act.6 道は険しいというけれど
今回暴力表現があります。苦手な方はご注意ください。
ピアキィが言ったとおり、一晩で熱は引いた。あれからすぐにアルカナは寝入ってしまったが、おきた時には彼は既にいなくなっていた。すっかり靄の晴れた頭で昨日の出来事を思い返してみる。
(…キスされた)
とたんに真っ赤になった。いくら結婚したからといって、自分とピアキィにそんな甘い雰囲気が漂うことなど、予想だにしていなかった。アルカナは頭が痛くなった。自分の夫になった男は大層思わせぶりらしい。昨日の結婚式でも、なんだかものすごく恥ずかしいことを言われた気がする。
アルカナはベッドから身を起こして部屋を見回した。これから長いこと住むことになる場所なのに、昨日はそれどころではなく、ゆっくり見る暇もなかった。
広い部屋だ。夫婦の部屋なのだから、質素なハイネント家のアルカナの部屋よりも大きいのは当たり前だが。ベッドはひとつしかないが、三人くらいなら悠々と眠れる広さがあるからしぶしぶ許容しよう。寝室とリビングで大きく部屋が区切られているらしく、シャワールームやお手洗いに通じる扉のほかに、家具はベッドとクローゼットなどしか置かれていない。
ベッドから降りると、自分の服がいつの間にか変わっていることに気がついた。白いネグリジェだ
シルクの上にレースがふんわりとかぶせられていて、寝巻きとは思えないほど上品で可愛らしいデザインだった。膝上までしかないスカートから、外にあまり出ないせいで青白い脚が伸びている。こんなデザイン、私には似合わないわ…アルカナはうんざりしてリビングに向かった。
リビングも広く美しい。中央に鎮座したテーブルも椅子も、絨毯も、棚ひとつとっても高級品なのは見るも明らかだ。女官はどこにもいない。窓の外を見ると、もうすっかり日は昇っている。朝寝坊をするような女には女官も仕える気はないということだろうか。アルカナは寝室に戻って、大きなクローゼットを開けた。どれも白を基調とした服ばかりだ。仕切りによって分けられているものの、ピアキィとクローゼットは兼用らしい。アルカナ側の衣装のまぶしさに目を細めた。白は好きだが、流石にこれはやりすぎだ…しかし反論の権利を持たないアルカナはひとつため息をついて、一番地味なワンピースを選び取ると自分でさっさと着付け、化粧台の前でてきぱきと髪をまとめてしまった。このくらいのこと、実家ではいつもやっていた。そこらの女官よりもよほどうまく仕上げられると、姉からのお墨付きも貰っている。
元の服はどこに置けばいいのかしら、丁寧にネグリジェを畳んだところで、ようやく部屋に女官がやってきた。かなり渋々この部屋にやってきたようで、むっつりと寝室に入ってきた彼女は、起き上がって一人で身なりまで整えている主を見るなりぎょっとひるんだ。
アルカナは嬉々として尋ねた。
「あ、あの、あなたがお世話になる女官の方ですか?」
女官は奇妙な顔をした。何も答えない。アルカナは慌てた。
「すみません、この寝巻き…どうしたらいいのかしらって思って…あっ、もしかして、一人で着替えちゃいけなかったんでしょうか?つい、実家にいたときの癖で…」
ファナティライスト神殿はこの国の王城だ。当然、そこに仕える女官たちも、高い位を持つ貴族の娘たち。アルカナよりも間違いなく目上の人間だ。アルカナにしてみれば、そんな人びとに命令するなど恐れ多い故のこの口調だったが、哀れな女官はこの小心者の主に心底戸惑っていた。何なのかしらこの子、そんな視線を隠し切れないまま腕を伸ばす。
「…こちらへ」
「あ、はい!ど、どうぞ!」
「……」
女官は絶句してネグリジェを受け取った。それに気づかない鈍感なアルカナはなおも馬鹿丁寧な口調で尋ねた。
「すみません、私、今起きたばかりでよく事情も呑み込めてなくって…ここが、私の部屋でいいんですよね?あの、私、なにをしたらいいんでしょう?」
◆
