act.13 それはあたかもぬるま湯のような
序盤で数行アハンなシーンが入ります。かなりぼかしてありますが苦手な方はご注意ください。
夢を見ていた。白い世界の中だ。
赤いソファーに座っている。ピアキィは幼い子供だった。ぶらぶらと浮いた足を降っていると、右隣に座っていた母がすすり泣いているのに気づいた。ピアキィと同じ金髪を振り乱して、両手で顔を覆ってうつむき肩を震わせている。ピアキィは無性に母が心配になって、彼女の袖を引いた。
"ははうえ?"
母はこたえない。すると、左隣の父が急に立ち上がり、ピアキィと母を置いて歩き始めた。こちらを振り返ることもなく、まっすぐに。
"ちちうえ"
ピアキィは呼びかけた。父の背中は遠くなる。ピアキィは悲しくなったけれど、どうして悲しいのかもわからなかった。
ピアキィはうつむいた。すると、のっぺらぼうのように顔の見えない全裸の女が目に入った。いつの間にか場面が変わり、ピアキィは青年の姿で、赤いベッドの上で、女を組み敷いていた。女は何かわめきながら身悶えているのに、ピアキィの心は冷え切ったまま。なんの熱も感じることなく、ピアキィは女を征服していた。
上からぽたりぽたりと何かが降ってくる。見上げれば雨。ピアキィはその場に立ち尽くしていた。金髪はいくら濡れても緑にはならない。なぜだろう?身にまとう黒い服は、水を吸って更に深い闇色に染まっていくのに。
"あら"
何も感じないピアキィに、誰かが手を伸ばし、ピアキィの首元に手を伸ばした。
"リボンが曲がっていますよ、ピアキィ様"
そう言ってピアキィのリボンを結びなおした白い服の少女は、びしょぬれの姿に頓着もしないで立っていた。彼女はピアキィの胸元しか見ていない。ピアキィはぼんやりと思った。この少女に自分を見て欲しいな、と。いつの間にか手にしていた白い百合の花を、彼女にそっと差し出すと、少女はにっこり笑った。笑って、そしてピアキィの顔を見上げた。
ピアキィは柄にもなくドキリとした。この少女が欲しくなった。ピアキィは、彼女の名前を呼ぼうと口を開いたが、なぜか少女の名前が出てこない。どうして?こんなにそばにいるのに、何度も呼んだ名前なのに、どうして、どうして?みるみるうちに少女の姿が霞んでいく。見えるのは最初にあった白い世界だ。待って、思い出すから、俺を置いていかないで!
◆
「ピアキィ様?」
アルカナは振り返って声を発した。黒いコートの裾をくいと引っ張ってきたピアキィは、薄くみかん色の瞳を開いて、眠たげに何度か瞬きを繰り返した。
「……う?」まだ半分夢見心地のようだ。アルカナはくすりと笑った。
「お目覚めですか?」
「ん…」
目をこすりながら起き上がったピアキィは、しかしますます強くアルカナのコートを握った。なんだか随分と甘えん坊だ。こんなに上等な布に、しわをつけてしまうんじゃないかしら。アルカナが考えたところで、ようやく覚醒してきたらしいピアキィが問うてきた。いつもより少し低い声だ。
「どこ行くの」
「え?…あの、すみません。ちょっとお化粧直しに」
「…ああ、うん。そう」
確かめるなりピアキィはあっさりアルカナから手を離した。あんまりにもあっけないものだから、少し物足りない気分でアルカナは歩を進めた。テラスから大広間に戻る途中で、こっそりピアキィを振り返ると、彼はじっとアルカナを見ていた。
今日のピアキィはなにかにつけてアルカナにひっついてくる、気がする。元々スキンシップの激しい性質だったとは思うが、それにしても今日はピアキィが片時も離れまいとして、必ずなにかしらアルカナに触れていた。アルカナは自分の手を見下ろした。
(手なんて繋いだの、初めてじゃないかしら)
結婚の式典で儀礼的に手を取られたときくらいだろうか。ピアキィにとってはなんでもないことかもしれないが、男性との付き合いなんてほぼ皆無だったあるかなには、ひどく特別なことのように感じられた。アルカナは頬の緊張が緩むのを押さえながら、そそくさと化粧室に向かった。
その時だ。
「ああ、いたいた。アルカナ?」
「シェーロラスディ陛下」
「シェロでいいって言ってるのに」
そんなわけには参りませんとモゴモゴ言っていると、シェーロラスディは仕方ないとばかりに苦笑した。
「ピアキィは?」
