act.15 恋する若者
エファイン家から帰ったアルカナが、次の日から劇的におしゃれに目覚めたことに、ミュウは今更かと呆れ溜息をついた。今までの質素ななりから一転して、ピアキィから贈られた白い衣装に身を包み、ハンドケアにこだわり、入浴時間が少しばかり延びた。化粧も華美すぎない、かわいらしいものに変わっている。
「どうしたっていうの」
目を白黒させて問うたが、実のところ答えはもうわかっていた。彼女をこんなに…認めるのは癪だが…可愛くする男は、ミュウの知る限り一人しかいない。
アルカナははにかんだ。
「私、ピアキィ様に少しでもアピールしようと思って」
今更だ。本当に今更。アピールもなにも、ピアキィのほうも鎮魂日に本家から帰ってきたとき様子がおかしかった。妙にそわそわして、アルカナになにかというと構って。本当にわずかな差だったし、その次の日からピアキィは執務室に詰み上がっているらしい仕事で部屋に戻ってこないものだから、アルカナには分からないかもしれないが、それでも、ピアキィが以前にも増してアルカナを気にかけているのは見るも明らかだった。
ミュウが考え込んでいると、アルカナは何を思ったかあわて始めた。
「あっあの、わかってます。分不相応ですよね。私も、きっと振り向いてもらえないだろうって思ってて…でも…」
「本当、わかってないわね」
「そうですよね」
しゅんとしたアルカナに、ミュウは笑いかけた。
出会いはともかく、今は、この主のことは、そんなに嫌いではないのだ。
「そんなにあからさまにしないで、もっとうまくやらなきゃ」
◆
「ねーね、アルカナ、なんか今日いいにおいがする」
今日のファレイアはアルカナのスカートの裾にべったり張り付いている。ミュウにそそのかされて、「最初は香水を変えるくらいでいいのよ」と言われたアルカナはドキリとした。
「わかりますか?」
「ん」
そうしてぎゅっと抱きついてくるということは、この香りはファレイアのお気に召していただけたということだろう。アルカナはにっこりした。
「ママのにおいに似てる」
「ファレイア様のお母様ですか?」
ファレイアの口から、病で寝込んでいるという母の話を聞くのは珍しい。アルカナは問い返すと、少女は目を輝かせた。どうやら今日の彼女はご機嫌らしい。
「あのねっあのねっ、ママはまほうつかいなのよっ」
「魔法使い…ですか?」
魔術を使える人のことは時々魔術師と言ったりするけれど、アルカナが目を瞬くと、ファレイアは上機嫌に言った。
「パパがよく言ってるのよ!パパはね、ママのまほうにかけられたんだって!『こいのまほう』っていってた!」
「…ああ、そういうこと」
アルカナは苦笑した。いかにもアンノらしい言い草である。
「それでね、ピアさまもね、そうなんだよ」
「え?」
「パパがね、ピアさまも、まほうにかけられたんだって。ピアさまのところに、まほうつかいがやってきて、ピアさまにまほうをかけたんだって」
心臓がバクバク鳴った。淡い期待が首をもたげる。ミュウがちらりとこちらを見る気配がした。先のリーゼルの言葉より、ほんの子供であるファレイアの台詞のほうがよっぽどアルカナには効果があった。
アルカナは声を潜めた。
「それで、その魔法使いは誰なんですか?」
「それがね…」
むふふと笑うファレイアが手招きするので、アルカナは彼女に耳を寄せた…すると。
「あーら、相変わらず下賎な部屋ですこと!」
居丈高な声が飛んできて、一同は呆けた顔を上げた。ミュウが盛大な溜息をつくのが聞こえる。見ると、入口の扉にもたれて、リーゼルがフフンと鼻で笑った。
アルカナはべたりと笑みを貼り付けた。
「こんにちは、リーゼルさん。本日はどうなさいました?」
愛想良く言ってやると、リーゼルは気分を害したようだった。
