悪役令嬢が黒幕でした 〜「太ったあなたは公爵様に捨てられる」と笑われましたが、溺愛されたのは私で、捨てられたのは黒幕の方でした〜
『太った貴様を愛することはできない! 婚約を破棄させてもらう!』
新聞の見出しを読んだ瞬間、リーシャは眉を寄せた。
「隣国の姫様、婚約破棄されたのですね……」
読み終えた新聞を受け取った侍女のアンも、胸を痛めた顔をする。
「可哀想に。太ったくらいで捨てるなんて酷い男ね」
「男性はスリムな女性がお好きですからね」
「理不尽な世の中だわ」
リーシャは紅茶を口に含んだ。アンの淹れる紅茶は、甘くて心までほどける。
「アンの紅茶は最高ね」
「リーシャ様のお好みを熟知していますから。砂糖四つにハチミツ、この配合は侍女たちの間でも人気なのですよ」
「私のお墨付きだもの。当然だわ」
カップを置いたリーシャは、ふと首を傾げた。
「でも、最近少し甘くなったかしら」
「……料理長が、リーシャ様のお疲れが取れるようにと」
「そう。気が利くのね」
アンはすぐに笑顔を作ったが、盆を持つ指先に力が入っていた。
王国の第二王女リーシャは、美食を愛していた。焼きたての菓子パン、香ばしい肉料理、季節の果実を使ったタルト。王家に生まれた特権を、誰よりも幸福に味わっている自負があった。
アンが壁際の時計に視線を送る。
「リーシャ様、そろそろ王妃様主催の茶会のお時間です」
「あら、もうそんな時間?」
茶会といえば、美しく飾られた菓子と、香り高い紅茶が並ぶ社交場だ。いつもなら心が弾む。けれど今日は、新聞の見出しが胸の奥に引っかかっていた。
「本日は淡い青のドレスをご用意しております」
「ケイネス様からいただいた髪飾りも合わせてね」
「もちろんです。とてもお似合いになりますよ」
鏡の前に立つと、青のドレスがふわりと裾を広げていた。胸元には繊細なレース、腰には同色のリボン。だが、以前より胸元が少し苦しい。
(最近のドレスは、身体に沿う作りなのね)
仕立て師たちも流行に敏感なのだろう。そう考えることにした。
●
王宮の庭園には、白い丸卓が並んでいた。薔薇のアーチをくぐると、甘い菓子と花の香りが混ざって鼻先をくすぐる。
リーシャが席に腰を下ろした瞬間、椅子が小さく軋んだ。
作りが繊細な椅子なのだろう。
そう思った直後、背後から忍び笑いが聞こえた。
「ご覧になって。第二王女様が、またお召し物を仕立て直されたそうよ」
「まあ。つい先月も新調なさったばかりでは?」
「きっと成長期なのよ。笑ったら可哀想だわ」
扇で隠した声は、隠す気があるのか疑わしいほど、はっきり届いた。
リーシャはティーカップへ手を伸ばす。カップの縁に触れた指先が止まった。
「お可哀想なのはケイネス公爵様よ」
「あれほど美しい殿方の隣に、あのような人が並ぶなんて」
琥珀色の紅茶が、カップの中で揺れた。
ここで振り返れば、王女としての矜持を傷つけられたと認めることになる。
リーシャが顔を上げられずにいると、アンが菓子皿を差し出す。
「リーシャ様、こちらのベリータルトはいかがですか?」
「ありがとう。いただくわ」
いつもなら、甘酸っぱいベリーとカスタードの組み合わせに胸が弾む。けれどフォークを入れた瞬間、背後の声がまた刺さった。
「あら、まだ召し上がるのね」
「そのご立派な食欲が、婚約破棄の理由にならなければよろしいけれど」
フォークの先が、タルトの上で止まった。
『太った貴様を愛することはできない!』
新聞の文字が、今度は自分に向けられた言葉のように頭の奥で反響した。
(ケイネス様も、そう思っているのかしら)
そんなはずはない。ケイネスは優しい人だ。子供の頃から、リーシャを大切にしてくれた。
そう信じてはいたが、カップを持つ指から力が抜けなかった。
「リーシャ様、どうかされましたか?」
「少し、食欲がなくなっただけよ」
自分で言って、リーシャは驚いた。食欲がない。そんな言葉を口にする日が来るなんて、思ってもみなかったからだ。
●
茶会の帰り道、リーシャは王宮の廊下で足を止めた。磨き上げられた窓ガラスに、自分の姿が映っている。
黄金を溶かしたような金髪。翡翠色の瞳。王国の宝と称された顔立ち。けれど頬は以前より丸く、ドレスの腰回りも窮屈に見えた。
「……私、そんなに太ったのかしら」
「リーシャ様……」
傍に控えていたアンが何か言おうとして、続く言葉を飲み込む。
リーシャはケイネスから贈られた指輪を見つめる。宝石の輝くプラチナリングを見つめていると、違和感を抱く。
「あれ、この指輪……輪が前より広がっているような……」
