act.12 王弟殿下の心底
「結婚したそうだな」
そう言って、ケルトはちらりとアルカナを見た。アルカナが慌てて礼の形を取った隣で、ピアキィはそっけなく声を上げた。不機嫌なときの声音だ…アルカナははらはらした。
「何の用」
「用がなければ声をかけてはならないか」
「まあね」
ピリピリとした空気。アルカナは、いつピアキィの暴挙が現れてもいいように身構えた。が、しかし、不意にピアキィはつまらなさそうに息をついた。彼らしくもなく。低い声で言う。
「結婚?したよ。お偉方がうるさいから。それがなに」
「お前は…」ケルトもうんざりとした声音だ。「私に何も言わずに…しかも、こんな人間の小娘を」
ぎくりとした。ピアキィの顔色をそっとうかがうと、彼は気味が悪いくらいに無表情だった。アルカナの困惑した視線に気づいて、ようやく少しばかり表情を崩す。細くて長い髪が、礼を取ったまま固まっているアルカナの髪の毛先をいじくった。
「人間?」
ピアキィは嘲笑した。
「俺の記憶違いでなければ、我が親愛なる父上殿も、どことも知れぬ平民の女を娶ったと思ったけど」
「ああ。そして離縁した」ケルトは苛々しているようだ。
「いいか、ピアキィ。人間は姑息だ。そこの女も、おとなしそうな顔をしていつ仕掛けてくるか」
これが本人を目の前にして言う台詞だろうか。アルカナは怒りを通り越して呆れ返った。勿論アルカナに、ケルトが案じているようや野心などかけらもない。アンノから聞いた彼の経歴からすれば、ケルトの女性不信も仕方のない話かもしれないが、アルカナは、もとよりこんな縁のない世界、望んで来たわけでもないのに、この言われようは心外だった。むっとする感情を必死で押し込めていると、隣にいるピアキィが出し抜けに噴出した。
「あはは!姑息だってさ。アルカナ、お前、そんなに権力とか好きだっけ?」
「私の父にもう少し野心があったら、そのように育っていたかもしれませんわ」
アルカナは慎重に答えた。とはいえ、何を言ったところでケルトは信じないだろうと分かっていた。
正直なところ、アルカナにとってこのケルト・エファインなる人物はあまり好かない部類の男だった。いかなる理由があれ、ピアキィを、息子をないがしろにするなんて間違っている。責任感のない人間は嫌いだ。
だからケルトにどう思われようともアルカナは痛くも痒くもなかったが、夫にその咎が回ってくるのは勘弁願いたい。出来る限り不快な気分を表に出さないように努めていたが、アルカナのともすれば挑発的な台詞が、その夫はたいそうお気に召したようだ。
「へえ。じゃあアルカナは、これから俺が失脚してスラムに身を寄せることになったとしても、ついてきてくれるわけだ?」
「ええ。夫の行くところどこまでもお供いたします。それが妻の役目です。…せめて衣食住が揃っていたほうが、望ましいとは思いますが」
「ふうん。だそうだよ、父上。良かったね、息子が妙な女に引っかからなくて?」
「口では何とでも言える」
その台詞に、アルカナはカチンときた。憎々しげな視線でこちらを射抜くケルトを見返してやる。そうだ、いくら義父とはいえ、ピアキィと彼の縁はほとんど切れているのだし、夫は明らかにケルトを煙たがっている。夫の敵は妻の敵。アルカナはそう言い訳して、王弟殿下を不躾にまっすぐ見据えた。
「ケルト殿下。ご無礼を承知で申し上げます。あなた様が私をどう思われようと、私が貴族の末端出身の小娘だということは事実ですし、それについては返すお言葉もございません。けれど私はピアキィ様の妻として、恥ずべき行動をしないよう、誠心誠意夫にお仕えしているつもりですし、分をわきまえぬ行いをするつもりもございません。確かに私は身分も低い、殿下からしてみれば人間の小娘ごときと思われるかもしれません。ピアキィ様に相応しい女だとも考えられませんが、こうして選ばれた以上、私はピアキィ様の御名を汚すような真似はいたしません」
アルカナは深く息を吸って言い切った。「誓って」
我ながら随分と大胆なことをしてしまった。隣にいるピアキィが息を呑んだ。ケルトはきつい目つきで、この場をわきまえない小娘を睨めつけている。アルカナは拳を握りこんだ。誰がなんと言おうと、自分はピアキィの妻なのだ。どんなに分不相応でも、女官たちに嫌われても。このピアキィ閣下を後ろで支える役目が、アルカナの仕事だ。ならば、ケルトにそれを見下されるいわれはなかった。
