〜噂怪(ソンカイ)の出現〜
そいつは突然にやって来た。
顔の分からないそいつは、性別の分からない声で話しかける。
僕は、笑った。
そいつの正体に、気付いたから。
僕と彼女の――愛のキューピッド。
噂通りに願いを叶えてくれる、今は僕だけの味方。
――待っててね。この『力』で、今度こそ素直にしてあげるよ。
神通町には二つの高校が存在する。
南北と一校ずつ置かれた高校は、いわゆる進学校と普通校に別れ、林檎は富裕荘から近い普通校へと通っていた。
高校があるためか南北は学生向けの施設が多く、進学塾や予備校、ファーストフード店やゲーセンなど、暇つぶしには丁度良い場所として発展している。
反転、東西には家族やカップル、年配者や独身者が活用する施設が多く、駅周りが派手で賑やかなのもこちら側であった。
そんな神通町の南側に富裕荘はあり、高校に徒歩で通える林檎としては有難いのだが――
「はぁ~、学校面倒くさいな」
朝から物憂いな愚痴を言っている林檎の足取りは、とても重いものであった。
「大体私には一般常識が“インプットされてる”から、通う必要は全然ないはずなのにぃ」
学校に行っていなかったら、毎日美味しい食べ物巡りをして過ごせるというのに……譚檎は一体何をさせたいのか、皆目見当が付かない。
「でも、友達がいるっていうのは楽しいかなぁ」
――『命令』どおりならそんな幸せ、手に入れる事は無かったはずだ。
なぜなら自分に命令されたのは、猫女に付いている事だけだから。
真逆とまでは言わないが命令から外れた行動をしている自分を見て、『マスター』はどう思うだろう?
失敗作と罵るか、進化と喜ぶか、はたして――
(マスターの場合はぁ……頬ずりしてくるだろうな、うん)
そんな事を考えていたら、後ろで聞き慣れた声がした。
振り向いてみれば案の定、見知った少女達が視界に飛び込んだ。
「おっはよ!」
「おはようございます、林檎さん」
「おはよぉ~弥生ちゃん、美結ちゃん」
挨拶をしてきた二人の名を呼ぶと、二人は顔を綻ばせた。
弥生と呼ばれた少女は茶髪を肩口で切りそろえており、僅かに上がった同色の双眸は意志の強さを示してくるよう。
口の片端を上げて笑う表情は、可愛いよりも格好良いが似合う笑顔だ。
肩にかけたスポーツバックと学校指定の白いダッフルコートを揺らし、弥生は剣呑な目つきを林檎へと送った。
「っていうか林檎! この前私がバックに入れてたパン食べたでしょ! 先に言っとくけど証拠は無いわ!!」
「まさかの先読み!? ……というか朝から横暴極まりない事を言わないでよ弥生ちゃん。いくら”拾い食いクイーン“の異名を持つ私でも、友達のバックを漁ってまでは食べないよぅ」
大変不名誉な異名を持つ林檎であるが、口にしている辺り気にして無いのであろう。
――それを知った時の譚檎の目は、溢れんばかりの哀れみに満ちていたそうな。
「パン……もしかしてあの腐ってた物体の事ですか?」
寒風に黒いお下げ髪を揺らして歩いていた美結という少女が、何かを思い出したように声を上げた。
「部室で物凄い臭いがして、探してみたら弥生さんのそのバックからだったんです。開けるとビックリ、薄緑にコーティングされた恐ろしい物体が袋に入ってました。すぐに焼却炉に叩き込みましたが……今思えば、あれはパンだったんですね」
顔に比べて大きめの丸眼鏡をクイと上げ、緩やかに微笑する美結。
背は三人の中で一番高く、弥生と同じダッフルコートから伸びた足は細く、しなやかに引き締まっている。
やや目尻の下がった同色の双眸は優しいものであるが、掛けた丸眼鏡のせいか凜とした印象も浮かび上がらせてくる。
コートの胸元を持ち上げる二つの脂肪は、同年代では上位の大きさだろう。