ミュウはあきれ返っていた。…この小娘、愚鈍すぎる。内心で悪態をつくくらいしかできない。この女よりもよほど格式高い中級貴族に生まれ、無理矢理、嫌がる先輩女官からこの娘の世話を押し付けられ、さてどういたぶってやろうかと思っていた矢先、出鼻をくじかれた気分だった。我らがファナティライストきっての美男子、ピアキィの新妻。その座を射止めたのが、どことも知らぬ下級貴族の女と言われ、神殿の女官たちはいまや阿鼻叫喚の図、少しでも彼に近づいて取り入ろうとしていた者たちは、この女狐、もとい、アルカナ・ハイネントとやらを引っ裂いてやれと息巻いていた。ミュウはかの美青年を麗しいと思うものの、そういう男を追いかけると苦労するだろうと見越して興味もなかったので何もいえないが、流石に自分よりも下級の女の世話などごめんだった。なんたる屈辱。きっとその女は鼻高々で、喜び勇んでミュウに無理難題を押し付けてくる、鼻持ちならない奴に違いない。そんな悪女の世話など誰が見るものか…そう思って来てみれば、「これ」である。
ネグリジェはすっかり完璧に畳まれて、白いワンピースを可憐に着こなし、さらにはこれ以上ないくらい絶妙の緩さで髪を結い上げている。女官顔負けの仕事だった。挙句の果てにはこの敬語。主が召使に恐縮してどうする。顔も身体も自分より貧相だが、この小娘のインパクトにかけてはミュウは脱帽した。どんな居丈高な物言いをしても、彼女、ヘコヘコと頭など下げてきそうである。
その彼女があんまりにも肩身が狭そうに縮こまっているものだから、思わずミュウは口に出していた。
「…アンタって、ピアキィ様に取り入ってその座についたんじゃないの?」
「え?」
しまった、すっかり肩の力が抜けて、おまけに敬語も忘れていた。はっとするミュウに対して、アルカナはそんなことは当たり前だと言わんばかりに首をかしげた。ちょっと困った表情だった。
「…そんな噂に、なってるんですか?」
「噂もなにも、そうでなきゃ、なんでアンタみたいな下級も下級の小娘がこんなところにいるのよ」
アルカナは眉尻を下げた。途方に暮れている。自分でもよく分からないとでも言いたげな表情だ。
「私にもわかりません」アルカナは本当にそう言った。
「このお輿入れの話だって急な話で…あの、閣下は私のことをお嫌いのようだし…適当に選んだって、仰ってましたけど」
そうして、アルカナは自分の台詞に傷ついてうつむいた。そりゃそうだ。アルカナの話が本当なら…あくまで本当ならば、だが…「適当に嫁にされる」なんて、女にとってはたまったもんじゃない。アルカナはぎゅっとワンピースのスカートをつかんでいる。これが演技ならたいしたものだ。だが、演技のはずなのだ。
ミュウには信じがたい話なのだ。彼女の着ているワンピースをはじめとして、クローゼットに仕舞われた彼女の衣装はすべてピアキィの采配によるものだし、なにせ彼女が寝込んでいた昨晩、女官も寄せ付けずにこの娘の面倒をかいがいしく看ていたのは他ならぬ彼女の夫なのだ。女官たちは、間違いなくこの小娘が、麗しのピアキィ閣下をたぶらかしたのだと思っている。ミュウも同意見だった。
あの女癖の悪いピアキィ相手に結婚までこぎつけた女だ。そう思うと、彼女の挙動も白々しく見えた。ミュウは鼻を鳴らした。
「ま、いいけど」
こんな女に敬語を使ってやるのもばかばかしい。
「精々覚悟しておきなさいよ。オバサン連中はアンタを気に入ってるようだけど…私たち、みんなアンタの味方にはならないから」
◆
アルカナは早速こんな場所に嫁いだことを後悔した。王宮なんて大嫌いだ。実家では使用人たちと目立ったトラブルも起こしたことはないし(トリノとは小さい頃殴り合いの喧嘩もしたものだが)、それどころか一緒になって仕事に精を出すくらいだったから、まさかこんなところでつまづく羽目になるとは思ってもいなかった。恐ろしいのは、ピアキィだけだと勘違いしていた。
さてどうしよう。神殿に親しい人物がいるわけでもなし、女官に仕事をボイコットされては非常に不便だろう。アルカナの日々のスケジュールを握っているのは女官たちなのだから。かといってこの調子では、女官のご機嫌を取ろうとしたところで逆効果だ。