しかし、この空気はなんともいたたまれない。何か言ってくれと隣のピアキィに祈るように願うと、意外にも反応は別のところからやってきた。
ケルトの背後からぱちぱちと、控えめな拍手が飛んできた。見ると、黒髪の青年が、銀髪に瑠璃の瞳の、目も覚めるような美少女を脇に引き連れ、満面の笑みでアルカナを見ていた。
「いやあ、楽しい演説をありがとう。ピアはなかなかいいお嫁さんを捕まえたようだ」
「リズ兄さん」
隣のピアキィがぽつりと言った。青年の隣に佇む美少女がくすりと笑う。
「ケルト、認めて差し上げてもよろしいのではないのですか?とても素敵なお嬢様だと思いますわ」
乱入者たちはにこにことアルカナを見ていて、アルカナは思わず一歩下がった。ケルトのように明らかに嫌ってくる者はともかく、このように意味深に微笑まれるのもまた不気味である。すると、「リズ兄さん」と呼ばれた男がケルトを押しのけて、アルカナの前に立つと優雅に一礼した。洗練された動きだった。
「お初にお目にかかります、勇気ある奥方。俺はそこにいるケルトの古い友人でね。リズセム・シエルテミナと申します。これが俺の妻のナシャ。あいにくと妻以外の女性には触れないと心に決めてるんで、握手はご勘弁願いたい」
「は、はあ」
なんだか個性的な男だな、スカートの端をつまんで礼を返した。一目見ただけでも、このリズセムとやらが愛妻家なのは明らかだった。男はやたら妻にひっついてベタベタしているし、清純そうな妻のほうもそんな夫に慣れた様子で、何も言わずニコニコしている。目を白黒させてピアキィを見ると、彼はついとアルカナに顔を寄せて耳打ちした。
「リズ兄さんはシェイルの旧皇帝位に就いてる」
「えっ!?」
ちょうど妻のこめかみにキスを落としていたリズセムがにっこり笑った。アルカナは目を見張った。つくづく不老不死とは恐ろしい。ケルトにしろリズセムにしろ、国の上層部にいる連中はみなこんなに見目が若いのだろうか。シェイル王は確か、シェーロラスディ陛下とそう変わらない年頃のはずだった。目の前の青年はピアキィと同じか、下手をすると彼より年下にしか見えない。アルカナは慌てて夫の一歩うしろまで下がり、深々と礼をし直した。
「も、申し訳ございません、大変失礼をいたしまして」
「あーあ、いいよいいよ。格式ばったのは好きじゃないし、元々俺は庶子だから敬われるような身分でもないしね」
リズセムはひらひら手を振って頬を緩めた。対するアルカナはくつろぐなんてもってのほか、この男の食えない態度に固まった。へらへらと笑って妻といちゃついている軽薄な男に見えるが、しかしそうではないのだろう。彼の口調は砕けているものの理知に富んでいるし、なにより隣のピアキィがおなじみの嘲笑を浮かべていない。少なからず、「リズ兄さん」と呼ぶこの青年に一目置いているのは確かだろう。
一方でケルトは相変わらずアルカナを睨んで歯軋りしている。
「私は認めない」
「ケルト、往生際が悪いですわよ。婚儀はもうお済みなのですから。ああ、どうしてわたくしたちも呼んでくださらなかったの?わたくしもリズも、あなたの花婿姿をとても楽しみにしていましたのに」
「…そこの父上が、シェイルにご滞在だと小耳に挟んだので」
ピアキィが誰かに敬語を使うところなど初めて見た。アルカナは面食らってまじまじと美少女を観察してしまった。彼女は柔らかに微笑む。
「どうぞお気軽にナシャと呼んでくださいませね。わたくしもアルカナと呼ばせていただきますから。ふふ、わたくしもね、リズの目に留まるまではたんなる村娘だったのです。だからどうか気負わないで、仲良くしてくださいな」
「まあナシャは、村娘だろうと王妃だろうといつだって誰より美しいけどね」
「あら、リズったら」
ケルトは、リズセムとナシャにすっかり話の運びを持っていかれて舌打ちした。その様子をじっと見ながら冷静になってきたアルカナは思う。…この男は、ピアキィが嫌いではなかったのだろうか?それとも、息子のことを親としてきちんと愛しているのだろうか。アルカナのすべてが気に入らんと言わんばかりのこの男に、アルカナは首をかしげた。どこからどう見ても、息子に寄り付く悪い虫を追い払わんとする父親の図だ。その虫役であるアルカナとしてはいい気はしないけれど。
