私達の幸せに、偽物なんて要らないのよ?
今回は6500文字以上。
ルビの方の漢字を読んでください。
――良かった。
柔らかな朝の日差しが差し込む、愛らしいピンクと暖かなクリーム色に包まれた部屋で、一人の少女が白の天幕が付いたベッドに腰掛けていた。ベッドの脇に何時も置いてある手鏡を見ながら、自分の髪を弄っている。
彼女の名前は桐栄陽子。
桐栄陽子は笑みが止まらなかった。至極幸せで、安心していて、全てが愛おしかったのだから。
――良かった。良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった!!!!
鏡を見る彼女、桐栄陽子の瞳が明るく光る。喜びを抑えきれないのか、そのぷっくらとした唇から漏れた言葉は、狂喜の色を纏っているようだった。彼女は、それほどまでに嬉しかったのだ。
彼女は手に入れたのだ、かつて決して手に入らなかったであろう無償の愛を。『前世』では与えられなかった、受けることが出来なかった愛を。
けれど、『今世』では無償の愛以上に、愛し愛される喜びを知った。それは深い幸せであり、桐栄陽子達にとっての生き甲斐でもあった。
――本当に良かった。行かなくて。あぁ、行っていたら私達の幸せが台無しになっていたわ。
――あんな子が居たなんて、信じられない! 本当に私達の愛は無敵ね! 愛してるわ! 陽子!!
* * *
彼女はこの世界に来る前、酷く悲しい人生を送っていた。彼女が生まれて来た時、彼女の父は既に故人だった。物心付いた時には、彼女の母も不慮の事故で亡くなってしまった。幼き彼女を迎え入れたのは父の弟に当たる人間――つまりは叔父――であり、叔父には彼女と同い年くらいの娘が一人居た。
叔父は彼女の父を毛嫌いしていた。故に、幼き彼女をも、その血が流れているのだと毛嫌いし。
そして、叔父夫妻は、なにも知らない無垢だった彼女を厳しく痛めつけるように育て、彼自身の子供には甘くベタベタに愛すように育てた。まるで、彼女を誰も愛してなどいない、と言わんばかりの差だったと、後の彼女はそう考える。
幼くとも、叔父の行動を理解していた彼女は、次第に、自分が愛されることは無い存在なのではないか、と思うようになっていった。愛が酷く欲しかった彼女が、どんなに頑張っても、どんなに励んでも、叔父も叔母も彼女に愛を向けることは無かった。
唯一、彼女を同情心か、好奇心かで気に掛けてくれた従妹は、叔父と叔母から溢れんばかりの無償の愛を受けて育った娘だった。彼女が羨み妬み、求めて止まない愛を無条件で受けている存在だった。そのために、純粋に無垢だった彼女は、次第に歪んだ性格になっていった。
……だが、従妹と仲良くしていれば、叔父も叔母も、彼女にも幾らかの視線を向けてくれていた。心の中はついでは嫌だ! と叫んでいたが、それでも彼女は、従妹のおこぼれの様な愛を向けられているのが、嫌悪以上に嬉しかったのだ。
愛されるためには、どんな手段も択ばない……と。そうして、彼女は人を使う事で得られる愛がある事を知り、それに自ら溺れるようになった。彼女は愛が欲しかった。故に、どうとでも良かったのだ。
そして、高校に上がったある日、歪ながらも自分の求める愛をその身に得ていた彼女は、従妹がハマっているという『乙女ゲーム』なる物を知るようになる。従妹が詳しく話してくれたゲームは、愛を囁いてくれる、真の意味で彼女が求めているものだった。結果的に、彼女はそのゲームにハマった。溺れる様にハマって行った。
当時、アルバイトをしていた彼女だったが、稼いだお金はすべて、『愛を囁いてくれる物』へと注ぎ込んだり、そのゲームのグッズにも手を出し、部屋をそれらで一杯にしていった。
彼女が最も愛したのは、『君の全てに愛を捧げる~学園で開く蕾~』、通称『全愛』。何故ならば、主人公であるヒロインの不遇な人生が、彼女の送っている人生と似通っていたからだった。