「お庭にいらっしゃいますよ。今出てきたばかりなので、多分お一人だと思いますが」
「あ、いや、別にピアキィに用というわけじゃないんだ。アルカナに、例の景色を見せてあげようかと思って」
「まあ、よろしいのですか?」
「きっとアルカナも気に入ると思うよ」
「あ、でも私、ピアキィ様に何も言わずに行くわけには…」
「じゃあ君のご主人に了解を取りに行くとしようか」
シェーロラスディはにっこり笑ってアルカナに腕を差し出した。どうすべきか迷ったが、男性のエスコートを断るだなんて礼を失することだ。アルカナは溜息をつきそうになるのをこらえて、シェーロラスディの腕に手を置いた。
「先ほどケルトに会ったらしいね」
突然シェーロラスディが切り出してきてアルカナは息を呑んだが、彼にはそれで十分だったらしい。
兄弟の顔はあまり似ていない。兄は柔和だが弟は鋭い印象なのだなと感じた。しかし少し薄いくちびると、すっきりと細い首はそっくりだった。シェーロラスディは淡く微笑んだ。
「一応自分の弟だから言うとね…ケルトも、あれで父親として思うところは色々とあるらしい。ああ見えて奴はけっこう親馬鹿なんだ。たまに届く手紙には九割ピアキィのことしか書いてない」
「え」
アルカナは目を瞠った。しかし、そう言われれば納得できることもある。
「まあ、確かに、ピアキィ様のことを考えていらっしゃる節は…だけど、アンノ様は、ケルト様が、ピアキィ様を愛すことができなかったと仰ってましたよ?」
「あいつはそんなことを言ったのかい?」
シェーロラスディ陛下はくすくす笑った。
「そうだな。アンノは理解できないだろう。あいつはピアキィが父を憎むのを、ずっと側で見てきたのだから」
「どういうことですか?」
「ケルトはね、エファインを、ひいてはファナティライストを捨てるらしい。一人の平凡な男として生きていくことを決めたそうだ」
アルカナは目を瞬いた。国を捨てる?ということは、王位継承権も放棄するということだ。シェーロラスディ陛下には今子供がいないから、彼の弟であるケルトが今は王位継承権を持っている。彼がいなくなれば…
「まさか、ピアキィ様が?」
「いや、ピアキィは平民の子供だし、もうアンノの家に籍を移している。ケルトも対外的には息子として認めていない。まあ、上の連中はうるさいだろうが、不老不死一門の反発が強いからあいつが世界王になるのはほぼ無理だ。まず本人が嫌がってるしね。そろそろ私も奥さんを宛がわれる頃ってことかな」
アルカナは口をつぐんだ。シェーロラスディの言いたいことがなんとなく分かったからだ。ケルトの不器用な愛に感づいて、アルカナは眉をひそめた。
「そりゃ、ピアキィ様の元に嫁いだのが私、ということは、ピアキィ様に王位を継ぐ気はないのだと、そう思いますけど」
「むしろピアキィはさっさと国を離れて隠居生活でも送りたいみたいだな。アルカナには悪いが、私は当分彼をこき使うつもりだよ。ケルトの小言がうるさいけどね…おや?」
シェーロラスディは立ち止まって前方をじっと見た。彼の視線を追うと、ベンチに優雅に腰掛けたピアキィを、幾人ものお嬢さんが取り囲んでいる。血などにとらわれることなく、ピアキィの美しさは不老不死をも魅了させるらしい。きらびやかな女性に臆することなく薄っすらと微笑む夫の姿に、アルカナは拳を握り締めた。
血なんて。きっと、親族の威光も、特殊な出生も、そんなものがなくて、たとえアルカナと同じくらい、いや、いっそ奴隷の身分だったとしても、ピアキィの姿はいつだって輝くのだろう。彼のあの美しさとか、奔放な性格、人を惹きつける力を、きっと誰かが見つける。彼は誰かの輪の中心にこそ生きるべき人だ。部屋に閉じこもって、窓の外ばかり見ていた、陰気な自分とは違って。
近づいたなんて、そんなのは嘘だ。ピアキィの名前を汚さない、だなんて。アルカナの存在が、自分の知らないところで、ピアキィを苛んでいるのかもしれないのに。
ピアキィを囲う女性の中で、幾人が彼に焦がれているのだろう。彼女らの上に立っている自信などこれっぽっちもなかった。想いも身分も自信も、きっと誰にも勝っていない。ケルトに大見得を切ったって、アルカナがただの小娘であることに変わりはないのだ。
「私、少しだけレイン様の気持ちが、わかった気がします」