「な、何で勝手に捨てるの! あれは部活終わりに食べようと思って持ってきたってのに!!」
「食べる? あのイースト菌じゃない微生物が繁殖したカビの塊をですか? 弥生さん、視覚と嗅覚を何とかしないと早死にしますよ」
「くっ!? 頭と胸で勝ってるからって美結が正しいって事ばかりじゃないんだからね! 私の楽しみを取るなぁー!!」
「なっ、む、胸は関係ないでしょう!? 屁理屈をこねてないで非を認めて下さい。大体あんなパン、どこから持ってきたのですか?」
「……家の保冷庫。だいぶ奥に入ってたけど、冷やしてるんだし大丈夫かなと」
「放置フラグ立ちすぎなパンですね……とにかく私に正義があります。非があるのは弥生さんの方ですからね」
「ふ、ふん! 例え腐ってたとしても食べきる自信があったわ。今回こそは私から謝ってやらないわ――」
「英語の宿題見せませんよ」
「ごめんなさい私が悪かったですっ!!」
――いつもの、仲が良いのか悪いのか分かりずらい会話をする二人を見て、林檎は朝の不機嫌はどこへやら可笑しそうに笑っていた。
「あっ! 私より胸が小さい林檎に笑われた!」
「全然関係ない方向から悪口言われた!? ていうかあるし! 弥生ちゃんよりあるし!!」
弥生は軽い足取りで林檎に近づき、疑惑の視線を送ってくる。
林檎は胸を張ってその目線に相対し、両者の睨み合いは暫し続く。
「……どんぐりの背比べ」
ポツリと呟いた美結の声は、凍てつくような冬の空気より冷ややかであった――
林檎達の通う『親水高等学校』は、町の南側にある親水駅に近い場所に建っていた。
通学路――と言っても道路標識か何かがある訳ではないが――駅の周辺は同じ学生服の生徒達で溢れていて、ちらほらと黄色い帽子の小学生や、スーツ姿のサラリーマンも歩いている。
きっと、親水駅から東西にある駅へと向かう最中なのだろう。
小中学校や会社は、殆どが東西に集中して建っている。
町の方針という訳ではないが、昔から南北が学生の領域、東西がそれ以外の領域と区分されていた。
なぜそうなっているのかと聞かれれば、きっと町長でさえ答える事は出来ないだろう。
答えられるのは、そう――林檎や譚檎のような『人ならざる者』ばかりのはずだ。
男子生徒は指定の灰色のコートを羽織り、その反発か髪の毛を各々が好きな色に染めている。
明るめの茶髪なども多数おり、校則はあまり厳しくないようだ。
女子生徒も林檎達と同じ白いコートを羽織り、鮮やかな色のマフラーや手袋をしていた。
お洒落に対する興味を持っていない林檎からしたら目にくる光景であるが、だがいつもの事なのでもう慣れている。
色に対する執着など、やはり人間の持つ美意識の理解には苦しんでいるが。
大勢のネズミと雪ダルマの行進に加わりながら、林檎は途中にあったコンビニの前で足を止めた。
談笑していた弥生と美結もそれに気付いて足を止め、どうしたのと林檎に疑問の言葉を投げかける。
「うん……ちょっとね」
その真剣すぎる声に二人は訝しみ、林檎の視線を追ってみた。
見据えるように店内に向けられた視線は、真っ直ぐにレジの方へと向いている。
「し……新商品だとぅ~!!」
――詳しく言えばレジ横のケースに向いていた。
もっと詳しく言えば、冬の定番として威風堂々とケース内にある饅頭に。
「と、トロピカル味だとぅ~!!」
「どんな味よ!?」
「どんな味ですか!?」
二人のツッコミを無視して林檎はコンビニに歩を進めた。
……念の為に言っておけば、林檎は今朝もきちんと朝食を食べている。
相撲取りかっ、と譚檎が言ってしまうくらい食べたにも関わらず、食への欲求が潰える事はない。
「きゃっ!」
「っ!?」
