act.1 次女の嫁入り
人生最大の幸運だと思っていた。今じゃ、かつての自分の頬をこれでもかってほど引っぱたきたいくらいに。
それでもやっぱり、私はあのひとが好きだというのだから、全くもって不毛この上ない。
◆
"その話"が我がハイネント家に飛び込んだとき、家の者はまさに寝耳に水、上を下への大騒ぎだった。ここ、神都ファナティライストの貴族街、その端も端、平民街との境目くらいにかろうじて建っている館は普段、家そのものが肩身の狭い思いでもしているかのようにこそこそしているくせに、今日ばかりはそれも例外だった。
ああ、議席の末席しか与えられなくても、当主が呆れるほどのトラブルメーカーでも、長男が平民の娘と駆け落ちしても、我らが双子神はまだこの家を見捨てていなかったのね!涙ながらに叫ぶ母に、アルカナはやや白けた視線を向けた。
そりゃ、父母にとってはいい。だが、アルカナにとっては、胡散臭いことこの上ない話だった。もともと、いくら下級貴族といえど、"貴族"と名のつく家に生まれた時点で、自分に恋愛の自由はないのだと信じていたし、せめて優しい男のもとに嫁げればそれでよかった。それが無理なら商家に行くのもいい。我が家の当主にして、アルカナの父のことだ、あのあんまりにもお人よしの男が、嫁ぎ先の家に理不尽に利用されることのなければ、それで十分なのだ。
だから、許されるものならば、この話は断ったほうがいい。そう、許されるものなら、「王族との結婚」なんて奇妙極まりない話、関わらないほうが身のためだろう。…王家直々からのこの話を、ましてお人よしな父が断るはずもないことは重々承知しているが。
アルカナは次女だし、本来ならば長女である姉のハノンよりも高い家柄に嫁ぐことはない。なのに、何故かこの話はアルカナに入ってきた。別に、アルカナは傾国の美女でもなく、むしろ人並みの器量でも及ばないような小娘だったので、この嫁ぎ先はまさに寝耳に水。嬉しさよりも戸惑いのほうが先に立った。
ピアキィ・ケルト・ファナティライスト。それがアルカナの夫となる男性の名だ。引きこもりで社交界に疎いアルカナでも名前くらいは耳に入ってくる。"世界王"シェーロラスディ陛下の甥だとかで、どこの馬の骨とも知らぬ平民の女との子供らしいが、その顔といい手腕といい、貴族のお嬢さん方が一度は憧れる「いい男」。アルカナとは永久に縁のない存在だ。ついでに、噂によれば非常に女泣かせな性格らしい。どんな性格かは推して量るべし。
そんな男と、結婚。そりゃあアルカナだってまだ16歳。人生のなかで一度くらいは情熱的な恋愛を体験しておきたいが、それこそ、一生に一度きりになるかもしれない恋愛体験の相手としてはハードルが高すぎた。
「あら、そう?」
そうして泣きついた先の姉は気楽なものだった。
「ウブで女心のわからない男と比べたら、多少手癖は悪くても、女性慣れしていて美形の殿方のほうがよろしくなくって?私が代わってほしいくらいだわ」
「私だって代われるものなら代わりたいわ!お義兄様のほうがよっぽど私の理想だもの」
ハノンの言うところの「ウブで女心のわからない男」というのは、平たく言えば彼女の夫・ツヴァルクのことだ。のんびりとした柔和な男性で、アルカナは、この何かにつけて甘い義兄が大好きだった。
ハノンは上品に首を傾けた。
「まさか、あのピアキィ殿下…ああ、今は閣下かしら?彼からの求婚をこうまで嫌がる女性がいるとは思わなかったわね」
「"彼から"じゃないわ。"彼の後ろ盾から"よ」アルカナは修正した。
「そんなに邪険にするものではないわ」
ハノンは渋い顔だ。
「いくらピアキィ様が王族の位を返上されて、貴族階級に降格したからといって、彼が世界王の血筋であることに変わりないのだから」
「でも、それだけ人気のあるひとなら、なにも私みたいな小娘を相手にする必要はないんじゃない?」
「ピアキィ閣下たっての願いらしいわよ。出来る限り政治から外れた家がいいのですって」
我が家は政治的価値も薄い弱小一族ということか。否定できないあたりがまた悔しい。アルカナはギリギリと歯軋りして姉にたしなめられた。
「腹をくくりなさいな、アルカナ。どうせお断りはできないのだから」