最近、よくこうやってリーゼルが部屋にやってくる。なんと彼女はピアキィの仕事場での世話係を務めているらしく、仕事の合間を縫ってこちらに来ては、アルカナにちくりとものを言うのだ。ついでにあてつけのように、ピアキィからの仕事をひけらかす。
「ピアキィ閣下が万年筆をお忘れのようなの。持ってきていただける?」
「ああ、今度は万年筆ですか」
机から安物のペンをひとつ取り上げて、アルカナはにこにことリーゼルに渡した。
「最近ピアキィ様は忘れ物が多いのですね」
何も知らない小娘の振りをしてアルカナは首をかしげた。それを見たリーゼルがまた機嫌よろしくアルカナを嘲笑った。万年筆の良し悪しもわからないのか。アルカナは眉尻を下げて微笑んだ。それさえもリーゼルは気づかない。
「妻があなたのような人間なのだから、ピアキィ様も気苦労が多いのでしょう。子守りもままならないのだし…」
リーゼルはちらとファレイアに不躾な視線を向けた。
「だからこそ、私がお支えする必要があるの。ミュウもこんな主を持って大変ね。それじゃあ、失礼」
言うが早いか、リーゼルは身を翻して颯爽と去っていった。どこからあんな自信が溢れるのか不可思議だったが、彼女の胸を張るさまは尊敬すら呼び起こした。
「フィー、あのおんな、きらーい」
「ファレイア様、そんなことを言ってはいけませんよ」
ファレイアはアルカナ以上に、リーゼルが気に食わないらしかった。ライバルとして張り合う気すら起こらないらしい。アルカナはちょっとした優越感で胸が熱くなった。ファレイアは積み木を持ち出してきながら言う。
「パパがあのおんなのことおこってたのよ。ピアさまが困ってるっていってたもん」
「アンノ様が?」
あの明朗で温和な男が怒るとは、リーゼルは相当唯我独尊らしい。アルカナは目を丸くした。
「うん、フィーもね、あのおんなきらい!」
きっぱり言って、積み木に興じるファレイアを見ながら、アルカナはどうにも釈然としなかった。
あの女が、エファイン家の生まれを誇りに思い、自分が美しいことをよくわかっている気位の高い女性であることは見るも明らかだ。ピアキィに侍っていた女たちが、そういう同性からの反感を買いやすい人間だということはアルカナも知っている。けれど、実際に結婚してみて、ピアキィが馬鹿でも考えなしでもないはずなのに、そうしてあんな女ばかり傍に置いていたのは不思議でならなかった。
やっぱりいくらやり手のピアキィ閣下といえども、女の趣味は悪いってことかしら。いつぞやか浮かんだ考えをもう一度思ってアルカナは首をひねった。ピアキィ様って面食いなのね。
物思いにふけりながら、花瓶に生けてある青いエソルを見るともなしに見ていると、ミュウがこっそりと尋ねてきた。
「ねえ、万年筆、あの女に渡してよかったの?」
「ピアキィ様のペンをお渡しするわけないじゃないですか。私の持っている父からのお下がりです。」
どこに持ち出されるのかわかったものではない。おとなしく夫の持ち物を渡すほどアルカナは愚かではなかった。どうせピアキィは自分の持つものに頓着しないし、無事万年筆が彼に渡ったとして彼が気にするとも思えない。
ミュウはアルカナのしてやったりな笑みに溜息をついた。
「…アンタって案外強かよね」
「だって、納得いかないんです。あの方がピアキィ様のホントに好きな人だって」
第一、それならピアキィはなぜアルカナにそれを隠しているのだろう。婚約当初は散々彼にひどい扱いを受けていたのだから、本命がいるなら、その話はアルカナにダメージを与える絶好のネタだったはず。そもそも、ピアキィに隠し事自体似合わない。
「最初に、ピアキィ様に本命の方がいらっしゃるってお聞きしたときはびっくりしましたけど」
「あら、アンタその噂知ってたの」
ミュウも知っている話らしい。ファナティライスト神殿の女官の話題だから、彼女にとっては身近なものだろう。ましてあのリーゼルはやたらと目立つ。アルカナはにっこり笑った。
「まあ、実物を見て、根も葉もない噂だと思ってスッキリしました」