「その指輪には魔法が組み込まれていますから。着用者の指の太さに応じて、最適なサイズになるのです」
「へぇ、便利な指輪なのね……って、ちょっと待って。もしかして私、かなり太っている?」
ぽっちゃりしてきた自覚はあった。胸やお尻だけでなく、お腹や顔も膨れ、身体も重い。
だが自己評価では、まだぽっちゃりの枠内に収まっているはずだった。
「リーシャ様はまだまだスリムですよ」
「まだまだ?」
「あ、いえ、その……」
アンは必死に取り繕う。けれど優しい彼女が、本音をそのまま告げるはずがない。
『お可哀想なのはケイネス公爵様よ』
庭園で聞いた声が、耳の奥に残っている。
リーシャは拳を握った。
「決めた! 私、ダイエットするわ!」
「周囲の言葉など、お気になさらないでください。リーシャ様を傷つけたくて言っているだけですから」
「分かっているわ。あの人たちのためだけに痩せたいわけじゃないの」
「では、ケイネス様のためですか?」
その名を出され、心臓が跳ねた。
ケイネス・フォン・アスファル。公爵家の若き当主であり、リーシャの婚約者。墨を溶かしたような黒髪と、黒曜石の瞳を持つ美しい人。
「……ケイネス様のことを考えていないと言えば、嘘になるわ。でも、それだけではないの」
リーシャは婚約指輪に触れた。愛の証であるはずの指輪が、今は自分の変化を突きつける証拠に見える。
「私は今日、何も言い返せなかった。王女なのに、ただ耐えることしかできなかった」
「それは、場を乱さないように我慢なさったからです」
「そうね。でも悔しかったの」
言葉にすると、喉元で固まっていたものが形を持った。
「ケイネス様に捨てられたくないから痩せるんじゃないわ。あの人たちに、私の価値を勝手に決められたくないの」
リーシャは、婚約指輪に触れていた指を離した。
「太っているから駄目だとか、痩せていれば価値があるとか。そんなふうに、私の身体を他人に評価されたくないの。これは、私が私を取り戻すためにすることよ」
アンは唇を引き結んだ。
「だからアン。これからは、私を甘やかさないで」
「それは……」
「砂糖四つとハチミツの紅茶も、ケーキも、クッキーもしばらく禁止よ」
「本当にそこまでなさるのですか?」
リーシャが力強く頷くと、アンは困った表情を浮かべる。
「では、今日の夕食から変えましょう。料理長に伝えてまいります」
アンは笑みを作って部屋を出た。扉が閉まる直前、その顔に心配するような表情が浮かんでいたことに、リーシャは気づかなかった。
●
厨房へ向かう廊下を、アンは足早に進んでいた。
リーシャは食べることが好きだ。美味しいものを口にした時、心から幸せそうに笑う。アンはその笑顔が好きだった。
けれどここ数か月の食事量は、どう考えても多すぎた。
料理長に相談しようとしたこともある。
だがそのたびに、女官長に釘を刺された。
『第二王女は召し上がっている時が一番ご機嫌なのです』
『リーシャ様の楽しみを奪うつもりですか?』
『専属侍女だからといって、分を弁えなさい』
女官長は侍女たちの人事を取り仕切る立場にある。専属侍女とはいえ、アンが正面から逆らうには相手が悪すぎた。
(今度こそ、ちゃんとお支えしなければ)
厨房の扉に手をかけた時、中から笑い声が聞こえてきた。
「第二王女様のお食事は、今夜も濃いめの味付けでよろしいですかな」
「ええ。あの方は、バターやクリームを惜しまず使った料理を好まれますもの」
料理長の声に、女官長が答える。
「ただし、最近は少し周囲の目を気にしているようです。表向きは軽めに見えるものを用意しなさい。スープ、白身魚、鶏肉の香草焼き。誰が見ても減量食に見えるものを並べるの」
女官長は声を落とした。
「その上で、スープにはクリームを。白身魚にはバターソースを。鶏肉には肉汁を絡めなさい。野菜にもたっぷりと油を吸わせるの」
「それだけで足りますかな」
「足りなければ、いつもの薬を使えばいいわ」
料理長の口元が歪んだ。
「満腹を感じにくくする薬ですな」
「ええ。毒ではないけど、食欲は増す」
「これで我々の計画通り、あの方は――」
「しっ、余計な言葉は不要よ」
女官長の声がさらに小さくなる。その言葉を扉の向こう側で聞いていたアンは、知らず知らずの内に拳を握りしめていた。
確証はない。
けれど、リーシャのための食事が、本当にリーシャのために作られているとは思えなくなっていた。
アンは我慢できずに扉を開ける。
「料理長。女官長。今夜から献立は私も確認いたします」
女官長は驚きに目を見開くが、すぐに鋭い目つきに変わる。
