act.3 サディストな彼の遊戯
一部侮蔑的な表現を含みます。苦手な方はご注意ください。
「アンノ、お前は仕事があるだろう?」
当たり前のように応接間に入ってきたアンノをシェーロラスディがたしなめた。その間にもピアキィは、ふかふかのソファにアルカナを座らせると、その隣にアルカナの父を促し、自分はアルカナの向かいに腰掛けた。陛下を差し置いて最初に席に着くだなんて、アルカナは慌てて立ち上がろうとするが、ピアキィに視線で制される。
アンノは陛下の言葉にもひとつ肩をすくめて、ひょうきんに笑って見せた。
「ええ、イヤだなァシェロ様。俺がどれだけこの日を待ち望んでたか知ってるでショ?仕事なんて残業すればいいんですよ」
世界王陛下をあろうことか渾名呼びなど!アルカナは呆然とした。しかもシェーロラスディは全く気にも留めていないらしい。入り口脇の小机に置かれた女官の呼び鈴をチリンとひとつ鳴らすと、「しょうがないな」と一言添えてピアキィの隣に掛けた。アンノはその脇に立って控える。
シェーロラスディはのんびりと口火を切った。
「まあ、そこのアンノが図らずも言ってくれたけれど、シェーロラスディ・T・ファナティライスト…今日は甥の血縁として来ているので、シェーロラスディ・エファインと名乗らせていただこうか」
「いや、これは…トロット・ハイネントと申します。こちらは娘のアルカナでございます。このたびは世界王陛下をご拝顔でき…」
「いや、その口上はいらない」
シェーロラスディは片手を挙げて父の口上をさえぎった。父はピタリと口を閉じた。陛下は次に縮こまるアルカナに微笑んだ。
「今日は若い二人が主役だしね。で、お二人は紹介は済んでいるのかな?」
アルカナは深々と礼をした。ピアキィは、ちょうど部屋に入ってきた、茶を持った女官をチラリと見てから言う。
「もう済ませました」
「そうか。まあ、アルカナ。彼は女癖の悪い最低男だが根は…」
「それは俺が言った」
アンノが言ったところで、赤銅色のショートヘアが可愛らしい女官が、緊張のあまり食器を少し鳴らした。いくら女官といえども、世界王の前では緊張のひとつもするものよね、アルカナは心底彼女に同情した。
ピアキィは顔をしかめた。
「アンノも伯父上も、その紹介はなんとかならないのか」
「事実だろう?」
「事実ですしねェ」
いくら事実だとしても、もしアルカナがピアキィの宿通いを知らなかったら心底ショックだったろう。アルカナは口元を引きつらせた。隣の父は何を考えているのか、ひたすらニコニコしている。冗談か何かだと思っているに違いない…だとしたら勘違いもいいところだ。
「とにかくも我が家の馬鹿息子に優しそうなお嬢さんが来てくださって嬉しい限りだ」
しみじみとシェーロラスディが言った。アルカナはすっかり恐縮して情けない表情だった。と、ピアキィがわずかばかり嘲笑して横槍を入れる。
「得意技は家事仕事だそうだ」
「あ、そ、それは…!」
思わず声を上げたが言葉にならず、アルカナは困り果てた。貴族の娘が家事に精を出すなんてはしたないことだと、世界王陛下は呆れたことだろう。ピアキィは相当アルカナが嫌いなようだ…涙をこらえてぶるぶる震えていると、シェーロラスディは以外にも非難の色も見せることなく「へえ」と声を上げた。
「まるでフェルマータの若い頃みたいだな」
「……え、え?」
「知ってるかな、ラトメの"神の子"。あいつは自分で部屋を片付けたり、勝手に料理するものだから、ファナティライストに来るたびに女官が困っていたよ。そうかあ、じゃあフェル付きの女官をアルカナに回そうかな」
「そ、そんな!女官なんて、恐れ多いです!」
身の回りのことはすべて自分でやってきたアルカナにとって、何もかも世話されるのは慣れていない。アルカナのような低い身分の者に人員を割くだなんて申し訳なかったし、きっと迷惑をかける。なんと懐の大きな人なんだろう、世界王に心から感服するとともに困惑するアルカナに、アンノが助け舟を出した。
「神殿は暇ですからねェ。そんなに気を張らずとも、退屈しのぎの話し相手くらいに思っていればいいんですよ」
「でも、でも」
「アルカナ。いくら官籍に下ったとはいえ、ピアキィが王族の一員であることに変わりない。その花嫁に女官のひとりもつけないというのは外面的にもあまりよろしくないんだ。まあ、未来の夫の面子を保つという意味で、ひとつ受け入れてくれないかな」
シェーロラスディはあくまで優しい口調で言った。世界王陛下を困らせてしまったのかと、アルカナは途端に真っ青になった。チラリと見たピアキィは、そ知らぬ顔で茶を飲んでいる。別にアルカナごときの女に、女官などつけるまでもないと思われているのだろうか。アルカナはうつむいた。
「……わかりました」
「うん、ありがとう。では、私は執務に戻ろうか」
シェーロラスディは腰を上げた。
「大人は退散して、あとは若い者たちに任せることにしよう。アンノ、行くぞ」
「ま、名残惜しいですが、お嬢さんとお話する機会は今後いくらでもありますからねェ。ではご両人、アルカナ嬢と次に会うのは式典かな?また」
