだ。

妖力を察知する機能精度は、この一年間で確認した。


もし察知出来なかった要因があるとすれば、それは――



「……妖力の、完全隠蔽。私の察知機能も効かないなんて、あなた何者? あと――ユウキさんに何したの」



「…………」



林檎と譚檎の眼前にいたのは、一本角を生やし肌を赤く染め、業火のように瞳を燃やしたユウキと、あと一人。


異形となったユウキの隣に立つ、灰色のコートを着た者であった。


目深に被ったフードで顔は分からないが、身長は華雪ほどに小さい。前に少しだけ掲げられた右手の大きさから、子供だと思われる。

その右手には、紅白紐の結われた鈴が垂れ下がっていた。


一方のユウキは、学校での変異と同じ姿形となっており、その姿はまさしく、紛れもない――『鬼女キジョ』であった。


無言のコートの子供も気にはなるが、しかし一番注意しなければいけないのはユウキであると、林檎は静かに息を吐く。


理性のないようにギラギラした瞳、歯を剥き出しにして獣のように唸り声を上げる口。


風も無いのに揺れている髪は、ユウキの心情を表しているようで。


怒気を孕んだ殺意は、真っ直ぐに林檎に向けられていた。


「林檎……あんた、ユウキをあんなに怒らせるような事したの?」



思い出すのは、階段の踊場での一件。

怒られるに相当する事をしたとは思う、殺されるかもと一瞬本気で思ったりもした。


だが。



「妖力全開の姿で、知らない子供と立ち塞がられるような事は、してないかなぁ……」



ユウキは人目はばからず鬼女となり、殺意で大気を震わせている。


と、そこでふと林檎は気付く。

今はまだ昼になる少し前、この時間なら誰かなりが歩いていそうだが、人間の姿が一向に見当たらないのだ。


好都合と言えるが、釈然としない。



「あのコートのやつ、どうやら人払いの術が使えるようね。紅白紐の鈴に、正気の感じられないユウキ……林檎、もしかしたら凄い面倒くさいやつかもよ、あいつ」



譚檎の言葉に返事をしようとした時、辺り一帯に甲高い音が響き渡った。


ガラスの割れるような音のした方角を見れば、ユウキが右手を真横に突き出している。


その手の先は、真っ黒な割れ目――空中に浮かぶ割れ目の中へと突っ込まれていた。


まさか、と思った瞬間、ユウキの右手が引き戻される。

その手には、全長二メートルは超えているであろう金砕棒が握られていた。



「あれを出しちゃったよぉ……」



「操られてるの確定ね。こんな場所であんなの出すなんて、いつものユウキなら絶対やらないわ」



見るからに重量感のある金砕棒を肩に乗せると、ユウキは中腰の姿勢になる。

足を前と後ろに開き、左手はだらんと下げたまま。


独特な構えであるが、これから繰り出されるのは疾風迅雷の一撃だ。


何もせずに食らえば、今の林檎なら一瞬で潰されるだろう。


不意に、尾髪を結んでいたリボンを解く林檎。


群青に燃えるその部分の髪は地面に垂れ、足を、その髪へと触れさせる。

途端、林檎の顔から全ての表情が無くなった。



『妖炎を一時的に付与。部位は足、最長持続時間は――二分』



喋った林檎の声は、別人と思うほど無機質で無感情に発せられる。


妖炎に付けられた足は静かに燃え上がり、だが膝下からは広がらなかった。


林檎も腰を落とし、暫し睨み合いのようなものが続く。


殺気の混じった寒風が吹き、道路に落ちていた枯れ葉が一枚、舞う。


舞い上がり、ゆらゆらと揺れながら地面に落ちる――それが、始まりの合図となった。


ユウキの足がアスファルトを食らい込み、粉砕しながら林檎へと駆ける。


風を切る神速のユウキは瞬きすら許さぬ内に林檎に肉薄し、金砕棒を勢いそのままに振り下ろす。


林檎はその場から動かず、金砕棒が頭を穿とうとした――瞬間。


群青色の閃光が林檎の足元から伸び、巨大な金砕棒を受け止めてしまった。


重量級の物同士が激突した、鈍く腹の底を揺さぶるような音が響き渡り、その際の風圧が譚檎の髭を揺らした。


見れば、閃光に思えたのは林檎の右足で、自身より大きな鉄の棒を受け止めていたのであった。


そればかりか金砕棒をぐいぐいと押し返し、思わずユウキが両手で支える程である。


だが譚檎は毅然とした表情を崩さず、驚愕した節は見当たらない。


目線は確かに林檎とユウキの方に向いているが、見ているものは違った。



(林檎が足止めしてる間に、鈴をどうにかしないといけないわね……)