「専属侍女風情が、随分と偉そうな口を効くのね」
「リーシャ様のご健康に関わることですので」
膝が震えそうだった。それでもアンは、手に力を込めた。
「どうか、ご協力ください」
女官長は何も答えず、料理長と目を合わせた。
その目配せだけで、アンの背筋に冷たいものが走るのだった。
●
翌朝、アンが運んできた食事は、以前と比べて控えめだった。
鶏肉の香草焼きに、彩りの良い野菜。温かなスープ。そして小さな皿には、半分に切られたカボチャのタルトが乗っている。
「デザートがあるわ!」
「完全に甘味を断つと、リーシャ様が耐えられないでしょうから」
「さすがアン。私のことをよく分かっているわね」
「ただし、半分です。これは譲れません」
「仕方ないわね……」
悲しい声が漏れた。だが、ここで挫けてはいけない。王国の第二王女たるもの、タルト半分で泣くわけにはいかない。
「いいわ。半分でも、タルトはタルトだもの」
香草焼きは柔らかく、野菜は甘い。スープも身体に染みる優しい味だった。
「美味しいわ。これなら続けられそう」
「本当ですか?」
「ええ。アン、ありがとう」
最後に食べた半分のタルトは、いつもより尊い味がした。
●
ダイエット生活は早くも三日目を迎えていた。だがその生活を崩そうとするイベントがリーシャに迫っていた。
「リーシャ様。昼食会への招待が届いております」
「昼食会……」
リーシャは、手元にある白湯のカップを見下ろす。
今朝の食事は、山羊乳のチーズを添えた薄切りパンと、白身魚の蒸し焼き、それに豆と香草のスープを少しだけ。
甘い菓子は、蜂蜜を垂らした焼き林檎をひと切れで我慢した。自分でも驚くほど立派な節制ぶりだったのに、ここで昼食会とは思わぬ危機だった。
「お母様は?」
「王妃様はご欠席です。そのため、リーシャ様に代理で出席してほしいとのことです」
王妃である母は社交を重んじる人だった。
けれど、王妃自身がすべての茶会や昼食会に顔を出せるわけではない。そんな時、第二王女であるリーシャが代理として招かれることは珍しくなかった。
「断るわけにはいかないわよね」
「……難しいかと。有力者たちも集まる、正式な社交の場ですから」
つまり、王宮の料理人たちが腕によりをかける場でもある。
「豪華絢爛な料理が出るわね」
「おそらく」
「焼きたての肉料理や季節のタルト、私の好物たちが並ぶのよね?」
「……高確率で」
リーシャは両手で顔を覆った。
「なんて恐ろしい罠なの」
「罠ではありません。昼食会です」
「今の私にとっては同じ意味よ」
アンは困ったように眉尻を下げたが、すぐに真剣な顔になった。
「ですが、リーシャ様。お料理をすべて避ける必要はありません。量を控えめにして、揚げ物や濃いソースを避ければ大丈夫です」
「そうね……」
リーシャは遠い目をする。
「美味しいものは、なぜ太るものばかりなのかしら?」
「それは神にでもお尋ねください」
逃げられないのなら、リーシャにできるのは覚悟を決めることだけだ。
「出席するわ。ただし、私が料理に負けそうになったら止めてね」
「全力でお止めします」
「頼りにしているわね」
リーシャは昼食会へ向かう支度を整える。ウェストは少しだけ細くなっている気がしていた。
●
王城の広間には、すでに数人の貴婦人と令嬢が集まっていた。
白いクロスのかかった長卓には、銀の食器が並び、花瓶には淡い色の花が飾られている。料理はまだ運ばれていないが、控えの扉の向こうから、焼き上がった肉の匂いが漂っていた。
「アン。美味しそうなお肉の匂いがしたわ」
「お気を確かに。食べてはいけませんからね」
「わ、分かっているわ。絶対に止めてね。約束だからね!」
念押ししてから、リーシャがアンを引き連れて会場の席に腰掛けると、奥にいた令嬢がこちらを振り返った。
淡い桃色のドレスと髪。宝石を散らした髪飾り。その派手な印象の女性を見間違うはずもない。従姉妹のヴィオレッタだった。
「ご機嫌よう、リーシャ様」
「ヴィオレッタ。あなたも招かれていたのね」
「ええ。叔母様からお声がけいただきましたの。お会いできて嬉しいですわ」
ヴィオレッタは可憐に笑う。
だがその視線が、一瞬だけリーシャの腰回りをなぞった。
「最近、お食事を控えていらっしゃるとか。ご体調でも崩されましたの?」
「いいえ。健康のために、少し食事を見直しているだけよ」
「リーシャ様は、美味しそうに召し上がるところが一番の魅力ですのに。無理をなさらなくてもよろしいのでは?」
「無理はしていないわ」
