act.9 気まぐれなかの人
アルカナとファレイアの関係は最悪だった。
日常は流れていった。あっという間にアルカナが輿入れしてから二ヶ月ほどが経ち、ようやっとアルカナはファナティライスト神殿での生活に慣れつつあった。ミュウと年配の女官以外からは相変わらず嫌われているようだが、不便の無いようにミュウが随分と気を使ってくれているのか、アルカナはさしたる不満もなく暮らしていた。時折ふらりと現れるピアキィに対応することを除けば、アルカナの仕事はもっぱらファレイアの子守くらいで、あとは至極平和な日々だ。
しかし、困ったことに、肝心のファレイアとは険悪な仲なのが、アルカナの目下の悩みだった。初対面が「アレ」だったことも原因のひとつであろうが、ファレイアはいかにピアキィに冷たくされようとも嫌いになる気は毛頭ないようだった。まったく健気な話である。
しかもファレイアは、三歳児にして随分と策士であった。
時折意図的に迷子になったり、人前でかんしゃくを起こしたりと、外でアルカナを困らせることで、女官ばかりでなく神官たちの間でも、アルカナの評判は底辺だった。子供の世話ひとつできないのね、先日声高な陰口を聞いてしまってから、アルカナの気分は落ち込んでいた。アルカナの味方の前では下手に動かないのも、ファレイアの理知たる所以である。
活けられた青い花を見てアルカナはまたひとつ溜息を漏らす。今日もかの人は仕事だ。もともと自分が愛されているはずもないが、最近は夜になれば部屋に戻ってきたし、そのほかにもなにかにつけてピアキィはアルカナを構っていた。妻というよりも、それは新しいおもちゃを使いたがるような態度だったけれど、それでも、婚前に彼が毎日別の女性と逢瀬を交わしていたことを思えば、アルカナは随分と長いことピアキィの興味をひいている。ちなみに、アルカナは自分からピアキィに擦り寄ることなど一度もないことは明言しておく。
「アルカナぁ」
今日も高飛車なファレイアの声に、アルカナは寂しげな瞳を隠して笑顔で振り返った。どんなにこの子供が姑息でも、自分の仕事は彼女の世話である。きちんと職務をまっとうしなければ、それこそ「子供の世話ひとつできない」女になってしまうから。
「なんですか、ファレイア様?」
「フィー、ケーキたべたい!」
「ケーキ?」
少なくとも部屋にいるときは、ファレイアは比較的おとなしかった。時々こうしてわがままを言うものの、遊具を与えれば一人でも遊んでいられるし、物語を読んでやれば昼寝もする。別段彼女は聞き分けの悪い子供というわけでもないのだ。
時計を見ると、もうすぐお茶の時間だった。アルカナはミュウに目配せしてお茶の準備を頼むと、ファレイアに笑いかけた。
「厨房にケーキがあるかは分かりませんが、いい頃合ですから、お茶にしましょうか。さあ、手を洗って席につきましょうね」
優しく言ってやれば、ファレイアは素直に手を洗うために洗面台へと向かっていった。アルカナがファレイアが遊具で散らかしたテーブルの上を片付けていると、壁際から声が聞こえてきた。
『アルカナ?』
「ピアキィ様ですか?」
棚に置いた伝達用の椀を取り上げてアルカナは返した。彼が部屋に連絡を入れてくるとは珍しい。
最近薄々と分かってきたのだが、ピアキィは誠実でもないしむしろ非道な男ではあるけれど、妙なところで常識的だった。残業も用事(おそらく女性との逢瀬も含まれる)もなければ必ず帰ってくるし、仕事はまじめにこなしているらしいし。同じファナティライスト出身なのに、大幅に価値観の違う男を相手にしているような気分だった。王族というものは誰もこんなものなのだろうか。
