act.7 ミュウ
最低最悪だ。なんなんだあの男は!百年の恋も冷める思いでアルカナは憤った。背中には傷ついてぐったりとした女官を負ぶっている。アルカナよりも背の高い彼女を運ぶのは難しいものの、横を行くアンノに任せるのも癪だった。なにせこの男はあのピアキィの後見人である。一体アンノはピアキィにどんな教育をしたというのだ。
そのアンノは、アルカナと女官に平謝りを繰り返していた。
「本当にすまない。ウチの馬鹿息子、いや閣下が…」
「アズラーノ様がお謝りになることはありません」
言えるものならば、後見人の責任としてそこに土下座してみせろとでも言ってやりたかったが、流石に高等祭司相手にそんなことを言えるわけもなく、アルカナはかたくなに首を横に振った。元来、あのピアキィ本人が謝るべきことなのは事実だ。
女官を自分の部屋に運ぶなり、アルカナは低い声でアンノに言った。
「アズラーノ様、大変恐縮ですが、治癒術師を一人、お呼びいただいてもよろしいですか。あの方の話では、私は部屋から出てはならないそうですので」
「ああ、すぐに手配しよう。あとは代えの女官を…」
「いえ、必要ありません。話を大きくしたくないので、口の堅い医者だけお願いします」
「しかし…」
「私は一人でも身の回りのことはできますのでご心配はいりません。それに、話が広まればピアキィ閣下の名に傷がつきますし、ひいては彼のご親族でいらっしゃる世界王陛下への不信にもつながりかねません。くれぐれも、このことは内密に」
アルカナだって貴族としてのぴライドは多少なりとあるし、その上で、いかな男であろうと、夫に恥をかかせるわけにはいかなかった。夫を守り、家を守り、使用人を守れ。幼少の頃から母に口うるさく言われた言葉だ。貴族の女としての使命だ。
不機嫌ながらもその教えを遵守するアルカナに、アンノは心底感銘を受けたようだった。しばしじっとアルカナを見据えてから、きりりとした仕事人の顔をして「待ってろ」と言うなり、彼は駆け出していった。彼の後姿が見えなくなってから、アルカナは部屋に入り、枕を高く盛って女官を寝かせ、棚からきれいな手ぬぐいを見つけ出して彼女の切れたこめかみを圧迫した。どこかに薬がないかと棚をひっくり返しているところで、嫁入り道具にまぎれて入っていた薬草が見つかった。ピアキィが以前送ってきた野草のひとつだ…アルカナは舌打ちしたい気分で草を手でもみこむと、彼女の傷口に当てた。女官がうめいた。
「少し我慢してください」
アルカナは新しい手ぬぐいに水差しの水をひたして腫れに当てた。手早く応急処置を進めていく主の姿を、女官は薄っすらと目を開けてみていた。
「う…なんで、あんたが私を…」
「痛むでしょう、喋らないでください」
アルカナはぴしゃりと言った。
「母が言っていました。貴族の女の仕事は、夫を立てて、家を切り盛りして、使用人を守ることだって。もしピアキィ閣下がまかり間違ってあなたを殺してしまったら大問題になります。あの方は職を失うかもしれない。それだけです。私自身と、ピアキィ様のためにやっただけです」
さらりと言い放って、引き続き手当てするアルカナに、女官はふてくされたように口をつぐんだ。
◆
結論から言えば、女官は無事治療されて傷跡ひとつ残ることはなかった。女官はアルカナに借りを作ったと思っているらしく、不承不承ではあるが、きちんと職務をまっとうしてくれるようになった。彼女の名前はミュウというらしい。あくまで借りを返すだけだという彼女は、人前以外ではアルカナに敬語のひとつも使わなかったが、アルカナはこれで随分すごしやすくなるだろうと踏んでいた。