「でも、急に召し上がらなくなると、お身体に障りますわ。リーシャ様に何かあっては、ケイネス様も、きっとお心を痛めますもの」
ヴィオレッタは扇の陰で目を細めながら、言葉を続ける。
「リーシャ様は幸せですわね。あれほど美しい殿方に、大切に想われているのですから……私など、遠くからお姿を拝見するだけで胸が苦しくなりますのに……本当に羨ましいですわ」
リーシャが彼に相応しくないと、遠回しに告げているようにも聞こえる発言だった。それに気づいたのか、ヴィオレッタは慌てたように口を開く。
「あら、失礼いたしました。つい本音が」
「…………」
ここで言い返せば、昼食会の空気を乱すことになる。
リーシャが言葉を飲み込むと、給仕係が野菜スープを運んでくる。見た目だけなら、いかにも身体に優しそうだった。
リーシャはスプーンでひと口すくい、口に運ぶ。
舌に広がったのは、野菜の甘味だけではない。喉に残る重いコク。
野菜を煮込んだだけでは出ない味だった。
リーシャはもう一度スープを見下ろす。表面には光を受けた油の膜が揺れていた。
「お口に合いませんでした?」
「いえ、とても美味しかったわ。野菜スープとは思えないほどに……」
「そうでしょうとも。料理長が、リーシャ様のために腕を振るったと聞いておりますから」
リーシャは手を止めると、ヴィオレッタを見つめる。彼女は満足げな笑みを口元に張り付けるのだった。
●
その頃、リーシャの婚約者であり、若くして公爵家を継いだ男であるケイネスが、王宮の西回廊にいた。
ケイネスの家は、代々王家の近衛と警備を支えてきた。そのため王宮内を自由に出入りする権限を与えられている。
彼は手元の帳簿に視線を落とす。
春先から、王宮の厨房で使われる砂糖、乳製品、油の量が増えている。
それと同じ時期から、リーシャの食事量が増え、体型を笑う噂が社交界に広がり始めた。
偶然で済ませるには、重なりすぎている。
「昼食会の様子は?」
ケイネスが短く尋ねると、背後の従者が頭を下げた。
「リーシャ様は、野菜スープを口にされた後、ほとんど召し上がらなかったとのことです」
「何か異変でもあったのかな?」
「傍にいた者の報告では、見て分かるほどの油がスープの表面に浮いていたとのことで……」
ケイネスは報告を耳にしながら、歩む速度を速める。
やがて回廊の先へと辿り着く。その先にある扉の向こうからヴィオレッタの声が聞こえてきた。
「今日の献立、悪くなかったわ」
聞きなれた甘い声。それに反応したのは料理長と女官長だった。
「では次も同じように油をたっぷりと入れておきます」
「あの方には、今の醜い姿でいていただかないと困りますから」
二人の言葉にヴィオレッタは笑い声を漏らす。
「ふふ、王国の宝と呼ばれた美貌も、あの体型では台無しですもの。これでケイネス様は私のものに……」
ケイネスはその醜悪な会話に耳を傾けながら、眉根を寄せる。背後の従者が、音声を記録できる魔石を布で包んでいた。
「会話は記録できました」
「よくやった。だが、これだけでは足りないな」
今すぐ扉を開けて問い詰めることはできる。
だが、相手は王女の従姉妹であり、女官長と料理長も王宮に長く仕えた者たちだ。
声の記録だけで動けば、魔石は偽造だと言い逃れされる。下手をすれば、リーシャの名まで醜聞に巻き込まれるだろう。
「材料を購入した納品書は?」
「押さえてあります」
「仕事が早いな」
従者が頭を下げる。
「そろそろ頃合いなのかもしれないな」
「……頃合いですか?」
「リーシャを僕が守れる場所へ迎えたい。そう考えている」
「なるほど。つまり正式にご結婚されるのですね」
ケイネスは迷わず頷いた。
妻として公爵家に迎え入れれば、彼女の食卓も、身辺も、自分の屋敷で守れるからだ。
「リーシャとの婚約関係は終わりにして、彼女を僕の妻にする」
その声は、石造りの回廊に低く反響するのだった。
●
同じ頃、リーシャは昼食会を終え、自室へ戻る途中だった。
胸の奥には、昼食会での違和感が残っている。
野菜スープが妙に濃かったこと。
ヴィオレッタの言葉が、どうしても引っかかること。
考えないようにしても、スープの重いコクと、ヴィオレッタの甘い声が頭から離れなかった。
「リーシャ様。こちらの回廊を通れば、お部屋まで近道です」
アンが控えめに告げる。
「ええ。早く戻りましょう」
今は誰にも会いたくなかった。
そう思って、人気の少ない回廊へ足を向けた時だった。
曲がり角の向こうから、聞き慣れた声がした。
『リーシャとの婚約関係は終わりにして……』
リーシャの足が止まる。
(え……?)