林檎が一直線にレジへと向かっていると、棚の影から飛び出した誰かとぶつかってしまった。
相手はどうやら男子生徒のようで、灰色のコートが衝撃によって小さく揺らめく。
林檎は床に尻餅をついてしまい、気づいた弥生と美結が慌てて駆け寄ってくる。
「痛いぃ~」
ぶつかった男子は蹈鞴を踏むだけで済み、黒い前髪に隠れた目で林檎を見た。
が、特に気にした様子もなくそのままコンビニから出て行く。
弥生が怒った声で引き止めようとしたが、一瞥をくれるだけで立ち止まりはしなかった。
大丈夫ですかと寄ってきた店員に会釈して、林檎は二人の手を取って立ち上がる。
目線は饅頭から、男子生徒が出て行った自動ドアに向けていた。
「何なのよアイツ! 女の子が倒れたら謝るか手を貸すくらいするもんでしょう!」
「襟の校章を見ましたが、どうやら二年生のようでしたね。年下に威圧したい年頃なのでしょう」
どんな年頃よ? 周り全てに敵意を振り撒きたい年頃です。
そんなやり取りを耳に聞きながら、林檎はぶつかった時に感じた『違和感』を思い出す。
(なんだろう……何かあの人、獣臭かった気が)
数字で感知した匂いが人間のそれとは違っていた。
だが、人間の気配しかしなかったのも事実。
(噂怪に成りうる噂は無いって聞いてるし、大体それなら気配で分かるしな~……一体、何だったんだろう)
違和感が染み込むように心に広がる中、林檎は鞄から財布を取り出した――
少しばかり勾配のキツい坂の先、親水高等学校の校舎は建っていた。
地元の子供の殆どが普通校の親水高等学校に通う為、程々の生徒数を有しており、また校風の緩さから町外から進学してくる者もいる。
それとは逆に、町の北側にある『神通高等学校』の生徒は殆どが町外から進学してきた者ばかりである。
この高校に通えるのは中学でトップの成績を弾いた者や、部活動で全国を経験した者ばかり。
倍率は毎年高く、まさに優秀な生徒のみが通える高校と言っても過言ではなかった。
「んん~」
鉄筋校舎の三階にある教室に入り、林檎は満面の笑みを浮かべていた。
コートは教室の後ろにある専用の棚に置き、今は襟と袖口、スカートが濃緑色をした制服をさらけ出している。
思わず和みそうな雰囲気を醸し出しているのだが、逆に弥生と美結は意気消沈といった表情をしていた。
「……何であんなの食べて笑顔なのよ……あの子は」
「……林檎さんですから」
コンビニで見つけたトロピカル味、正式名称『トロピカル角煮饅』を食べた後、味への反応は三者三様であった。
林檎は舌鼓を打ち、弥生はしかめっ面をし、美結は無言でティッシュに吐き出した。
その場で食べきった林檎はコンビニの店員から勇者だ英雄だと感激され、あろう事かトロピカル角煮饅を全部買い占めたのだ。
脂の浮いた角煮に七色のドロドロソースが絡まり、匂いは鼻にツンと刺さる薬品のよう。
――はっきり言ってマズかった。
いや、最早マズいのレベルを超越していた代物だ。
販売する方もする方だが、食べる林檎も……拾い食いクイーンの異名は伊達じゃないと二人が妙な納得をした時、リノリウム張りの廊下から足音が響いてきた。
反響するヒール独特の音。
今まで話していた生徒達はすぐさま席へと戻ると、一様に緊張の面持ちをしだす。
段々と近づいてくる足音。
教室内の空気はより一層張りつめ、白木の扉が開いた瞬間、最高潮を迎える。
「皆――おはよう」
全てを切り裂くような冷淡な声が、静かに教室を包み込んだ。
「しかし騒ぎ声が廊下まで聞こえていたわね。私がわざと足音を立てるまで……よ。私の言いたい事が、分かるかしら?」
校舎内でヒールという何とも似つかわしくない物を履いた女性は、不敵に笑って生徒達を見回した。
紺色のダブルスーツを着て、タイトなスカートから覗く足には黒いストッキング。