考えにふけっていたその時のことだ。
「シェロ!!」
突然シェーロラスディの愛称を怒号のように叫ぶ女性の声が聞こえて、アルカナとピアキィは立ち止まった。リズセムとナシャがくすくすと笑い出し、ケルトが深い溜息をついた。
「またか」
「懲りないねェ、あの二人も」
「な、何事ですか?シェーロラスディ陛下のお名前が聞こえましたけど」
もし世界王になにかあったら、その責任は、一応護衛としてついてきたピアキィに降りかかるのではないか。思わず夫の顔を見上げると、しかし彼は平然としていた。不安げなアルカナの表情に気がついて、ふと口端を上げた。
「どうせまた、伯父上がフェルマータにちょっかいでもかけてるんだろ」
「フェルマータ?」
どこかで聞いた名だ。首をひねっていると、ピアキィはくっと喉の奥で笑った。
「ラトメの"神の子"」
「……ああ」
そういえば、南のラトメディアの最高権力者がそんな名前だったかもしれない。シェーロラスディが顔合わせの時に言っていた、女官泣かせの権力者だ。ここにいるということは、"神の子"の一族も不老不死ということか。人ごみからシェーロラスディ陛下と、噂のフェルマータが見えやしないかとのぞいてみるが、あいにくと人の隙間から、シェーロラスディの緑の髪がチラリと見えただけだった。ケルトが「なんとぶしつけな」とでも言いたげな顔をしたので、アルカナはすごすごと姿勢を正した。
リズセムがにっこり笑ってアルカナに教えた。
「シェロの趣味なんだよ。フェルの奴、打てば響くっていうか、ちょっとからかっただけですぐ怒るからさ」
「シェロ!わたくしをからかうのもいい加減にして!」
相次ぐフェルマータの怒鳴り声に、リズセムは「おお恐い」と言ってナシャを引き寄せた。ケルトが心底嫌そうな顔をした。こう言うとピアキィは怒るだろうが、この表情は父息子よく似ている。
「…行ってくる」
「ハイハイ。兄弟水入らずでじっくり話しておいでよ」
ケルトは最後に一度ギロリとアルカナを見やると、騒ぎの中心へと小走りで駆けて行った。みるみるうちに隣のピアキィから緊張が解けていく。まったくもってギスギスした親子関係だ。アルカナがチラリと夫を見ると、彼のほうもこちらを見ていた。しかし、ピアキィはアルカナと目が合うなりぷいとそっぽを向いてしまった。一体なんだというのだ。
「アルカナ、行こう」
父のいないうちに逃げる算段らしい。はやくこの場から立ち去ろうと、アルカナの腰をぐいぐい引っ張るピアキィに逆らって、アルカナはどうにかこうにか踏ん張って、やっとこリズセムとナシャに一礼した。
「申し訳ありません、リズセム様、ナシャ様。私たちも失礼いたします」
「ああ、そうだね。あの口うるさい奴が帰ってこないうちに退散しちゃいな」
「また今度ファナティライストにもお伺いいたしますわ。どうぞその時はお茶などにお付き合いくださいませね」
快く手を振って応じるリズセムとナシャに、アルカナはもう一度頭を下げようとするが、その前にピアキィに急かされてその場から引き離された。よほど彼はここにいたくないらしい。
◆
人のいないテラスまで来て、ようやくピアキィは足を止めた。デザインの凝ったベンチにどっかりと座り込むと、ピアキィはアルカナの腕を引いて隣に座らせた。それきり黙りこんだ夫に、アルカナは困り果てた。父のことをなにかフォローすべきだろうか。そわそわするアルカナに、ピアキィは自嘲するように言った。
「…俺には、あの人がわからない」
ぽつりとした声だった。アルカナはなにを言おうか迷ったが、結局声にならずに口を閉ざした。
「父親ってのは、みんなあんなモンなのかな。今までぜんぜん相手にもしなかったくせに、俺が結婚したとたんにアレだ。あの人に、親としての自覚なんてないくせに」
「ピアキィ様…」
アルカナは眉尻を下げた。あのケルトは何を考えて、ピアキィから離れたのだろう?彼は本当にピアキィを愛してはいないのだろうか?わけがわからない。わけがわからないが、とにかくもケルトは、世間一般の父親とは少し違うということだ。ピアキィが、アルカナのすきなひとが、彼のせいで傷ついているということだ。