ちらりとシェーロラスディがこちらを見た気配がした。アルカナは微笑んだ。権力なんて、老いない体なんて、そんなものに興味はない。それでも、自分がピアキィの側にいてもいいのだと、そんな証が欲しくなった。こんな何のとりえもない娘ではなくて、ひとつでもいいから。ピアキィに釣り合うためのものなら、なんでもいいから。
シェーロラスディがくすりと笑った。
「…レインも昔は君のような娘だったよ」
彼を見ると目が合った。シェーロラスディは、そっと目を伏せて、思い出すようにつぶやく。
「働き者で、優しくて。だがしかし、君はやはりレインとは違う。孤児で、その身ひとつで神殿にやってきたレインは、ケルト以外に頼れる者もいなかったけれど、君には家族もすぐ側にいる」
それから彼はお茶目にウインクした。「もちろん私もね」
「そんな…恐れ多いことです」
アルカナは困り果てた。シェーロラスディは、アルカナがレインのようになるとでも思っているのだろうか?アルカナには、女官を呼び捨てにする度胸さえもないのに?シェーロラスディはケタケタ笑った。
「そうだ、アルカナ。君、仕事をするのに興味があるかい?君の淹れるお茶はおいしいってピアキィから聞いてさ。是非僕の世話係にでもなってくれないかなあ」
「えっ」
「なに勝手に甥の嫁を口説いてるの」
ぐいと引っ張られて、アルカナはたたらを踏んだ。見上げると、ピアキィが不機嫌な顔で伯父を睨んでいた。シェーロラスディは瞬く間にアルカナの手から腕を外して一歩後ろに下がった。そして白々しくもにっこり笑う。
「いいじゃないか。別に、常に夫婦一緒であれってわけじゃないし」
「駄目」
アルカナはピアキィの脇から、彼を囲んでいた女性たちを見た。誰も彼も不快そうな顔でじとりとこちらを見据えている。アルカナはぎくりとしてピアキィから離れようと、彼の胸を押した。
「ぴ、ピアキィ様?あの、離して…」
アルカナは閉口した。ピアキィが苛々とこちらを見下ろしたからだ。
「…なんでもありません」
ピアキィは鼻を鳴らして、アルカナの肩をいっそう強く抱きこんだ。シェーロラスディがニヤニヤ笑った。
「まったく、嫉妬深い夫を持つと苦労するね、アルカナ?」
「そ、そんな」
一体どうしたのだろう?アルカナはチラチラとピアキィを見ながら困惑した。ピアキィはこんなにアルカナに対してべったりだっただろうか。どうせアルカナなんて、彼の数多くいるであろう女性の中の一人であるだろうに。嫉妬?何故そんな感情が沸き起こるというのだ。
父君にあって人肌恋しくなったのかしら。アルカナは苦笑して夫に尋ねた。
「ピアキィ様、私、先ほどシェーロラスディ陛下に、このお城を案内していただくことになったのですが」
自分で言って不安になってきた。かの世界王陛下を、私なんかがこき使うなんて許されるはずがない。
するとピアキィは不機嫌に言い放った。
「やだ」
「別にピアキィは来ないでいいよ。邪魔だし」
シェーロラスディはあっさりと返した。それからにっこりとアルカナに笑いかける。
「ね?」
「え、えっと」
アルカナは戸惑った。シェーロラスディは企み顔だし、ピアキィは凶悪な目つきだ。震え上がりそうになるのをどうにかこらえて、アルカナは精一杯愛想良く夫に言った。
「あ、あの…ピアキィ様、一緒に参りませんか?」
「……」
どうやら夫は妻の申し出がお気に召さなかったらしい。むっつりしながら、ようやくアルカナの拘束を解くと、不貞腐れたようすで広間への道を歩き出した。
アルカナは慌てて声をかけた。
「あ、あの、ピアキィ様?」
「…リズ兄さんたちのところにいるから、用が済んだら声かけて」
「え?でも、リズセム様がたのところには、ケルト様が…」
行ってしまった。まさか、自分から苦手とする父の元に行くなんて、大丈夫なのだろうか。慌ててピアキィを引き止めようと一歩前へ出るが、シェーロラスディが穏やかに言った。
「放っておきなさい」
「で、ですが陛下」
「あれも、君の気をひきたくてわざとそう言ったんだろう。実際はそのあたりをぶらついているだけさ。そもそもリズ達、もう帰ったしね」
「でも…」
名残惜しいような気持ちでピアキィの背を見送っていると、先ほどの令嬢たちがピアキィに声をかけていた。愛想良くそれになにやら返しているピアキィに、アルカナは唇を引き結んだ。