女性では短めの赤みがかった髪と、毒々しいくらい赤い唇が妖艶な雰囲気を滲ませる。
矢尻のように尖った目からは萎縮してしまう程の威圧感を放つ。
手に持っていた、担任の証たる出席簿を教卓に叩き付けると、大きな音と共に生徒達は身を強ばらせ恐怖に顔を歪める。
その光景に笑みで頷き、満足した女性は生徒達に座るよう促した。
そんな風変わりな担任は未だ笑顔の林檎を見ると、形のよい眉毛を歪めて問いかけた。
「風斬、拾い食いでしたのかしら?」
「……ユウキ先生ぇ、拾い食いで上機嫌ってちょっと心外です」
「間違った事は言ってないわ。けれど風斬の笑顔は気持ち悪いだけだし、以後慎みなさい」
林檎達のクラスの担任――東雲 ユウキ(シノノメ)はさり気なく非道な事を言って、林檎はショックを受けながらも笑うのを止めた。
「HRを始めるわよ。連絡事項もいくつかあるから聞き逃さぬように」
皆真剣にユウキの話を聞き、居眠りや談笑をする者は一人もいなかった。
不遜な口調に妖艶な格好。
淫靡な唇から紡がれる声は挑発的で、威圧的で、とても嗜虐的で。
女王様――ユウキが生徒達の間でそう呼ばれるのに、時間はあまり掛からなかった。
「――と、これぐらいね。あとHR後、風斬は付いて来なさい。昨日の鍋に私を呼ばなかった事を泣いて後悔させてあげるから」
「……い、言い訳は許されます?」
「アカデミー賞ものの感動話ならね」
林檎はその言葉を聞いて溜め息を吐き、示しを合わせたように終わりのチャイムが虚しく響くのであった。
ユウキは富裕荘の一階に住む住人であった。
引っ越してきたのは半年程前。親水高等学校に赴任し、林檎の担任になったのも半年程前。
偶然という言葉で片付けるには、少々出来すぎた話である。
「さてと、お前は私が富裕荘に引っ越してきた意味を覚えてるかしら?」
「は、はい~……」
二階と三階の階段の踊場で立ち止まると、ユウキは抑揚なく話しかけてきた。
有無を言わさぬ圧迫感が全身を包み、林檎はしどろもどろになりながらも何とか返事をする。
「えっと、南側と北側での情報の齟齬や連携時のすれ違いを防ぐ為、一妖怪ずつ交換して円滑に事態にあたる。ユウキさんはその役割を担ってきた、北側出身の方……で、いいですかぁ?」
「そのまま覚えたような言い方だけど、まぁ大体合ってるわね。これは南北に限った事でなく、東西でもしている事よ。私の代わりに出て行った猿犬も了承してこの任を受けたはず」
「確かに猿犬さんは文句言わなかったなぁ。静かに使命感に燃えてたような……」
「そう、そして私達は“伝令役”となり南北の為に尽力する。その為には地元妖怪と仲良くしないといけないと言うのに――」
声質が変わったと気付いた時にはもう遅く、林檎は顔面を鷲掴みにされていた。
物凄い握力で締め上げられる林檎の顔面。
ミシミシと不快な音が耳に届き、見ればユウキの顔が先ほどと変わってきている。
目を大きく見開き、黒い瞳は真っ赤に染まっていく。
額は一点のみが内側から盛り上がり、虚空を突き刺すように体積を大きくする。
それはまるで、『角』のようであった。
「わわぁっ!? ちょっ、ユウキさん落ち着いて! 昨日呼ばなかったのは単に忘れてて――ごめんなさい掴む力を強くしないで! あと角が発現しかけてますから落ち着いてぇ~!!」
「私だって……カニが大好物なの。私だって……皆と和気あいあいとしたいわ。私だって……」
「肌まで赤くなってきちゃったよぉ! ていうか一時間目ユウキさんの授業なんだから早く戻らないと!!」
林檎の言ったその一言に、今まで無反応だったユウキの身体がピクリと反応する。
(教師の自尊心に訴えかけるのが良いっぽい!)