彼の好き嫌いも大体わかってきた。ピアキィは野菜が嫌いらしく、人の目を盗んでよくアルカナの皿に勝手に移してきた。寝相が少し悪くて、布団を蹴っては寒がってあるかなに抱きついてくる。そう、寒がりで、よく袖のすそを指先まで引っ張り上げて、何枚も服を重ねて着込んでいることも知った。その姿だけを取り上げれば、ちょっと子供っぽいけれど、普通の青年である。女遊びが激しくて、あの暴力的で冷酷な一面さえなければ。
だからだろうか。この二ヶ月、ピアキィへの恐ろしさはすっかりなりを潜めていた。彼のミュウへの仕打ちを忘れたわけではない。愛されているだなんてうぬぼれてもいない。けれど、思っていたよりも幸福な結婚生活を送れるんじゃないかと思いはじめていた。だからここ最近、破天荒な彼の挙動に驚くことはあるものの、ピアキィと話すときもそう緊張せずに済んでいたし、彼の美しい顔もまともに見られるようになった。今も、彼からの突然の連絡におやと思いはしたものの、それほど動じることもなかったのだ。
「珍しいですね。何かありましたか?」
『書類、ない?ベッドの脇に置き忘れた気がするんだけど』
「書類?」
椀を片手に寝室に入ると、本当だ、ベッド脇の小机の上に、ひと束の書類とペンがおきっぱなしになっていた。そういえば昨夜、ベッドに寝そべってひたすら書類作りに励んでいたっけ。アルカナは丁寧な字で仕上げられた書類を取り上げて、椀に向かって言った。
「ありましたよ。ペンもお忘れのようですけど」
『ああ、それ。執務室まで届けに来て』
「はい。あ、でも、ファレイア様をお昼寝させるまでは、お待ちいただきたいんですが」
『フィーなんて放っておけばいいのに』
平気でそんなことを口にするピアキィは、言うが早いか一方的に連絡を切った。通信の途切れるプツッという音が無機質に響く。ちょうどその時、ミュウが部屋に戻ってきた。手にしたトレイには、ティーセットと、綺麗にデコレーションがなされたケーキが載っている。アルカナはほっと安堵の息をついた。
「ミュウさん、私ちょっと出なければならないんですけど、ファレイア様をお任せしてもよろしいでしょうか?」
ミュウは渋い顔をした。この二ヶ月、これでいて過保護なミュウは、アルカナが部屋を出るときには必ずお供についていた。この神殿はアルカナの家でもあるのだし、神殿の警備は万全なのだから、本来アルカナは自由にその辺りをぶらついてもいいはずだった。しかし、お忘れなきよう、アルカナは若い女官たちから嫌われている。ミュウが目を光らせていなければ、どこで陰湿な女性たちの苛めに遭うか分かったものではない。
明らかに不服そうなミュウの顔を見て、アルカナは苦笑する。
「大丈夫ですよ。閣下の執務室にお邪魔して、書類をお届けしてくるだけですから。すぐに戻ってきます」
「それなら私が」
「ミュウさんはここにいてください」
アルカナはきっぱりと言った。ピアキィの過去の暴挙を思い出し、もう完璧に癒えた傷が痛むのかミュウは咄嗟にこめかみの辺りをさすった。
「でも…」
「女官の方々だって、いくらなんでも私なんかに何かするほどお暇でもないでしょう?何かあったらすぐに帰ってきます。ね?ファレイア様にはうまく言っておいてください。私がピアキィ様のところに行ったなんて知れたら、また拗ねてしまわれますから」
ミュウが何も反論できなくなったところで、アルカナは書類とペンを抱えて部屋を飛び出した。なんだかんだ言っても、一人で神殿を歩くというのも楽しみだったのだ。アルカナは少しわくわくした。うまくいけば、見れないだろうと期待もしていなかったピアキィの仕事風景もちらりと見えるかもしれない。随分有能だという噂は聞くけれど、あのピアキィが、まじめな顔をしてみかん色の視線を書類に滑らせるところなんて、さぞかし格好いいに違いない。