両親を幼い頃に亡くし、叔父叔母に引き取られるが愛の欠片も与えられた事の無い、可哀想な主人公。そんな主人公がゲームの舞台となる聖心学園に通う事で、生き甲斐を見つけ、次第に愛を知り、幸せへと導かれていく……という物だった。
何より、そんな主人公の名前は桐栄陽子であり、彼女の『前世』に当たる名前も陽子だったのだ。
だからこそ、自分と桐栄陽子を投合させ、ゲームに夢中になっていった。桐栄陽子が微かにでも喜べば彼女も喜び、桐栄陽子が悲しめば彼女も悲しんだ。彼女にとって桐栄陽子は、片割れのような存在だった。
彼女は、全てのルートをコンプリートした後も、たとえ新しい乙女ゲームが出たとしても、『全愛』から目を逸らさなかった。
そんな彼女にとっての生き甲斐のような日々に、劇的な結末が下される。
いつものように、学校帰りにアルバイト先に向かった彼女。肩に掛けている鞄には『全愛』の入った携帯用ゲーム機を携えて、今月のアルバイト代がどれくらいになったか、と、今月はどれだけの『全愛』グッズが買えるだろうか? 桐栄陽子の抱き枕でも出ればいいのにね。等と、彼女が幸せに悩んでいた時。
彼女から――その肩から鞄が消えた。鞄の重みがスッと失われたのだ。彼女の唇から音の無い風が零れ、誰かが勢いよく風を起こした。言うなれば、ひったくりに遇った。
彼女がそれに気付いたのは、ひったくり犯が走り出した直後。彼女は慌ててひったくり犯を追い、周りに叫んだ。誰か、あの人を止めて下さい、ひったくりです! と。そんな叫びを聞いた周囲の人間も慌てて、そのひったくり犯をどうにかしようとするが、足止めにほんの少しなるだけで、捕まえる事はできなかった。人込みを、いとも簡単に掻い潜るひったくり犯。きっと常習犯だったのだろう。慣れているようだった。
けれど、そのほんの少しの足止めが、運良く功を成したのか、彼女の手は彼女の鞄に届くことが出来た。鞄を掴んだ。今度は奪われないように、しっかり握りしめる彼女に、ひったくり犯が何を思ったのか……パッと呆気なく鞄から手を離したのだ。
そして、慌てて彼女から逃げ離れるひったくり犯に、何が何だか理解できなかった彼女がその場から動こうとしたとき、次に来たのは体に走った強い衝撃と痛み。
まるで、体がゴム人形にでもなったかのように、簡単に吹っ飛ばされた彼女。何が起こったのか……? 周囲の異様な叫びを、彼女は不思議に思っていた。
そんな中、彼女は、焦点が上手く合わないぼーっとしている眼で、手にある大切な鞄を確認する。良かった、触った感じだと『全愛』は大丈夫そうだ。……そう、安心して、彼女は目を瞑った。
これが、彼女の『前世』での終わり。
何ともあっけない結末だったが、自分の愛を守った結末でもあったのだろう。何せ、生まれ落ちた世界は、彼女にとって、愛し愛される世界でもあったのだから……。
そんな記憶が、彼女にとっての『前世』記憶だと、『今世』の彼女が思い出したのは、ゲームでの舞台となる聖心学園の側を通った時。その時は未だ、彼女は幼稚園児だった。『今世』の両親に、彼らの母校である清廉学園の姉妹校だと教えられ、近場だからと聖心学園の門へと連れてこられたのがキッカケだった。
彼女は、この世界がゲームの世界だという記憶を思い出した時、嬉しかった。嬉しくて嬉しくて嬉しくて、悲しかった。彼女が求めたのは、愛する喜びと与えられる愛。そして、自分ではない桐栄陽子だったからだ。
彼女が意思投合していたのは、彼女の片割れのような存在である『全愛の主人公』であり、桐栄陽子ではなかった。
彼女はゲームのヒロイン・桐栄陽子を愛している。生まれ変わる前も、生まれ変わった今も。自分と同じ痛みを知っている桐栄陽子を、彼女は片割れであり、家族だと思っているのだ。
彼女は桐栄陽子というキャラクターを愛する事で、彼女自身が誰かを愛する喜びを知った。それは愛を求めるばかりの独りよがりなものではなく、対等な関係になれるということも、彼女は知ったのだ。
だからこそ、愛する存在と愛されたい存在が、本当に統合してしまうというのは、彼女にとってどうしたら良いのか? と悩む羽目になった。鏡を映せば、桐栄陽子は目の前に居る。けれど、それは彼女であり、彼女の求める桐栄陽子ではない……と自分の中で、一問一答を繰り返した。