アルカナは深くため息をついた。胸を張る自分よりも美人の女官に弁明した。
「あの…すみません。私、本当に、あの方とは、今までお話ししたこともないんです。本当なんです。信じてもらえないかもしれないけど」
女官は何も言わずにアルカナを見下している。
「今日、しなければならないことがないのでしたら、申し訳ないのですが…神殿を案内していただいても、よろしいですか?この先、迷子になってあなたのお手を煩わせたくないので」
女官はついぞなにも言わなかったが、アルカナの願いを無碍にはしなかった。上から下までアルカナを眺め回したあと、無言のまま、視線でついてこいと促され、アルカナはほっとして彼女のあとに続いた。
白亜の宮殿を歩く。まだ、こんなきらびやかな神殿に住むことなど実感も湧かなかった。部屋の位置を覚えられないんじゃないかしら。部屋の周辺をしっかりと頭に刻み込んでいると、女官がそっけなく言った。
「どこに行きたいのよ」
「え、えーと…」
アルカナはしばし考えて、目を輝かせた。
「あ、厨房!厨房に行ってみたいです。神殿の厨房っていうくらいですし、きっと大きいですよね。それから、洗濯場と、お庭と、図書館と、…ああ、神殿なんだから礼拝堂にも行きたいです。それと…そうそう、立ち入り禁止の場所も教えてくださると嬉しいです。間違って入ってしまうと困りますし」
実家でよく行った場所を片っ端から挙げていくと、女官はまじまじとアルカナを見てから、怪訝そうな顔をした。アルカナはなにかまずいことを言っただろうかと困り果てた。
「……アンタ、執務室はいいの?」
「え?執務室に行く機会なんてあるんですか?」
目を瞬くと、女官は目を細めた。アルカナの言葉を疑っているようだ。母には、仕事をする場所は男のテリトリーだから行ってはならぬといわれている。どんな用事があっても、父の執務室に事前の許可なく顔を出すことはなかった。神殿では違うのだろうか。
女官は頭が痛いらしい。こめかみを押さえてぎゅっと目をつぶった。
「……まあいいわ。厨房はこっちよ」
探検は非常に楽しかった。女官はなんだかんだ言って仕事は完遂してくれたし、大きな厨房に案内されたときは思わず歓声を上げてコック達を驚かせ、洗濯場では女官たちが躍起になって落とそうとしていたテーブルクロスの染みを瞬く間に落としてやり、庭では庭師と植物の世話について討論し、人の少ない廊下に出た頃には、女官の視線はかなり呆れたものとなっていた。
最初の謙虚さなどなんのその、すっかりうきうきと調子を取り戻したアルカナは、やってきた静かな通路を見回して問うた。
「ここは?」
「神官の方々の執務室よ。こちらは高等祭司の方々とかの仕事場。アンタの取り入ってるピアキィ閣下の仕事場もここ」
「じゃあ、ここは立ち入り禁止ですね」
あっさりと身を翻した。女官は絶句した。
「……アンタに、執務室に押しかけて閣下にお目通り願おうって発想はないの?」
まるで妻ならば執務室に入る当然の権限を有するとでも言いたげだ。
「閣下のお仕事姿に興味があるといえばありますけど、男の仕事場には入らぬようにと母から教わっています」
より正確に言うなら、自分が淡い恋をする男性の仕事姿を、もちろん、見てみたい。見たいに決まっている。あのうつくしいみかん色の瞳が、真剣な光を宿して書類に注がれるのかと思うと鳥肌さえ立った。しかし彼から受けた数々の嫌がらせを思うと、どうせまたネチネチとアルカナを追い詰めて泣かせてくるに違いないのだ。足も遠のく。
そんなことを露知らぬ女官はまだ納得がいかない様子だったが、詮索はしてこなかった。アルカナが行きましょうと追い立てたところで、背後からお呼びがかかった。
「おや、アルカナ嬢?」
振り返ると、書類をひと束抱えたアンノが目を丸くして立っていた。アルカナは慌てて深々と礼をする。
「アズラーノ様、すみません。お邪魔しております」
「アルカナ嬢、身体の具合はいいのかい?顔色がまだよろしくないようだ」