ならば、夕陽に向かって走り出したくなる台詞などで問いかけてみよう。
「ふ……ふふふふふ」
――と、思ったのだが。
「心配しなくても……私の授業なら多少遅れたって融通はきくわ。それより今はカニ鍋についてよぉ!!?」
うわっ最低教師だと思わずツッコむと、顔面の締まりが一際強くなってしまう。
相手が本気を出していないので林檎も耐えられているが、しかし問題はそこではない。
明らかに先ほどと様子の変貌したユウキを、もし誰かに見られたら一大事なのだ。
――仕方がない。
「後で五体倒置してでも謝りますからぁ……ごめんなさい!!」
「今でも後でも謝っても遅――」
文句を言おうとしたユウキであったが、その声は途中で途切れる事になる。
林檎の顔面を掴んでいた手は緩み、身体は後ろへと倒れていく。
慌てて林檎がその身体を支えると、ユウキはどうやら意識を失っているようだった。
(ちょっと強すぎたかなぁ~……)
林檎の右手は固く握られており、ユウキの顎は赤くなっている。
本心から悪いと思いながらも打ち抜く際は容赦なく――顎を的確に捉えた林檎の拳は、ユウキの意識を昏倒させたのであった。
「後で殺されなきゃいいけど~……」
そうならない事を祈りながら、気絶した為か元の姿に戻ったユウキを軽々と担ぎ、林檎は一階の保健室へと連れていく。
驚いていた保健室の先生に当たり障りのない嘘を言って、ユウキを任せる事にした。
教室へ戻ろうと廊下を歩き出し――直後に林檎は目を見張る。
「譚檎?」
譚檎は純白の尾を揺らめかしながら、見下ろすように階段に佇んでいた――
親水高等学校の校舎は少しばかり風変わりな造りをしている。
高地面積はそれほど広くはなく、グラウンドもさして広大とは言い難い。
風変わりと言われる主な部分は、校舎とその位置にあった。
五棟ある校舎は一棟に一学年とし、残り二棟は特殊棟、旧校舎と分けられる。
分ける程に生徒数が多いわけではないのだが、新校舎を増設する際に方針が転換されたのだ。
一階には保健室や各学年用の資料室などがあり、上二階は各教室となっている。
その造りは三学年とも同じで、保健室が三つあるという不可思議な事態に陥ったりしている。
特殊棟には、全学年が使える図書室や理科実験室があり、文化系の部室も併設してある。
また屋内プールも存在し、特殊棟の一階はプール、上階はその他諸々と区分されていた。
旧校舎は立ち入り禁止状態となっているが、なぜか取り壊しをされずにいた。
鉄筋とは違い木造の旧校舎は異色に見え、他の棟とのアンバランスな風景を作り出す。
棟同士の間隔があまり無く、解体する場合思わぬ事態が起こるのではと懸念する声もあるが、しかして本当の理由を知る者はいない。
生徒も、教師でさえ旧校舎が建ち続ける意味は分からなかった。
棟同士は二階を渡り廊下で繋げられ、教師や生徒の移動に使われている。
職員室は各学年棟にあるが、教師は何も一学年の担当という訳ではない。
最も授業時間の多い学年棟の職員室に割り当てられてはいるが、別学年への移動も当然出てくる。
この造りで一番の被害者は、どう見ても教師達なのであった。
棟の配置は円を描くようにされ、中央にはグラウンドがある。
五棟を線で繋いでみれば、それは星形のように。
五つの点で紡がれた、巨大な星形のように見えるのであった――
不良と言われる者はいないが、優等生と呼ばれる者も少ないこの学校にとって、授業をサボる生徒は少なからず存在する。
