act.2 不本意な邂逅
アルカナとピアキィの顔合わせは午後に控えている。アルカナは気が重かった。父に連れられて、わが国の王城・ファナティライスト神殿にやってきたアルカナは、胃の痛みと格闘しながら、真白い建物を見上げた。
この建物は、世界創設以来、建設されてからもう何百年も経っているのに、床も壁も柱も天井も、まるで当時から時間を止めたかのように綻びひとつ見当たらない。建物を保護する呪文がかけられているのだと聞いたことがある。魔術は苦手なのでよくわからない。アルカナは、傷ひとつない白い柱がまぶしくて目を細めた。嫁入り後はこんなきらびやかな場所で生活するのかと思うと、気が遠くなるような心持ちだった。
娘の心境を知ってか知らずか、父はご満悦だった。
「まさか、アルカナが王家に嫁入りとはなあ。結婚しちゃったら、もう僕ともまともに会えなくなるんだろうなあ」
「別に王様との結婚ってわけじゃないんだから、そんなに厳しくもないでしょうよ。まして閣下は王族の位を返上してるんだから」
「いやいや、きっとアルカナはすぐに僕のことなんて忘れて、神殿で楽しく暮らしてしまうのだと思うと…」
「お父様は私をなんだと思ってるのよ!私、そんなに薄情者じゃないわ!」
思わずいきり立つと、父はにんまりした。娘から期待通りの答えを引き出せて満足したらしい。うんうん頷きながら、「そうだよなあ、アルカナは優しい子だもんなあ」と一人ごちている。アルカナは嘆息した。
「ねえ、ピアキィ閣下っていうのはどういう方なの?」
「いい人だよ」
父にかかれば、いかな人物でも「いい人」だろう、内心で突っ込みつつアルカナは次の言葉を待った。彼はお茶目にひとつウインクする。もう若くないのだから、そういう行動は慎んでほしいものだ。
「社交界では色々言われてるみたいだけどね。少なくとも仕事では…シェーロラスディ世界王陛下に、一番信頼されてるのは彼じゃないかな。まだ二十歳かそこらだけど、もう世界王の懐刀として名を馳せてるんだから凄いものだよ、まったく」
いい夫を持ったね、と言ってくる父になんと返してやろうかと思案したところで、アルカナは首をひねった。
「…二十歳?」
「確かそのくらいだったと思うよ。ん?二十一だったかな?」
驚いた。そんなに年上だとは思っていなかった。屋敷から見える彼の立ち姿は…そりゃあ、彼は背も高くて大人びていたけれど…自分とさして変わりない年齢だと思っていたから。
きっと童顔なんだわ。アルカナはドキリとした自分の胸を押さえた。あの顔で、二十歳で、しかも世界王陛下の懐刀。ますます彼の相手として自分が選ばれたことが解せなかった。しかし、父にその理由を聞くことは憚られる。父のことだから悪いことは言わないだろうが、悲しい現実までまざまざと見せ付けられたらと思うと口が開かない。
真っ白な廊下を黙して歩いていると、ふと父が足を止めた。彼は右手に広がる庭園を指して、アルカナを見下ろした。
「ほら、あそこにいらっしゃるのが閣下だよ。顔は、肖像画を見せたから知ってるだろう?」
陽の光がやさしく降り注ぐ緑豊かな庭園に、彼はいた。白い噴水の枠に腰掛けて、細くて長い脚を組んで、水を魔術で弄びながら物思いにふけっていた。噴水から糸を引くように伸びた水は、彼の指先まで続いていて、時折彼の緩慢な指の動きにあわせてひらりと舞う。ひらり、ひらり。なんと麗しい光景かと、アルカナは息をも止めて彼と水の動きに見入った。
ピアキィがくるくると、水の糸を指に巻きつけたところで、彼は不意に顔を上げてこちらを見た。アルカナは、焦がれていたみかん色の瞳にギクリとして、頭を下げる父にならって、ごまかすように腰を低くした。
しばらく待つと、アルカナの頭上に影が落ちた。父が陽気に声をかけた。
「本日はお日柄もよろしく、閣下」
「ご足労いただきありがとうございます、ハイネント卿」
思ったよりも低い声だ、アルカナは意識の片隅でそんなことを思った。父はよくもまあ、こんなにキラキラと輝く男の前で口が回るものだ。つらつらと挨拶の口上を述べる父は上機嫌だった。