「……」
アルカナは不貞腐れて憮然とした表情を繕った。一家としてはとてもいい話なのだ。分かっている。王族とつながりを持つことで、父の地位は格段に上がるし、神殿でいい暮らしもできる。おまけに夫は目の保養になるらしいし、恋愛関係云々を置いておけば、アルカナにとっても悪い話ではないはずだった。それでも。
「……」
納得できない。その恋愛云々が、置いておける話ではないから。
双子神は私が嫌いに違いない。
アルカナ・ハイネントは、ピアキィ・ケルト・ファナティライストに、恋をしていた。
◆
先に断っておくが、アルカナとピアキィは知り合いではない。向こうはこちらのことなど知りもしないだろうし、アルカナだって自分の好きな人物が王族だなんて最近まで知らなかった。アルカナは、彼への恋慕は、そのうち薄れて消えてしまうの決まっていると思っていたのだ。
初めて彼の姿を見たのは、忘れもしない一年前。太陽に透ける金髪に、細められた綺麗なみかん色の瞳、すらっとした長い脚に腕に、大きな手。少し見ただけで火傷しそうな端正な顔立ち。彼はいつも女の子を待っていた。
ハイネント家の向かいには、非常に目立つ赤い屋根の宿があって、その入り口は一般的な待ち合わせ場所としても利用されている。アルカナの部屋の窓からは、あの宿がよく見えるのだ。午後のお茶の時間になると、窓際のテーブルに着いて、二階から人通りに高みの見物を決め込むのが、アルカナの日課だった。
最初は、随分な美形もいたものね、そのくらいの感想だった。数日置いてやってくる青年のお相手が毎回違うものだから、ふと好奇心から、「今日の女性は栗毛の可愛らしいお嬢様」だとか「あれはもしかして平民の娘かしら」などと書き留めることもあった。
決まってお相手は、アルカナでは足元にも及ばない美しい女性ばかりで、そしてこと貴族の女性は、社交界では高飛車で、同性からの評判がすこぶる悪い者ばかりが揃っていた。あの絶世の美男子も、女の趣味は悪いらしい。
当初はそんな姉譲りのミーハーな根性がきっかけで、彼のことも、それこそ、目の保養くらいにしか考えちゃいなかった。しかし、彼があの宿に通うようになって半年ほどが経ったとき、唐突に転機はやってきた。
あの時、彼は珍しく、随分長い間待ちぼうけを食らっていた。外はひどい雨が降っていて、青年は傘も差さずにひとり立ち尽くしていた。時々宿の者が出てきては中へ入るよう勧めていたようだが、彼はずっとそこにいた。ひどい天気だったから、きっと相手は家を出ることも叶わなかったのだろう。あの日はアルカナも外出禁止令を出されていた。
あたたかい紅茶を飲みながらじっと彼の様子を観察していると、不意に彼が顔を上げた。太い雨が幾筋も落ちているものだから、彼の姿なんて、道を挟んだ屋敷の二階からはっきりと見えるはずもないのに、彼の無感情なみかん色の瞳にびりりとした。
確かに、目が合ったと思った。
それなのに彼はすぐに顔を背け、女性を待つのをあきらめたのか、雨の中をふらりと去っていった。
あれからだ。あれから、アルカナはまともに青年の姿を見ることができなくなった。相変わらず彼の隣には、アルカナでは到底太刀打ちできないような美しい女性が侍っていたし、それ以前に、こうしてこそこそと彼を盗み見ることも恥ずかしくて、立ち去る彼の金髪、後姿を眺めるくらいが精々だった。もう一度、あのうつくしいみかん色の瞳をこちらに向けてはくれないかと密かに思う。けれど、そんなものは叶わない恋だとあきらめていた。
なのに、あの青年と自分が、結婚。
信じがたい話だった。できすぎている。胸の奥の奥に秘めて、誰にも打ち明けたことのなかった恋心を、だれかに暴かれた気分だった。アルカナがもう少し夢見がちな少女であれば、とんだ幸運だとか、もしやあの一瞬の視線の交わりで自分が見初められたのかとか、思うところは多くあったのかもしれないが、アルカナはことにつけて懐疑的な性格だったので、そう上手くはいかないのだと構えていた。期待するだけ損だ。この人生16年間、アルカナの期待どおりに事が運んだことなど少数だった。
それでも多少、本当に多少だけれど…嬉しいと思ってしまう自分がいることに、アルカナは自らを嘆いた。