そういった生徒に猫と語らうという、珍妙な光景を見られたくないので、林檎は一階の廊下奥にある『談話室』の中へと入っていった。
「あら林檎ちゃん、久しぶりね~」
「こんにちはぁ、エン婆」
「エン婆、ちょっと間借りさせてもらうわよ」
林檎と譚檎がそれぞれ挨拶した相手――エン婆ことエンバーミング・G・アメリシスは温和そうな老婆であった。
白髪とは違う銀髪を後ろに結い上げ、富裕荘の部屋程の広さの室内で、革張りの椅子に座って柔和に微笑んでいる。
テーブルには湯のみと茶菓子だろう煎餅が置いてあり、「どてら」を羽織っている辺りがなんとも日本らしい。
電気ストーブから出る温かい空気を浴びながら、林檎はまた老婆の愛称を口にした。
「エン婆ごめんねぇ~。何か譚檎がどうしても話があるらしいから、ちょっとだけ居させて?」
「別に構わないわよ、私、久しぶりに二人に会えてすごく嬉しい。そうだ! 校長先生からいただいた羊羹があるんだけど食べない?」
二つの碧眼を林檎に向け、既に煎餅を頬張っていた林檎はその言葉に激しく首を頷かせた。
その顔に線引きするように、譚檎は爪を横に薙いだ。
「ぎゃんっ!?」
ゴロンゴロンと痛みに転げ回る林檎を無視し、譚檎はエン婆の座る反対側の椅子に飛び乗った。
用意された羊羹に噛みつき、程よい甘みに満足しながら静かに言葉を発する。
「出たわ」
――言葉は簡単で、簡潔な一言のみ。
しかしそれだけで、林檎とエン婆は表情を引き締め意味を理解する。
お茶を淹れていた手を止め、エン婆は急須を置いて指を振る。
瞬間、室内は金色の光に包み込まれ、一瞬の輝きが消えた後エン婆の手には球体が握られていた。
黄色の粒子は生き物のように蠢き、時おり黄銅色に変わりながら球体の中を流動している。
エン婆を目を細めながら球体を覗き込み、林檎も顔面を抑えながら近づく。
万華鏡を思わせる球体を暫し見つめ、エン婆は驚いた顔をした。
林檎が何事かと聞けば、若干動揺した声で返事をした。
先ほどとは違う、鈴を転がしたような『少女』の声色で。
「……噂怪が、確かに現れているわ。そんな、塩金体で毎日監視していたのに、どうして……」
「今回の噂怪は生まれながらに悪知恵が働くみたいね。朱毬は噂怪に成るような噂は無いって言ってたけど……噂怪が生まれたのは早朝、そしてすぐに“宿主と契約”した。気配を誤魔化してるのか、妖力は普通じゃ見つけられないわ。獣臭かったって聞いてるから、何か取り込んだのかもね」
「そんな事って……あるの?」
林檎の問いに、何を当たり前の事をと譚檎は息を吐く。
「あんたが私に付いて一年くらい、それまでに噂怪が現れたのは確か……十回だったわよね。殆ど小さな噂から成ったのばかりだったけど、大きな噂の場合は少し知恵を持ってる場合があるの。今回のは、悪知恵が働きすぎだと思うけどね……」
譚檎の隣に腰掛け、林檎は顔の引っかき傷を拭う。
――たったそれだけで、傷は跡形もなく消えてしまった。
「? よく分からないんだけどぉ、囁く人の少ない噂と大きく広がった噂って、何で同時に噂怪に成らないの? それを考えると……噂ってどうやって噂怪になるんだっけ?」
「……あんた、それは前に教えたと私は思うんだけど」
とりあえず切り裂こうと爪を伸ばすが、林檎は瞬時に飛び退って、仕方なく譚檎は舌打ちをして睨みを強くした。