アルカナはおとなしく二日間を部屋で過ごした。ピアキィと顔をあわせることだけが恐怖だったが、仕事が忙しいのか、はたまた彼のライフワークを崩すことなく浮気でもしているのかは定かではないが、アルカナの知る限り、ピアキィが夫婦の部屋に来ることはなかった。アルカナは先日の出来事が引っかかりつつもミュウに相談した。ミュウにとって、ピアキィの株は目下大暴落中らしい。当然の結果だ。
「ねえミュウさん、ピアキィ様にとって、私との結婚って一体どういう意図があるのかしら」
「ハァ?」
ミュウは怪訝な顔を隠すことなくアルカナに向けた。
「私への暴力事件をもう忘れちゃったの?あれじゃどう考えたって、アンタに惚れて誰の目にも触れさせたくない嫉妬心丸出しの男の図でしょ。アズラーノ様のこと、殺しそうな目で見てたわよ」
「…ピアキィ様が、私なんかにそんなこと。そもそも、私…顔合わせのときの印象は最悪だったし」
「最悪?」
アルカナはしばし悩んでから、「誰にも言わないでくださいね」と前置きして、心持ち声を低めて語った。
「私、顔合わせの前に、ピアキィ様とは一応、面識があるんです。2、3日に一度、お顔を拝見するくらいに」
「なんですって?」
「直接お会いしたわけではないんです。ハイネント家がどこに建ってるかご存知…じゃないですよね。平民街の大きな宿の向かいで、私の部屋からはその宿がよく見えるんです。ピアキィ様はよく宿の前で待ち合わせをしていらっしゃって…その、いつも違う女性の方と」
ミュウは呆れ返った様子で目を細めた。アルカナはますます縮こまった。
「ピアキィ様は、いつも私が覗き見しているのをご存知でした。顔合わせの時にそれを言われて…私のこと、すごく軽蔑したみたいでした」
「軽蔑ゥ?」ミュウは不満顔だ。
「見目麗しい男ってだけでそりゃ目立つのに、見るたびに女をとっかえひっかえしてれば、気にするなってほうが無理な話でしょ。閣下のこと眺めてる女なんてあんた以外にも大量にいたんじゃない?というか、アンタがいつも閣下を見てたことを知ってるってことは、閣下の方こそアンタをいつも見てたってことじゃない」
「…え?」
アルカナは目を瞬いた。そういえばそうだ。ピアキィに自分のことが気づかれたのは、あの雨の日だとばかり思っていたが、あの日、ピアキィへの思慕を自覚して以来、むしろ自分は彼の後姿しか見られなくなっていた。とすれば、ピアキィがアルカナの視線に気づいたのは、もっと前の話ということになる。いつの間に、いつから、アルカナの視線に気づいていたのだろう。
ミュウは嘆息した。
「少なくとも、閣下がアンタにご執心だというのは確かね。ホラ見なさいこの花。毎日届けられちゃ手入れも大変だわ」
「え?…この部屋の花って、閣下が用意されているんですか?」
ミュウが花瓶に差している金色の花に、アルカナは嫌な予感がした。そして、その考えはあながち間違いじゃないだろうと推測する。アルカナの口元が引きつった。
「…ご執心なんて、そんなこと、あるわけないです」
最低最悪。これでチクリと痛んでしまう自分の胸が。あんな男への恋なんてさっさと冷めてしまえばいいのに。嫌いになりきれない自分がこんなにも悔しい。
「ピアキィ様は今日もお越しになりません」
「なんで?」
「だって、花が白くないから」
◆
ミュウは憤っていた。いつもウジウジとうつむいている自分の主も大概嫌いだが、それにしたってピアキィ閣下の横暴に関しては同情を禁じえない。結婚してから三日、自分からはまるで妻に会いに行かないばかりか、部屋から出しもしないで、花の色で浮気予告までする始末。これで女官達にまで嫌われるなんて散々だ。アルカナの様子から、彼女が望んでこの神殿にやってきたわけではないのはミュウにも薄々分かっていた。なにせあの娘は富も名誉も興味はないし、豪華なドレスにも見向きもしない。聞くところによると趣味は家事と裁縫らしい。世界王の甥の妻というにはあまりに庶民派すぎる。