灰色のコートに姿を隠す、鈴を持つ子供。


全身の毛が逆立つ程に集中しながら、金黄の瞳はその子供を捉えて離さなかった。



「あぁぁぁぁぁ!!」



己の一撃が止められた事か、はたまた学校での事かは分からないが、ユウキは憤怒の叫び声を上げると全身に力を込めた。


髪の毛が風に煽られるようにのた打ち、口からは呼気の代わりに火の粉が溢れ出す。


――しかしそれが形を成す前に、林檎は拳を打ち抜いた。



「ぐっ!?」



『妖炎の付加部位に両拳を追加。これにより生じる持続時間の減少……残り一分二十秒』



振り上げていた足を降ろし、打ち抜いていた拳を戻し林檎は言う。


声は以前として無機質。

流血した足も、皮の裂けた手の甲も、何も意に介さぬように。


今の林檎はまさに、緋稲荷の言った『人形』という言葉が似合っていた。



ユウキは十メートルほど後方に吹き飛ばされるが、金砕棒を地面に刺し衝撃を緩めると、足を踏ん張らせて吹き飛ぶ身体を止めた。


キッと睨むように前面を見ると、林檎はもう数メートルの距離まで走り寄っていた。


ユウキは近づく林檎を見るや口を大きく開き、同時に金砕棒を口の前に構える。


何をするのか分からないが、だからといって林檎は止まりはしない。


拳を強く握りしめて、足を強く踏みしめて、追撃の群青を叩きこむ為ユウキに突進する。


攻撃の届く範囲に入った瞬間、ユウキの口から火球が吐き出された。


ユウキの顔より大きな火球は、一瞬その煌めきで林檎の視界を狭め、また一瞬で掻き消えた。


いや――四方八方に弾け飛んだのだ。


金砕棒に当たった瞬間火球は野球ボール台に弾けて別れ、あちこちをその身で焦がした。



『!?』



巨大な火球が来たらば蹴るか殴るができたろうが、突如数十に別れ四方八方から飛んでくる火球には、さすがに林檎も対応できなかった。


両腕で顔を隠し、地に伏すように身を屈める。


また、金砕棒の届かぬ後方へと飛び退いた。



「あぁ!!」



『っ――』



だが、二メートルという巨体である金砕棒には無意味な行動であった。


横に飛んでいれば避けられたかもしれない。


しかし現実は、押し出すように伸ばされた金砕棒が林檎の両腕を突き、皮を裂いて肉を潰し、骨を砕いてしまう。


鮮血が出るが群青の炎に焼かれ、すぐに蒸発する。更に追撃しようと駆け出すユウキに、林檎はなんと、自らも駆け寄った。


金砕棒を構え直すより先に林檎の右足がユウキの腹に刺さり、身体を九の字に曲げ下がった顔へと、膝蹴りを食らわせる。


仰け反りかけたユウキへ、左足を軸にして半月の軌道を描いた後ろ回し蹴りがめり込み、今度は体勢を直す暇なく吹き飛ばされた。


連撃を繰り出した林檎は右足をゆっくり降ろし、両腕の妖炎を解く。


すると血が一気に流れだし、地面には瞬く間に血溜まりが作られた。



『両腕の上腕部破損……妖炎の容量不足により、自動修復不可。循環血液の流出に伴い、生体部品の活動を抑制。残り持続時間は――四十秒』


淡々と事象を述べる林檎は両腕を垂らし、身を低く低くと構える。


数十メートルと飛ばされたユウキは、まだ地面に倒れていた。

と、飛ばされても離さなかった金砕棒を杖代わりに、ユウキが起き上がろうと動き出す。


見るや否や、林檎は地を蹴った。

まだ僅かに垂れる血と群青色を道連れに傷だらけの身を走らせて、ユウキへと一直線に駆けていく。


譚檎もそれに合わせるように走りだし、声高々に叫んだ。



「標的変更! 林檎、四時の方向よ!!」



『――了解しました』



ユウキに駆けていた林檎は向きをぐるりと変え、四時の方向に――コートの子供のいる方向に再度走りだした。



『妖炎を右足に集中、質を強化から燃焼に変換。密度上昇……固定化完了。射出目標は四時の方向、灰色のコート』



林檎が高く、飛ぶ。

右足を後ろに引き絞り、コートの子供に向かって蹴りを放った。



『――“Eine Klinge der Flamme”』



瞬時に目の前は群青に染まって弧月の刃が顕現し、触れるもの全てを切り裂き、燃やし尽くそうと飛翔する。


迫る群青の刃を、コートの子供は寸前で横へと飛び避ける――が、刃はその動きに呼応し後を追ってきた。



「…………っ」



フードから垣間見えた口元が僅かに歪み、遂に群青の刃がコートを掠め切る。


切り口は徐々に燃え広がり、また群青の刃は方向転換し飛んでくる。



「……『響』」



初めて、言葉を発した。

どこか凜とした、子供特有の高音域の声。


今の状況に焦ったように聞こえぬ声と同時に鈴が一回、鳴いた。