それは間違いなくケイネスの声だった。
幼い頃から何度も自分の名を呼んでくれた、あの声だ。
婚約関係を終える。その一文だけが、耳の奥に残る。
リーシャは柱の陰に身を寄せながら、その言葉の意味を考える。
聞き間違いかもしれない。
そう思いたいのに、新聞の見出しが脳裏に浮かんだ。
『太った貴様を愛することはできない!』
茶会で笑った令嬢たちの声も蘇る。
『可哀想なのはケイネス公爵様よ』
『そのご立派な食欲が、婚約破棄の理由にならなければよろしいけれど』
(やっぱり……私、捨てられるの?)
リーシャはドレスの裾を握りしめた。
ここで一歩踏み出せば、ケイネスに尋ねることはできる。
けれど、答えを聞く勇気が出なかった。
もし本当に婚約を終えるつもりだと言われたら。
もし新聞の令嬢と同じように、自分も捨てられるのだとしたら。
平常心でいられる自信がなかった。
「リーシャ様?」
アンが小さな声で呼ぶが、リーシャは返事をせずに身を翻した。
もう、ここにはいられない。リーシャはドレスの裾を抱え、来た道を駆け戻るのだった。
●
「食べながら痩せるのは諦めるわ!」
自室に戻ったリーシャは宣言した。
「リーシャ様、落ち着いてください」
「落ち着いているわ。冷静に考えた結果、食べながら痩せるなんて甘い考えは捨てることにしたの」
「それが一番危険なのです!」
アンが珍しく声を強めた。
「無理な食事制限は身体を壊します。美しくなるどころか、倒れてしまいます」
「倒れても、太ったまま捨てられるよりはましよ」
「リーシャ様!」
アンの顔が歪む。
リーシャは寝衣の袖を握りながらも、首を振った。
「人は三日くらいなら食べなくても平気だと聞いたわ。数日に一度の食事を続ければ、元の美貌を取り戻せる日も近いわね」
「絶対に駄目です」
「リバウンドも根性で乗り越えてみせる。愛の力は無敵だと証明するの」
「愛の力で身体は動きません!」
アンはリーシャの両手を握った。
「ケイネス様は、リーシャ様が太ったからと婚約を破棄するような方ではありません」
「でも、聞いたのよ。婚約関係を終えると」
アンの顔色が変わる。
「……それは、きっと」
「きっと?」
「何か、別のお考えがあるのだと思います」
「別の考えって何?」
「それは……分かりません」
リーシャは唇を噛んだ。
アンの言葉を信じたい。
けれど、信じるための材料が何ひとつ見つからない。
「なら、やれることは一つだけ。痩せるしかないわ。そして、ケイネス様との婚約を守ってみせる」
「でしたら、せめてケイネス様にご相談を」
「駄目」
リーシャは即座に首を振った。
「今の姿で会ったら、本当に終わってしまうかもしれない」
「ですが」
「お願い、アン。今だけは我儘を言わせて」
リーシャはアンの手に指を重ねた。
「もう少しだけ。もう少し痩せたら、私から会いに行くわ。ちゃんと聞く。だから、それまでは……」
アンは何か言おうとして、唇を噛んだ。
「……分かりました。ですが、危険だと判断したら、私は止めます」
「アンは大げさね」
「大げさではありません」
アンの声は震えていた。
「リーシャ様は、私にとって大切な人ですから」
リーシャは返事ができなかった。
嬉しいはずの言葉なのに、頭の中では別の声ばかりが繰り返される。
太ったから捨てられる。
その考えが、どうしても離れなかった。
●
その日から、過酷な減量生活は始まった。
朝食と昼食は抜き。
夕食だけ、アンが泣きそうな顔で差し出す野菜スープを口にする。
甘い紅茶は水に変わり、焼きたてパンも、ホールケーキも、肉料理も遠ざけた。
「腹筋、腕立て、スクワット。それぞれ百回が目標ね」
「いきなり百回は無茶です!」
「まず一回やってみるわ」
床に寝転がって腹筋を始める。
だが、一回でお腹が悲鳴を上げた。
「これは大変ね」
「だから申し上げたではありませんか!」
アンは何度も止めた。
けれど、リーシャは首を縦に振らなかった。
三日目には、身体が軽くなった気がした。
五日目には、ドレスの腰回りが少し楽になった気がした。
鏡の中の自分を見つめる。