「噂は元々人間が作り出すもの。良い悪いに関係なく、噂は浸透する度にその力を強くしていく。七十五人が噂を語れば噂怪に成る事は可能って、前に“若作り”に教えてもらったでしょ?」
「若作り――あぁ、玉藻さんの事ね。確かにそんな事を教えてもらった気がぁ~……する?」
「疑問符を付けるんじゃないわよ――ったく、そして一番重要なのは、人一倍強い“想い”よ。想いは種火となって噂という枯枝に火を灯し……そうして生まれた噂怪は想いの主を宿主として、燃え尽きる前に七十五人を喰らおうとするのよ」
今更ながらの解説に感嘆の声をあげる林檎。
譚檎は、覚えときなさいと暗澹の溜め息を吐きながらエン婆に近寄っていった。
「錬金術はあんたの専門外だし、金塩体は不完全な物質なんでしょ? あんたには噂怪の事で世話になってるし、あんまり気にしなくていいわよ。この私に任せとけばすぐ片付くわ」
少し落ち込んでいる様子のエン婆に譚檎は優しい言葉をかける。
「しかしGOLDの名を受け継いだ妖怪として、畑違いの金の扱いでも完璧でないと……いえ、これで駄目だったんなら魔術でも無理だったかも」
「たった数十年しか生きてないあんたに完璧を求めるやつはいないって。箒に跨ったり大釜で変なの作るやつなんかより、あんたは充分ちゃんとしてるわ」
諭すように喋る譚檎は、何だか優しく微笑んでいるように見えた。
実際猫の顔が笑っていれば恐ろしい事この上ないので、声の印象でそう感じるだけなのだが。
「お、おぅ……譚檎がいつになく優しいなんて、今日は槍の雨でも降っちゃうのかな」
――この様子に戦々恐々しているのが約一名。
ガクブルしながら一人と一匹のやり取りを見つめ、世界の終わりに直面したような恐怖を目に滲ませる。
「……血の雨ならすぐに降らせられるわよ」
譚檎が軽やかにジャンプした数秒後、談話室には林檎の絶叫が木霊した。
「キズモノにされるぅ~!!」
「誤解を招く言い方すんじゃない! いいじゃない、どうせ傷付けたって一瞬で“直せる”んだし――あ、それと」
往復ビンタのように林檎を引っかきながら、譚檎はエン婆の方を向いた。
その声は、これまでにないくらい爽やかだった。
「現れたのは分かったけど噂怪の居場所が分かんないのよ。だから魔術か何か使って探してくれない? もちろん範囲は町全体で、期限は見つかるまでね――私にあそこまで言わせられるんだから大丈夫よね」
笑っているのに、寒気が走る。
町全体への索敵術など、はっきり言って命知らずな行為だ。
有無を言わさぬ強制力にエン婆の頬に冷や汗が一筋、涙の代わりのように垂れた。
――そうだ、すっかり失念していた。
妖怪は自分本意な生き物で、譚檎はそれを地でいくお手本のような者。
エン婆が深い溜め息を付き、褒めて落としたと林檎が感心した直後、また爪の一撫でが頬に食い込んだ――
弱々しく照り返す陽光にすっかり雪が溶けた頃、華雪は商店街と呼ぶには些か活気のない道を歩いていた。
水色のピーコートを羽織り、片手に持っているのは買った物の覗いた手提げ袋。
同色の髪を揺らしながら店を覗き、立ち止まり、そして歩き出してを繰り返しながら、機嫌の良さそうな顔をしている。
朝というには些か過ぎた時間、華雪ほどの少女が商店街を歩くというのは奇妙であったが、しかしてそれは仕方のない事だ。
華雪は学校には通っていないのだから。
本人がそれを嘆いた事はない。