たった、それだけで。



『“Eine Klinge der Flamme”の消滅を視認。解析不能……相手の妖力の集中を確認』



群青の刃は掻き消え、跡形もなく霧散してしまった。


切り口の炎も消えた事も確認し、コートの子供が掲げた鈴を下げる。



「あら、まさか私を忘れてるんじゃないわよね?」



――声に気付いた時には、もう遅かった。



右手に握られた鈴は、下方から飛びついた譚檎の口が掠め取り、驚愕に目を見開く子供が慌てて譚檎を捕まえようとするも、譚檎はしなやかな動きで間をすり抜ける。



「私達の目的は緋稲荷の退治であって、ユウキやあんたと戦う事じゃないの。この鈴を押さえれば術は使えないでしょ?」



歯に紅白紐を引っ掛け、譚檎は子供から数メートル離れると勝ち誇ったように言う。


コートの子供が無言でいると、唐突に林檎が地面に膝を付いた。

いつの間にか群青の炎は消えていて、顔を伝う大量の汗がいやに目につく。



「林檎、大丈夫?」



譚檎が抜け目なく子供を見ながら問うと、林檎は荒い息を吐きながらも返事した。



「だ、大丈夫だよ~……ただ妖炎に回すエネルギーが無くなって、ちょっと、疲れただけ」



声は無機質なものから感情彩るものへと戻っていたが、読み取れるのは疲労の色だけ。


譚檎は二本の尻尾を揺らしながら、林檎へと近づいた。



「私はまだ大丈夫だけど……さて困ったわね。このままじゃ戦えないし、あんたの狙いは私達の妖力切れって所かしら?」



やはり子供は答えない。

と、小さい呻き声が聞こえてきた。

その方向を見ればユウキがよろめきながら立っていて、苦痛と疑問に表情を歪ませていた。



「な……何なのよ一体。身体中が誰かに蹴られたみたいに、痛いし。保健室から出た後の記憶も無い……何で金砕棒を持ってるのよ、私」



肌の色や目の輝きは元に戻り、発現していた角も無くなっている。

だが肌の色が戻ったせいで傷は一層目立ち、破れたスーツやストッキングが何とも痛々しい。


金砕棒を右肩に乗せて前を見、ようやくユウキは譚檎達の存在に気が付いた。



「……あぁ、そういう事なの」



ユウキは譚檎と林檎を一瞥し、コートの子供を凝視する。

険を含んだ声色になったのは、見慣れぬ者へ警戒した証であろう。



「…………猫、女」



か細く、小さい声で子供が喋った。

譚檎は鈴を林檎に渡し、ゆっくりと子供の周囲を回る。



「その呼び方は好きじゃないのよね。私の名は譚檎、今度そう呼ばないと、さっきまで操ってた怪力女が襲いかかるわよ」



それが聞こえたのかユウキが遠くから喚くが、譚檎は無視。

子供は一度だけ林檎の方に顔を向け、またすぐに譚檎へと戻した。



「……僕の目的は、足止め。フランケンシュタインの娘と猫女を止めるのが、役目」



あえて名前でなく、通り名を口にした子供。

明らかな挑発に、譚檎は少しイラついた。



「安い挑発ね。どうせ蛇蝎あたりに言われてたんでしょうけど……ふん、見事足止めは成功よ。良かったわね」



譚檎が子供の左側に回った。

前には負傷しているとはいえ林檎がおり、右側からはユウキが近づいてきている。


心許ない包囲網ではあるが、しないよりはマシである。



「でも引っかかってやったんだから、相応の見返りはいただくわよ? 緋稲荷の事と、この三流の悪巧みに荷担してる妖怪の名を全部教えなさい」



いつでも飛びかかれる体勢のまま譚檎がにじり寄る。

林檎も息を整えながら子供を睨み、踏ん張る足に力を込めた。



「……知らない」



「今更何言ってんのよ。この姿だけど、あんたの顔を引っ掻くくらいはでき――」



開いていた口を、身体を、大気を揺らす突然の衝撃。


同時に大量の妖力を感じそちらを見れば、親水橋の方角から『黒い』竜巻が空に昇っていた。



「これは……朱毬の妖力。でもあの竜巻の色は――」



一瞬だけ意識が離れ、その隙を突いて子供は後方に跳躍した。


気付いた林檎が声をあげ走り寄ろうとし――その時譚檎の耳に、子供の声がはっきりと届いた。



「……蛇蝎なんて知らない。ただ、言われたんだ……邪魔をしなさいって。あの御方に、言われたんだ」



右手を構え、指を合わせる。

子供の目線と行動の意味に気付いた譚檎が慌てて林檎に叫ぶ。



「鈴を捨てなさい! 爆発するわ!?」



パチンと軽快な音が指から発せられた瞬間、耳をつんざく爆音と熱風が辺りに撒き散らされた――




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