頬の丸みは少し落ち、顎の線も以前よりはっきりして見える。
けれど、瞳の下には薄い影が差していた。
「努力はやっぱり報われるわね」
リーシャの頬を涙が伝った。
これなら、まだケイネスの隣に立てるかもしれない。
そう思った途端、指先が震えた。
「リーシャ様、もう十分です。これ以上は危険です」
「まだよ。私はもっと痩せられるわ」
リーシャは鏡から目を離さなかった。
「今の私では、まだ駄目なの」
けれど、身体はリーシャの意地についてこられなかった。
その翌朝。
「ケイネス様に、痩せた私を見せてあげないと」
リーシャが支度をしようと立ち上がった瞬間、視界の端が白く滲む。
「あれ……?」
化粧台に手を伸ばしたつもりだった。けれど、指先は何も掴めない。
(あ、これ、まずいかも)
床に倒れ込む音が、部屋に響いた。
「リーシャ様!」
アンの叫び声を最後に、リーシャの意識は途切れた。
●
目を覚ますと、リーシャはベッドの上にいた。
「リーシャ様!」
枕元のアンが、泣き腫らした顔で身を乗り出す。
「よかった……本当に、よかったです……!」
「アン……私は……」
「倒れたのです。お医者様は、極端な食事制限による低血糖が原因だと」
「そう……何度も止めてくれていたのに、ごめんなさい」
「私が、もっと強く止めていれば……」
「違うわ。アンのせいじゃない。私が無理をしたから……」
その時、部屋の扉が開いた。
現れたのはケイネスだ。彼はリーシャを見るなり、足を止めた。
「リーシャ……良かった。目を覚ましてくれたんだね……」
ケイネスは寝台の傍で膝をつく。
「すまない。君が倒れた原因は、僕にもある。だから――」
「いえ、私が悪いんです。私が、あなたの隣に相応しくないから……」
「何を言っているんだ!」
「あなたの口から言わせるのは、酷ですもの。私から申し出ます」
リーシャは布団を握りしめた。
「私との婚約を、解消してください」
アンが息を呑む。一方、ケイネスは信じられないと目を見開く。
「待ってくれ。僕は婚約を解消したいわけじゃない」
「……では、あの言葉は何だったのですか?」
「あの言葉?」
「婚約関係を終える。そう口にしているのを聞きました」
その言葉に心当たりがあったのか、ケイネスの表情が変わる。
「聞いていたのか……だが、あれは別れるための言葉じゃない」
「では、何のために……」
「君を、僕の妻にするためだ」
リーシャは言葉を失った。
「妻……?」
「ああ。婚約者のままでは、君の食事も、身の回りも、王宮の者たちに任せるしかない。だが、妻として迎えれば違う。君の朝食も、昼食も、紅茶に入れる砂糖の数まで、僕の屋敷で守れる」
ケイネスは寝台のそばで膝をついたまま、真っ直ぐにリーシャを見つめる。
「実は君の食事を、悪意で歪めていた者たちがいる。君を太らせるためにね」
「そんな馬鹿なことをいったい誰が……」
「首謀者はヴィオレッタだ。それに女官長と料理長も関わっている。きっと協力と引き換えに金を受け取っていたんだろうな」
ヴィオレッタの目的は単純だ。リーシャを醜くさせ、婚約を解消させること。そしてケイネスを自分のものにしようと画策していたのだ。
「次の王宮夜会で、すべてを明らかにする。ヴィオレッタも、君を笑った者たちも夜会に集まる。そこで決着をつけるよ」
ケイネスはそう宣言するのだった。
●
王宮での夜会の日、リーシャは青色のドレスに身を包んだ。
倒れてから胃に優しい食事を取り、身体を休めたが、まだ本調子ではない。それでも欠席するつもりはなかった。
リーシャはケイネスと共に広間に姿を見せる。すると、周囲の視線が集まった。
そこに含まれるのは、嘲り、好奇心などの感情だ。だがリーシャは足を止めない。手を引かれるのではなく、並んで歩いていた。
「ご機嫌よう、リーシャ様、ケイネス様」
甘い声が響く。ヴィオレッタだった。
「お身体はもうよろしいのですか? 倒れられたと聞いて、とても心配しておりましたの」
「ええ。おかげさまで」
「まあ、よかった。ですが、ずいぶんお痩せになりましたわね」