「いえ、もうすっかり。今この方に神殿内を案内していただいていたのです」
アンノはまだ渋い顔だった。アルカナはその深刻な表情に眉をひそめた。それから、あっと気がついて頭を下げる。
「申し訳ありません、女がこんな場所に入り込むのは無礼でしたよね」
「イヤ、それはいいんだけど…」
アンノは思案顔だ。何か気にかかることがあるらしく、しきりに目を泳がせている。問おうと口を開くと、その前に彼にさえぎられた。肩を押される。
「とにかく、早く部屋に戻ンなさい。閣下に勘付かれる前に…」
「もう勘付いた」
よく通る穏やかな声に、アルカナが礼をする前に、金髪の彼はすでにアンノの隣に立っていた。彼の無機質な瞳に背筋が粟立った。ピアキィの周囲で空気が凍っていた。
「その手を離せ、アンノ。殺してやろうか」
瞬く間にアンノはアルカナから一歩下がった。ピアキィがなぜ怒っているのかまるで見当もつかず、アルカナは戸惑った。何か、何か言わなければ。アルカナが口を開く前に、しかしピアキィは動いていた。アルカナの手首をひっつかんで脇に立つと足を振り上げた。あんまりにも素早い動きだった。背後からの女性のうめき声で、アルカナはようやく事情を呑み込んだ…ピアキィが女官を蹴ったのだ。
「ピアキィ!」
アンノが鋭い声を上げたが、ピアキィは止まらない。倒れこんで咳き込む女官。腹を押さえ込んだところを、彼が女官の頭を思い切り踏みつけた。鈍い音が響いた。アルカナは立ち尽くした。
「三日部屋から出すなと言ったはずだ」
冷え切った声だ。顔合わせのときとは違う。冷酷で情のかけらもない、無慈悲な声音だった。女官は震える声でつぶやいた。
「も、もうしわけ…」
「見せしめにその首落としてやろうか?」
ピアキィが首を傾けた。前髪がさらりと落ちて、その美しさがまた恐ろしい。彼はニヒルに口端を上げた。我ながら名案だといわんばかりの顔だ。怖い、怖い、怖い!
「ああ、それがいい。無能な奴にアルカナの世話をさせるわけにはいかないからな。この娘は"使い捨て"じゃないんだから」
最後は独り言のようにボソボソと喋っていたが、その間もずっと彼の足は女官に矛先を向けている。彼女の額から血が垂れ落ちるのを見て、アルカナは喉がひゅっと鳴った。
なにを言いたいんだ。ブルブル震える中で、アンノがピアキィを制す声がする。彼は止まらない。目の前が真っ暗になって、アルカナは、気がついたら思い切り叫んでいた。
「わ…、わたしが無理を言ったんです!」
ピタリと、ピアキィの足が止まった。ついと冷えた目がアルカナに向いた。アルカナは力の緩んだ手から自分の手首をはずすなり、かばうように女官に飛びついていた。ピアキィがアルカナを傷つける気はないと、何故か妙な確信があった。
「この方はちゃんといいました!部屋を出るなって言っていらっしゃいました!私が、もう体調も元通りだし、大丈夫だからと無理を言ったんです!この方は悪くありません、け…蹴るなら私を蹴ってください!」
矢継ぎ早にそう言って、蹲る女官の背中をぎゅっと抱くと、ピアキィはしばしその姿を見下ろして、やがてつまらなそうに視線をはずし、ため息をついた。
「それが本当だとしても、そうじゃないにしても、お前は単純で底なしの大馬鹿者だね」
「……え?」
「お前が俺の不興を買うことの意味が、まだわからない?ねえ、おろかなアルカナ。お前の家族を生かすも殺すも、俺には簡単にできるんだよ?」
「…!」
アルカナはさっと青ざめた。ピアキィは温い笑みを浮かべると、アルカナの腕を引っ張り上げて立たせ、その唇にねっとりとしたキスを落としてきた。彼のつめたいくちびるに、アルカナの身体の奥がどんどん冷えていくのを感じた。満足したらしいピアキィは、突然するりとアルカナから身を離すと、何もなかったかのような顔をしてすたすたと歩き出す。唖然として何も言えないアルカナに、彼は実に楽しそうに言い残した。
「精々俺を楽しませろよ。せっかく手に入れた、大事な人形なんだから」