アルカナの心は決まった。
「ピアキィ様、私の家にいらっしゃいませんか?」
「ん?」
怪訝そうなピアキィに、アルカナは慌てた。
「あ、あの、ピアキィ様のような方では、うちのように低俗な場はお嫌いかもしれませんが…ほら、私の父だって、ピアキィ様にとっては一応、義父にあたるわけですし…うちの父親は能天気でお人よしで、情けない人ですが、その、ケルト様だけが父親ではないですし、ね?あの…」
ただ、知ってもらいたいのだ。ちゃんと子供を真正面から愛してくれる父親もいるのだということ。トロットはのんきな男だが、そうであるからこそ、ピアキィに気負わずに付き合ってくれるだろう。それこそ家名を売るとか、そういう損得勘定を抜きにして。
けれどピアキィのほうはそうは思わなかったかもしれない。権力を得ようと、ピアキィを家に取り込もうとする汚い女に見えたかも。アルカナは真っ赤になってうつむいた。
「す、すいません。忘れてください。ご迷惑ですよね、ピアキィ様はお忙しいのに、こんな」
「行く」
アルカナは目を瞬いた。ピアキィはこちらを見ていなかった。生い茂る草花をまっすぐ見ていた。探るように彼の大きな手が動いて、アルカナのそれをぎゅっと握った。彼は少し口を尖らせていた。耳が赤かった。アルカナはドキドキした。
「行く」
「…はい」
夢見るような心地だった。アルカナの想いが通じたのかと思った。それからピアキィは、馬車に乗ったときと同じくアルカナの肩に頭を預けて、ゆっくりと目を伏せた。ピアキィの金髪が、アルカナの頬をくすぐった。アルカナの声が掠れた。
「ピアキィ様?」
「…寝る」
「は、はい」
風は穏やかだった。このまま時が止まってしまえばいいのに。アルカナもまた目を閉じた。吐息さえ響く中で、アルカナは確かにこの時、この瞬間、限りない幸福を噛み締めていた。
◆
二人の姿を上階の渡り廊下から眺めながら、黒髪の青年がにやにやと笑っていた。
「あーあー、見せ付けてくれちゃって。俺も帰ったらナシャといちゃいちゃしたい」
「お前らは年中いちゃついてるだろ」
くす、とシェーロラスディは微笑んだ。リズセムは手すりにもたれかかったままで、上目遣いにかの世界王を伺った。
「シェロもさあ、いい加減解放してやればいいのに。ピアがいつまでもファナティライストにいちゃ、この馬鹿のせっかくの決意も無駄になっちゃうじゃん」
「さてね」シェーロラスディは肩をすくめた。
「ケルトもだよ。ホントは息子が可愛くて仕方ない癖になにやってんの。素直になってりゃ、ピアだってああもおびえたりしないだろうに」
「俺は父親に向かない」
ケルトはきっぱりと言い放った。それでも、未練がましく視線はピアキィに注がれている。
「あの子は、不老不死に染まりあがった私が育てていい子ではない」
リズセムは溜息をついた。
「アンノにピアを預けたときのこと、俺、覚えてるよ。自分の従者に土下座までしてさ。ピアキィを頼むって何度も言うし。この親馬鹿が、ホントに息子と離れられんのかよって思ったね」
ケルトは何も言わなかった。その代わりに、彼の兄が、クックと笑う。
「ケルト、決めたのか?」
「はい」
ケルトはようやく息子から視線を外した。兄をまっすぐに見たその緑の瞳には、決然とした光がはっきりとあらわれていた。
「ピアキィをどうかお願いします、兄上」
「それは言う相手が違うんじゃないかな」
ゆったりとシェーロラスディは言った。穏やかに、自身の甥とその新妻を見つめて、それから弟に向かって笑いかけた。
「今ピアキィの一番そばにいるのはあそこにいるアルカナ嬢だ。あの子はきっと、ピアキィの大きな支えになるだろう」
「……」
「きっとね」
シェーロラスディはにこやかに言った。対称的な弟は、悔しげに、眠る夫婦を見下ろした。
旧皇帝位:現在この世界は、かつてはバラバラだった各国を統合してひとつの国になり、各国の首都は国の主要都市となって成り立っています。「旧皇帝位」というのは、シェイルがまだ帝国だったときの皇帝位のことで、今ではシェイルの都市代表のようなものです。本作の本文では解説されないためこちらにて失礼いたします。