ヴィオレッタは扇を広げる。
「そこまでなさらないと、ケイネス様に愛していただけない。きっとそう考えましたのね」
刺のある言葉に、周囲が息を潜める。
リーシャの指先もまた冷たくなる。言い返さなければと思うのに、喉が塞がる。
その時、ケイネスが一歩前へ出た。
「君は僕が人を体型で判断するような男だと言いたいのかい?」
広間にざわめきが走る。ヴィオレッタは慌てたように、口を開く。
「い、いえ、そんなつもりは……」
「それに僕も幼い頃は太っていた。それで周囲から馬鹿にされたりもした。だが、それでもリーシャは決して笑わなかった」
子供の頃のケイネスは、ぽっちゃりとしていて、よく転び、走るのが苦手だった。周囲の子供たちによく醜いと笑われたが、リーシャだけは彼の手を引いて庭を駆け回った。
そんな昔のことを、彼はまだ覚えていた。
「彼女は僕を、外見で選ばなかった。だから僕も、彼女を体型で測るつもりはない」
「ケイネス様、誤解です。私はただリーシャ様を心配して――」
「心配?」
ケイネスが、ヴィオレッタに視線を向ける。その冷たさに、彼女の言葉が途切れた。
「料理長や女官長に命じ、彼女を太らせようと小細工したのにかい?」
「わ、私はそのようなことは……」
「言い逃れは無用だ。なにせ証拠もあるからね」
ケイネスは懐から魔石を差し出す。そこから淡い光と共に、声が広間に響く。
『今日の献立、悪くなかったわ』
『では次も同じように油をたっぷりと入れておきます』
『あの方には、今の醜い姿でいていただかないと困りますから』
ヴィオレッタの顔から笑みが消える。だが彼女はすぐに罪を認めはしなかった。
「そ、そのような記録、いくらでも細工できますわ」
「では、二人に確認しよう」
ケイネスが視線を向けると、近衛兵に連れられた料理長と女官長が広間の端で膝をついた。額には玉のような汗が浮かんでいる。
「今の記録は偽造か?」
「そ、それは……」
「答える前によく考えるんだね。厨房の帳簿、納品書、女官長の署名入りの指示書もこちらにある」
ケイネスはさらに、一枚の紙束を掲げた。
「さらに薬の購入記録も押さえてある。満腹を感じにくくする薬だ。何のために購入したものかは言うまでもないね」
広間がざわめく。リーシャの食欲が悪意による結果だと悟ったからだ。
「これだけの証拠が揃ってもなお、偽りを重ねるつもりか?」
その言葉がトドメになった。料理長が床に額を擦りつける。
「申し訳ございません! ヴィオレッタ様のご指示でございます!」
女官長も震えながら頭を下げる。
「私も命じられただけでございます!」
ヴィオレッタの頬が引きつった。広間に集まった貴族たちの視線が、ゆっくりとヴィオレッタへ集まっていく。
「二人とも何を!」
「言い逃れしても無駄だと悟ったのさ」
「そんな……」
「さぁ、覚悟はできたかな?」
「わ、私はただ、ケイネス様の隣に居たかっただけで……だって、おかしいでしょう? 努力して美しくなった私より、食べて笑っているだけのリーシャ様が選ばれるなんて。王女に生まれただけで愛されて、何も苦労せずにケイネス様の婚約者になって……」
ヴィオレッタはリーシャを睨みつけた。
「だから少しだけ、相応しい姿になっていただこうと思っただけですわ。誰からも笑われる姿になれば、ケイネス様だって目を覚ますはずでしたのに!」
自分勝手な言い分だった。きっと、かつてのリーシャなら何も言い返せなかっただろう。
「ヴィオレッタ」
だが、もう同じ自分には戻らない。
「私は食べることが好きな自分を恥じました。でも、本当に恥ずべきは、私ではありません」
リーシャはヴィオレッタを見つめ、それから広間にいる令嬢たちへと視線を巡らせた。
「人の体型を笑い、食事に悪意を混ぜ、自分の望みのために誰かを傷つけた。その心こそ、恥ずべきものだったのです」
リーシャの言葉に広間が静まり返る。その沈黙の中で、ケイネスがリーシャの隣に立った。
「その通りだ。ヴィオレッタ、君が磨いたのは美しさではない。誰かを見下すための刃だ。そんなものを努力とは呼ばない」