すっかり浮かれていたおかげで、アルカナはしばらく、これ見よがしにチラチラとアルカナをうかがっている二人組の女官に気づいていなかった。彼女らのすぐそばまで来たところで、二人が底知れぬ笑みを浮かべているのが目に入った。なんだか嫌な感じだ。アルカナはせっかく浮き立った気持ちが、みるみるうちにしぼんでいくのを感じた。
「…ホラ、あれよ。ピアキィ閣下のところに来た恥知らず」
「アンノ様のご息女のお世話をしてるんですって。保護者気取りだって。ファレイア様もおかわいそう」
アルカナは表情を曇らせた。恥知らず。じゃあどうすればよかったのだろう。親の出世をふいにしても、結婚を断ればよかったとでもいうのか?ファレイアはかわいそうなのか?私は、彼女を不幸にしているのか?ただお世話しているだけだし、最近ようやっと打ち解けてきたところだというのに…完全に立ち止まっていたアルカナの腕から書類が滑り落ちそうになって、はっと我に返った。
いけない。こうしてピアキィの元に嫁入りしてきた以上、自分は毅然としていなければ。身分が低いのは仕方が無い。そういう家に生まれてしまって、なぜだかピアキィの目に我が家が留まってしまって。けれどいいじゃないか。これまでそれなりに幸せな人生だったし、ミュウという味方もいる。アンノもなにかにつけて気遣ってくれる。ピアキィは我侭だが、悪いばかりの人でもないと思えてきた。いいことだってある。大丈夫、大丈夫、大丈夫…
けれど、彼女らの脇を通り過ぎるとき、アルカナにもはっきりと聞こえる声音で言われたことばは、何度もアルカナの中で反響して止まらなかった。
「でもほら、ピアキィ様ってウチの…あの子が本命だって話じゃない?あの人なんてどうせ、本命を守るための隠れ蓑でしかないわよ」
「え…?」
思わず振り返ったところで、頭になにか叩きつけられた。一瞬あとでバシャリという音と、冷たい感触が頭のてっぺんから足元まで広がった。ぽたり、前髪から水滴が滴って、ようやくどこか上階から水をぶっかけられたのだと理解した。
アルカナはぽかんとしたが、くすくすと笑う女官たちの笑い声を聞いて、すぐにはっと我に返って胸元に目をやった。抱き込んだ書類が、ぐっしょりと水を吸って濡れている。アルカナは真っ青になった。
「しょ、書類が…」
夜遅くまでピアキィが頑張って仕上げた書類なのに!アルカナは絶望的な気持ちで書類を見た。インクがじんわりと滲んで、ところどころ文字が読めなくなっている。どうしよう!自分が濡れ鼠だということも忘れてアルカナは狼狽した。ピアキィになんと言ったらいいのだ。
女官達が嫌な笑いを浮かべているのを見たが、アルカナと目が合った瞬間、とんでもなく汚いものを見るような顔をして彼女らは笑みを引っ込めた。吹き抜けになっている上階の窓を見上げると、あるひとつの窓が開いているものの、そこに誰かがいるかは確認できなかった。犯人はもう逃げているだろう。けれどそれを誰かに告げ口したからといって何になる。とにかくすぐにピアキィに伝えなければ…
目頭が熱くなるのをこらえながら上げていた頭を下げると、目の前に影が落ちた。あっと思う間もなく腕を取られた。水浸しの書類が廊下の床に落ちた。高級そうな万年筆がかしゃりと音を立てた。
「お前ってばかだね」
なんだか面白がるような口調で、彼は笑った。
「つくづく、見ていて飽きない」
「ぴ、ピアキィ様…」
ピアキィはいつもの嘲るような笑みではなく、ただただ微笑んで、彼はアルカナの頬に空いた手を滑らせた。ふわりと暖かい風が吹いたかと思うと、アルカナの服はすでに乾いていた。目を瞬いているアルカナから視線を外した彼は、足元の水溜りに沈んだ書類を拾い上げる。アルカナは血の気が引いた。
「もっ、申し訳ございません!」
「なにが」
「書類を…」
「ああ、これ。こんなのすぐに直るよ」