結果、彼女が悩みに悩んで、自分と桐栄陽子を共に同一の存在として受け入れ、桐栄陽子の幸せが自分の幸せだと受け入れ、彼女にとっても初めて出来た両親に愛を求めようとしたところ、運悪くゲームの進行通りに両親は死去してしまった。
そして、ゲーム通りに、叔父叔母に引き取られ、愛を育まれることは無く……何てことはなく、彼女は彼女なりに、真の桐栄陽子が幸せにより近くなれる様に努力したのだ。
『前世』で叔父によって行われた厳しい教育を糧に、『今世』の生活をより良いものへと、自分で積み上げてきた。
努力はいつか報われる。その言葉を胸に、彼女は桐栄陽子として生きた。自分と桐栄陽子が愛されるために。
結果、叔父とも叔母とも仲が良くなり、いつしか本物の家族のような関係となっていった。『前世』では無かった事、『ゲーム内』では無かった事が実現し、彼女は此処を『今世』を真の意味で『現実』だと悟った。
――夢みたいな、夢じゃない現実の世界。私が求めて止まない、愛に満ち溢れた世界。皆が私達を愛してくれる、私達が皆を愛する、幸せな世界。誰も愛されない筈がない、愛で満ち溢れて止まない、まるでお伽噺のような世界。幸せ、しあわせ。今の私と陽子なら、何だって出来るわ!
彼女は桐栄陽子が大好きだった。家族として、自分自身として。求めるばかりの自分が、初めて与えたいと思った愛の存在だった。だからこそ、彼女は桐栄陽子の幸せに執着する。桐栄陽子としての幸せは、彼女にとっての幸せであり、何よりの至福故に。
――でも、不思議。どうして、私の、私達の思い通りに事が進むのかしら? 少し会話をしたら微笑んでくれたり、私達を好きになってくれたり、わがままを通してくれるのは嬉しいけれど。……可笑しい話よね? やっぱり、基盤がゲームだから、良いのかしら?
彼女自身は常識的な人間だった。愛に執着し、桐栄陽子に執着しているだけで、他は何ら別の子と変わりない女の子だった。
けれど、自分達、桐栄陽子のために努力を欠かさず、怠惰も一切持たなかった彼女達に、人々は惹かれるのは当然の事だった。
しかし彼女は、そういう事に全く以て気付いていなかった。むしろ、自分達、桐栄陽子自身に何かあるのだろうか? と、不思議がった。ゲーム上での設定には無かったはずなのだから、もしかしたら、あの事故で偶然、彼女自身が得た物なのだろうか? なんて事も考えた。
けれど、その程度の疑問だった。
――何でもいいわ。私達の幸せの邪魔にならないなら。何だって、有効活用しましょう! あぁ、でも。やっぱりゲーム通りに、この叔父様宅から近場だから、と叔母様が勧めてくれた、聖心学園に通うべきだったかしら? 嫌な予感がして、わがままを言って、両親の母校でもある清廉学園の方に入学させて貰ったけれど……。まぁ、文博ちゃんに聞けば、何か分かるわよね? あの人、面白い事、大好きですもの。
彼女は桐栄陽子の幸せに敏感だ。桐栄陽子が幸せになれなさそうな方向には、わがままを突き通してでも、決して行くことは無かった。
それを、一般的には第六感というのだが、彼女は自分の桐栄陽子への愛が、自分達を護ったのだと思っている。
それはどうでも良い話だが、まさしく、真の桐栄陽子にとっては正解だったのだろう。ゲーム通りの舞台、聖心学園に行かなかった事は……。
何よりも、そう、冒頭の彼女の笑みの意味に繋がったのだから。
* * *
一頻り笑った後、彼女は自室にて、心友にして悪友である男性から受け取った写真を一瞥した。何気ない動作で、写真に写った存在を見て、彼女は憎悪を露わにした。まるで言葉が出ないと言わんばかりに。この家に、今ではすっかり家族の様な叔父と叔母が居なければ、絶叫を上げていたところだった。
――さて、そろそろ準備しなくちゃ。今日はせっかくのお休み、創立記念日なんだから。叔父様達だって、せっかく、時間を合わせてくれたんだもの。嫌な事を忘れて、楽しまなくっちゃね!