「なにか困ったことがあればいつでも時間を取ろう、アルカナ嬢。双子神の加護があらんことを」
席を立とうとしたハイネント親子を制して、シェーロラスディとアンノは颯爽と立ち去っていった。まるで疾風のような人びとである。扉が閉まるなり、父も立ち上がってアルカナとピアキィに微笑みかけた。
「では、私も失礼します。閣下、どうぞうちの娘をお願いいたします」
「え、…お、お父様、帰るの?」
「何を不安がっているんだい?僕は神殿の入り口で待っているよ。アルカナ、ピアキィ閣下に失礼のないようにするんだよ」
そうして父も扉のむこうに消えてしまい、あっという間にアルカナとピアキィは二人きりだ。アルカナは父の出て行った扉から目を離せない。ピアキィがどんな顔をしてこちらを見ているのか、知るのが怖かった。
かちゃり。ピアキィがカップを置くかすかな音が響く。アルカナは慎重に、ピアキィの顔を視界に入れないようにしながら、自分の膝まで視線を動かした。テーブルで、一口もつけていないカップが、アルカナの途方に暮れた表情を映している。
しばらくお互い黙り込んでいると、不意にピアキィがくすりと笑う声がした。
「どんな女が来るのかと思えば…まさか、いつも窓から俺のことを見てた奴だとは思わなかった」
「そ、そんな、いつもってわけじゃ」
「実際会ってみると、想像以上の根暗女だな」
冷たい言葉を甘ったるい声で投げつけられて、アルカナは真っ赤になった。悲しくて怖くて悔しくて、言い返すこともできない。ぎゅっとスカートを握って耐えるくらいしか。相手に妙なことを言って、自分の、引いては父の株を下げてはならない。きっと、アルカナが何を言ったって、ピアキィの不興を買ってしまうから。
ピアキィはフンと鼻を鳴らした。
「言い返してもこないのか。つまらないな」
「……」
「…あーあ。政治からできるだけ離れてて、かつ婿にならなくて済むような家の娘ってことで適当に選んだのがまずかったのかなァ…これなら、祭司たちの高飛車な女のほうがまだマシだったかも」
「……」
じゃあ他の女性をお嫁に貰ってください。そう言おうと思った。けれど、脳裏にいくつかの光景が浮かぶ。始終ニコニコしていた父、大喜びした母、涙ながらに祝福してくれた使用人たち。彼らが失望したような目で自分を見るのかと思うと何も言葉が出てこなかった。涙がもう目尻にたまって、嗚咽をこらえるので、アルカナはうんともすんとも言えなかったのだ。
ぱたり、溢れた涙が一滴こぼれて、アルカナのスカートに染みを作った。それを皮切りに、幾多も、幾多も、ぽろぽろと、浮き足立った使用人と一緒に選んだ真新しい桃色のワンピースを濡らしていく。肩が震えた。
ピアキィが席を立って、アルカナのすぐ横に座る気配がした。手の込んだ編み込みが入った髪を、彼の長い指が弄る。ピアキィはくすくすと楽しげに笑った。
「泣いちゃった?」
何が楽しいのだろう。こんな男の何が良かったのだろう。アルカナは唇を噛んだ。最低最悪だ。「彼が好きだからなんでも許せる」だなんて殊勝なことは言えやしない。こんな嫌な男、見たこともない。きっとこの男は人の皮を被った悪魔に違いない。彼に恋なんてした自分の浅はかさを恨んだ。
ピアキィはしばらくアルカナの髪を弄んでいたが、やがてそれも飽きたのか、ぱっと手を離して、興が削がれたとばかりにソファの背もたれに体重をかけた。
「ねえ、アルカナ。お前に覚悟はあるのか?」深みのある声音だった。
「…なんの、覚悟、ですか?」
「我がエファイン家の、同族になる覚悟だよ」
アルカナは目線だけピアキィに向けた。彼はこちらを見ていなかった。なにもない虚空をぼんやりと見上げて、すらとした頬には何の表情も浮かべていない。人形のような硬質さに、アルカナはぎくりとした。まったくわけがわからなかった。エファイン家とは、世界王の家系がもともと使っていた家名だったと思う。
「王族の嫁になる覚悟、ってこと、ですか?」
「ま、知らされちゃいないだろうけどね。…俺たちは"ヒトならざるもの"なんだ」
アルカナは目を瞬いた。涙も引っ込んだ。一体全体、この男は何を言いたいのだろう。王は人間とは別の存在とでも説くつもりか。そんなもの、ファナティライストの教典にいくらでも載っているだろうに。
ピアキィは歌うように言った。
「ねえ?泣き虫なアルカナ。そんな調子で、俺と一緒に永遠を生きる覚悟は、できてるの?」
「永遠、って?」
「でも、君に拒否権はない」
ピアキィにはアルカナの反応などどうでもいいようだった。薄ら笑いを浮かべて豪奢なシャンデリアを眺めている。いや、今の彼に、この世界に存在するなにもかもが視えているのだろうか?彼の思考は、アルカナには考えも及ばない遠いどこかへ飛んでいるようだった。
「お前も、いずれ狂ってしまうよ。だから今のうちに、泣けるだけ泣いておけばいい。傷つくだけ傷ついて…もう、何も感じられなくなる前に」
アルカナには、ピアキィの言いたいことのかけらもわからなかったが、それでも、何を返すこともできなかった。彼のほの暗い鈍い光が、すべてを反射して拒絶しているようだった。