「それで」ピアキィは淡々と問うてきた。「こちらが?」
「はい、娘のアルカナと申します、アルカナ」
「は、はい!」
声が上ずっているのを感じながら、アルカナは更に深々と礼をした。
「お初にお目にかかります、閣下。アルカナ・ハイネントと申します」
「…顔を上げてくれるかな、アルカナ嬢」
こんな情けない面構え、見せられたものではないと思いつつ、アルカナは頭を上げた。彼のみかん色の瞳とかち合う。アルカナは瞬きをした。早くなにか言ってくれ!しばらく黙りこくる青年に、アルカナは何度もそう念じた。願いが届いたのか、ピアキィはやや首を傾げて、ニヒルな笑みを浮かべた口を開いた。
「……はじめまして、だったかな?ピアキィです。どうぞ、これからよろしく」
意味深な言い方だ。アルカナはわずかに眉をひそめた。すると、彼は冷笑を保ったまま、クッと喉を鳴らした。
「確か、俺の記憶が正しければ、結構顔をあわせていたような気がするけど」
アルカナは仰天して、それから、かあと赤面した。…気づかれていたのだ!あんまりな展開に、アルカナは物も言えずに口を開け閉めした。まるで魚だ。
「おや、そうでしたか!」
何も知らない父はますますニコニコ顔だ。
「アルカナ、なんで教えてくれなかったんだい?」
言えるはずもない。一国の王族の恋愛遍歴を、屋敷の窓から出歯亀していたなんて、誰が言えるものか。アルカナは思わず目を泳がせた。ピアキィの冷たい笑みが殊更深くなる。軽蔑されているのは火を見るより明らかだった。が、ピアキィもそこまで暴露する気はないらしく、父の言には誰も返さなかった。
「応接間にご案内しましょう」
ピアキィは話を逸らした。
「お手をどうぞ、アルカナ嬢」
差し出された腕にアルカナは戸惑った。未だかつて、父と兄を除く男性にエスコートなどされた経験など皆無である。アルカナはしぶしぶ、ピアキィの細い腕に、なるだけ優雅に見えるように、しかしその実ぎくしゃくとした動きで、自らの手を添えた。
微妙に空いた距離を保ったまま、応接間へと向かう道すがら、アルカナはガチガチに緊張していた。いつピアキィが、アルカナの秘密を口に出すかを考えただけで、気が気ではなかった。頭上で、ピアキィと父は和やかに会話しているというのに。
ピアキィに「あのこと」を知られているということは、アルカナの望む平穏な結婚生活は露と消えたのだと理解した。アルカナは沈んだ。どうせ自分がこんな雲の上の存在に好かれるはずもないとは思っていたけれど、それにしたって、二人の関係がこんなに悪いところからスタートするなんて、さすがに予想していなかった。
永遠に続くかに思われた応接間へと通じる廊下を抜けると、部屋の前に一人の男性が立っていた。黒い神官服に身を包んだ、褐色の髪の男だった。父と同じか、それよりも少し上の年代だろう。あの衣装は、"世界王"直属の部下である、ファナティライスト高等祭司の制服だ。
男は茶色い目をこちらに向けて満面の笑みを浮かべた。どうやら自分たちを待っていたらしい。
「オオォ、来た来た!待ってましたよ閣下!」
ピアキィをちらと見上げると、彼は顔をわずかにしかめていた。こんな顔もするのね、アルカナはこちらの視線に彼が気づかないうちに目を逸らした。男はズカズカとこちらへやってくると、太陽のようにニカリと笑った。
「何の用だよ、アンノ」ピアキィの声は不機嫌だった。
「嫌だなァ閣下。閣下の父親代わりを務めていた者として、息子の婚約者の顔を拝むくらい許されたっていいでショ?これはまた可憐なお嬢さんでいらっしゃる!」
未だかつて一度もされたことのない賛辞に、アルカナは頬が熱くなった。アルカナと父が挨拶を述べる間も許さず、ピアキィが低い声で言った。
「誰が息子だ」
「息子でしょう?俺は閣下の後見人なんだから。あなたの最低最悪な父親母親と比べれば、俺、随分父親らしいことをしたと思うんだけどなァ」