今日は、清廉学園は創立記念日であり、彼女はこの日に合わせて休みを取ってくれた、叔父叔母と共に朝から出かける約束をしていた。
ベットから立ち上がり、クローゼットへ向かう。どんな服を着ようか考えながら、彼女は全身が映る大きな鏡を見る。彼女は鏡が大好きだ。『前世』ではそうでもなかったが、『今世』では鏡を見れば彼女の陽子の姿がそこにあるのだから。陽子の姿が見える、鏡が大好きだった。
だからこそ、貰った例の写真に、本当に嫌悪していた。
――文博ちゃんから聞いたけど、本当に驚いたわ。まさか、こんな女が桐栄陽子と名乗っているだなんて。陽子と全然似ていないくせに。なあに、この黒髪。陽子の髪は、北欧系ハーフだったお父さん似の優しいクリーム色をしているのよ? それに何よ、あの目……陽子と同じ茶色みたいだけど。でも、陽子の瞳はあんなに吊り上ってないわ、陽子が微笑んだら垂れ目になるんだもの! それに、何かしら? この目……じっと見ていると吐き気がする。頭がぐるぐる掻き回されてしまいそうで、きもちわるい、だなんて。
鏡に映る、桐栄陽子をうっとりとして眺める。そして、もう一度、写真を睨みつける彼女。こんな女が桐栄陽子を名乗っていただなんて! と言わんばかりの眼光で睨みつけていた。そして、再び鏡に向かって小さく、ごめんね、と話しかける。彼女の愛する陽子は、彼女達自身なのだ。彼女とて、愛しく思っている存在に、憎悪剥き出しの睨む顔なんて、醜い顔はさせたくはないだろう。不思議な光景だが、こうして鏡に話しかける事が彼女にとっての幸せな時間でもあった。
だからこそ、桐栄陽子と名を偽った、この偽物女が許せなかった。
――高身長なスレンダーさん? 可笑しいわね、陽子は小動物みたいで小っちゃくってかわいい、って先輩のお姉様方に言われているのよ? 身長は羨ましいけれど、陽子の事を知った上で彼ら――攻略対象達と愛を育むなら、もっとちゃんと陽子に成り切ってから出直してきなさいよね! まったく……本当に陽子が、聖心学園に行かなくて良かったわ。あんな場所に行っていたら、私の陽子がこの女に何されていたか……!! きっと私と同じ転生者なのよ、この女。とんでもなく、男好きそうな、汚らわしい……こんな女が陽子の名前を騙って良いはずがないわ!
ぎゅっと自分で自分を抱きしめる彼女。気持ちとしては、宛ら、陽子を強く抱きしめている感覚なのだろう。悍ましい考えを浮かばせた彼女は、自分をも落ち着かせるために、その場で数分間自分を抱きしめていた。
ある程度、気持ちが落ち着くと、彼女は携帯を手に取り、ある人――心友にして悪友である男性――に電話をし始める。
この女にどうにかして、報いを受けさせたいと思っていたからだ。しかし、彼女の願いが届いたかのように、舞台の表側――聖心学園では、ある種の結末を迎えているところだった……。
「もしもし、文博ちゃん? 私よ、私達よ。今、良いかしら? え? 面白い事になっているから、また後で? それって……あぁ、そうなの。なら、後で詳しく聞かせてね! ふふ、流石は文博ちゃんね、頼りになるわ。
えぇ、私も今日は一日出かけちゃうから……それじゃあ、今日の夕方会える? 叔父様達に内緒で、そう、運命的ね! って感じで、偶然を装って逢っちゃいましょう? ふふ、大丈夫よ……、うん、それじゃあ、また後でね」
電話の相手と話を終えた彼女は、携帯を胸に抱きしめ、ホッと安堵のため息を吐き、鏡を見やる。そこには、美しい笑みを浮かべた桐栄陽子が映り、彼女は再び鏡の中の桐栄陽子へと話しかける。
「陽子。文博ちゃんが素敵な話をしてくれるみたい。今日も明日も、特別オシャレして行きましょう?
えぇ、その通りよ。私達の幸せに、偽物女は要らないの! ふふふ!」
保健室の先生が、文博ちゃんです。
本名は、『宮本文博』。