言うが早いか、ピアキィが何事か唱えると、書類はぱらりと乾いて、文字もはっきりと元の通りに綴られていた。アルカナが目を丸くしていることを意に介しもしないで、ピアキィはアルカナの腕を引っ張って歩き出した。
「ああ、そうだ」
不意に立ち止まったピアキィが振り返ったが、彼の視線はアルカナではなくその背後の女官達に向けられていた。
「俺のアルカナに手を出したヤツに伝えておけよ。誰か分かり次第殺してやるから楽しみに待ってろってさ」
女官達が息を呑むのが聞こえた。アルカナはぞっとした。
「な、何を仰ってるんですか!」
「何って言葉の通り」
「やめてください!またそんなことを言ったら誤解されるじゃないですか」
「誤解って?」
「そりゃあ」
『俺の』だなんて言ったら、まるでピアキィがアルカナを愛しているようではないか。それだけは違うとアルカナは断言できた。僻みでも卑屈でもなく、ピアキィは確かにアルカナになぜだか執着しているようだが、それは間違っても恋愛感情ではない。どうせ彼にとってアルカナなど、しばらく遊べそうな玩具に過ぎないのだろう。いつぞやか「使い捨てじゃないんだから」とか言っていた。それでも彼が飽きてしまえば、アルカナの存在など簡単に切り捨てられてしまうのだろう。一回きりじゃない、ただそれだけなのに。
けれどそれを自分の口から出すのはひどく恥ずかしくて、アルカナは唇を引き結んで黙りこくった。彼は何を思ったか、ふと息を漏らすと、アルカナを自分の執務室まで引っ張っていった。初めて入るピアキィの仕事場。けれど部屋を出たときの高揚した気持ちはもはや鳴りを潜めていた。部屋まできてようやくアルカナから手を離して、テーブルに書類を投げたピアキィは、上質の絨毯をじっと見つめているアルカナをちらりと見て、平坦に言った。
「座れば」
「いえ…帰ります。部屋にファレイア様やミュウさんを置いてきているので」
ぴりりと空気が尖った。部屋から出ようと開けた扉を、大股でやってきたピアキィに塞がれた。何故かむっとした表情の彼は、素早く部屋の鍵をかけてしまうと、アルカナを無理矢理ソファに座らせた。
「…お前のそれ、癖?」
ピアキィが小机に置かれたティーセットを取り出しながら言った。呆れたような声だ。着々とお茶の準備をしていくピアキィの手元を眺めながら、アルカナは答えた。
「それ、って?」
「敬語とか、その無駄に遠慮深い性格とか」
「無駄ってほどじゃないと思います」
アルカナは顔をしかめた。
「ただ、この神殿には、私よりも高い位の方が多いから」
「ハァ?何言ってんのお前」
アルカナの前に茶を出して、隣に腰掛けながら彼は自分用のマグカップで茶を飲み始めた。猫舌な彼はすぐに「熱ッ」とつぶやいて、すぐにテーブルにカップを戻す。
「お前、どこの家に嫁いできたと思ってんの?この神殿でお前より偉いヤツなんて、俺と伯父上くらいしかいないよ」
「それは…そうかもしれないけど、でも私は、貴族の中でも最下級で」
「ふうん?」
ピアキィは納得がいかないようだった。アルカナがうかがうように彼を見ると、ピアキィはお茶に息を吹きかけて冷ましているところだった。
「うちの母親はそんなこと言ったことなかったな」
「閣下の、お母様?」
「そ。自分は王弟に見初められたんだから、この神殿で相応の扱いをうけてしかるべきだってね。さんざ我侭放題したから、しまいにはエファインに潰されたけど」
アルカナは背筋がぞわりとした。ピアキィは母に対してなんの感慨も抱いていないようである。それから、彼はやんわりと笑った。先ほどと同じ、毒気のない笑みだ。
「まァ、そういうとこがアルカナの美徳ってやつなのかもな」
アルカナはいつの間にか、ふわふわした心地でそれを聞いていた。ただ分かったのは、自分の体は存外冷え切っていて、彼の淹れるあたたかなお茶はとてもおいしいということだけだった。