最低最悪ってどういうことかしら。アルカナは疑問に思ったが、尋ねるのは憚られた。アンノと呼ばれた男は、アルカナと目線を合わせた。
「というわけでハイネント卿、それからお嬢さん。ワタクシ、ピアキィの後見を務めております、アンノ・アズラーノと申します。コイツは女心もわきまえてない最低男ではありますが、根は悪い奴じゃありませんので、どうぞ末永くお付き合いしてやってください」
「……」
よく存じております、と嫌味を言う勇気はアルカナにはなく、あいまいに愛想笑いを浮かべるに留めておいたが、父はアンノの刺激的な紹介にも動じることなくにこやかに返答した。こういうとき、父は大物だと思う。
「いえいえ、アズラーノ卿も、ピアキィ閣下も、私どもなどをお目掛け下さり大変光栄至極に存じます、ええ。うちの娘はなんの取り得もない、精々繕いものや下働きの真似事をするくらいしか…」
「お父様!お願いですから、その軽い口を閉じていただけないかしら!」
アルカナは慌てて口を挟んだが、すでに時は遅く、アンノは笑いをかみ殺すので精一杯のようだった。いくら下級とはいえ、貴族の端くれが召使と一緒に掃除洗濯や、厨房で料理を学んだり、庭師にくっついて庭園を駆け回って泥だらけになるなど、アルカナを置いて他にいないだろう。穴があったら入りたいというのは、こういう気分を言うのだろうか。
ふと頭上で噴出す声が聞こえて視線を上げると、まさか、今の今まで不機嫌の極みだったピアキィが、くすくすと、笑っている……ではないか。アルカナは唖然とした。
ピアキィが、笑っている。
「お嬢さんは家庭的でいらっしゃるようだ」
アンノはどうにか笑いを押し込めたようだった。アルカナははっとして目を伏せた。
「い、いえ、そんな…子供の頃の話ですわ」
嘘だった。嘆く母に、「淑女たるもの使用人の仕事を学ぶのも大事でしょう」となだめすかし、厨房に入り浸ってシェフ秘伝のミートローフのレシピを習ったことは記憶に新しい。アルカナ自身、お作法も文楽も勉学も嫌いではなかったけれど、家庭の仕事を淡々とこなすほうが性に合っていた。きっと生まれてくる身分を間違えたのね、とは、淑女の鑑のような姉の言い分である。
アンノは分かっているのかいないのか、おおらかに笑いながらピアキィに語りかけた。
「ウン、ウン。いいお嫁さんが見つかってよかったですねェ、閣下。正直、俺の娘はどうかナーって思ってたんですが」
「俺は三歳児の夫になる気はない」
さらりとピアキィが返した。するとアンノは口を尖らせる。
「閣下なら十年や二十年待つことくらいどうってことないでショ」
どういう意味だろう。アルカナが伺うようにアンノを見ていると、アンノの背中越し、廊下の向こうから声がかかった。
「おや、皆さんおそろいで。なんだい、応接間にも入らずに立ち話?」
その声を聞くなり、アンノも、ピアキィも、そして父も、突然電流が走ったかのように一斉に礼をした。アルカナも合わせて頭を下げると、アンノが穏やかに言った。
「これは、世界王陛下」
ドキリとした。世界王?そんな、一国の主と会うだなんて聞いていなかった。ピアキィと会って、少し話して、それで帰るだけの用事ではなかったのか。
「顔を上げてくれ」
柔らかな声。隣のピアキィがすっかり頭を上げる気配がしてから、アルカナも体を起こすと、目の前に略式の司祭服に身を包んだ男性が微笑んでいた。ピアキィとは全く似ていない。奇異なモスグリーンの髪に瞳の、柔和な顔をした若い男。アルカナは、にわかには彼がかの世界王陛下だとは信じられなかった…若すぎる。二十代半ばくらいにしか見えない男は、ピアキィと並んでも、精々兄弟かと思う程度の年齢差にしか見えない。…記憶をたどるに、昨年だったか、世界王陛下の生誕五十年のパーティが開かれた気がするのだが。
驚くアルカナに、シェーロラスディ陛下はいたずらっ子のような顔をして、応接間の扉を指した。
「立ち話もなんだし、応接間へ入ろう。お嬢さんも落ち着けないようだ」
ちなみにこの話は現時点で、アテナ1より数十年時代を遡っております。