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彼とわたし

 人里から離れた大きな森の奥深くに、その城はあった。迷い人のみが行きつくというその城は半ば伝説と化しており、しかし人々から忘れ去られようとする頃にまた存在感を表すのだった。

 これはその城の主と、そこにいる少女のお話‥‥‥。





 少女は大きな窓から見える手入れの行き届いた庭を見下ろし、ため息をひとつ零した。時刻は夕暮れ、あと半刻もすれば暗闇は訪れるだろう。そうすればあの人もこの部屋へとやってくる。想像しただけでも身震いがした。

 少女は振り返り、上等な家具が置かれている自身の部屋をながめた。自身の部屋などというが何てことはない、この城へ連れてこられたときにあてがわれた部屋だった。だから、愛着も何もない。少女がここへ来てから4日が過ぎようとしている。陽が落ちてから現れる城主の話だと、すでに1週間になるらしいが。

 少女の記憶は途切れていた。炎に包まれた村にやってきた彼。次に少女の目に入ったのは、自分が今いるこの部屋だった。

 どうやら自分はここに連れてこられたらしいのだ。生まれ育った村は山火事が飛び火したせいで炎に呑まれ、もう無いのだという。城主に初めて会ったその日にそういう話を聞いて、少女は彼に詰め寄った。そんなのは嘘だ、わたしを早く村に返して、と。だが彼は目を伏せ、静かに首を横に振っただけだった。そしてその後‥‥‥。

 思い出して、少女は身体を震わせた。

 その後、少女は大きなベッドに乱暴に押し倒され、彼に血を吸われた。首筋に残ったその痕は消えかかってはいるが、記憶には鮮明に刻まれている。そう、城主はヴァンパイアだった。

 ここから逃げたい。何度そう思ったことだろうか。城の上位にあると思われるこの部屋の窓から飛び降りるには危険だし、唯一のドアには外部から鍵がかけられていて自由に出入りはできなくなっている。今もドアノブに手をかけても、びくともしない。このドアが開くときは城主が来る時と、少女付きの使用人だという人間が入る時だけだった。使用人の人間とはどういうことかとその人に訊いたら、この城には城主である彼と、ヴァンパイアと人間との子であるダムピール、それから森に迷ってここに行きついた人間が暮らしているのだという。何故逃げないのか、そう問うたら「ここから出ないこと。それが城にいる条件なのです」と言う。確かに大きな森をまた迷い命を落とすよりも、ここにいて長らえるほうが懸命かもしれない。

 だが少女はここから逃げたかった。


 突然、手をかけたドアノブから振動が伝わり、続いて鍵が外される音が響いた。少女はあわててドアから距離を取って身構える。この時間に部屋へとやってくるのはあの人しかいない。

「ヴァンパイア‥‥‥」

 姿を見せた城主に向かって忌々しげに吐き出されたその言葉に、彼は端正な眉をよせた。

「名前で呼べと言ったはずだが」

 物音のしないこの空間では低い声がやたらに響いて、少女はまだビクリと震えた。彼は少女をちらりと見やり、部屋を横切って窓の近くに置いてあるソファに座った。

 ヴァンパイアの象徴とも呼べるであろうマントをしていない彼は、ごく普通の好青年に見えた。いや、ごく普通というのはおかしいか。長身で美形とくれば普通ではないだろう。薄いガラスの眼鏡をかけた彼は無愛想で、常に機嫌が悪いようだった。


 だったら、わたしなんか連れてこなければ良かったのに。


 だが彼は、少女を返すつもりは無いのだと言う。

 ソファに座っている彼は少女に視線を向けた。

「アンネリース、こっちへ来い」

 低い声が少女の身体にずしんと重く響いた。昨日、一昨日と同じことを言われた。だが少女には初日の、あの記憶が残っている。しかし無理矢理血液を吸われた初日とは違い、その後は少女のことを呼んでも無理にはしなかった。今日と同じように「こっちへ来い」と言い、恐怖心から近付かない少女に困ったような表情を見せ、そっと彼女を抱きしめてから部屋を出たのだった。

 今日も近付くものかと思ったのだが、何故だろう、足が彼のもとへと少しずつ動いていた。いつもと同じように見えたその表情が、鋭さを持っているその瞳が、悲しそうに揺れたからか。

 おずおずと差し出された白い手を彼は右手でそっと握り、ゆっくりと引きよせた。続いて彼の左手が細い腰に回り、膝の上にゆっくりと乗せられた。慌てて下りようとしたが、力強い彼の両腕に包まれる。

「アンネリース‥‥‥」

 何事なのか。零れ出た自分の名は切なさを帯びていて、少女の胸を貫いた。この人は一体どうしたのだろう。考えるよりも早く、彼の唇が少女の首筋をすべり、彼女は全身を震わせた。


 怖い。


 それだけが思考を支配し、彼の腕から逃げ出すことなど不可能だった。

「大丈夫だ」

 こぼされた吐息は首筋を撫で、少女の恐怖心をさらに煽る。

 彼の歯が刺さった。

「いっ‥‥‥!」

 だが痛みは一瞬で、その後は首筋をなぞる舌の感触が続いた。

 あの日と違う。あの日は無理矢理で、血も相当吸われたように感じた。なのに今日は出てきた血液を舐めるだけ。どうしたのだろう。

 再び痛みが少女を襲った。

「キーツ……キー、ツ‥‥‥‥」

 自分もどうかしている。恐怖に陥れるこの人の名を呼ぶなんて。

 震える白い手はいつの間にか彼の服を握っていた。


 満足したのか彼は唇を離し、少女をそっと抱きしめた。背を撫でるその手が暖かいことを、髪を梳くその手が優しいことを、少女は知っていた。

 昨日も一昨日も抱きしめられたじゃないか。

 抵抗こそすれ、それは怖かったから。得体の知れない生き物など、恐怖の対象でしかない。そんな少女を、彼は何も言わずにそっと抱きしめた。

 瞼が重くなってきた。次に目覚めた時にはもう陽は昇っていて、彼はこの部屋にいないのだろう。訊きたいことがたくさんあるのに‥‥‥。

 彼の大きな手は、それを許してくれそうにはなかった。



「おやすみ、アンネリース。良い夢を‥‥‥」

 その言葉は、少女には届かなかった。

続きます……!

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