アルカナがすっかり諦めきった表情で大きなベッドにもぐりこむのを見送って、ミュウは部屋を出た。アルカナがピアキィに憧れているのは見るも明らかだ。いくらなんでも、好きでもない相手の言うことを逐一聞いてやるほどあの主は小心でもないだろう。一方でピアキィが、アルカナに並々ならぬ執着を抱いているのは身をもって理解した。それが恋愛か否かは定かではないが、病み上がりの妻が外に出たくらいで、付き人の頭を踏み潰そうとするくらいには、彼はアルカナを側においておきたいのだ。お陰で、「アルカナを外に出すな」なんて命令は聞いていないと、言い訳する間もなかった。否、それで正解だろう。おそらく口に出したら女官たち全員が血だるまになっていた。
面倒な夫婦だ…ミュウはため息をつきかけて、ふと手にした荷物が足りないことに気づいた。包みをひとつ、アルカナの部屋においてきたらしい。ミュウはきびすを返した。忘れ物を主の部屋においてきたと言えば、女官長にこってり絞られてしまう。女官長をはじめとする年配の女官達はみな、誰に対しても礼儀正しく遠慮がちなアルカナがお気に入りのようだった。それが若い娘達の反感をさらに買っているなど、本人はまるで予想だにしていないとは思うが。
慌てて、アルカナの部屋への道を辿ろうとしたところで、しかしミュウは足を止めた。当分は姿を見るのも恐ろしい男が、彼の後見人とともに歩いているのを見つけてしまったからだ。とっさにミュウは、近くにある柱に身を潜めた。
アンノのほうは、涼しい顔のピアキィを相手に渋面だった。
「ピアキィ、いくらなんでもアレはやりすぎだ」
「アレって?」
「女官に怪我をさせただろう」
ミュウはドキリとした。先日の一件を、アンノが言及しているらしい。しかしピアキィは夜闇の中でもかすまないその美貌をさらし、綺麗なみかん色の瞳を細めてすっとぼけた。
「ああ…そういえばそんなこともあったかな」
「何を言うんだ!いいかピアキィ。お前は怪我や死に対して無頓着すぎる。一体全体、おまえは俺の家でなにを学んできたっていうんだ?俺はおまえをそんな風に育てた覚えはないぞ」
「ふるっくさい言い方」ピアキィが嘲笑した。
「茶化すな!アルカナ嬢に愛想を尽かされても知らないぞ」
「それは困るな」
まったく困っていない調子でピアキィは返した。その白々しさに、ミュウはいっそ感服すらした。ああはなりたくない。するとピアキィは、麗しい造形の顔をうっとりと緩めて、夢見る口調で言った。
「今日で三日だ。"血"も定着しただろう。ふふっ…アルカナは何年で気づくかな。反応が今から楽しみだ」
「…何の説明もなしに血を飲ませるなんて。シェロ様は一体何を考えているんだ」
アンノが頭を抱えた。血?ミュウは情報を整理した。そういえば、アルカナが聞いてきた。昨日だっただろうか。王族の結婚式では、花嫁に血を飲ませるのは当たり前なのかと。そんな話聞いたこともなかったし、そもそも何の血を飲むというんだ。血に似たワインでも飲まされたのだろうと一笑してやってものの、アルカナは釈然としない様子だった。…まさか、その話と何か関係が?探偵にでもなった気分で、ミュウはますます身を縮こまらせた。その時、ピアキィとアンノがミュウの潜む柱の前を通り過ぎた。
「伯父上が何か言うはずがない。あの方は放任主義だしな。…ああ、そうだ。おいアンノ、ファレイアをアルカナのところへ呼べよ。子供の世話でもすれば、嫌でもアイツも自分のことに気づくだろう?」
「……お前は歪んでる」
アンノのつぶやきに、ピアキィはくすりと笑った。月よりも眩しく怪しく儚く、悪魔のように恐ろしく、彼は甘く言ってみせた。
「歪んでる?そんなの当たり前だ」
蠱惑的にわらう天使のような悪魔は不敵に言い放った。
「我ら不老不死一派、俺達は、人間どもとは格が違うんだよ」