「アンタ、よっぽどリーゼルのこと嫌いなのね」
「大嫌いです」
人のことを隠れ蓑呼ばわりするし、無駄にえらそうだし(事実アルカナなどよりもよほどいい家柄なのだが)ああいう鼻持ちならない女はアルカナとは馬が合わなかった。どうせ向こうからも嫌われているのだし、ピアキィはエファイン家とあまり係わり合いになりたくないようだしで、アルカナとしても彼女に媚を売る必要もない。一応そつなく追い返しているが、アルカナの内心は穏やかではなかった。なにせ、奴が引き止めているのか知らないが、ここ最近アルカナはピアキィと会えていないのだから。
いくら好きだって、本人に会えなきゃ意味ないじゃない…むっつりしながら、ファレイアの襟が折れているのを直してやると、突然部屋の扉が開いた。女三人そろって飛び上がった。噂をすれば影。ピアキィがうんざりした様子でやってきた。
アルカナはあわてて立ち上がった。
「お帰りなさいませ、ピアキィ様…わぁっ」
スカートのすそを足で踏んづけてよろけると、すくい上げるようにピアキィに腰をつかまれた。久々に彼の端正な顔立ちを間近で見たものだから、アルカナはぎょっとした。ピアキィはお構いなしだ。アルカナをソファに座らせると、その膝に頭を据えてごろりと横になる。彼の長い脚は二人掛けのソファでは物足りずに、すっと突き出ている。
「ピアキィ様!?」
いつものことながら、アルカナはピアキィの唐突な挙動に思考まで真っ赤になった。彼は駄々をこねるがごとく「んー」と声を上げて寝返りを打った。
沸騰寸前のアルカナとは打って変わってファレイアは大喜びだ。
「ピアさま、ピアさまっ、フィーといっしょにあそぼ!」
「うるさい、疲れてんだ、ガキ、どっかいけ」
ピアキィは端的にファレイアを罵った。目を開きすらしない。ファレイアが口を尖らせた。
「ガキじゃないもん、パパはフィーのこと、『可愛いレディ』って言ってくれるもん」
「『お子様レディ』、頼むから消えてくれ」
払いのけるように手を振ったピアキィは本当にお疲れのようだ。足でブーツを脱ぎ落とすと、「むう」と間抜けな声を上げて眉を寄せた。そういえばついさっき万年筆をリーゼルに渡したばかりだが、あればどうなったのか。尋ねたいけれどできないものかしさにあちこち視線を飛ばしていると、ピアキィが出し抜けに、ミュウに向けて手を振った。
「おまえ、荷物整理しといて」
「……は?」
「明日、俺とアルカナは出かけるから。お前は休み」
アルカナとミュウははたと顔を見合わせた。そんな話は聞いていない。
「またエファインのご本家ですか?」
「はぁ?」
心底うざったそうにピアキィは薄っすら目を開いた。みかん色の瞳が弱弱しくアルカナを射抜く。
「お前が言ったんだろ、ハイネント家に来いって」
「…それって」
「ハイネント家にはもう連絡してあるから。…もうねる…集会から帰ってきてから仕事が終わらなくてろくに寝てないんだよ」
アルカナはむくむくと自分の中で気分が高揚していくのを感じた…ピアキィはやっぱりリーゼルと逢瀬を楽しんでいるわけではなかった。そればかりか、彼は自分との時間を作るために、こんなにへとへとになるまで仕事をがんばってくれたという。どうやら香水には気づいてもらえなかったが、アルカナは大満足だった。
にんまりするアルカナとは対照的に、ファレイアがわめいた。
「えー!!フィーもいっしょに行きたいよう!」
◆
ファレイアには散々駄々をこねられた。いったいどういう心境の変化か知らないが、香水はピアキィではなくファレイアのほうに劇的な効果をもたらしたらしい。その晩、アンノが迎えに来たにもかかわらず、アルカナのスカートから離れようとしない彼女に、ピアキィは心底迷惑そうな顔をした。
「邪魔だからさっさと帰れよ」
「やだやだっ!フィー、アルカナといっしょにいるー!」
「駄目だよフィーちゃん、アルカナ嬢にご迷惑がかかるから」