人とは異なる存在の自分が、社会の基礎や団体行動のやり方などを学んでも意味無いと分かっていたから。
譚檎が林檎を学校に通わせると言った時は訝しんだが、だからといって羨ましく思ったりはしなかった。
人間社会への線引きと自我の形成など、生まれた時から会得している。
妖怪としての誇りと驕りがあれば、結構やっていけるものなのだ。
「…………」
――本人は心からそう思い、それを変える気は毛頭無いのだが。
「君、学校は? 親御さんと一緒じゃないの? とにかく事情を聞きたいから、お巡りさんに付いて来てくれるかな?」
こういった事態に陥った時は、やはり人間の尺度に合わせたほうが楽かなと嘆息してしまう。
(朱毬さんはお酒飲んで寝てますし……お昼ご飯の買い物だけでは済まなそうですの)
いつもなら朱毬の『力』で攪乱し、隙を付いて逃げるのが常套手段になっているのだが、今回はあいにく自分一人である。
走って逃げてもすぐ追いつかれるだろうし、かといって自分の『力』では相手を殺しかねない。
どうしようかと頭を悩ませている間にも、紺色の制服に身を包んだその男は手を掴んでくる。
男の、人の良さそうな顔が更に力の行使に歯止めをかける。
(最悪、譚檎さんに化けてもらって母親役をしてもらうですの。それまでは無言一徹ですの)
富裕荘に帰るまでに、買った鰤が痛まないかと考えていると――事態は予兆なく急変した。
「……っ!?」
突如崩れ落ちる警官。片手を股間に添え、苦悶の表情を浮かべた顔は、軽く華雪が引くくらいに歪んでいる。
その直後、
「こっち!」
それでも離さない職務熱心な手を払って、警官の後ろから伸びてきたのは小さな手だった。
掴んで駆け出す相手を見て、華雪は驚きで息を漏らす。
「路地に逃げ込むよ!!」
引っ張られるまま道を走り、周りの人間からの視線をかいくぐり、程なくして寂れた公園へ辿り着く。
肩で息をしながら華雪は改めて相手を見、そうして嬉しそうな声をあげた。
「――蒼那ちゃん」
「久しぶり、華雪――おぅわ!?」
素っ頓狂な叫びをあげ、華雪に抱きつかれているのは、紺碧色の髪をした少女であった。
腰まで伸ばした髪は癖っ毛なのか所々が跳ね、頭の頂点には触覚を思わせる一本の髪が踊っている。
袖のあるワンピースを着て、冗談のように長いマフラーを幾重にも巻いていた。
足にはハイソックスを穿いているのだが、この季節にしてはあまりに場違いな格好と言えるだろう。
……しかして華雪も、ピーコートの下は昨日と同じような格好なのであるが。
青を基調とした服装の蒼那なのだが、異なる色が一つだけある。
右目の色のみ、左目や全身の青とは違う『黄色』をしていたのだ。
俗にオッドアイと呼ばれる瞳の蒼那は抱きついてきた華雪に狼狽し、両手を所在なさげに漂わせる。
華雪はというと、助けてもらった事と久しぶりの再会に嬉しいのか、まったく蒼那から離れようとはしない。
――そして遂に、蒼那の堤防は決壊した。
「華雪の匂いぶはぁっ!?」
空中に描かれた真っ赤な放物線。
蒼那の鼻から放たれたそれは、薄雲の広がる空に舞って、舞って、地面に落ちた。
「あ、蒼那ちゃん!?」
抱きついていたので一緒に倒れた華雪が蒼那を見れば、その顔は赤に彩られていた。
鼻血と、染まった頬と、恍惚としたニヤけ顔。
鼻血を噴き出す特技を持った友達に困惑しながら、その原因が自分にあるとは露ほども考えてない華雪であった――