ヴィオレッタの唇が引きつる。
「僕はリーシャを妻に迎える。それは君が君だから、僕が自分の意思で選ぶんだ」
「ケイネス様……」
彼はリーシャの前で跪く。
「婚約者としてではなく、一人の男として申し込む。僕と結婚してほしい」
リーシャはすぐに頷きそうになった。けれど、一度だけ唇を引き結ぶ。
「私は、また太るかもしれません。食べすぎて、アンに叱られる日もきっとあります。それでも、私を選んでくれますか?」
ケイネスは迷わなかった。
「選ぶ。君が笑って食べる姿が好きだ。怒っている顔も、泣いている顔も、昔みたいに僕を叱る顔も好きだ。だから、君を妻にしたい」
強張っていた指先から、少しずつ力が抜けた。
「ふふ、でしたら喜んで、お受けします」
その言葉に会場から音が消えたが、すぐに拍手が鳴る。最初の拍手は、広間の奥の上座で一部始終を見守っていた王妃によるものだった。
それに続くように、広間のあちこちから控えめな拍手が起こる。戸惑いを含んだ音は、やがて祝福の形へと変わっていく。
やがて、王妃が立ち上がる。
「リーシャ。あなたを傷つける者を見逃した責任は、私にもあります」
「お母様……」
「あなたの痛みに気づくのが遅れました。母として、王妃として、詫びましょう」
王妃はリーシャへ頭を下げ、それから広間を見渡した。
「ヴィオレッタ。女官長。料理長。王女の健康を害し、王宮の信頼を損なった罪は重い。三名を連行なさい。そして、この場にいる者たちに告げます。人を笑う者は王宮にふさわしくありません。今夜のことを、よく胸に刻み、自分の生き方を振り返りなさい」
王妃の命令で近衛兵が動く。
近衛兵に囲まれたヴィオレッタは、なお何かを言おうとした。けれど、誰も彼女の方へ手を差し伸べなかった。
やがて、料理長と女官長も連れられていく。
扉が閉じると、残された貴族たちは互いに視線を交わし、気まずそうに目を伏せた。
「リーシャ、疲れただろう。少し休もう」
「ええ」
リーシャは頷き、彼の腕に手を添えた。
支えられながらも、自分の足で歩く。
広間を出る時、背後から小さな拍手が起こった。
振り返ると、王妃がこちらを見ていた。
母の目元には、安堵が滲んでいる。
リーシャは深く一礼した。
王妃もまた、娘へ向けて小さく頷く。
それだけで十分だった。
●
それから、王宮は慌ただしく動いた。
ヴィオレッタは王宮への出入りを禁じられただけでは済まなかった。
王女の健康を害そうとした罪は重く、実家は王家から厳しい処分を受けた。彼女自身も社交界から遠ざけられ、王都から離れた領地の屋敷へ送られたという。
女官長は職を解かれ、王宮に二度と戻ることを許されなかった。料理長もまた王宮から追われ、王都で料理人として働く道を断たれた。
リーシャを笑っていた令嬢たちも無傷では済まなかった。
王妃の夜会での言葉は、社交界に重く響いた。彼女たちは茶会への招待を失い、家からも厳しく叱責された。中には、婚約の話が立ち消えになった者もいたという。
だが、リーシャは彼女らの顛末を詳しく追うことはしなかった。彼女たちの不幸を数えるより、自分の人生を前に進める方が大切だからだ。
結婚式の夜。
ケイネスとリーシャは公爵邸の居間で寛いでいた。
そこには祝いの品として贈られた菓子が並んでおり、その中の一つに、花の形をした砂糖菓子があった。
「可愛いわ」
「食べるのが惜しいね」
「いいえ。可愛いものほど、食べる時の喜びも大きいもの」
そう言って、リーシャは砂糖菓子を半分に割った。
片方をケイネスへ差し出す。二人で同時に砂糖菓子を口に運ぶと、ほろりと崩れる甘さが、舌の上に広がった。
「美味しいわね」
「半分なのに、十分な満足感がある」
「罪悪感は半分。幸せは二倍。お菓子は大切な人と分かち合えば、美味しくなるのね」
半分にしたはずの甘さは、二人で分けると不思議なくらい満ち足りた。
その幸福を抱きしめながら、リーシャはケイネスと生涯を共にするのだった。
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