「ホントだよ」
唾でも吐きそうな態度でそう言うピアキィに苦笑して、アンノは身をかがめてファレイアを抱きかかえた。立ち上がるときに彼はすんとひとつ鼻を鳴らした。
「アレ、アルカナ嬢、香水変えました?」
「え?ええ。わかりました?」
「いいですねェ。ウチの女房の使ってるものに似てるかな。フィーもそれで甘えん坊になっちゃったのかな?」
「ふふ、お世話になっている女官の見立てなんです」
さらりと言ったところで、アルカナは隣のピアキィの機嫌が急降下していることに気づいて口をつぐんだ。ピアキィの脚がふらりと動く。アルカナははらはらした。
アンノはそれに気づいているのかいないのか、にこにこ笑いながら続けた。
「そういえばお二人とも、明日はアルカナ嬢のご実家に帰られるとか」
「は、はい。そうなんです。ピアキィ様がわざわざお休みを取ってくださって…」
「まあ、近頃の閣下、鬼のように働いてましたからねえ。ピアキィ付の女官がずいぶん拗ねてましたよ」
アンノはどこまで知っているのだろう。アルカナは目を瞬いた。わざわざアルカナの前で彼女の話題を振るということは、リーゼルが最近、何かにつけてアルカナを嘲りに足繁くやってくるのも伝わっているのかもしれない。
「いい加減にしろよ、アンノ。蹴るぞ」
そう言いつつピアキィは既にアンノの向こう脛を蹴っていた。アンノがうめいた。
「まったくモォ。そうやって閣下がアルカナ嬢を囲って出さないから、あることないこと噂が立っちゃうんですよ」
噂?アルカナは尋ねようとしたが、その前にピアキィがむっつりと言い放った。
「うるさい。調子に乗るな。口が軽いんだよ。おせっかい」
「都合悪くなるとすぐ暴言吐くんですから。アルカナ嬢に嫌われちゃいますよ。ねェアルカナ嬢」
「えっ、いえ、そんなことは…」
またピアキィの脚がゆらめいているのを見てアルカナはあたふたした。どうやら確信犯らしい。アンノはケタケタ笑った。
「まあ、明日はどうぞ楽しんできてくださいね!じゃあ今日はこれで。フィー、アルカナ嬢とピア様にばいばいは?」
「むー」ファレイアはまだしかめっ面だ。「アルカナ、ピアさま、ばいばい」
アズラーノ親子が帰るなり、ピアキィは勢いよく扉を閉めた。よほどアンノの言動がお気に召さなかったらしい。辟易した様子でソファにうつぶせに倒れこむと、「うー」と声にならない声を上げている。その背中がなんだかかわいらしくて、アルカナはくすりと笑った。
「わらうな」
くぐもった顔でピアキィが言った。アルカナは口元に手を当てて神妙な顔を取り繕うと、ごまかすように積み木を片付け始めた。ピアキィの機嫌を損ねて明日の帰宅が叶わなくなったら大変だ。ミュウはもう帰してしまったし、どこかいたたまれない気持ちで片付けをしていると、やがてピアキィが口を開いた。
「アルカナ」
「はい?」
振り返ると、ぼーっとした様子でピアキィはこちらを見ていた。アルカナは思わず笑ってしまった。
「ピアキィ様、眠いのでしたら、寝室に行かれたらいかがですか?」
「ん」
ふらふらとピアキィは立ち上がった。午後一杯寝倒したのにまだ足りないらしい。寝ぼけ眼でふらりとすると、彼はなぜかこちらに寄ってきて、ぎゅうとアルカナを抱き込んだ。
「!?」
アルカナは寿命が縮まるかと思った。ピアキィは何も言わずにアルカナを抱きしめて、そして、満足がいったとばかりにあくびをしながらするりと寝室へと歩いていった。
いったいなんだというのか。
積み木を取り落としたことにも気づかずアルカナは呆けた。頬が熱くて仕方ない。目下の問題は、彼の眠っているだろう夫婦共用のベッドに自分が潜り込めるか。アルカナはまったく自信がなかった。
ピア様は香水に気づかなかったんじゃなくて、むしろちゃんと最初帰ってきたときに気づいてたけどあまりに眠くて言いそびれて、いつ言おうかタイミングを見計らってたのにアンノに先を越されたとかだとかわいい。